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<東京怪談ノベル(シングル)>


++ はじめてのおつかい ++
 自分の人生に関わる重大な悩みでも抱いているのではないか――そう思わせるほどに、彼の表情は真剣そのものだった。
 すらっとした長身の膝をついた青年は、黒い皮ジャンに同色のパンツといった出で立ちで和やかなムードが漂う商店街からは少しだけ浮いているように見える。だが、彼――橘神・剣豪は現在重要な仕事を遂行している最中であった。


『今日の夕飯の材料を買ってきてくれませんか? ご褒美に何か一つ、好きなものを買っていいですよ』


 そして、剣豪は今こうして八百屋の店先に座り込んでいる。
「むー……」
 目の前には緑色のみずみずしい野菜が二つ。店主の言葉を信じれば、右側がキャベツで左側がレタスであるらしい。
「にいちゃん、まだ悩んでんのかい。だからそっちのがレタスで間違いないって」
 真剣そのもの、の剣豪に店主は苦笑を見せた。確かに、金髪に皮ジャンを身に纏った人物が八百屋の店先で、真剣な顔でキャベツとレタスを凝視している姿というのは、怖くもあり、そして同時に微笑ましくもある。
「確かに、やわらかそうなのがレタスって言ってた気がする……間違ってたら返しにくるぞ!」
「間違ってたらソレを倍にしてやるよ」
 レタスをぎゅうと握り締めて主張する剣豪に、店主は人好きのする笑顔で答えた。そこまで言うからにはきっと店主はこれがレタスであると信じて疑ってはいないのだろう。買い物を終えて主のもとに帰ったら、真っ先にこれを確認してもらう必要性を感じつつも、剣豪は結局やわらかそうな丸い野菜を購入することに決めた。これで買い物リストに書かれた品物は全て購入した筈だ。
 それにしても――と剣豪は手にぶら下げた大きな白いビニール袋を見ながら思う。
 確か主人は『夕飯の買い物』と言っていたような気がするが、これだけの量であることから察するに、今夜はご馳走であるようだ。
 全ての買い物をすませたところで、剣豪がさて、と顔を上げる。
「好きなもの……沢山あるけど、買っていいのは一つなんだよな。どうせなら美味いモノがいいよな絶対!」
 ぎゅっと手を握り締め、誰に聞かせるでもなく力説をしてはみるが、彼の主張はいささか声が大きすぎたらしい。商店街を行き来していた人々の視線が剣豪へと集中する。だが今の彼の頭の中にあるのは、家に帰って主人に褒めてもらうことと、一つだけ好きなものを買ってもいいという『ご褒美』、この二点だけだった。周囲の視線など気にもならない。
 大きなビニール袋を幾つもぶら下げながら、ぶらぶらと商店街をあてもなく歩く。
 何を買おう?
 頭の中に一つずつ、好きなものを思い浮かべる。
「ビーフジャーキーもいいし……あ、ドッグフードもいいな――不味いんじゃなく美味しいヤツが」
 だがしかし、ドッグフードを試食させてくれるような店など当然ながら存在しないのが問題である。つまりパッケージと匂いだけで美味しいか不味いかを判断しなければならない。
「だよなー。もし買ったドッグフードがマズくても俺はきっと全部食べるけど、でも悲しいからやっぱ美味しいヤツでないと駄目だよな。せっかく好きなモノ買っていいっていわれたんだから、賭けは駄目だな! 賭けは!」
 ふんふん、と剣豪は自分の意見に自ら頷いている。がやはり声が大きい。
 見たところ間違いなく人間に見える彼が、『不味いドッグフード』などという発言をしていれば視線だけでなく否応なく周囲の人々の好奇心をも刺激するものだが、やはり剣豪はこれから彼が購入するであろう『ご褒美』のことしか頭にはない。
 難しい顔をしながら、彼は左右に立ち並ぶ店をきょろきょろと見やりながら歩き始めた。これだけ沢山の店があるならば、きっと歩いていれば何かいいものが見つかるかもしれないと考えてのことだ。
「美味しいモノ美味しいモノ……」
 ぶつぶつと呟きながら歩き続けるその目に映ったのは、華やかなディスプレイが目を引く一軒の店。
 店のカウンターの前には、色とりどりのフルーツを使ったケーキなどが並んでいる。その中で、ひときわ目をひくのは甘く、それでいて香ばしい匂いのするチョコレート色をしたケーキだった。
 そういえば、あのチョコレート色のケーキは今日剣豪をおつかいに出した主人が好きなものだったような気がする。
 もしも、あのガラスケースの中のケーキを買っていったら、主人である少女はどんな顔をするのだろうか? きっとあのいつもの――剣豪がとても好きなキレイな笑みを見せるに違いない。そう、あの時のように――。
 あの時――?
 脳裏に過ぎったのは、剣豪の飼い主である少女の笑顔。
 多分今まで、彼女の笑顔は沢山見てきた。だがあの時見た笑顔が一番美しかったように覚えている。剣豪が幼い頃に一度死に、そして再び戻ってきたあの時――。
 死の淵から剣豪を呼び戻したのは少女の嘆きだった。
 そう、今でも覚えている。再び目を醒ましたその時、『二度目の誕生日のお祝いです』と言ってテーブルに並びきらないほどの料理を作ってくれた彼女の笑顔を。
「ああ、そっか――」
 ようやく剣豪には主人の思いが理解できた。
 今日は剣豪が守護獣としての生を受けた日。おそらく彼が買った食料の数々は、あの時のようにテーブルに並びきらないほどの料理に姿を変えるのだろう。主人は――今日という日を祝おうとしてくれているに違いない。
 きっと、今日もおつかいを無事に終えて帰ったら、彼の主人は華のような笑顔を見せてくれることだろう。剣豪は美味しいドッグフードも、ビーフジャーキーも大好きだった。けれどそれ以上に好きなものもある――例えば、いつも彼女が見せてくれる優しげで、そして綺麗な微笑みだ。
「よし、決めたぞ」
 にっと笑って、剣豪は意気揚々と店内へと足を踏み入れた。白いエプロンをつけた店員が笑顔で『いらっしゃいませ』と口々に客である彼を出迎える。
 ガラスケースの中には、沢山のケーキが並んでいた。考えた末に剣豪が選んだのは、主人の好物であるチョコレートのケーキ。
「お決まりですか?」
「おう! このチョコレートのケーキ一つ」
「クラシックショコラですね。ホールでよろしいですか?」
「やっぱり丸いまんまがいいよな、うん。あ、あとプレゼントだからリボンでぐるぐるしてくれよ。綺麗に」
 きらきらと目を輝かせる剣豪の無邪気さに、店員も笑みを誘われたようだった。『かしこまりました』と告げるとガラスケースの中から手にしたトレイへとケーキを移動させる。
 大好きなものは沢山あるが、一番好きなのはあの笑顔だ。
 だから、あの笑顔に繋がるケーキを買って帰ろう。
 剣豪にとってケーキを購入するという選択は、ドッグフードを買うことよりも、そしてビーフジャーキーを買うことよりも、素晴らしい選択のように思えた。


 どんな笑顔を見せてくれるだろう?
 どんなふうに褒めてくれるんだろうか?


 今からわくわくと期待している剣豪の手に、店員から綺麗にラッピングされたケーキの箱が手渡される。
 家に帰れば、きっと今剣豪が持っている食材が美しく、そして美味しく料理されてテーブルに並ぶだろう。そして今剣豪が買ったチョコレートのケーキも。
 その様子を、そして彼女の笑顔を想像して、剣豪は口元を綻ばせた。


「すっげえ、いい一日――」


―End―