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近くに在りて、想えども
守崎 北斗は黙って、兄から渡された学生服を見つめた。
自分が着ているものと同じ学生服。
昨日も、今日も、この学生服を来た兄と二人学校へ行った。
自分の学生服は少し袖のところが綻んでいる。
でも、それも兄が繕ってくれた。
二人の違いはそれだけ。
誰よりも近くて、誰よりも一緒に過ごした兄。
北斗は一人、部屋に篭ると、兄から預かった学生服を畳に広げた。
明かりもつけずに、月明かりだけが障子越しに差し込む部屋の中で、北斗はじっと学生服を見つめる。
長く身につけていたモノには、その人の気が宿る。
どこにでもある学生服だが、北斗にははっきりと見える。
兄の静かな気配がそれには宿っている。
「・・・馬鹿野郎・・・」
北斗は本当に小さな声でそう呟くと、広げられた服に手をかざし、意識を集中した。
「・・・八百萬神等を神集へに神集へ賜ひ、神議りに議り賜ひて・・・」
祝詞を唱ながら、懐から小刀を取り出す。
鞘から抜かれた刀は、月の光に白い輝きをたたえて、その影を服の上に落とす。
「本刈り断ち、末刈り切りて、八針に取り辟きて、天つ祝詞の太祝詞を宣れ・・・」
静かな部屋の中に、北斗の声だけが朗々と響く。
刀を振る音が、風の音のように聞こえる。
北斗は一心に祝詞を唱えつづける。
唄うように、願うように、祈るように。
どうか、兄の身にかかる厄災を祓いますように。
どうか、兄の身にかかる邪気を清めますように。
兄が無言で差し出した学生服に向って、訴えるように祝詞をあげ続ける。
兄は北斗に何も言わない。
北斗にはうるさい位に自分のことを話せと詰め寄るのに、自分の話はまったくと言っていいほどしない。
黙っていれば、北斗には何もわからないだろうと思われているのだろうか?
心配かけまいとして、何も言わないのはわかっている。
ある日、帰ってきた兄が、自分の見えないところで怪我の手当てをしていたのを見た。
依代体質である兄には、拭い消せないほどの邪気が染み付いていた。
それでも兄は、何もないと笑う。
北斗にはいつもの笑顔を見せる。
そして、何も言わない。
明日も黙って家を出てゆくのだろう。
北斗が必死に退魔のための浄化を施した学生服を着て・・・。
「此く佐須良ひ失ひてば、罪と言ふ罪は在らじと、祓へ給ひ清め給ふ事を・・・」
祝詞をあげる北斗の声が震える。
何も言わない兄の笑顔だけが目に浮かぶ。
罵りあうような喧嘩もした。
しかし、こんな時に浮かぶのは、何かを堪えるような兄の笑顔だ。
心配かけまいと精一杯の笑顔。
北斗のために、兄は全てを押し隠す。
そして、何もないよと笑うのだ。
北斗にはそれがたまらなく辛い。
しかし、兄から無理やり話を聞き出すことは出来ない。
兄が必死に守っているものを、北斗が壊してしまうわけには行かない。
悔しくても、もどかしくても、不安でも、北斗は何も知らない振りをしなくてはならない。
「・・・天つ神、國つ神、八百萬神等共に、聞こし食せと白す。」
長い祝詞を全て唱あげ、北斗は鞘に刀を戻した。
夜明けの光が薄っすらと、障子越しに部屋を染め始める。
長く集中していたために、北斗自身も消耗している。
肩で息をしながら、学生服を手に立ち上がった。
部屋を出て、リビングへ行くと、兄が起きていた。
起床する時間にはまだ早い。たぶん、寝ずにここに居たのだろう。
北斗は不安げな表情の兄に、学生服を投げつけるように渡すと、ぶっきらぼうに言った。
「どこででも、勝手にのたれ死んじまえっ!」
北斗はそのまま踵を返し、自分の部屋へと戻った。
やはり、兄は何も言わない。
さっきの不安げな表情だって、自分の不安を表に出したわけではない。
寝ずに浄化を続けていた北斗を心配していたのだ。
これから自分に降りかかる厄災のほうが、遥かに不安だろう。
それでも、兄は自分のことは決して何も言わないのだ。
少しして、北斗の部屋の前で足音が止まった。
しかし、北斗は何も応えない。
足音の主も襖を開けない。
少し、沈黙があって、足音が遠ざかっていった。
そしてその向うで、兄の出かけてゆく気配がしている。
北斗は息を詰めて、その一部始終を感じていた。
無言のまま、何も告げずに、兄が出かけてゆく。
ガチャ・・・
ドアの締まる音がした。
兄と自分を隔てる音。
兄が自分を隔てた音。
「・・・くっ・・・」
北斗は唇を噛み締めて、畳についた手で畳を殴る。
何度も、何度も、鈍い音を立てて畳がきしむ。
兄が何も言わないのは自分のため。
兄が無理に笑うのも自分のため。
兄が・・・
「・・・馬鹿野郎・・・」
北斗は震える声で、喉から搾り出すように言うと、もう一度畳を殴りつけた。
自分の半身とも言える双子の兄弟を案ずるのは兄だけではないのだ。
やるせない気持ちが、行き場を無くして涙となってこぼれる。
拭っても、拭っても、涙はこぼれる。
兄を思う気持ちに限りがないように。
北斗はいつまでも、声を堪えて、兄を思い続けるのだ。
いつも、いつまでも・・・。
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