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東京怪談・草間興信所「宝石の在処」
■オープニング■
それは一体何処にあるのだろうか?
明確に名のついた器官に、それはあるのだろうか?
いや――
静かな印象の女だった。40を過ぎた程だろうか、和服が身に付いている。女は名刺を草間に差し出した後はその反応を待つように口を閉ざしていた。
草間は名刺に目を通し僅かに眉を寄せた。そこに記された名に聞き覚えがあったのだ。
「赤木みずほ?」
「はい」
「――占い師、の?」
「はい」
女ははっきりと頷いた。その名は新宿界隈では良く知られた占い師のものだったのだ。嘘か誠か、政治家や実業家の類いも彼女を訪ねると言う噂まである。
草間は一転して胡散臭げに女を眺めた。怪奇専門などと言われていようとも草間本人はどこまでも現実に則して生きている。占い師等と言う職種には一種の疑いを持ってかかるのが普通だ。
しかし女はその不躾な視線にも動じる事はなかった。
経緯を問われた赤木は頷き、明瞭に説明した。無論分かる限りではあるが。
赤木は新宿に小さな店を構えている。場所は知る人ぞ知る、宣伝も何もしていないがそれでも客は途切れない。そこでいつものように占いをしていた。していた筈だった。
「ふと気が付くと目の前にお客様がいらっしゃいました。――そして、私は占うことが出来なかった」
「出来ない?」
赤木は占いに道具を必要とはしない。ただ、相手にとり何がプラスであるか、或いはマイナスであるか、漠然と見て取る事が出来るのだという。
それがもう、見えなかった。
草間は情報を反芻し、ふと思い当たった事を口にした。
「ふと? 前後の記憶が曖昧だと?」
「そうです。気付けば目の前にお客様がいらっしゃいました」
何時の間に呼んだのか、それどころか前の客を送り出したかどうかすら曖昧だという。
「……ふ、ん……?」
草間は顎に手を当てて鼻を鳴らした。
それは一体何処にあるのだろうか?
明確に名のついた器官に、それはあるのだろうか?
いや――あるべき、なのだ。
■本編■
ピイィィイイィン。
幻聴だ。そんな事は嫌というほどわかっている。
しかしシュライン・エマ(しゅらいん・えま)はその音を、空気が張り詰めるその音を確かに聞いた。少なくともそう思った。
草間興信所には日々仕事を求めて色々な種類の人間が出入りする。仕事を求める動機はまちまちだがそこには一つ共通項がある。特殊な職や特技を持つ人間である、少なくとも東京という街に存在するその特殊さを身を持って知っている人間である、ということだ。
音の発生源はどちらもその条件に当てはまる。だからこの事態は何時起きても不思議ではなかった。不思議ではなかったが、
「……出来れば遭遇したくなかったわね」
「事情は飲み込めんが依存はない」
シュラインの独り言に、背の高い派手な風貌の男が同意を示した。シュライン同様に眉を顰め、眼前の事態をただ眺めている。真名神・慶悟(まながみ・けいご)である。シュラインとも、そして眼前の事態の当事者とも付き合いは深いが、もう片方の当事者とは面識がないためだろう、事の経緯がよく飲み込めてはいない様子だ。それでも、シュラインが、音に関してはスペシャリストであるはずの彼女が聞いた、存在しない音は敏感に察している。
慶悟が鋭いというよりも、これはこの事態が異常すぎるのである。
その張り詰めすぎた雰囲気は一組の男女が発していた。
細身の女と、やはり細身の男。
冴木・紫(さえき・ゆかり)と、そして――
「…………兄貴……」
紫はごくりと生唾を飲み下した。眼鏡に黒のスーツ。斜に構えた何処か人を小馬鹿にしたような顔。眼前に立つ男は決して人が良い様には見えないその顔に歓喜を露わにして紫をひたりと見つめている。
わなわなと振るえる手が紫に向かって差し出された。
「――紫」
感激を無理に押し隠す喉に絡んだ声で、紫の兄、冴木・継人(さえき・つぐと)は妹の名を呼んだ。
「今の今まで何処に隠れていたんです。私がどれだけ心配したか……!」
対する紫はといえば見事なまでにそっけない。
「頼んでないし」
「さぁここで会ったが百年目です。家に帰りますよ。あなたのためにエステコースも予約してありますし、着付けも茶道も華道もカルチャースクールに予約済みです」
「だから頼んでないし!」
「このままあなたの結婚資金が腐ってしまったらどうしようかと思っていましたよ。幾度探し当てても直ぐに引っ越してしまって途方に暮れていたんですから」
「だから頼んでないって何度言わせんのよ帰れ!」
「そうですね。さぁお兄ちゃんと一緒に家へ帰りましょう」
「人の話を聞け帰れ!」
放っておけば永遠に続きかねない言い争いを続ける兄妹を呆然と眺めていたシュラインはふと思いついて傍らの慶悟を見上げた。その視線に気付いた慶悟は眉を寄せてシュラインを見下ろす。
「なんだ?」
「いやなんとなく立場を入れ替えると一寸前の真名神くんと紫に似てるわねぇとね」
思うところがあったのだろう。慶悟は嫌そうに顔を顰めはしたものの反論する事無く肩を落とした。確かに今の紫の立場を慶悟に、そして継人の立場を紫に当てはめれば覚えのある不毛さだろう。
「まあ、これで一つわかったがな」
「なに?」
慶悟は重々しく頷いて言った。
「何故冴木の奴が困窮の極みにあるのかということだ」
ああ、とシュラインは頷いた。それは金もなくなるだろう居場所を突き止められる都度引っ越していたのでは。
「それにしても……」
シュラインの言いたい事を飲み込み、慶悟は深く嘆息した。
「……一体何時になったら本題に入れるんだろうな」
確かにそれが今一番の問題といえるのかもしれなかった。
さて洒落にならない愁嘆場を経て空になった事務所に志堂・霞(しどう・かすみ)は現れた。すっかり疲れていた草間はその到来を歓迎はしなかったが事情を話すことは惜しまなかった。
「ま、今ある仕事はそのくらいだが……」
草間は紫煙を噴出しつつ嘆息する。うんざりとしているのが丸分かりの態度であり仕草だったが、それにしたところでこの勘違いが身上の男にも自情を説明したのは件の『敵』を決して楽観視していない証明でもあった。何しろ霞は他は色々かなり兎も角として火力だけはある。
霞は少し考える素振りを見せた。
「……つまり……その占い師の記憶と能力が奪われたという事か」
「端的に解釈するのならな」
言いつつ草間は霞に書類を手渡した。件例の書類のコピーである。
思い出屋。そう名乗り正しくそのものの店を開いていた男。感情のメカニズムを解明する事を目的として動いた狂気の脳外科医。一度は慶悟の禁呪によって『脳』と言うものに関する感情を封じられた。犯人と思しきその男の報告書だ。
しかし霞はそれに目を通す事もしなかった。
「その能力を……取り戻せばいいんだな」
「それはそうだが余り相手を……」
甘く見るなと言おうとした草間はそのまま目を瞬かせた。書類も受け取らずに、霞の姿は既に忽然と消えている。
「……兄さん」
何処か咎めるような零の口調に、草間は苦笑した。
「……事態をややこしくしただけかもしれんなこれは」
全くもってその通りではあったが、この時点でその未来を知る者はいなかった。
思索を打ち切る瞬間は少しの気力を消費する。
そのまま沈んでしまいたい誘惑から逃れるために。特に彼のような種類の人間にとってその誘惑は抗いがたい。
そのまま思考の渕に沈んでしまっても、恐らく後悔はしないだろう。
「ですが納得も出来ない」
一人語ち、彼はゆっくりと立ち上がった。
幸福な思索の時間は終わりを告げた。それ以上に価値のある果実を手にするためには立ち上がって行動しなければならない。そうでなければ納得できない。
それは一体何処にあるのだろうか?
明確に名のついた器官に、それはあるのだろうか?
いや――
「見つけてみせます」
彼は飢えていた。常に。常に。癒される事のない渇きが彼を突き動かす。
癒されるために、本当にただ、それだけが目的だった。
「それで何で私が付き合わなきゃならないの私がっ!」
佐藤麻衣は遠慮容赦無く霞に噛み付く。これもまたいつものことである。
「占いは……俺は経験がない」
申し訳なさそうに言う霞に、麻衣はさもありなんと肩を竦めて見せた。とりあえず一回怒鳴ってしまえば後には引かない。鳥頭というものもいるかもしれないがこれもまた立派な長所である。基本的に麻衣は根に持ったりはあまりしないのだ、事と次第にも寄るが。
「それで?」
「だが、麻衣なら占い師がどんなものであるかはわかるだろう?」
「なるほどねえ」
麻衣は溜息をついた。今の麻衣は辻占い師に扮している。怪しげなベールで顔を隠し、木製の粗末なテーブルに白い布をかけ、座布団を敷いた水晶球を置いたその前に座らさせられている。この奇妙な格好も道具もどうやら霞の中にある乏しい『占い師』の認識によるものであるらしい。
霞は麻衣を占い師に仕立て異能を狙う男を引き寄せる心算だった。赤木みずほを訪ねた折に既に犯人は割り出せている。後は討伐だと霞は考えていた。ある程度の時空を操る事が出来る霞には人のちょっとした未来に手を貸す事も容易い。詐欺の手口ではあるがそれによって麻衣の評判が上がれば必ず引っかかるだろう。
この辺りで既に霞は大きく間違えている。手段が普段よりも真っ当である辺りが更に始末に悪かった。
相手は異能を狩ってはいても、なにもそれそのものが目的という訳ではなかったのである。
薄暗い室内のBGMはジャズ。革張りのソファーに黒塗りの木のテーブル。高い天井には古い洋画のように大きな扇風機が据えられている。広くも狭くもない店内はしかし少しもせせこましい印象を与えない。都会の真っ只中にあるとは信じられないほどに贅沢に空間を利用している。中央にはオブジェと観葉植物が据えられその周囲を囲むようにテーブルが据えられている。テーブル自体の数は少なく、奥に設えられたバーカウンターも、その大きさからすれば少ない数のスツールしか並んでいない。客もまた多くはない。
明るさよりも静けさを、活気よりも落ち着きを、強く感じさせる店だ。今は喫茶のようだがメニューを見る限り夜には酒を出す店となるのだろう。少しばかり退廃の香りのする、それだけに居心地のいい店だった。
紫は半ば呆れた気分でその質のいいソファーに身を沈めていた。隣の慶悟はぴりぴりと青白い気炎を吹き上げている。その気持ちは嫌というほどわかるがこんな店に案内されて殺気を露わにしたままというのも無粋だろう。油断していい相手でないことは分かっていた、だがその上でこの男特有の一種の美学のようなものの存在を紫は敏感に感じていた。
仕掛けては来るだろう、いずれは。だが今、こうした雰囲気のいい店に誘ってその場で仕掛けて来る事はない。そもそもそれなら自分たちの前にのこのこと現れたりはしないだろう。
「……落ち着きなさいよ」
「落ちつけるか」
慶悟は親の敵でも見るような目で思い出屋を睨み据えた。
思い出屋はソファーに深く腰掛けて足を組み、運ばれてきたばかりのエスプレッソの香りを楽しんでいる。そしてふと、その時漸く気付いたという様子を装って慶悟達へと視線を上げた。
「どうなさいました? この店は紅茶もコーヒーも絶品ですが?」
「貴様に勧められたものなど飲めると思うか」
「……頂くわ」
答えは見事に正反対だ。慶悟は紫を見下ろし、獰猛に唸った。
「冴木!」
「仕掛けるつもりならとっくに仕掛けてきてるわよ。何か用があるからこんなとこに誘ってるんでしょ」
ふんと鼻を鳴らす紫に思い出屋は我が意を得たりとにっこりと微笑んだ。
「ええ、私も用でもなければあなた方とこうして同じ席につきたいとは欠片も思いませんね」
「ぬけぬけと……!」
どうしても慶悟は感情が先に立つ。軽く袖を引くことでそれを制した紫は、殊更にゆっくりと言葉を紡いだ。
「それで? なんの用なのよ?」
「これを」
コトリとテーブルに置かれたものに、慶悟はそして紫もまた目を剥いた。薄暗い店内の照明にも確かに透き通った輝きを放つ、淡い桃色の――大粒の宝石。
嘗てこの男は手練を使い人の記憶を宝石へと変じた。その宝石と、それは余りにも印象が似通っている。いや同じだ。この男の手にある以上、ただの宝石でなどある筈がない。
思い出屋は二人の様子を満足げに眺め、大きく頷いた。
「お察しの通り、宝石ですよ。私の作った、ね」
「わざわざ私達に証拠を見せてくれるわけ? どういうつもりよ?」
「理解して頂きたいと思いまして」
「理解だと?」
ええと頷いた思い出屋は、うっとりと虚空に視線を投げる。
「何故と、そう問うことを」
慶悟と紫は思わず顔を見合わせた。夢見るようなその瞳は変わらぬまでも、その声にはどこか真摯な響きがあった。
「先人達の問いかけの恩恵にあなた達は肖っていないと、そう言いきる事が出来ますか?」
瞳に宿る狂気は変わらない。だが声の真摯な響きは更に増している。悪魔的な笑みをメフィストフェレス的なと表現するならばこの真摯さはファウスト的な言うべきだろうか。
それは狂人の真摯な情熱。
「私は問うているだけなのですよ。何故と、ね」
紫と慶悟はそれこそ問い掛ける顔つきになった。戯言と一蹴することは可能でも、それを選択する気は失せていた。
この犯罪者が、犯罪者へと落ちたその理由を語ろうとしている。犯罪者となるには余りにも社会的なものを手に入れすぎているこの男が犯罪者へと落ちた、その理由を。
抗いがたい好奇心。それもまた何故という問いかけだ。
「何故と問う事無く、人類の進歩は在り得なかった。先人が問い、答えを手にしたからこそ私達は今のこの生活を手に入れているんです。それはお分かりでしょう?」
紫は無言で頷いた。それは納得せざるを得ない。極端な話だがこうしてお茶を飲む容器に、いやお茶そのものにさえ、技術は使われている。葉を湯に浸すことによって芳醇な香りと味の飲み物が出来上がる。それもまたただ葉がそこに存在するだけでは在り得ない技術だ。もっと極端に言えば火と言う熱を手に入れることさえも。
「私もまた問うているだけなのですよ。感情とは何かと。それは何処にありどんな仕組みで生まれているのかと。それを解明する事が出来れば精神医療は飛躍的に進歩する。いや精神医療だけではありませんね、現に今もプラセボ効果などと言う曖昧な処方も存在するのですから」
それは何処に?
「異能も同様です。それは何処から生まれるのです、どんなメカニズムで? これもまた解明さえ出来れば技術として使用できるかもしれない」
「そう上手くいくものか」
吐き捨てた慶悟に、思い出屋は哀れむような視線を投げた。
「火を使う事もまた最初は同じように思われたでしょう。電力も同じことだ。解明さえ出来れば自ずと活用の方法も見つかるというものです」
思い出屋はカップを口元へと運び、そして飲まぬままに遠ざけた。冷めていた為だろう。
「私は知りたい。そしてそれは決してマイナスでは在り得ない」
ご理解頂けますか?
思い出屋は二人を促す。紫はごくりと唾を飲み下した。
何故と問う。その繰り返しによって総ての技術は生み出された。それを否定する事は出来ない。
そして同時にこの男の情熱に絡め取られそうになる。真摯な、純粋とさえ言っていいかもしれない狂人の情熱に。
「ふざけるな!」
思わず頷きかけた紫の意識を強かに打ったのは慶悟の怒鳴り声だった。
「真名神?」
「あんたも何を納得しかけている? 忘れたのかこの男がその為に何をしたかを?」
はっと紫は息を飲んだ。
この狂人は純粋に真摯にその渇望に従い、そして躊躇う事無く――
「他人の記憶に手をつけておいて理解しろってのは無理な相談だな」
慶悟の声に今度こそ紫は深く頷いた。忘れてはならない、この男は犯罪者なのだ。
思い出屋はやれやれとでも言いたげに首を振った。まるで物分りの悪い子供に言い含めるような口調で言う。
「では現在の科学の総てを否定するんですね?」
「なんでそうなるのよ?」
「確認せずに確立された技術はないと言う事です。戦時化の人体実験において凍傷や伝染病の研究が躍進したのは有名な事実ですよ。それは成果でしょう。それもまた例えばの話に過ぎません」
思い出屋はせせら笑う。
慶悟の堪忍袋の緒もここまでが限界だった。
「つまり貴様は自分が何をしているのか理解しているというわけか」
「無論のこと」
吹き上げる気炎を受けても、思い出屋はびくともしない。泰然とも取れる仕草で大仰に首を振って見せた。
「まあ多分ご理解は頂けないとは思ってはいましたが」
「当然だろう!?」
「真名神!」
衆目も憚らずに怒鳴り声を上げた慶悟に、紫が非難の声を上げる。だが慶悟の不快感はそんな程度の制止でどうこうなるものではなかった。『人体実験』の『成果』と言い切った、人を人とも思わないこの男に真実怒りを感じる。
しかし思い出屋にはそれさえ予想の範疇だったのだろう。にっと笑うとすっと手を掲げてみせる。
「お怒りですか?」
「一々聞く必要があるの?」
心底呆れて言った紫に思い出屋はクスクスと笑う。
「では、どうなさいますか?」
店の種類の問題なのだろう。他者と関わらない造りのその店の客達は多少の愁嘆場には腰を浮かせることはない。様子を窺ってはいるのだろうが騒ぎにまではなっては居ない。思い出屋が意味ありげにその店内を一瞥する。
「いえ、貴方達に何が出来ます?」
「――甘く見てくれたものだな」
壮絶に慶悟は笑んだ。
懐から取り出した符が淡く光を放つ。殺気も露わに攻撃態勢を整える慶悟の腕に、紫は慌てて取り縋った。
「冴木!?」
「馬鹿! わからないの!?」
紫の声に、慶悟もまたはっと息を飲んだ。
店内には多くはなくとも客が存在している。それはそのまま人質であるとも言える、そして同時に目撃者でもあるのだ。
「異能による犯罪は確立されてはいませんが、今この状況で私が倒れれば皆さんはどんな行動を取るでしょうね?」
救急車、そして警察。当然のことながら慶悟と紫は当事者の立場に置かれる。そして店内の客の総ては『柄の悪い男が、身なりのきちんとした男に絡んでいた』と証言するだろう。
「……く」
歯噛みする慶悟に、思い出屋は低く笑った。そして指先で玩んでいた宝石をピッと弾いて寄越す。テーブルの上を滑り、膝の上に落ちてきた薄桃色の宝石を、紫は慌てて掴んだ。
「わ、と! ちょっと?」
「差し上げましょう」
思い出屋は唇に指を当て笑いを堪えるようにしながら言った。
「それは記憶の宝石です。持ち主に返せば戻ります。異能の方は既にお仲間に渡してありますよ」
「――どう言うつもりだ?」
「既にデータは頂きました。ならばもう不要なだけの代物ですからね。私は捨ててしまっても構いませんが、貴方方には必要なものなのでしょう?」
「随分と、余裕ね?」
忌々しげに吐き捨てた紫に、思い出屋はあっさりと頷いた。
「事実余裕ですよ。貴方方は今は私に手が届かない」
「貴様!」
怒鳴った慶悟は次の瞬間凍りついた。
その場に確かにあったはずの思い出屋の姿が突然掻き消えたのだ。
「な……!」
紫もまた思わず腰を浮かせる。慶悟は慌ててテーブルを飛び越え、先刻まで思い出屋が居たはずのソファーを探った。だが視覚どおりそこには思い出屋の姿はない。
それまで無関心を装っていた客達も俄かにざわめき出す。ち、と紫は舌打ちした。
「ずらかるわよ」
「……」
「真名神!」
ソファーの上から動かない慶悟に飛びつき、紫は力の限りその腕を引いた。
ずるずると慶悟を引っ張って店を出ようとする紫に、ウエイターが困惑したような顔で話し掛ける。
「あ、あのすいません……」
「なによ!」
問答無用で怒鳴りつけるとウエイターはビクッと身を竦ませた。それでも上目遣いに伝票を差し出してくる辺りは流石にプロ根性である。
「お、御代を……」
紫はあーもう! と唸り、がりがりと頭を掻いた。どさくさに紛れてとんずらしなければ厄介な事となるのは目に見えているのにとんだ時間の無駄だ。紫は素早く胸ポケットから札を一枚取り出してウエイターの鼻先に叩きつけた。
「お釣りはいらないわ!」
吐き捨てて慶悟を引きずり紫は店を後にする。
ひらりと千円札が床へと落ちた。
釣りどころか倍以上不足しているという事実にウエイターが気付いたのは、ドアが荒々しく閉められて暫くして後のことだった。
つまりこうしてあっさりと赤木に異能と記憶は戻ってしまったのだ。敵、思い出屋の目的は挑発と宣戦布告。報告書も読まずに飛び出していった霞にそれを洞察しろと言う方がそもそも無茶である。民間人を巻き込んでいるために霞が草間への報告を躊躇っていた事もまた悪かった。
麻衣が辻占いを始めて三日目。
事態とは全く関係ないところで全く関係ない獲物が引っかかった。
「うぉのれ志堂霞!」
またしても緋波・奏(ひなみ・かなで)は吼えていた。黙っていればそれこそ奥様好みの紅顔の美少年であろうに所構わず吠え立てているあたりが己を『その境遇』に落とし込んでいるという事実には気付いていない。恐らく生涯気付かないであろう。気の毒だが。
「俺の灰色の青春……」
吼えつつ落ち込むという高等技術を成し遂げ、奏はがっくりと肩を落とした。
あくまで『同類』の宿敵であれば、まだ素直にその力量を認め、己の技を磨く事で雪辱を果たそうという前向きな姿勢にも慣れただろう。
そうさお互い灰色さ、だから刀で分かり合おうじゃないか。
かなり侘しいがそれもまた青春だったであろう。
だがしかし!
「……う、裏切り者……」
相も変らず霞の側には極普通の少女が鎮座している。正確には霞が引きずりまわしているのだがそんなことはこの状態になった奏でには、もとい男には認識できない。
それだけでも許しがたいというのにその上今度は女子供が基本的に商売相手の占いに手を出そうというのか。
「許さん、断じて許さん!」
奏では夕日に誓った。
何がなんでも必ず邪魔してくれると。
その感情をなんというか知っているか少年よ。
やっかみ、ねたみ、逆恨み――つまりは宿敵が羨ましくて仕方がない奏でであった。
麻衣の堪忍袋の緒は切れかけていた。
「あのね志堂さん」
かなりの数の客を捌き、すっかり占い師らしくなってしまった麻衣だったが、それだけ占い師らしくなっても未だに獲物は引っかからない。一般的な女子高生よりも行動に自由のある麻衣ではあるが、それでもこう連日午前様が続くと兄に何を言われるか分からない。
かと言って怒られるわけではないのだが。
今日も出掛けに兄には声をかけられた。
『そうか、志堂さんと一緒なのか……それでお前ちゃんと責任取って貰えるのか?』
気の毒な佐藤和明の命運は割愛するとして、こんな事を言われつづける生活に当の麻衣が耐えられるはずもないのだ。
霞は申し訳なさそうに上目遣いで麻衣を見た。今は麻衣の護衛のために初めから目元の布を取り去っている。
「すまない……」
「……う」
目が露わになっているせいだろう。申し訳ないと思っているのがダイレクトに伝わり、麻衣は言葉を失ってしまう。どうにもこの真摯さには弱い。
なんとなく会話が途切れた、その時だった。
「はーっはっはっは! 占いか、占いか!? 下らんっ」
とう!
掛声も高らかに雑居ビルの屋上から小柄な少年が身を躍らせる。軽い音を立てて着地した少年は人差し指でビシッと麻衣を指差した。
「インチキ占いで人から金を巻き上げ様などとそれが正義の味方とかのすることか!?」
「あー、えーと……」
「緋波!?」
麻衣の反応と霞の反応は実に対照的だった。状況的にどちらが一般的かと言えば、それは問答無用で麻衣である。
奏では真っ白な姿だった。頭には白いヘルメット。着衣は背中の刺繍も鮮やかな白の特攻服。真っ白のブーツに、トドメはハート型のフレームの今時何処で売っているんだと問いたくなるようなサングラスである。
通行人も客も、その姿に声もない。
霞だけが顔色を変えて麻衣を背に庇う。
「緋波……貴様何をしにきた!?」
「俺は緋波奏ではないっ!」
だったらなんだと言うのだ。
「俺は通りすがりの善意の第三者だ! 貴様のインチキ占いを見破り、世に平和を齎すべくやってきたのだ!」
高らかに奏では宣言する。
こうまでつっこみどころ満載だと何処から突っ込んで良いのかもう分からない。
しかし対する霞は何処までも真面目だった。腰を落として身構え、爛々と光る瞳で奏を睨み据えた。
「……麻衣に危害を加えるつもりなら、殺す」
奏が思わず身を竦ませるほどの殺気が霞から放たれる。
誠実であり男らしくもある素晴らしい行為だが、相手が特攻服の変な子供であるだけに奇異以外の何者でもないが。
見物人などすっかりお笑い番組の撮影と信じてカメラを探しているほどだ。
「くっくっく、それほど俺が怖いか! この善意の第三者が!」
いやだから緋波奏だろうあんたは。
その事実を知っている霞が突っ込まないものだからいよいよ場面は突っ走りのお笑いに突入しようとしている。
霞に庇われた麻衣は状況はよく飲み込めないまでも深く深く嘆息して霞の袖を引いた。
「あのね志堂さん」
「小娘! 邪魔をするな!」
即座に奏の罵声が飛んだが、そんなものが佐藤麻衣に通用する訳がない。
「変質者は黙ってなさいよ!」
ぴしゃりと言い放つと、振り返った霞に大きく溜息をつく。
「あなた絶対友達は選んだほうがいいと思うわよ。って言うか友達なわけ?」
「……いや、敵だが」
「……敵にしたってもう少し上等なものがあるでしょうが敵にしたって」
既にもの扱いである。
だがそれ以上に奏は打ちのめされた。
心配されている。霞が女の子に心配されているしかも遠隔で捕らえた映像ではなくライヴで。
なんかまたとほーもなく負けた。
「お、お、覚えていろおおおおおおお!!!!!」
絶対に嫌だと帰したくなる奇矯な姿の奏は涙に暮れて走り去った。
それは一体何処にあるのだろうか?
明確に名のついた器官に、それはあるのだろうか?
いや――あるべき、なのだ。
だから。
「障害は排除しますよ。どんなものにも私は止められるつもりはありません」
男は、低く笑う。
そして。
「いつか、いつか必ず思い知らせてやるううううぅ!!!!!」
奏では、哀しく吼える。
案外世の中は平和なのかもしれない。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0935 / 志堂・霞 / 男 / 19 / 時空跳躍者】
【1325 / 緋波・奏 / 男 / 16 / 時空跳躍者への刺客】
【1021 / 冴木・紫 / 女 / 21 / フリーライター】
【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【1334 / 冴木・継人 / 男 / 25 / 退魔師】
【0389 / 真名神・慶悟 / 男 / 20 / 陰陽師】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、里子です。再度の参加ありがとうございます。
嫌なやつが嫌な感じで復活してまいりました。
こやつの言い分は一面真理なだけに始末に終えません。
まあだからといって感情のメカニズムを解き明かすという事が何になるのかと言うのは私にはわかりませんが。心理に置ける曖昧さまでなくしてしまったら、人はロボットと大差ないのではないか、そう思いますし。
今回は大変お待たせしまして申し訳ありません。
……ちょっと静養も兼ねまして入院してまいります。
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