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<東京怪談ノベル(シングル)>


run full tilt

 右手の肘を掴んで身に引き寄せると、肩からの筋が張る。
 ぐるりと回して首の筋肉をほぐすと、今度は膝に手を置き、片足ずつを曲げてぐんと足全体を伸ばした。
 筋肉毎に丁寧に、走る為の調整は念入りにし過ぎて損、という事はない。
「龍之助、寒くね?」
同学年の陸上部員が声をかけるに、湖影龍之助は朗らかに白い歯を見せて答えた。
「ちっとも!」
 空気の肌寒さに体を冷やさないよう、他の部員が学年別に色分けされたジャージ姿で柔軟に励む中、一人ランニングにショートパンツの軽装は見ている者の肌が鳥になる。
 けれども龍之助は全く平気な様子で、グッと親指を立てた。
「三下さんへの愛が燃え盛ってるからね!」
またかよ…部員一同、こっそりと内心で溜息をつく。
 野球ばかりが話題に上るせいか印象に薄いが、陸上競技だって春が選手権大会だ。
 各都道府県の競技大会を勝ち進んで全国区の高校が、一同に介する全国大会…たとえ其処まで進めなくとも、出来るだけ上の大会を狙いたいのが人情というものだろう。
 けれどイマイチパッとしていないのが真実で、部内で公式大会、上位入賞経験を持つ龍之助の双肩…ならぬ双脚にかかっているというのが実情だ。
 それだけに、部内の期待もかかっているというのに。
「三下さん、待ってて下さいね〜♪」
などと、恋にバイトにひた走る…高校生として健全な筈なのにえらく不健全な龍之助の健脚に敵う者が居ないだけに、部活に顔を出させるだけで一苦労だ。
 だが、今日だけはどうあっても部活に出せという顧問の厳命あって、部長が捨て身に『お願い』に上がり、放課後逃走を死守したのである。
「その、三下さんとやらはそんな魅力的な人物なのか?」
男子校という舞台の女教師、それも若いと来た日にゃマドンナ的存在に祭り上げられそうなものだが、男言葉に柔道も嗜むにあたって再起不能に陥った者数知れず、と何処か華々しい伝説を背負った陸上部顧問の問いに、真実を知る者は一様に目を逸らした。
 聞いてもいないのに、如何に三下さんとやらが可愛いかを聞かされた者も居る。
 幾人かは、龍之助に大事そうにその想い人の写真を見せてもらった事もある。
 眼鏡・ドジ・小柄。
 まず思いつく形容詞はその三拍子…ある意味王道と言えなくもないが、横道に走る程の魅力があるかと問われれば…否、である。
 ちなみに顧問の問いの真意は、『人間として尊敬出来る』魅力にかかっているのだが、龍之助の性癖というか…好意を持つ相手が何故か同性という現況を知る者は特に、『恋愛対象としての』魅力としか捉えられない。
 まぁ、どっちもどっちで否としか言えないのだが。
「おし、800のタイム取るぞー」
野太い声のマネージャー…陸上部だろうが野球部だろうがバスケ部だろうがサッカー部だろうが、男子校は否応なく男がマネージャー、の声にてんでに柔軟や走り込みに励んでいた部員がジャージを脱いでトラックの一画に集まる。
「1年生!」
顧問が呼ぶに、グラウンドの一画に所在なげに固まっていた…体験入部に見学に来ていた新1年生が寄って来た。
「アイツの走りは、見るだけでも損はないぞ」
トラックに引かれたライン、並ぶ面々の中程、笑顔に隣と歓談する龍之助を指で示す。
「…湖影!山中!気合い入れとけ!」
途端、顧問の声が飛び、話し込んでいた二人はぴゃっと肩を竦めると、「うぃッス!」と同時に答えた。
「落ち着きがないのが難点だな」
ふん、と息を吐くと顧問は見学の生徒達を横に並べ、マネージャーの視線に頷くに、競技用の銃が火薬を弾いてパン、と高く空気を打ち、部員が一斉にスタートを切った。 
 中距離走の800mは、トラックを二周する。
「瞬発力が勝負になる短距離、持久力が決め手となる長距離の間の中距離は、如何に全力で走り続けるか、に記録が左右される」
その全力の配分が問題なんだ。
 顧問は続けると、見てれば分かる、とばかりに口を閉じた。
 スタートこそ、全員並び足だったが、走り続けるに従ってその差が如実に出てくる。
 フォームが乱れれば速度が落ちる。
 かといって体力を温存しすぎれば速度が出ない…だが、龍之助は安定した速度にフォームの乱れもなく、確実に他を引き離す。
「と、まぁ、あんな具合にだ。持久力の基礎となる体力はもとより腹筋、背筋が鍛わってればそれを持続出来る。中学で陸上を囓った経験があればそれがどんな物か理解も出来るだろうが…彼処までなれとは言わんが最低限、それなりに付いて来れるようにはなってもらう」
しごくぞ、と言外に告げている。
 女顧問、だけを目当てに入部を申し出る者が後を絶たないだけに、それなりの篩いにかける必要もあって、龍之助を引っ張り出した…のは、部長の案なのだが。
 そんな内部事情を知らず、800mを余裕のトップで走り切った龍之助は、膝に手を突き多少乱れた呼吸を整えながら、続いてゴールする部員達を笑顔で迎える。
「チキショー、あんだけ部活さぼっててなんでそんだけ速いんだよー」
ぼやいてグラウンドに転がる者に、へへー、とVサインを示す。
「やっぱ気持ちいいなぁ〜♪」
その一言に、部員の心が一つになった。
「なら毎日出やがれ!」
声も一つに唱和した…顧問まで。
 が、龍之助はどこ吹く風で、マネージャーが付けた記録を覗き込んだ。
「あ、やり♪部長〜、ちゃんと自己記録更新したっスよ!約束通り、これから一週間、バイト優先でも文句言いっこなしっスよ!」
それが本日の条件だった。
 全くもって、人の言う事を聞いてない…上に。
「あ、電話だッ♪」
何処に。
 周囲が見回すに、龍之助はかろやかなツーステップでフェンス際に畳んだ自分のジャージのポケットに手を突っ込んで…振動モードに設定した携帯電話を取り出した。
「あ、三下さん♪やっぱり♪なんか三下さんから電話がかかって来てるよーな気がしたんス♪いや、大丈夫っスよ、もう上がりっスから!」
………愛の力?そう言われても認める事は出来ないが。
「ハイ、ハイ…あ、それじゃ今からアトラスに向かうっス!…先生、俺、もう上がるっス!三下さんトコ行かなくっちゃ!!」
清々しい笑顔に紡がれたその台詞の語尾は、あっと言う間に部室の向こうに消えた背に遠くしか聞こえなかった。
 呆気に取られて見送る新一年生に…顧問は重々しく告げた。
「彼処まで…人間離れしろとは、言わん」
言われても無理だと、新一年生を含めた全員がそう思った。


 通い慣れたアトラス編集部のビルの前に、たとえ500m先からでも理解るシルエットを認めて龍之助はダッシュした。
「三下さんッ♪」
間違いなく、あらゆる記録を凌駕していたろうタイムで、龍之助は想い人の元へと辿り着いた。
「龍之助くん、待ってたんだよ〜。君でないと書類の場所が分からなくて…」
おどおどと反対の道向こうに目をやっていた三下は、あからさまにほっとした様子で龍之助を迎えた。
「龍之助くん、靴をどうかしたかい?」
急停止に地面と擦れたバッシュが上げる白煙を三下が訝しむが、龍之助は「待ってた」の一言を胸の内に反芻していた。
「龍之助くん?大丈夫かい?」
動かない龍之助の眼前にひらひらと手を振っても反応がないのに、三下は精一杯背伸びをして、長身の龍之助との身長差を埋めようとする…と、爪先立ちにバランスを崩すのもお約束だ。
「うわわわッ?」
手をバタつかせてどうにかバランスを保とうとするも適わず、三下は前のめりに倒れ込んだ…龍之助の胸に。
「おっとと、大丈夫っスか?三下さん」
其処で現実に戻った龍之助は、三下を支えるふりでちゃっかりと背に手を回した。
 こんな役得があるなら、たまには部活に出るのもいいかも知れない…三下と幸福感を逃すまいと抱き締める
「龍之助くん、やっぱり部活の後で疲れてるんじゃないかい?」
倒れ込んだ拍子にずれてしまった瓶底眼鏡に…めったと見られない裸眼で三下は龍之助を見上げた。
「すごく、心臓の音が早いよ?」
やはり、恋しい人の傍に居るのが一番の幸せだと、度重なる幸運に龍之助は今度は自らの意思でもう一度三下を抱き締めた。