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<東京怪談ノベル(シングル)>


< 一粒の麦 >

 どんよりと灰色に染まった空は、遠く西の端から藍色に染まり一日の終わりを告げようとしている。
 ときおり吹き付ける風は、重く湿った空気を運び、あたりに広がる薄闇の中では、無機質な石のモニュメントが、ゆっくりと夜の帳に溶け込むように、いくつもの影をつくり始めている。
「慈悲深い神よ。
 あなたは御子キリストの死と復活によって、信ずる者に永遠の命と復活の希望を与えてくださいました……」
ただ、ただ、広い石の森に、悲しみに沈む朗々とした声が響く。
「今日、この日。
 この地に葬むられる者を、復活の日まで健やかに憩わせたまえ」
 幾重にも重なる十字の墓標。
 その一つに、黒衣に身をまとった一団が、互いに身を寄せ合うように集まっている。
 その姿は、まるで天を覆う厚い雨雲のように暗く沈んで見えた。
「復活であり命であるキリストによって、永遠の生の喜びを受けることができますように……」
 参列者と同じ黒塗りの真新しい僧衣に身を包んだヨハネ・ミケーレは、視線の先で祈りの言葉を紡ぐ師の姿を青玉色の瞳で見つめていた。
『―― 夫は今時珍しいぐらいに真面目で良い人でしたが、決して強い人間ではありませんでした。
 だから、息子のことで現実という苦痛に耐えることができず、自ら天へ召されることを望んだのだと思います……たとえそれが、禁じられた行為であっても――』
 少しずつ土の中に消えていく棺を見つめながら、ヨハネは未亡人となった遺族の言葉を思い出していた。
 暗く沈み、濁ったように意志のない瞳を向ける若い未亡人の顔が、脳裏に鮮明に思い出される。
 その度、ヨハネの心は暗くよどんだ闇に押しつぶされるような鋭い痛みを覚えた。
 そして、いつしかヨハネは懐に納めた壊れた懐中時計を見つめていた。
 鈍い銀色をした竜頭を押し、蓋を開ける。本来なら、時計に仕掛けられたオルゴールが軽快な音楽を奏でるはずだったが、今は文字盤同様壊れて動く気配は無い。
 その懐中時計を見つめるヨハネをよそに、朗々とした師の祈りは淀むことなく続き、その唇からは最後の言葉が発せられる。
「聖霊と子と御名において――AMEN」
「「AMEN!!」」
 師の言葉に続き、参列者からも死者を送る言葉が流れる。
一人、物思いにふけっていたヨハネは、ハッとなって少し遅れて定められた言葉を発する。
その瞬間、額に冷たいものがあたり、ヨハネは黒髪を風に揺らしながら空を見上げた。
いつのまにか真っ黒に染まった空からは、大粒の涙が、一つ、また一つと流れ落ち、新しく盛られた土の上にゆっくりと染み込んでいった。



(この東京は、いや、世界は偽善と矛盾で満ち溢れた場所だ……)
 ヨハネがこの事実に気がついたのは、聖都(ローマ)の神学校を卒業して間もないころ、この極東にある辺境の島国に来てすぐのことだった。
 日夜、享楽に明け暮れる人々、右を見ても左を見ても、無気力で刹那的な快楽を求める異教徒の都市『東京』。
 そして、何よりヨハネの心を深い闇の中へと落としたのは、人の"死"のあり方だった。
 この大都市東京に赴任してから、ヨハネは連日のように人の死と向き合わなければならなかった。
 それでも、ヨハネは、その明るい性格と強い信仰心とによって、日々の職務をこなしていた。
 そんな中、ヨハネは、ある少年と出会うことになる。
 告解を聞きに訪れた病院――。
 その病院の、薄暗い病室の白い寝台の上で、全身に管を繋がれた少年――。
 本来なら、見る者に同情を与える少年の姿であったが、不思議とヨハネはそんな感情を抱かなかった。
 その不思議な疑問は、少年と話をしてすぐに解けた。
「神父様、ボクは病気が治ったら、サッカー選手になるんだ。
 そして、イタリアのプロリーグで活躍するのが夢なんだ」
 少年は、まるで自分が病に臥している事など、些細なことだと言わんばかりに楽しそうに夢を語った。
 その表情は、笑顔で満ち溢れ、少し大きめの瞳は、夜空に浮かぶ星々のように光っていた。
(あぁ、この子は、自分の未来を信じているんだ。だから、こんなにも美しく輝いているんだ)
 そしてその日から、ヨハネは毎日のように少年のもとを訪れるようになった。
「ねぇ、神父様はイタリアに住んでいたんでしょう?」
「なら、ボクにイタリア語を教えてよ!」
「大丈夫、病気ならすぐ良くなるよ」
「だって、ボクには神様ついてらっしゃるから」
「毎日お祈りしてるんだよ『病気を治してください』て……」
「え? 『サッカー選手にしてください』て祈らないのかだって?」
「神父様、それは欲張りだよ」
「ボクは子供で、病気のことは解らないから、神様にお祈りするぐらいしかできないけど、サッカーのことはすごく詳しいんだ。サッカーのことなら神様と同じくらい知ってるんだよ。だからサッカー選手には、自分の力でなれると思うんだ」
「自分の力で出来ることを祈ったら、神様に失礼でしょう?」
「だから神父様も、『紅茶が飲みたい』とか『チョコレートが食べたい』とかいって、すぐにお願いするのはよくないよ」
「だって、そんなことばっかりしていると、神様に呆れられちゃうよ?」
「……あぁ、そうだね。神様はどんな人でもお見捨てにはならないから、神父様みたいな人でも大丈夫だね」
 そして、いつもの満面の笑みと、楽しい笑い声……。
 いつしかヨハネにとって少年との会話は、それこそ毎日の礼拝と同じく、この異教の都市で疲れきった心を癒すために欠かせないものとなっていた。
 そんなある日、ヨハネは任務のため東京を離れ3日ぶりに少年の病室を訪れた。
 手には聖都の友人から送ってもらった、有名サッカーチームの優勝記念懐中時計を持って……。
 しかし、満面の笑みで迎えてくれるはずの少年の姿は何処にもなく、代わりに病室には、真新しいシーツが敷かれた寝台がポツンと置かれていた。
 後日、教会で行われた葬儀には、長い闘病生活に疲れきった父親といつまでも泣き続ける母親の姿があった。
 その夜、ヨハネは己の無力さと神の無慈悲を呪い、怒りのあまり手にした懐中時計を礼拝堂の硬い大理石の床に投げつけた。衝撃で、懐中時計のフェイス・ガラスは割れ、オルゴールは哀しい音を一回奏でたあと、二度と鳴ることは無かった。
 そして翌朝、立て続けに、けたたましく鳴り響く電話を取り、ヨハネは再び絶望に打ちひしがれた。
 それは、あの少年の父親と懐中時計を送ってくれた友人の死を告げる死神の咆哮だった――。



「この東京は、いや、世界は偽善と矛盾で満ち溢れた場所だ……」
 雨の降りしきる夜の公園で弱々しく呟いて、黒い僧衣に身を包んだ青年は、傘もささずに立ち尽くしていた。
 辺りには人影も無く、少しはなれたところにある外灯だけが、闇の中に沈む公園を朧げに照らしている。
『ヨハネ神父。
 落ち着いて聞いて欲しい。
 彼は決して自らの命を無駄にしたのではないよ。
 彼は、より弱い者を、幼い少女を守るため、その身を神に捧げたのだ――』
 あの日、受話器の向こう側から聞こえた、しわがれた老司教の言葉を、ヨハネは頭の中で何度も何度も反芻する。
 道路に飛び出した少女を守り、突然死を迎えた親友。
「人は皆、平等に死が訪れる……なら、人は皆、平等に生きる権利があるはずだ。
 なのに、なぜ、神はかくも無慈悲に人に死を与えるのですか?
 あの少年は、生きたいと望んでいた、かなえたいと望む夢があった……なのに神は少年の魂を天へとお召しになった。
 少年の父は、まだ生きることができた。少年があれほど切望した生を、父親は代わりに生きることができた――だが、父親は最愛の息子の死に耐えられず、自らその一生を終えた。
 そして、友は、他の命を守るため、その身を天に捧げた……。
 何故ですか!? 生きたいと望むものがいる中で、生に絶望し自ら命を絶つものもいる。そして、他の命を守ろうとして突然の死を迎えるものもいる。
 何故ですか!? 彼等が何をしたというのですか? 彼等に何の罪があったというのですか!!
 彼等に、死を賜るほどの罪など無かった。もし、彼等が死を賜らなければならないのなら、今、この東京で享楽と快楽に身をゆだね、神の教えに反する廃退的な生を謳歌する者こそ、罰せられるべきです。
 なのになぜ、主は彼らを罰せず、罪無き者を罰するのですか!!」
 そして、ヨハネは、その場に倒れこむように膝をつき慟哭した。
 冷たい夜の雨はいよいよ激しさを増し、容赦なく黒髪の青年を打ちつける。
「何故です?
 私は、神の教えとは、愛や理想や救済を説くために存在すると信じて学んできました。
 それは正に、世界に平和と平等の鐘を鳴らすべく学ぶ、崇高な学問であったはず……。
 なのに、世界はこんなにも、偽善と矛盾で満ち溢れている。
 主よ、あなたの教えはいったい何のですか? あなたはいったい何を望んでいるのですか!!」
 悲鳴にも似た声を発しながら、ヨハネは自らの拳を高々と掲げ、何度も何度も大地を殴りつける。
「罪無き者を罰し、罪多き者を許す……それがあなたの考えであり、あなたの教えなら、あなたは、あなたは――!?」
(――この世で最も罪深い偽善者だ!!)
 その、決定的な言葉を叫ぼうとした時、雨音に混じって何処からともなく優しい調の音楽が聞こえてきた。
 それは、物悲しさの中にも優しさを含んだ、透き通るような音だった。
 何処からともなく聞こえる不思議な曲に、黒髪の青年はすぐにハッとなって、雨と泥で汚れた上着の中に手を入れた。
 そこには、美しい調べを奏でる、あの壊れた懐中時計があった。
「なんで、これが……あぁ、そうか、この曲は――」
(――そう、この曲は、僕が好きだった曲だよ)
 言葉を続けようとしていたヨハネの耳に、突然、聞きなれた声が響いた。
 驚いて振り向いた先には、あの時、聖都で別れたままの姿の親友が立っていた。
「あぁ、あぁ、何で君が……」
 突然現れた友の姿に、ヨハネは喜んで立ち上がり、その身を抱きしめようとした。
 しかし、ヨハネはすぐに友の異変に気がついた。
 ヨハネと同じ黒い僧衣に身を包んだ友人が、生ある者ではないことに。
 その現実を理解したとき、再びヨハネの心を、あの締め付けるような痛みが襲った。
「なぜ、なぜ……」
 苦しむヨハネを見つめる友の瞳は、心配するかのような憂いを含んだものだった。
 そして、友は何も語らず、ヨハネの手にした懐中時計を指差した。
「ごめん、せっかく送ってもらったのに、壊してしまって……」
 贖罪の言葉を述べるヨハネに、親友はすぐに首を振る。そして、再び時計を指差す。
「何が言いたいんだ?」
 ヨハネが解らないとでも言うように尋ねると、親友は懐中時計を指差していた手をそのまま耳元に持って行く。
「あぁ、そうか。この曲を聴けって言うのかい?
 大丈夫、覚えているよ、この曲は君の好きな曲だった。
 そうだ、確かあれは君と初めて出会った神学校の聖誕祭の夜。
 あの日、僕が弾いた曲だ……。
 そう、君と初めて出会ったあの時に……」



 あれは、神学校に入学した年。まだ、10代の始めの頃。
 まるで綿菓子のような大粒の雪が降って、その年一番の寒い冬になった日。
 僕は、初めて聞いた君のフルートに感動して、オルガンを弾いたんだ。
 そして、二人のささやかな共演が終わった後、君は僕に語ってくれた……。
「ヨハネ。
 僕は、一粒の麦になりたい。」
「一粒の麦?」
「そうさ、一粒の死んだ麦。
 キリストは、一人、僕ら人の全ての罪を背負って十字架に処された。
 キリストは、自らの命と引き換えに、僕ら人に救済の希望を与えてくださったんだ。
 キリストと同じように、てのは無理だけど、僕も一粒の麦になって大地に新しい芽を息吹き、新しい何千、何万という命のために死にたいんだ。
 新しい命と、新しい世界の為に、自分の命を捧げることができるなら、僕は今すぐに天に召されても良い。
 だって、そうだろう?
 自分ひとりの為に生きて死ぬよりも、たった一人でも他人の為に生きて死ぬことができたら、人としてこれほど幸せなことはないよ」
「そんなものかなぁ〜」
「あぁ、そんなものだよ。
 だけど、他人のために何ができるか? それこそが全てだと思うんだ――」



「あぁ、そうか、思い出したよ。
 古い記憶、『一粒の麦』――君はあの時に、全て決めていたんだね」
 全てを悟り、ヨハネは右手の甲で涙を拭うと親友に微笑みかけた。
 その笑みはぎこちなく、決してうまくは無かったが、何とも晴れやかな笑みだった。
「この世界は、偽善と矛盾で満ち溢れている……。
 その想いは今も変らない。
 でも、君のおかげで思い出すことができたよ――人の死は、決して"0(ゼロ)"ではないということを。
 人には平等に死が訪れる。でも、それは"0"すなわち無とイコールではない。
 確かにそのとおりだ、人の死がイコールで"0"になるなら、僕の心の中に、君やあの少年の想い出が残ることはないから。
 君はそれを言いたかったんだね。
 人は死んでも、『一粒の麦』のように、その思いは何千、何万の人たちに残り、新しい世代に受け継がれていく……」
 そして、再びヨハネは、ぎこちなくも、あの少年のように晴れやかな笑みを作って見せた。
 気がつけば、あれほど激しく振り続けていた雨は止み、空には厚い雨雲の合間から、美しい月が顔をのぞかせていた。
 その月の光を浴びた親友は、ヨハネにニッコリと微笑み返すと、ゆっくりと天へと昇っていった。
「慈しみ深い神よ。
 願わくば、今から天に召します者に、御子キリストと共に永遠の命を分かちあう喜びを与えたまえ」
 光り輝く親友に、ヨハネは自然と祈りを捧げ、そして力強く最後の別れを口にした。
「聖霊と子と御名において――AMEN!!」
 


『一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになるであろう』

「ヨハネ福音書 第12章24節より」

 < END >