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<東京怪談ノベル(シングル)>


柔らかな水




 ――桜が散る頃になると、あの時のことを思い出す。

 水面に浮かぶ桜の花びら。
 あたしは水面を眺めていた。
 花びらは風に抱かれ、舞っては水に落ち、舞っては水に落ちていく。
 ――あの時と同じ光景。
 毎年この時期になると、あたしは此処へ来て湖を眺めている。
 少しでもあの時のことを思い出したくて。
 あたしの根底を支える記憶――人魚になった日のことを。



 いつものように、あたしはゆっくりと目を覚ました。
 無意識に抱きしめていた枕を離して、再び目を閉じる。
 あたしはベッドの中で、ウトウトするのが好き。平和な感じがするから。穏やかで、優しい時間。
 寝返りを打とうと身体を動かして――異変に気が付いた。

 足が、動かない。

 あたしは何が起きたのかわからなくて、毛布をどけて自分の足を眺めた。
 目の前に映っていたのは、足じゃなかった。

 鱗の付いた、尾びれだった。

 あたしは目を瞬いた。
「足……じゃない」
 自分でも何を言っているのかわからないくらい、あたしは驚いていた。
 眠っていた時にみた夢を、目の前に出されたような感じ。
 どうしてあたしの足は、尾びれになっちゃったんだろう?
 いくら長く眺めていてもわからない。
 鱗は腰より下から生えている。
 まるで人魚みたいに。
 考えれば考えるほど、困った表情のまま、身体は小刻みに震えてしまう。
 身体に合わせたように心も震えてくる。
 ――とにかく、お母さんに相談しよう。何かの病気かもしれない。
 そう思うのが精一杯だった。


 お母さんは予想に反して、あたしの異変に驚かなかった。
 てっきり、お医者様のところに連れて行かれると思っていたのに。
 むしろ、喜んでいるくらい。
「あなたも大人になったのねぇ」
 からかうような口調。
「今夜はお赤飯にする?」

 ――あたしは何て返事をしたんだっけ……。思い出せない。
 憶えているのは、この一言だけ。

「どうして、あたしは人魚になったの?」

 部屋から出ようとしていたお母さんは立ち止まった。
 振り返って微笑む。あたしを抱みこむような目。
 お母さんは、そっとベッドに腰掛けて、あたしの髪を優しく撫でた。
「これから、ゆっくり話すわね。だから怖がらなくても大丈夫よ」
 そう言って、震えているあたしを、抱きしめてくれた。
 優しい腕。
 胸があたたかくなる。
 だけどあたしの身体の震えは、完全には止まらなかった。
 人魚になったことが、まだ少しだけ――不安だった。
「まだ、怖い?」
 お母さんの問いに、あたしは顔をあげた。
 心配そうなお母さんの顔。
 あたしは首を左右に振った。
「大丈夫」
 事実を、ちゃんと受け止めなきゃ。
 掌を強く握って、震えを隠した。


 その後すぐに、みそのお姉さまがあたしを迎えに来た。
 あたしを何処かへ連れて行こうとする。
 不安になったあたしは、何処へ行くのかを訊いた。
『――神様に』
 お姉さまの声は小さくて、正確には聞き取れなかった。
 小さな声と共に、複雑な表情。
 あたしは黙って、お姉さまについて行った。


 ――記憶はここで途切れている。


 あの後、何があったのかな。
 確か、海底神殿という所で、神様にお会いした気がする。
 でも、どんなことをしたのか、どんな会話をしたのか、まるで憶えていない。
 思い出そうとすると、お姉さまの顔が浮かぶ。
『憶えていたら、壊れるから――』
 壊れる――何故?
 あたしにはわからない。
 お姉さまは何か、知っているのかな。
 知っているなら――憶えているなら、お姉さまは大丈夫なのかな。
『壊れ』ないのかな……。
 お姉さまは不思議な人。
 昔から、ずっと。今もそう。変わらない。


 神様にお会いした後のことは、よく憶えている。


 一週間の間に、あたしは一般常識と人魚の能力の活用法を覚えさせられた。
 あたしは記憶力や理解力に長けていたから、すぐに海の人魚としてやっていける程の知識と能力を身につけることが出来た。

 でも、心は未だ戸惑っていた。
 人魚としての自分は、人間ではないということ。
 それが不安だった。


 夜になって、あたしは湖に出かけた。
 ここは、お気に入りの場所だった。
 元から水が好きで、よく湖で遊んでいたから。
 久しぶりに来た湖には、桜の花びらが添えられていた。
 薄暗い視界の中に、ゆらゆらと桃色の花びらが舞うのが見える。
「きれい……」
 あたしは冷たい湖の中へ、そっと身体を沈ませた。

 夜の水中に、人魚としてのあたしがいる。
 以前とは違う自分。
 人間ではない自分――以前には戻れない自分。

 涙が出てきた。

 前の自分に戻れないことが、意味もなく悲しかった。
 流れてくる涙は、湖の水に混じっていく。

「あたしは変わっちゃったのかな……」

 声が聞こえた。
 悲鳴のような、泣き叫ぶような、声。
「誰?」
 見渡しても、誰もいない。
 声だけが聞こえる。
 耳を澄ますと、哀しげな音は、水の中から聞こえてきていた。
「水が泣いているの?」
 頷くように、声が響く。
 水の音。
「泣かないで」
 音は止まない。
 怯えているように、水が震える。

 まるであたしみたい……。

「貴方は、あたしなの?」
 水があたしを抱きかかえるようにして、うねる。
 頷いている。
 水は、あたしの心を映していく。
 不安も悲しみも――それは人間としてのあたしの気持ち。
 だけど水があたしの気持ちを表すのは――あたしが人魚だから。

 あたしはあたし。
 何も変わってなんかいない。

「そうだよね?」

 水があたしを抱くように歌っている。
 ――あたたかい。さっきまであんなに冷たかったのに。
 あたしは両腕で水を抱きしめた。
 自分を抱きしめているようにも見える。
 身体はもう、震えていない。



 あの時を思い出してから、何時間経ったのだろう。
 風で桜の枝が揺れたのを合図に、あたしは立ち上がった。
 随分長いこと居た気がする。
 立ち上がって見下ろす湖は、あたしが自分を受け入れた時と同じように、あたたかそうだ。
 あの時の気持ち。
 あの時のぬくもり。
 ちゃんと憶えているから。
 ――あたしは、あたし。
 人魚でも人間でも、結局自分なんだから、大丈夫。

「来年もまた、来るね」

 あたしは、もと来た道を辿り始めた。
 途中、宙に舞う桜の花びらが、掌に落ちる。
 すれ違う子供が、花びらを唇にあてて音を奏でている。
 あの時のあたしと同じくらいの年齢の子供。
 角を曲がって人がいなくなると、あたしは掌に視線を落とした。
 まだ残っている花びら。
 あたしは、花びらを唇にあてた。

 柔らかくて凛とした音が、辺りを包む。
 あの時の水のような、音だった。


終。