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<東京怪談ノベル(シングル)>


++ 空っぽのココロ ++

 とてとてとて。


 小さな小さな足音を響かせ歩いているのは、オレンジ色の――まるで毛玉のようなふわふわとした毛並みの小さなポメラニアンだ。
 彼には、まだ名前はない。だが一人の少女との出会いによって、後に彼には橘神・剣豪なる名が与えられることとなるのは、この時の彼は当然の如く知るよしもなかった。
 運命か、あるいは何者かの思惑によるもなのか――それは恐らく誰も知らない。少なくとも、この時とある屋敷に迷い込んだ彼はそういった目には見えない流れを感じ取るだけの術はなかっただろう。


 とてとてとて。


 この時点で彼が捜し求めているのは、運命の出会いといったものではない。彼は重要な問題に直面していたのだ。何も考えていないような無邪気な様子でとてとてと歩き続けているのにも、彼なりの理由がある――つまり、彼は空腹であり、そしてあてもなく食料を探し続けていたのだから。
 こころもち顔を上げて、鼻先を空に向ける。くんくんと鼻を動かしてみると、美味しそうな匂い――食べ物の匂いに違いない。
 これでようやく空腹を満たすことができる。彼は意気揚々と歩き出した。元々体がとても小さいので、足音などたかがしれているし、もしも怖い人間に見つかったら逃げてしまえばいい――小さな体だからこそ、細い隙間も通り抜けることができるので、彼は人間に捕まったことはほとんどなかった。ごくごく稀に彼を捕まえることができるのは決まって子供たちで、彼らは剣豪を捕らえるとひとしきり可愛がり、そして夕方になると家に帰っていってしまう。中には剣豪を家まで連れていってくれた子供もいたが、だが最後にはいつも剣豪が逃げ出すか、あるいは母親を説得できなかった子供が泣きながら剣豪を抱いて、最初に出会った場所へと戻しにいくのがほとんどだった。
 泣いていた彼らを、恨んだことはなかった。
 もっと沢山遊びたかったけれど、人間には人間の事情があるのだろうと子供心ながらにも剣豪には分かっていた。空腹だったときに美味しい食べ物をくれたし遊んでくれた――だから離れても友達は友達なのだ。だから平気だった。
「――迷い込んでしまったんですね」
 とてとてと歩いていた剣豪に、そう声がかけられた。彼が向かおうとしていた方向から、ゆっくりと落ち着いた足取りで歩み寄ってきたのは一人の少女。
 逃げるのも忘れ、剣豪はきょとんと少女を見つめていた。彼の毛並みよりもふわふわしたやわらかそうな服を着た少女は、服の裾が汚れるのも厭わずにその場に膝をつく。そしてやさしい手で――泣きたくなるような何かを思い出させるような優しい手で、何度も何度も撫でてくれた。
(迷子じゃねーよ! 食い物探してんの食い物!)
 すっかり安心した剣豪は、そう言い募る。だが自分の言葉が通じる訳はないと知っていた。
 公園で泣きながら別れた子供にも、剣豪は何度も繰り返したのだ。『離れてたってトモダチはトモダチじゃん。また会いに来てやるから泣くなよ!』――と。だがその言葉は人間の子供には通じなかった。それが少しだけ悲しかった。
 だが、その少女は違った。
「じゃあ、何か用意しますね――何か食べたいものはありますか?」
 いとも簡単に、少女は剣豪の言葉を理解し、答えたのだ。


「――ココ何処だ?」
 彼女と出会い、剣豪は少女の元で飼われることになった。
 温かな日差しの中で、彼はふと目覚める。もしかして、初めて少女と会った時の夢を見ていたのだろうか――?
 昼寝にはちょうど良い温度と、ふわりとオレンジ色の毛を弄ぶ涼しい風。そして一面の――一面の花畑。
「スゲー……」
 この先にも、ずっと花畑が続いているのだろうか?
 ふと、そんなことを疑問に思った剣豪がずんずんと、花畑の中を走り出した。だが何かが足りない気がする――自分の中に、少しだけ空っぽな部分がある。何かが足りない気がする。
「……なんだろな……まあいっか。そのうち思い出すよな、大事なコトなら」
 再び駆け出そうとしたその時、何かが聞こえた気がした。ぴくりと、剣豪は耳を立てる。


(…………!)


 声にならない声。呼んでいるのか、嘆いているのか――だが覚えている。生まれて初めて自分の話すことを理解してくれた少女。彼女だ――。
 何かが足りないと思った。どこかに空白があると思った。自分の心の中に、自分一人では埋めることのできない空白がある。それがもどかしい。
 綺麗な花だけではなくて、それを見せたい相手がいる。彼女がいなければ、綺麗な花など意味はないのだ。自分一人きりでは、きっとこの空っぽな部分は空っぽなままに違いない。
 声の聞こえてくるのは、今まで自分が走ってきた方向とは全く逆の方向だった。
 このまま進めば、何かいいことがありそうな気がする。けれどそれよりも、空っぽな部分が空っぽなままなのは嫌だと剣豪は思う。
「――戻らなきゃ。きっと待ってる――……」
 くるりと踵を返し、剣豪は全くの逆方向へと駆け出した。走れば走るほどに、少女の声は大きくなってくる気がした。その悲しげな響きが剣豪の胸を打った。
「――戻らなきゃ――だって、待ってる――……!」
 自分のいないところで、彼女があんなふうに泣くのは駄目だ。
 たん、と大きく跳躍した。小さな体が、眩いばかりの光に包まれる。目を開いていることができずに、ぎゅっと強く目を閉じた。体がふわりと宙に浮くような感覚――だが不快ではない。確信があった――この光は、自分をあの少女の元へと戻してくれるのだという確信が。
 剣豪は知らなかった。
 少女と初めて出会い、彼女の元で飼われてからしばらく後に、人間の手にかかって剣豪が命を落としたということを。
 花畑で聞いた少女の声は、彼女が剣豪を失い悲しみに嘆くそれであったということを――そして、剣豪が守護獣として新たな命を得た、ということを――。


 目が覚めると、そこは見慣れてはいるが、だが記憶とはいささか異なる光景。
 いつも優しい笑顔を向けていてくれた少女が、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。
 剣豪が目を覚ましたのは、少女の膝の上。
 もう少女が泣いていないことにほっとしながら、むくりと起き上がる。目に入ったのは真っ白いテーブルクロスがかけられたテーブルと、その上に並ぶ彩り豊かな料理の数々――そして、おそらくは剣豪が少女の膝の上を占領していることが気に入らないのだろう。不精面をした少年の姿も見える。
(なんかの、お祝いか――?)
 少女が、こうやって沢山のご馳走を並べるのは始めてのことではなかった。元々料理が好きなのだろう――誰かの誕生日であったり、何か嬉しいことがあったりすると彼女はその料理の腕をふるうのだ。だが、今日は何のお祝いなのだろう――剣豪は首を傾げる。
 疑問を伝えようと、少女の方を振り返ると優しげな眼差しが自分に注がれていた。
「食べていいんですよ――お祝いですから」
 そういって少女は背中を撫でてくれる。
 何のお祝いなのか、剣豪にはまだ分からない。
 けれど分かることもある。


 テーブルの周りに並べられた椅子の一つに、そっぽを向いて――けれどちらちらとこちらを気にしている少年の様子から察するに、とりあえず今だけは、彼女の料理も、彼女の笑顔も、自分だけのものなのだ、と――。


 剣豪は少女の膝の上で、得意そうに胸を張った。
 少女に出会えたこと、そして今こうして彼女の側にあれる自分。そういった全てが、何故か今まで以上に誇らしく思える。


 今の自分の中には、花畑で感じた『空っぽの部分』はない。
 それが、何故か、不思議なくらい嬉しかった。そう――不思議なくらいに。