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<PCシナリオノベル(シングル)>


   水浸しの女
 
 涼しげな目元が、上に下に文字をなぞる。
 白い顔、白い指。そして銀の髪がサラリと、頭を揺らす度にこぼれた。
 昼下がりの草間事務所は、草間の吐き出す白い煙で燻っている。十桐朔羅は、その濛々たるモヤの中で、今朝の新聞に目を落としていた。
「草間の所へ来ると、いつも普通では体験できぬ事に遭遇するな」
 そう言いながら、朔羅は丁寧に新聞を折り畳んだ。雫の入れたお茶が、暖かに湯気を立てている。朔羅は湯飲みを手に、一口それを含んだ。かなり大味で、色が悪い。家で出される物とは、格段の差があった。
「お茶にも色々とあるのだな……」
 ポツリと漏らした朔羅の言葉に、草間は苦笑する。
「安物だからな」
「そうか。今まで気にした事も無かったが……」
「いつもよほど良い物を飲んでるな。それより、何か分かったか?」
 草間の何気ない言葉の中に、朔羅は小さな発見をした。だが、それは事件とは関係の無い話。後者の問いにだけ頷く。
「場所の把握をしたかったのだが、出頭記事では分からない」
 着物の裾から水を滴らせた女。
 それが今回の事件の依頼主だ。新聞記事にもなっている『ひき逃げ事件』の被害者の一人だが、それが公になる事は無い。
 何故なら女はこの世の者ではないからだ。
 その女が、跳ね飛ばされたと言って救いを求めてきた。どこかに本体となるべき『物』が、放置されたままになっているらしいのだが、朔羅の考えでは、それは路傍の道標──道祖神だった。
「背中に見えたと言う『嘉永元年』の文字……。その頃は、よく造立されたと聞いた事がある」
「なるほどな。だが、そんな物が当て逃げされれば、近所の者が気づくんじゃないか?」
 大小、形の様々はあるが道祖神は通常、石で出来ている。路傍にひっそりと立ち、そこに在ると言うだけで、あまり意識する者はいない。だが、それが折れて倒れていれば、否が応でも目につくはずだろう。
 朔羅は女の言葉を思い起こした。
「彼女は、臭い、寒いと言っていたそうだな」
「ああ。それに着物の裾から水が垂れていた」
 銜えタバコの煙に目を細める草間に、朔羅は頷く。
「だとすると、溝にでも落とされたのかもしれぬな。ひき逃げ犯に直接話を聞けば、轢いた物も思い当たろう」
 所轄警察は、新聞記事に出ていた。そこへ行けば拘留中の犯人に会える。
 朔羅は茶の礼を告げ、まだ高い春の陽に身を泳がせた。

■■ 某区 警察署内 留置所 ■■

 男は疲れ切ったヒゲ面の顔を、時折、グシャと歪ませた。重中俊文(しげなかとしふみ)、三十一才。総積載量十トン。十メートルのロングボディを操る、大型トラック運転手だ。
 昼食も済んだ午後二時。睡魔に負けて意識を飛ばした瞬間に、まだ四才の子供の命を奪ってしまった。
 一枚のガラスを隔てて、重中は背中を丸めている。後悔と自責の念が、男の顔に貼り付いていた。
「私が聞きたいのは、少年の事ではない。他に何か跳ねた物が無いか、知りたいのだが」
「他に……?」
 重中は紅い目を朔羅に向けた。背後では、係員が時計を気にしている。しばらくして、重中は重たげに口を開いた。
「ある……」
 ポツリ、と吐き出した言葉は、囁くような声だ。
「石を跳ねた。曲がり角に立ってた、細い柱を巻き込んで……」
 朔羅は男のノロノロとした話に、辛抱強く耳を傾けた。やはり男が跳ねたのは、道祖神のようだ。
「それでその石柱はどこへ?」
「フェンスを破って、ドブ川に落ちた」
「ドブ川……場所を教えてもらいたい」
 そんな事を聞いてどうするのか。
 重中は眉を潜めて、朔羅を見た。これ以上、厄介事を増やすのは、ゴメンだと言った顔つきだ。
 係員が再び時計を見た。朔羅の後にも、別の面会が控えている。朔羅は先を促すように、重中を見据えた。
「その石柱を探している者がいるのだ」
 静かな空間に、朔羅の声が響く。重中は、深い溜息をついた。
「場所は……。子供を跳ねた近所だ。汚い川があるから、行けば分かる」
 そこで時間切れとなった。係員が重中に声をかける。
 何を思い出したのか。
 朔羅の見ている前で、男はポロリと泣いた。

■■ 同区 事故現場 ■■
 
 備えられた花々。お菓子やぬいぐるみと言ったお供物は、まだ置かれたばかりのようだ。ガラスのコップの中に、半ばにして燃え尽きた線香が立っている。
 現場は駅と駅の中間にある、住宅地の一角だ。線路沿いの見通しの良い直線道路で、片側がフェンスになっている。もう片側は民家で、戸建てにアパートと言った、少しくすんだ家並みが続いていた。昼時を迎えて、人気は全く無い。時折、バンやワゴンと言った営業車が、猛スピードで駆け抜けて行く。
 朔羅は軽い黙祷を捧げると、男の話を頼りに川を探した。
 快晴の空には、春の少し強い陽が浮かんでいる。線路から離れ、住宅地に足を踏み入れてまもなく、朔羅は小さなドブ川にたどり着いた。
「……これか?」
 朔羅は立ち止まって、フェンス越しに川を覗き込んだ。
 川幅は七メートルほどだろうか。水は濁って、深さが全く知れない。茶に灰を足したような色の流れだ。
 両側は緑のフェンスで挟まれていて、ほぼ等間隔にアスファルトの橋がかかっている。
 朔羅はこのフェンスに沿って歩き始めた。
 川の向こうも、同じような街並みが広がっている。
 時間帯のせいなのか。
 車以外の動体を見かける事が無い。これでは何が跳ねられても、目撃者などいないだろう。
 フェンスが途切れると、橋が現れる。
 幅は大型の車両なら、一台で道を塞いでしまうほどに狭い。
 橋上の歩道は片側にだけあり、境の白いガードレールは車の塗料だろうか──が至る所に長く短く付着していた。
 川面までは、およそ二メートル。コンクリートの堤防は、人の侵入を拒むかのように急斜角だ。
 仮に石碑を見つけても、朔羅一人で引き上げる事は無理だろう。まして相手は石物。重量もある。
(とにかく、見つけ次第、草間に連絡するしかあるまい)
 それらしい姿を探す朔羅の目に、どんよりとした川面が移る。本当に汚い川だ。
 微かな異臭も漂うこの流れのどこかに、彼女は沈んでいる。
 草間の元へ訪れた、猛し鉄火肌を思って、朔羅の口元に微かな笑みが浮かんだ。
(『臭い、寒い』か……。何とも力強いものだな。彼女が守神ならば、誰もその場所で悪さなどできぬのだろうな)
 風は緩く暖かで、進む足も軽い。一つ二つと橋を過ぎる。
 運転手は、現場からそう遠くないと言っていたが、考えてみれば向こうは車なのだ。走って数分の距離も、徒歩では数十分になる。それに、ひき逃げ後の動揺していたであろう状態では、その記憶もかなり怪しい。
「当たらずも遠からず。いずれ着くだろう」
 左手に川を置き、朔羅は歩いた。
 やけにうるさいエンジン音を轟かせて、トラックが通りすぎる。吐き出された排気ガスが、朔羅を包んだ。袂を口にあてがい、目を細める。
 トラックは一つ先の橋を越えて行った。
「……おや?」
 追っていた朔羅の目が、橋の向こうのひしゃげたフェンスを捉える。
「あれか?」
 急ぎ足に回り込むと、丁度、フェンスの角の部分が大きく薙ぎ倒され、何かが突き破って出ていったような、穴が開いていた。足下には石の台座があり、平らになった表面には、ギザギザとした綺麗な白い地が見えている。あったものが無くなっているのは明らかだ。
 朔羅は川面を覗き込んだ。
「ねぇ、どう思う? 皆、乱暴だろう?」
 声。
 耳元で囁かれたそれに、朔羅は振り返った。
 長い漆黒の髪に、白い肌。キセルを構え、薄赤い唇で微笑う。艶やかな笑顔だ。女は着物の裾から、水を滴らせていた。
「……ここはねえ、昔はもっと静かだったんだよ」
「貴方は、やはり道祖……」
「そう。そういうあんたは、あの探偵さんの所から来たのかい? もっと遅いかと思ってたけど、なかなか早かったじゃないか」
 女は朔羅の横に立ち、静かに水面を覗き込む。
「あれだよ、少しだけ見えるだろ?」
 朔羅は、女の指すキセルの先を見た。濁った川の表面に、少しだけ覗く石の角が見える。朔羅は女を見た。
「あれでは、誰も気づかぬのも無理はない」
「そうなんだよ。それにしたって、ここにあった物が無くなったんだ。気にかけてくれてもいいじゃないか」
 女は笑っているが、その声は寂しげだった。朔羅は頷くと、女に言った。
「……百五十年もの間、ずっと道を守って来た塞の神よ。私一人では無理だが、応援を呼ぼう。何としても元の場所に戻してやらねばな」
 女はフッと笑って、朔羅をジッと見つめた。その眼差しは、暖かで優しい。
「いるんだねえ。こんな時代にも、あんたみたいな良い男が。頼むよ。何せ──」
 臭くて、寒いのさ。
 肩をすくめておどける女に、朔羅は破顔した。

 まもなく。
 草間と共に、クレーン車がやってきた。引き上げ作業をしている間には、この石碑の管理者である区──行政側も駆けつけ、週が開ける頃には、石工職人を回すと言った。
 石柱の身の丈は大人ほど。少し幅広の表面に刻まれていたのは、弁財天に似た女と、すでに掠れて読めなくなった道標だ。
 女は終始、朔羅の横で話を聞いていた。
(ありがたいねえ。これでやっと元通り、往来を眺めていられるよ)
 朔羅が頷くと、女は朔羅に笑いかける。
(すぐ裏に神社があるんだよ。そこの境内から北へ十歩目を掘ってごらん)
「神社?」
(そうさ、間違えるんじゃないよ。十歩目だからね。ここいらで、あたしの知らない事はないのさ)
 そして女は石柱の上に佇むと、笑顔を残して消えていった。
 満足そうにキセルをふかしながら。
 朔羅は一息つき、辺りを見回した。
 見れば草間は、クレーン車の作業員と支払いのやりとりをしている。
 貧乏探偵の懐から、また痛い出費が一つ。
 朔羅は事務所で飲んだ茶の味を思い出した。
「……安物か。私の家はあれほどひどくはなかったな」
 女の教えてくれた場所に、何が埋まっているのか。それが果たして金銭的に価値のあるものなのか。朔羅にはさっぱり分からない。だが、何かしら出てくるのは間違いないだろう。
 朔羅は告げた。
「草間。境内から北へ十歩目。この先の神社に報酬が埋まっているそうだ」
「埋まっている?」
 草間はキョトンとしている。
「ああ、彼女がそう言った。クレーンの手配に、経費がかかっただろう。草間が受け取るといい」
 朔羅は、台座の脇に横たわる石柱を、チラリと見た。
 風化し、掠れた女神が微笑んでいる。
 ありがとう、と。
「さて、良い天気だ……。たまには散歩でもして帰ろうか……」
 呆然とする草間を残し、朔羅は歩きだす。
 空に、飛行機雲が流れた。
 それは、女の吐き出すキセルの煙によく似ていた。




   終わり