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<東京怪談ノベル(シングル)>


光ある時を生きよ


 †祈念〜我が心に応えしは……†

 天蓋から差し込む光。あまねく栄光の調べ。
 緻密で穏やかな五声の音楽が、フルオルガンの響きで聖堂を照らす。刻まれるは安寧の一時。過ぎ行くは苦難の思い出。永久の安らぎの上、青年は自らの調べで、音楽の天使と対座した。

 ヨハン・セバスティアン・バッハ――

 信仰心を携え、人々の向上の為だけに、自らの『音楽』という人生を捧げた偉人。死して、四世紀近くたった今でも、音楽に生きてはいるが信仰を知らぬ音楽家たちに神の世界を伝えている。
 尊き音楽の伝道師に頭を垂れ、青年は対話する。
 鍵盤の上を踊る指が、言の葉の代わり。
 魂だけが、心だけがその導き手。
 最初は暗譜のために弾き始めたはずだった。無論、軽い気持ちで。基本の練習のつもりも、いつしか演奏に熱中していた。暗譜は音楽の基本だ。しかし、それだけではこの曲を語ることは出来ない。完全に弾きこなすこともままならない。
 いつしか没頭し、まるで『その人』がここに居て、導いているかのように感じていた。

 『ファンタジー ト長調BWV572』『ファンタジー ハ長調BWV570』『パッサカリアとフーガ ハ短調BWV582』この三つを暗譜中だった。
 青年は子供のとき、オルガンに出会った。
 日曜教会に参列するたびに繰り返される至福の瞬間。憧れは何時しか現実になる。神学校に通った青年は音楽と向き合い、練習と演奏を重ねた。
 いつか、本場オランダのオルガンを夢見て。
 青年は思いを馳せる。
 あの日の自分はもういない。けれども、少々の夢を叶えた青年が、日本でオルガンに、バッハに触れている。
 二つはマスターしている。あと一つ、『パッサカリアとフーガ ハ短調BWV582』だけがまだ。

 壮麗なフィナーレが美しいこの曲は、十二分二十七秒と長い。曲が単調にならないようにと気を使いながら弾く青年は、時も忘れて集中している。
 見えなくとも分かる。傍らには天使。だからこそ、何も考えず、自分を委ねて没頭した。
 自分が真に導かれているのだと実感しながら……


 †君よ知るや チケットの行方†

「なっ……無い!」
 テーブルの上を凝視したまま、ヨハネ・ミケーレは呟いた。
 ガタンと音をさせ、ダンボール箱を置く。マキシム・ド・パリの『ナポレオンパイ』と、テーブルに積み上げた新聞紙の山と楽譜が消えていた。そこにそれらがあったのは、ほんの三分前だ。
 思わず熱中してしまったオルガンの練習を切り上げ、三時のティータイムの準備をしにキッチンに来た。準備をするため、楽譜をテーブルに置いたはずだ。なのに、そこにあった楽譜も新聞紙も何もかもが無かった。
「確かここに置いたはずなのに……」
 ヨハネはテーブルの下も覗き込んだが、塵一つ落ちていない。シスターの手によって綺麗に磨かれた床が、燦然と輝いているだけだ。
 確かにお湯を沸かしているときにはあった。ケーキの用意をしているときもだ。と云う事は、シスターに呼ばれてキッチンを出た後に紛失したと考えるのが妥当だろう。
 新聞は捨てるつもりだったからいいとして、楽譜が無いのは大問題だった。
 ヨハネはそのまま床にへたり込む。うな垂れたまま暫く立ち直れない。それもそうだ、あの楽譜は毎日毎日、何処にでも持って歩いて、すっかり体の一部と化しているほどの愛用品。おまけに、楽譜の間には、来週行く筈だったコンサートのS席チケットが挟まっていたのだ。
 日本ではミサ曲がコンサートで演奏されることは少ない。しかも、バッハの『ミサ曲 ロ短調BWV232』といったら、三年前に小澤征爾指揮で演奏されただけだ。
「今回はベルリンフィルなのにィッ!!」
 怒鳴って、ヨハネは床を叩いた。悔しすぎて涙も出ない。立ち上がると、そこら中を探し回った。
 棚の上。ダンボールの下。料理本の間……
 探しても探しても苛々が募るだけで、何一つ見つからない。見つかったのは僧衣のボタン一つだ。
 ふいに涙腺が緩む。鼻がつーんとして、視界がぼやけた。
「……無いよぅ……チケット……」
 朝三時起きの信仰生活と「調査依頼という無理難題」をこなし、薄給を叩いてようやく買った栄光のチケットだというのに。
 その時、自分にとって、音楽とは、オルガンとは、バッハとは何かを知ったような気がした。苛立ちと消失感の中で音楽が脳裏で鳴り響く。

―― 音楽。そは栄光と信頼と安住の地……

「神様……僕の音楽を返してください」
 濡れた瞳の端を拭ってヨハネは言った。
 そして、何気なくヨハネは顔を上げた。本当に何気ない仕草だったが、彼にそうさせたのは、まさに守護天使だったのではなかろうか。
 テーブルに目が止まる。あったはずのケーキがそこには無かった。
「……ま、まさか!!」
 慌てていて、ケーキが無いことに気が付かなかった自分に赤面した。ケーキが無いなら、犯人はただ一人……――師匠だけだ。
 ヨハネは師匠の部屋にダッシュした。間違(まご)う事無き証拠!!……それが彼を駆り立てた。音楽の才能も、理解もすっかり頭から抜け落ち、歌わせれば老人は息を詰まらせ昇天し、常人は絶叫するあろう究極の音楽欠落神父。
 彼以外に犯人はいない。
「師匠! 僕の楽譜は何処ですかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
 ヨハネはあらん限りの声で叫び、ドアを物凄い勢いで開け放った。

 問い詰めたところ、彼はこうのたまったそうだ。
 彼曰く、「楽譜って私、いまだに理解できませんでしてね、古いノートかと思って新聞と一緒にごみ置き場に出しちゃいました〜☆」……だそうである。
 師匠から、双方を死守したヨハネは胸にチケット入り楽譜を抱きしめ、恨めしそうに睨んだ、と話を又聞きした信者は言っていた。
 それも、もう大分前の話だ。
 それから更に一層ヨハネ神父は大事なものは離さず持ち歩くようになったということである。

 そして今日も……


 †少年の心†

 昔憧れたパイプオルガンの前に青年は座る。幼い日の少年はもう居ない。今はバッハと自分だけ。少年も青年もない。ただの自分。
 ただの自分が音でバッハに触れる。
 いつか、僕も貴方の音楽のようになれたら。どんな僕に変わるのでしょう? ヨハネは呟いた。
 苛々を募らせた事件は、少し彼を先へと進ませた。ただ好きであった音楽が神へと自分を誘わせるのだと。
 ヨハネは問い掛ける。
 応えるのは音……音楽という名の伝道の調べ。

―― 貴方は僕らを何処に連れて行くんですか?

―― そこには神様はおられますか?

―― その時、僕は……どんな僕でしょうか?

 あの日の自分は過去の御許へ。今の自分も、いつかは神の御許。

 ただ、バッハは語る。……光ある時を生きよと……


 ■END■