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水浸しの女
「それじゃあ、ちょっと出かけて来ます」
零は、そう言って出ていった。
美女は笑顔で、探偵は手を上げて送り出す。
何故かいつもこうだ。
探偵の片腕たる翻訳家が、事務所を訪れてると、零は恒例の買い物へと席を立つ。
事務所には、一対の男女が残されるのだ。
「嫌われてるのかしら」
シュライン・エマは読みかけの新聞を手にしたまま、探偵を見上げた。スリープ状態の黒い画面が、その横顔を映している。無造作に積まれたモニターの上の書類は、いずれシュラインの仕事になるだろう。
探偵は右手をポケットに突っ込んだまま、デスクの端に腰掛けていた。コーヒーを啜りながら、穏やかな目でシュラインを見下ろす。
「そうじゃないだろ」
そう。
そうではない。
零は気を遣っているのだ。休日も祝日も、二十四時間と言う枠の中に、昼と夜の仕切りさえ無い探偵と美貌の助手が、ささやかな二人の時間を過ごせるように。
草間はおどけてみせる。
「さて、与えられた時間をどう過ごすか」
シュラインは微笑を浮かべ、素っ気なく切り返した。
「もちろん。依頼を解決する為の調べ物、かしら」
「そう来ると思ったよ」
草間は肩をすくめて、苦笑する。
シュラインは草間の腕に手をかけ、宥めるようにポンポンと叩いた。
「それで。ええと……」
再び記事に目を落とす。
今回の事件の依頼主は、新聞記事にもなっている『ひき逃げ事件』の被害者の一人だ。だが、それが公になる事は無い。
何故なら女は、この世の者ではないからだ。
着物から水を滴らせ、『寒い、臭い』と訴えた。
去り際の女の背には、『嘉永元年──寄贈』の文字が、読みとれたと言う。
「西暦にして一八四八年。今から百五十年ほど前? 寄贈と言うくらいだから、人じゃない事は確かよね。年月を経た道具には、魂が宿ると言うし、彼女は『付喪神』さんかしら」
シュラインは新聞を折り畳み、草間を見た。
「『道標』に『碑』……。それが何処かに沈んでいるのよね?」
草間は「ああ」と頷き、細い顎を撫でる。
「だろうな。問題は落ちた場所か」
「ええ、逃走ルートを知りたかったんだけど、ここには出頭逮捕の事しか書いてないし……」
シュラインは新聞を指で叩く。
探偵はタバコを銜えると、それに火を付けた。
「それなら、所轄へ当たってみたらどうだ?」
自らが吐き出す煙に、草間は目を細めた。
「そうね。担当さんか、本人か……。とにかく、話を聞いてみるわ。ええと、地図は……」
常に汚れた草間の事務所。当の主でさえ、失せ物探しに眉を潜める事もあるこの部屋で、悩まずに必要な物を探し出せるのは、シュラインくらいのものだろう。
慣れと、草間の癖を熟知しなければ出来ない、ある種の技だ。
難なくコピー機周辺の紙山から取り出した地図を手に、シュラインは草間を振り返った。
「それじゃ、行ってくるわね」
と、戸に手をかける。
「ああ。なるべく早く終わる事を期待してるよ」
含みのある言葉だ。
「?」
シュラインは草間の指さす方を見た。
モニターの上の書類が、シュラインに向かって無言で手招きしていた。
■■ 某区 警察署内 留置所 ■■
男は疲れ切ったヒゲ面の顔を、時折、グシャと歪ませた。重中俊文(しげなかとしふみ)、三十一才。総積載量十トン。十メートルのロングボディを操る、大型トラック運転手だ。
昼食も済んだ午後二時。睡魔に負けて意識を飛ばした瞬間に、まだ四才の子供の命を奪ってしまった。
一枚のガラスを隔てて、重中は背中を丸めている。後悔と自責の念が、男の顔に貼り付いていた。
「私が聞きたいのは、事件の後の事なの」
重中は紅い目をシュラインに向けた。背後では、係員が時計を気にしている。しばらくして、重中は重たげに口を開いた。
「後……?」
「ええ。どこかで何かを跳ねた記憶はないかしら。『持ち主』から、元に戻して欲しいと言われてるの」
「……!」
重中は、シュラインを凝視した。
「……俺がやったと、バレてたのか」
「ええ」
シュラインは頷く。重中はユルユルと首を降った。
「動転して曲がり損ねたんだ。そもそも、普通ならあんな細い道を選んだりしない……」
「何を跳ねたの?」
「……石だ。道標だよ」
男は観念したようだ。肩と視線を落とし、ポツリと言った。
「フェンスを破って、ドブ川に落ちた……」
「場所は分かるかしら」
シュラインは地図を取りだし、重中が見やすいように、ガラスに近づけた。重中は沈黙して、地図を見つめる。
係員が再び時計を見た。
ここへ来て十分。そろそろ接見も終了が近づいている。
重中が、地図の一部を指すように、ガラスを指で弾いた。
「よく覚えてないんだが……。多分、この辺りだ。子供を跳ねた近所に、汚い川がある。行けば分かるよ」
「現場の近くなのね? 分かったわ」
シュラインが頷いたところで時間切れとなった。
係員が重中に戻るよう声をかける。
何を思い出したのか。
シュラインの見ている前で、男はポロリと泣いた。
■■ 同区 歴史館 ■■
大都心の真ん中。
タイムスリップをしたような錯覚を起こす、古い家の前に、シュラインは佇んでいた。
江戸の商家を再現したものだと、パネルには書いてある。他にも街並みを模したジオラマや、出土した土器、遺跡の写真、画、書物などが展示してあった。
館内は静かで人気がなく、シュラインのたてる靴音だけが、やけに響く。目当ては二階の閲覧室にあった。
一階売店で売っていた、刊行資料を見る為である。
『区の文化財、石造品編、史跡編』──どちらも期待できそうな書籍だった。
「ここね……」
閲覧室と書かれたドアを開ける。中にも、やはり人はいない。会議室で使われるような、折り畳み式のテーブルが四つ、長手に並んでいる。奥の壁際には、本棚が置かれていた。シュラインは棚の前に立ち、目当ての本を探した。
既刊の資料は五十冊ほどだろうか。四段ある内の二段分しかない。直ぐにお目当ては見つかった。
シュラインはパラパラと、それを繰った。石碑や石仏と言った、モノクロの写真が掲載されている。下に添えられている解説を読めば、住所と地図を照らし合わせ場所の特定が出来そうだ。
地図を取りだし、特に寄贈年月日に注意する。
イスに着き、一ページ一ページ。地道な作業が続く。調べてはめくり、めくっては調べ。そうしてページは七十ページほど、進んだ。
「あった……。嘉永元年六月寄贈。場所も川沿いだわ」
そこから最後まで調べた結果、周辺にある石仏は三つ。うち一つが、現場の近くに存在していた。
「何とか、彼女に逢えそうね」
シュラインは地図にその場所を記しながら、微かに笑った。
■■ 同区 事故現場 ■■
備えられた花々。お菓子やぬいぐるみと言ったお供物は、まだ置かれたばかりのようだ。ガラスのコップの中に、半ばにして燃え尽きた線香が立っている。
現場は駅と駅の中間にある、住宅地の一角にあった。線路沿いの見通しの良い直線道路で、片側がフェンスになっている。もう片側は民家で、戸建てにアパートと言った、少しくすんだ家並みが続いていた。
昼時を迎えて、人気は全く無い。時折、バンやワゴンと言った営業車が、猛スピードで駆け抜けて行く。
シュラインは軽い黙祷を捧げると、地図を頼りに石仏を目指した。
快晴の空には、春の少し強い陽が浮かんでいる。線路から離れ、住宅地に足を踏み入れてまもなく、シュラインは小さなドブ川にたどり着いた。
鼻をつく微かな異臭。
女の気持ちが、少しだけ分かった気がする。
「確かに……どうにかして欲しいかも」
シュラインは立ち止まって、フェンス越しに川を覗き込んだ。
川幅は七メートルほどだろうか。水は濁って、深さが全く知れない。茶に灰を足したような色の流れだ。
両側は緑のフェンスで挟まれていて、ほぼ等間隔にアスファルトの橋がかかっている。
シュラインはこのフェンスに沿って歩いた。
川の向こうも、同じような街並みが広がっている。
時間帯のせいなのか。
車以外の動体を見かける事が無い。これでは何が跳ねられても、目撃者などいないだろう。
フェンスが途切れると、橋が現れる。
幅は大型の車両なら、一台で道を塞いでしまうほどに狭い。
橋上の歩道は片側にだけあり、境の白いガードレールは車の塗料だろうか──が至る所に長く短く付着していた。
川面までは、およそ二メートル。コンクリートの堤防は、人の侵入を拒むかのように急斜角だ。
仮に石碑を見つけても、シュライン一人で引き上げる事は無理だろう。まして相手は石物。重量もある。
(引き上げ作業に、レッカーが必要かも……)
そんな事を考えながら、シュラインは歩いた。
目標地点が近づいてくる。
そこでシュラインは、大きくひしゃげたフェンスに目を丸くした。
「これ──」
橋を渡って直ぐ。
真新しい事故の痕跡。
川に向かって倒されたフェンスには、何かが飛び出して行ったような穴が開いていた。
足下には石の台座があり、平らな表面にギザギザした綺麗な石の地が見えている。あったものが無くなっているのは、明らかだった。
シュラインはフェンスから身を乗り出した。
「ねぇ、どう思う? 皆、乱暴だろう?」
声。
耳元で囁かれたそれに、シュラインは振り返った。
長い漆黒の髪に、白い肌。キセルを構え、薄赤い唇で微笑う。艶やかな笑顔だ。女は着物の裾から、水を滴らせていた。
「……ここはねえ、昔はもっと静かだったんだよ」
「貴方は……付喪神──?」
シュラインの言葉に、女は破顔する。
「フフ、残念。妖怪じゃあないよ。アタシは道祖神さ。そういうあんたは、あの探偵さんの所から来たのかい?」
「ええ」
「もっと遅いかと思ってたけど、なかなか早かったじゃないか」
女はシュラインの横に立ち、静かに水面を覗き込む。
「そら、あれだよ、少しだけ見えるだろ?」
シュラインは、女の指すキセルの先を見た。濁った川の表面に、少しだけ覗く石の角が見える。
「あれじゃあ、誰も気づかないわ……」
「そうなんだよ。それにしたって、ここにあった物が無くなったんだ。気にかけてくれてもいいじゃないか」
女は笑っているが、その声は寂しげだった。
シュラインは頷くと、女に言った。
「『水も滴る良い女』と言うけれど、それじゃあんまりだわ。応援を呼んで、早く引き上げてもらいましょ。それから修理も頼まないと」
シュラインは携帯を取り出すと、草間の元へ連絡を入れた。二コールで、草間は呼び出しに応じる。
「武彦さん? 彼女、見つかったんだけど……。人の手じゃ、無理みたいなの」
草間とのやりとりの間、女はずっと目を細めていた。そして、携帯を畳んだシュラインに、女は言った。
「いるんだねえ。こんな時代にも、あんたみたいな優しい女が。頼むよ。何せ──」
臭くて、寒いのさ。
肩をすくめておどける女に、シュラインは微笑した。
まもなく。
草間と共に、クレーン車がやってきた。引き上げ作業をしている間には、シュラインの呼んだ石碑の管理者である区──行政側も駆けつけ、週が開ける頃には、石工職人を回すと言った。
石柱はかなり大きかった。大人ほども丈がある。
少し幅広の表面には、弁財天に似た女と、すでに掠れて読めなくなった道標が刻まれていた。
女は終始、シュラインの横で話を聞いていた。
(ありがたいねえ。これでやっと元通り、往来を眺めていられるよ)
「良かったわ。力になれて」
シュラインが頷くと、女は満足げに頷いた。
(すぐ裏に神社があるんだよ。そこの境内から北へ十歩目を掘ってごらん)
「何が埋まってるの?」
(行けば分かるよ。十歩目だからね。ここいらで、あたしの知らない事はないのさ)
吹いた煙が、長く漂う。
女はシュラインをしばし見つめた後、石柱の上に立った。キセルで「じゃあね」と告げ、消える。
後には横たわる石柱だけが残った。
「うん? 戻ったのか?」
横に並び立つ草間に、シュラインは頷いた。
「ええ。ね、見て」
二人の見下ろすそこには、風化し、掠れた女神が、先程よりも嬉しそうに微笑んでいた。
■■ 貧乏探偵と財布の中身、そして ■■
「こ、これ、もらっていいのかしら」
「いや……まずいだろう。敷地内だしな」
境内から出てきた物は、一枚の享保小判だった。布の袋に入っていてかなりくすんでいるが、古銭としての価値は良いもので百万円弱。出てきたものの程度から見繕っても、七十万円はくだらない代物だ。
ちなみにこれが『天正菱大判金』だった場合、並の程度で一億円の価値がある。懐に入った場合、草間は間違いなく嬉嬉とした表情で即死するだろう。
女の好意は嬉しいが、これを持ち出してばれた時が怖い。草間は土をかけ直した。
「いいの?」
手についた泥を払って、シュラインは立ち上がる。まるで汚れ損だ。
「ああ。惜しいが、見なかった事にしよう」
「そう」
「だがまあ、事務所がいよいよになったら、借りにくるか」
草間はポケットのタバコを取り出した。中を覗き込んで、舌打ちする。
「切れちまった……」
「今日はついてないみたいね」
シュラインの同情の笑みに、草間はそうでもないさと笑った。
「君との秘密が、また一つ増えた」
空には、飛行機雲。
それは、女の吐き出すキセルの煙によく似ていた。
終わり
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