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<東京怪談ノベル(シングル)>


枕は我の頭左に

 夢というものは、眠りが浅い時によく見るらしい。深く眠っている時は脳も深く寝ている訳なのだから、夢という行為は行われないという事だ。欲望や願望、遭って欲しくないと強く願う気持ち、思い出したくない出来事、永遠に思っていたい出来事……どれも強く強く心に刻まれた記憶である。記憶を司る脳は、戯れにそれを少しずつ流出する。または奔流させる。それにより、夢が人間に与えられる。眠りという、無防備な時間に。
(ああ、俺は知っている……)
 ぽつん、と何も無い真っ白な空間に立ちすくんだまま、ぽつりと守崎・啓斗(もりさき けいと)は呟いた。茶色の髪が、ふわりと風に揺れた。
(俺は……知っている)
 漠然と、だが確実に啓斗は思う。
(これは、夢だ)
 啓斗は、頻繁に夢を見る。常に眠りの浅い啓斗は、その分夢をよく見た。ほぼ毎日、ほぼ眠っている間中。その分、様々なパターンの夢を体験してきた。だから今、自分が遭遇しているシチュエーションを目の前にし、啓斗ははっきりと断言できるのである。これは夢なのであると。
(夢は嫌いだ……否、それよりも)
 真っ白な空間を見上げ、啓斗はきゅっと唇を噛む。
(深い眠りの方が、嫌いだ)
 見上げた先に、何も無い。ただの真っ白な世界。……が、それがぐにゃりと曲がった。
(考えるな、思い出すな……!)
 気付いた時には既に遅かった。考えてしまったし、思い出してしまったのだ。
 ひらり、と何かが舞い降りてきた。薄紅色の、花弁。ひらりひらり、と風も無いのに揺れている。ゆっくりと、だが確実に啓斗の所に舞い降りる。静かに、静かにその花弁は啓斗の元に。
(……俺はこんなものを見たい訳じゃない)
 一枚目が、白い空間の中で地に落ちた。それを目でつい追ってしまっていた啓斗は、目を大きく見開く。緑の目が、其れを捉えて離す事は無かった。
(嫌だ……)
 ひらひら……白い世界は、薄紅色にだんだん染められていく。静かに、少しずつ、だがしかし確実に。
(これは夢だ)
 白かった世界、綺麗だった世界、無垢だった世界……だがそれは既に存在する事は無い。今はただ、薄紅の怪しげな色を称えているだけだ。
(これは……夢だ)
 認識しないといけない。そう啓斗は自分に必死に言い聞かせる。だが、必死になればなるほど啓斗をあざ笑うかのように花弁は舞い散る。ひらひらと。
(夢だ……夢だ……!)
 最初は一枚だった花弁が、だんだんと増えていき、ついには豪雪の如く啓斗に降り注いでいた。花弁の雪、薄紅の雪。
(夢だ!)
――枝垂れ桜が……。
(夢)
――捕らえて離さない。
(これは、確実に)
――何処を見ている?何を見ている?
(絶対的な、確信)
――どうして確信など出来る?
(出来る。これは、夢)
――現実かもしれない、だなんて思わないのか?
(夢だ。これは、夢なんだ……)
 だんだんと弱々しくなる語尾。だんだん埋まっていく自らの体。容赦という言葉を知らぬ、声。
――夢と言うならば、目覚めてみよ。そしてここから抜け出してみよ。
 啓斗はそう言われてからふと気付く。体は薄紅の花弁に埋まっていた。薄紅の花弁……桜の花弁……枝垂れ桜の……。
(覚める……!)
 きゅっと唇を噛み締め、啓斗は夢から覚めようと試みる。浅い眠りの中、目覚めようと意識するだけで目は自ずと開かれる筈だった。だが、いつまで経っても体は動かぬ。否、動かせぬ。見れば左足に何かが絡まっていて、それが啓斗を捕らえて離さないのだ。薄紅の海の中を覗き込み、啓斗は目を見開く。左足に絡み付いているのは、あの枝垂れ桜の枝であった。絡まれた枝は脆そうなほど細いのに、妙にずしりとした重みで持って啓斗を縛っていた。
(……これは)
 心の内に広がっていく恐怖。じわりじわりと。
(夢、だ……!)
 啓斗の叫びは声になる事もなく、ただただ薄紅色の海の中に溶けていく……。

 啓斗は目をかっと見開いた。見慣れた風景が目の前にに広がっている事を焦りながらも確認し、やっと安心して溜息を大きくついた。時計の針は、まだ目覚める時間を指し示してはいない。
(やはり、夢……)
 啓斗は縮こまっていた体を動かそうとし、ふと気付く。夢の中で左足にあった重み。その原因がはっきりと分かったのだ。そこにあったのは、弟の頭。弟の体は天地逆になっていた。しかも、啓斗とは全く反対に、健やかに、気持ち良さそうに眠っている。
(……全く……)
 半分呆れ、半分むっとしながら啓斗は再び溜息をついた。よく寝入っている弟の邪魔をしないよう、左足に乗っている頭はそのままの状態を維持する事にする。
(だが……同じ思いはしてもらわないと)
 啓斗は枕を左にずらし、代わりに弟の足を枕にもう一度目を閉じた。明日起きた時にどのような顔をするかを想像し、少しだけ口元に笑みを浮かべながら。

 啓斗はゆっくりと目を開いた。幸い、あれから夢は見なかったようだ。いい夢も、悪い夢も。弟の足枕が幸を奏したのかもしれない。
(おや?)
 そこまで考え、啓斗は気付く。いつもならば自分が起こしてやる弟は既にいなかった。自分の左足にあった頭は無く、寝る前は確かに枕にしてやった弟の足は、いつもの枕に摩り替わっていた。
「珍しい……自分で起きたのか」
 妙に感心しながら、啓斗は身を起こしながら時計を引き寄せる。一体今何時なのであろうか、というただそれだけの考えで。
「……!」
 啓斗は時計を握り締めたまま、言葉を失う。既に時計は正午を過ぎていた。
「学校……」
 ぼんやりとした頭で、啓斗は呟く。本来ならばとっくの昔に学校に行っている時間だ。否、学校で昼食を取る時間だ。
(昼食……)
 そう考えると、妙にお腹が空いた気がするから不思議だ。耳を澄ますと、台所から音が聞こえてくる。どうやら、弟が食事を作っているようであった。朝食か昼食か、どちらかは分からないが。
「手伝うか……」
 学校に行く事はきっぱりと諦め、啓斗は立ち上がろうとする。その瞬間、左足にじん、とした痺れが走った。
(痺れ……そうか……)
 啓斗は小さく眉を顰め、それから苦笑した。何とか痺れを取ろうと足を動かしながら。

<左足の痺れは取れないまま・了>