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<東京怪談ノベル(シングル)>


Regrets
 仕事を終えての帰り道。
 司は、見覚えのある景色を目にし、ふと足を止めた。
 懐かしい、この路地。
 この路地の奥にある家の一つに、司はかつて住んでいた。
 いや、正確には、住んでいたのは司ではない。
 なぜなら、「ここに住んでいた」という司の記憶は、彼が「水城司」として生を受ける前……つまり、前世のものだからである。

 別に、急ぐ用事もない。
 そう考えて、司はふらりと路地の奥へ足を向けた。
 あれから、もう何十年という時が流れている。
 この路地の奥は、一体どうなっているのだろうか?





 路地の奥は、司の目にはまるで時間が止まっていたかのように映った。
 長い年月が流れたというのに、路地の奥の住宅街は、司の記憶とほとんど変わるところがない。
 かすかに、家々の所々にある痛んだ部分や、修繕された部分などが、この一帯にも他と変わらぬ時間が流れていたことを証明しているのみである。
 沈みかけた夕日に照らされ、朱に染まった風景に昔の記憶を呼び起こされながら、いつしか司は「ある場所」へと向かっていた。

 その「ある場所」にも、司の記憶にあるものと寸分違わない家があった。
 司が、前世で住んでいた家である。
 その家が、ほとんど変わらないまま存在し続けていることに、司は微かな感動を覚えた。
 しかし、この家での記憶は、必ずしも楽しいものばかりではなかった。
 いや、むしろ、楽しい記憶の方が少ないくらいである。

 司は、かつてこの家の長男として生を受けた。
 彼は早い内に母親を亡くし、父は別の女性と再婚。
 その女性にも子供が産まれると、両親の寵愛はその弟の方へと移った。
 
 もし、母親が死なずにいれば、何か違っていただろうか。
 おそらく、何も違いはしなかったろう。
 だが、少なくとも、母親に必要とされていたならば、あのようなことはしなかっただろう、と思う。
 家のことを全て弟に押しつけて、行方をくらますなどということは。
 今にして思えば、ずいぶんと薄情なことをしたものだ。
 とはいえ、司の見る限り、この家にはもはや司は必要とされてはいなかったし、司自身も、この家にも、家族にも、愛着を持つことはできずにいた。
(あの時は、ああするしかなかったんだろう)
 他人事のようにそう思いながら、司はその家に背を向けた。

 その時だった。
「兄さん」
 背後から聞こえたその声に、司は驚いて振り返った。

 頑丈な建物とは違い、人間は、何十年もの時を、ほとんど変わらないままに過ごすことはできない。
 けれども、どれだけの年月を経ても、変わり得ないものがある。
 まして、かつて一度は同じ屋根の下で暮らし、兄弟として育った相手の顔を、誰が見間違えたりするだろうか?
 その老人の姿を見て、司は彼が「弟」であることを確信した。
 
「漸く帰って来てくれた」
 嬉しそうにすがりついてくる老人を前に、司ははたと困惑する。
 まさか、自分が確かに兄だと名乗るわけにもいくまい。
 今の司はどう考えてもこの老人より何十歳も年下であるし、仮に事情を説明したところでわかってもらえるとは思えない。
 ならば、やはり人違いだということにするしかないか。
 司がそんなことを考えていると、老人が不意に口を開いた。
「やっぱり僕のせいだったのかい」
 その予期せぬ言葉に、司は反射的に尋ね返す。
「どういうことです」
「兄さんが出ていってしまってから、ずっと考えていたんだ。
 兄さんが出ていってしまったのは、きっと僕のせいなんじゃないだろうか、って」
 それを聞いて、司は愕然とした。

 誰にも必要となどされてはいないはずだった。
 自分がいなくなっても、誰も深く悲しむことも、傷つくこともないと思っていた。

 ところが、実際はどうだ。
 司がかつて弟と呼んだこの老人は、あれから何十年もの間、司が出ていったのは自分のせいなのではないかと後悔し続けていたのだ。
 この老人の誤解と言ってしまえば、それだけのことではある。
 しかし、それもまた間違いなく、司のしたことが招いた結果なのだ。





「ご老人」
 少し考えて、司はゆっくりと口を開いた。
「それは、違うのではありませんか?
 私にははっきりしたことはわかりませんが、おそらく、それは貴方の思い過ごしでしょう。
 きっと、お兄さんにも、何か事情があったのだと思います」
 その言葉に、老人ははっとして顔を上げた。
 人違いだったということに気づいたのか、少し寂しげな表情をしている。
 そして、老人が、再び口を開きかけたとき。

「おじいちゃーん、ちょっと来てー!」
 元気のいい子供の声が、家の奥から聞こえてきた。
「はいはい、今行きますよ」
 その声の主――おそらく、この老人の孫だろう――に、老人はそう答えると、司に向かって一度頭を下げてから、家の中へと戻っていった。





 その帰り道。
 司の足取りは、いつになく重かった。
(はたして、あの時自分がとった行動は、正しかったのか?)
 そんな疑問が、いつまでも頭から離れない。
 もちろん、あの時の自分は、今の自分とは違うことは承知している。
 あの時の自分は、家族や家庭といったものの意味や価値を、明らかに見失っていた。
 それを再確認させてくれたのは、今回生を受けてから巡り会った、育ての親の石和一家である。
 だから、あの時の自分には、やはりああするしかなかったのかも知れない。
 だが――。

 昔のままのはずだった路地の両脇に、昔はなかった街灯が煌々と輝いていた。