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<東京怪談ノベル(シングル)>


幸せの温度

(家までもつと思っていたんですけれど……)
 鞠は空を見上げてため息をついた。空はどんよりと重い。つい先ほどから降りはじめた雨はこれからますます強くなる事を感じさせた。
 迂闊だった。
 傘を持って来なかったのは失敗だった。朝は雲一つ無い良い天気だったのだ。安心して天気予報の降水率をあてにしないで出てきたのが一つ目の敗因。もう一つの敗因は。
(やはり駅で傘を買うべきでしたね)
 ため息が一つ。今更言っても仕方がないのはわかってはいるのだが。ずっしりと重さを増しはじめた上着がやけに冷たく感じられる。このまま外にいれば間違いなく風邪をひくだろう。
(早く帰って体を温めなければいけませんね)
 そう思った矢先の事だった、小さな声が聞こえて来たのは。
 みゃぁう。
 ――おうちどこ? さむいよ
 常人なら仔猫の鳴声にしか聞こえない筈のそれが鞠の脳裏には明確な意志を伴う言葉に変換される。異能であるが、彼女はその能力を疎んじてはいない。あるがままに受け入れるだけだ。
「どこにいるの?」
 視線をさ迷わせながら鞠は問い返す。すぐに応えは返った。
 みぃ。
 ――ここだよ
 ポストの下に蹲る三毛猫。鞠は近付いて抱き上げた。
「迷子になってしまったのですね。お名前は?」
 なぁうと猫が答える。頷いた鞠は少し首を傾げてから新たな質問をする。猫に真剣に話し掛ける少女。傍から見ていればかなりの猫好きか、奇妙な人物のどちらかであろうが、それを彼女が気にしている様子はない。
「おうちはどんな場所でしたか?」
 ――みどりのおやねのおうち。かえりたいよ、おうちにかえりたい。
 ひとしきり訴えると仔猫は鞠の上着の中に顔を突っ込んで来た。寒いのだろうと、鞠は上着を脱ぐと仔猫をそっと包んだ。仔猫は嬉しげに咽喉をぐるぐると鳴らす。
「これで寒くありませんね。どちらの方から来たか判りますか?」
 ――あっち。
 帰って来たのは漠然とした答え。鞠は質問を変える事にする。
「近くには何がありましたか?」
 ――おうちのとなりは木がたくさんあるの。子どもがいっぱいいるよ。むこうがわに大きなえんとつがあるの。
 仔猫の言葉に鞠は首を傾げた。彼女はこの近くでそんな取り合わせを見た事がない。
 どうしたものかと辺りを見回した鞠の目に映ったのは大きなシャム猫。この辺りのボス猫はじっと鞠と彼女の腕の仔猫を見ていた。
「ねぇ、貴方。この子の言う場所わかるかしら?」
 ――さぁね、アタシのシマじゃないよ。その子ならあっちの方角から来た。
 鷹揚に彼女は右の方を向いた。礼を言って鞠はその方角へと歩き出したのだった。


 鞠の予想以上に場所を探す事に手間取った。「あっち」とか「むこう」とかそんな漠然とした情報しか入らなかった為だ。
(困りましたね)
 小さなため息をついた鞠の目の前を通り過ぎたのは一羽の燕。この雨の中でも忙しく飛んでいるのはヒナの為だろう。
「ねえ、そこの燕さん」
 ――なぁに? 娘さん
 声をかけられた事に驚いたように旋回してから燕は鞠の差し伸べた手にとまった。
 鞠が公園についてたずねると、燕は小さく首を傾げてから羽ばたいた。
 ――多分僕達の巣がある所だよ。ついておいで
 頷く鞠にゆっくりと時折旋回しながら燕は道案内をする。目的の場所に着いたのはその後すぐの事だった。
 仔猫が慌てたように身動ぎする。
 ――おうち、おうちあそこ
 宥めるように撫でてながら鞠は燕に礼を言った。燕は得意げに鞠の周りを一周すると巣に向かって飛び去っていった。
「さあ、帰りましょうね」
 ――うん。ありがと
 チャイムを鳴らすと鞠と同じくらいの年齢の少女が出てきた。一瞬不審そうにした少女は鞠が抱く仔猫を見つけて大きく眼を見開いた。
「あの、こちらのお宅の仔猫じゃないかしら?」
「はい! あの、ありがとうございます! どこにいたんですか? ずっと探してたんです」
 鞠が場所を答えながら仔猫を手渡す。甘えた声で擦り寄る仔猫の頭を少女は指で軽く突付く。
「ホントにもうっ、ダメじゃないの心配したでしょ!? 本当にありがとうございます。このコおてんばで、もう見つからないかもって……ありがとうございます」
 深く頭を下げた少女によかったと微かな笑顔を返して鞠は家を辞した。
 外はまだ雨。
 さて早く帰らなくてはと思った鞠ははたと辺りを見回した。
「……ここ、どこでしょう?」
 歩き回っているうちに方向感覚を無くしてしまったようだった。


 もと来た道を辿れば良いだろうと歩き出したのはいいが、方向を見て近道だろうと選んだ道が間違いだったようだ。20分かけてまた同じ場所に戻っていた事に気がついて鞠はため息をついた。
(こんな事なら傘を買えばよかったわ)
 今更傘を買おうにも店に入るのも憚られる濡れ具合だ。
 動きにくいし体が重い。そして何よりも気持ち悪い。
 鞠はぴったりと額に張り付いた髪を後ろに撫でつけた。袖口を絞れば水が出てきそうだ。体に張り付いた服は妙に生暖かいし、動くのを妨げるのでどうにも着居心地が悪い。
「……確かあちらから来た筈だったから」
 一人呟く鞠だったが、その時聞きなれた声が自分を呼んだと思った。
(あの声は……)
 期待に違わずそれが恋人である事は走ってくるその足音でも判る。
「鞠! お前そんなにずぶぬれで何やってんだ! いつまでも帰ってこねーと思ったら……っておい!?」
 もう大丈夫、そう思った鞠は自分の体から力が抜けていくのをどこか他人事のように感じていた。抱きとめた腕の確かさとぬくもりに安堵しながら彼女は目を閉じる。
 ――もう大丈夫、彼が来てくれたのだから


 目が覚めた時鞠は自分がどこにいるのかよく判らなかった。見慣れた天井が見える。髪も体もどこも濡れていないが何故だか酷く体が熱かった。自分の体が少しだけ自分とずれているような感じがする。それにどこかを漂っているような不安定な心地。
(ああ、熱を出しているのね……)
 鞠は漸く結論を見つけた。熱のせいか考えがまとまりにくい。
「気がついたか?」
 顔を覗き込んだのは恋人。彼が連れて帰ってくれたんだと鞠は納得した。小さく名前を呼ぶと少し不機嫌そうな声が返る。
「どうしたんです?」
「どうしたじゃねぇ! ……ったく、あんまり心配させんじゃねーよ」
 声と共に額に小さく拳骨が落ちてきた。どこかで同じような言葉を聞いた気がする。
 ――ホントにもうっ、ダメじゃないの心配したでしょ!?
 ああ、そうかと鞠は思った。あの飼主の少女の言葉だ。
「待っている人の元に帰れるのは……」
 恋人は続きを促がすよう声に鞠は笑顔を浮かべて言葉を続けた。
「とても幸せですね」
 確かな幸せの形。それは目に見えなくても、手触りとぬくもりとを伴って今ここにある。
 実感を込めていった言葉に恋人は言葉を失っていた。何を突然といったやや不可解そうな表情。
 それには答えず、鞠は布団から手を出して額の上の拳骨に触れた。彼はそっと手を握り返してから、鞠の手を布団の中に戻そうとする。嫌だと首を振った鞠にため息混じりに少し笑って彼は布団の上に鞠の手を置く。握ったままの掌は少しひんやりしていて心地良かった。
「少し寝ろ。……ずっとここにいるから」
 頷いて目を閉じる。少しだけ力を込めたら、すぐに握り返してくれた。
 とても幸せな気分だった。そう、睡魔が鞠の意識を飲み込んでしまってもずっと――。
 

fin.