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戻れない道
身体を苛む痛み。耐えきれない現実。
認めたくない思いが、心を何度壊した事か。
もう今は数えることすらしなくなった。そんなことには慣れてしまったから。
大丈夫。まだ大丈夫。
わたしの名は、みあお。海原みあお。
うん、まだ憶えてる。
それだけを心の片隅で確認して、寝ていた体をゆっくりと起こした。
ここは白亜の檻。周りを白い壁に囲まれ、唯一の出入り口には冷たく重い扉。自分からは決して開けない。
無慈悲なまでに殺風景なその部屋で、みあおは大きく腕を伸ばした。
痛みは…ないよね。よし、大丈夫。
さっきまで聞こえていた『音』がまだ耳の奥で鳴ってる気がするけど、なんとか自分を抑えられたかな。そう心の中で安堵し、少しだけホッと息をつく。
恐怖と不安がいまだこびりつく胸の内。それでもみあおは、『音』に影響されずに己が保てたことに喜びを覚えていた。
そうして。
束の間、小さな嬉しさを噛みしめ、決意を新たにする。
次なる段階。
大丈夫、きっとうまくいくわ。
泣いてばかりいた。逃げてばかりいた。
与えられた現実に目を背け、過去を振り返ってばかりいた。
でも、これは嘘じゃない。
――なんとか…受け入れるの……。
みあおは静かに目を閉じた。心を落ち着け、集中に入る。
『声』が――聞こえる。何か言ってる。だが、みあおはその『声』に耳を傾けることをしなかった。あれに引きずられれば、また同じ事の繰り返しだと本能で察していたから。
みあおは…みあおの意志で……。
ゆっくりと、ゆっくりと、意識を深く沈めていく。不安に震える心を制し、自らの意志であれを呼び覚ます。
だいじょうぶ…怖くない…怖くないんだから。
やがて変化が訪れる。
青い燐光。仄かな煌めきがみあおをゆっくりと包んでいく。
こんな光を放つ人間なんかいない。ふと脳裏を過ぎった思考を無理矢理抑え、集中を続けた。
白く殺風景な空間に遮蔽物はない。だからみあお自身が光ってしまえば、そこに影は一切なくなってしまう。
そして光は、部屋を全て覆う程に強く膨れ上がっていった―――。
◇
――…輪郭が泡のように崩れていく。
青い光が肌より浮き上がり、光はやがて幾粒もの固まりに。その粒が徐々に形を持ち始めた時、触れる筈のないものが物質へと変容した。
すらりと伸ばした腕。その瞬間、ふわりと光が宙を舞った。
いや、光ではない。青白い燐光を纏った――一枚の羽根。
ゆるやかに…ゆるやかに…。
みあおの周囲を羽根が舞う。
いたわるように。包みこむように。
流れる光に促されるように、髪の毛が静かにうねる。それまで肩までの長さだったものが、今では腰に達するぐらいに伸び、その先端は柔らかな羽毛を思わせる。
徐々に光の囲いは頭から肩、二の腕から背中を抜け、露わになった腰から下へと移動する。
すらりと伸びた足。かつてのみあおにはない、成熟した大人のもの。
だが、それに感動する術はない。
泡立つ光は、例外なくみあおを異形へと導く。人のものではない、硬質の肌触り。肉の柔らかさも、滑らかさもない。
膝より上を覆うのは完全な羽毛。
そして、その下には――。
やがて。
光は沈黙し。
白い部屋は、再び殺風景さを取り戻す。そこに立つのは、みあおただ一人。
物も言わず。身動ぎもせず。
ただ、そこに佇む青い影が一つ。
すでにみあおは、みあおではなかった。光の消えたその場所に、一人佇むその姿は――――『青い鳥』……。
◇
――痛みが全身を襲う。
耐え難い、まるで体をバラバラにするような痛みの前に、みあおは叫び出しそうになるのを必死で堪えていた。
何度この苦痛を味わえばいいのか。考えても答えは出ない――出る筈がない。
それでもみあおはやらなくちゃいけない。これ以上、他人の誰かに自分を弄られたくないから。もう泣き続けるのはイヤだから。
だから、今はこの痛みに耐えなきゃ……一歩でも前に進まなきゃあ。
それは絶望にも似た希望。
壊れ続けることに慣れた心が導いた最後の自我。どうしようもないほどの葛藤の末、それでも自分はまだ生きているんだという現実。
それを理解したとき、みあおは自分自身をようやく思い出せた。
そうして決意する。
このまま流されるんじゃなく、みあおの足で歩いていこうと。
全身が作り替えられていく痛みの中、肌に感じる柔らかさはやがて心地よさになる。……慣れるものじゃないけど。
そうしてどれだけの時間が流れたのか。
実際はほんの僅かだったんだろうけど。今のみあおにはひどく長く感じられた。痛みは治まり、手足に感じる違和感も――以前程じゃない。
目は閉じたまま。呼吸を数度繰り返す。
意識はハッキリしていた。泣き叫んでいた今までとは違う。
大丈夫、みあおはここにいる。どんなになってもみあおはみあおよ。
やがて。
意を決したみあおは、ゆっくりとそのまぶたを開いていく。
大丈夫…大丈夫……。
心の裡で何度も繰り返す。
大丈夫…怖くないよね…。
そして、見開いたその瞳に映る己の姿は――――。
◇
「これが……」
――…みあお?
覚悟していたほどの衝撃はなかった。これまで散々見てきた姿だったから。何故か、不思議と落ち着いた感すらある。
自分の意志で、完全に制御した状態で変化した。怖れも、迷いも、不安にも当てはまらない心中。
「なんだ…大したこと、なかったじゃ…ない……」
呟かれた声はどこか遠くで聞こえ、まるで自分が喋ってるんじゃないみたい。変なの、みあおは全然平気なのに。
うん、平気、大丈夫。
何度その言葉を繰り返したのか。
その時、不意に視界が歪んだ。
そして、頬を伝う冷たい水。止まることを知らず、頬を、顎を濡らしていく。
「なんで……?」
どうして泣くの? みあお、自分の意志でちゃんと変化したのよ。痛みにも耐えたし、もうなにも怖いものなんてないじゃない。
そんな自問自答が脳裏を過ぎる。
だけど、涙は止まらない。次々と溢れ続け、もはや何も見えなくなる。
自分の意志でその変化を制御出来た、その時。
本当の意味で自分は人でなくなったのだと、みあおは知った。
後戻りは、もう出来ない――――。
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