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調査コードネーム:「二人静(ふたりしずか)」
■オープニング■
「で?」
桜の季節も終わり、若葉の薫りが風とともに胸の奥を清涼にしてくれる初夏の午後。
そのさわやかな季節と裏腹に、胡散臭げな声が草間興信所に響いた。
言うまでも無い。一応この興信所の所長である草間武彦の声だ。
春霞より薄い、けれど季節の風流さなどまったくないタバコの煙が、狭い所内に広がり掻き消えた。
眉間にしわを寄せて草間が凝視しているのは、応接テーブルの上に並べられた古臭い新聞と週刊誌の記事だ。
日付は二年前の4月。
《涼乃宮流宗主候補が謎の突然死!》
鶴岡八幡宮にて行われる涼乃宮流の夜桜薪能にて上演される「二人静」により、涼乃宮流宗主として襲名が予定されていた涼乃宮 蓮(18)が面と装束をつけての"申し合わせ"(リハーサル)後、急性アルコール中毒で倒れ病院に運ばれたが、まもなく死亡した。
部屋から大量のアルコール類が発見された為、襲名のプレッシャーに耐えかね無茶な飲酒をしたのではないかと言われている。しかし関係者によると「蓮君が襲名の重圧に負けるとは思えない。本当に舞が好きなよい若者だったのに」との声が強い。
また本人も義弟(涼乃宮 藤也(18))との友舞による襲名披露を楽しみにしていたという。
涼乃宮流では本妻である律子さんの子である藤也君ではなく、芸妓との間にできた庶出の蓮君を「宗主」とする事に疑念を持つ一派もあり、陰湿な後継者闘争があったのではないかとも疑念されている。
いずれにしても後継者不足に悩む能の世界において、期待の若手を無くしたとの声は耐えない。
「ねぇ?」
微苦笑をうかべて、陽だまりのようにほわんとした顔立ちの男──警察庁の特殊犯罪調査官である榊千尋が首をかしげた。とても20代後半に片足突っ込んでいるとは思えない、少年くさい仕草だ。
もっともその腹底まで少年のように純情だとは限らない。
まるで折り紙をもてあそびかのように、古ぼけた雑誌の記事を指先でつまんでは草間の鼻先でひらめかせてみせる。
「それで? こんな古ぼけた二年前の事件を今更調査しろとでも?」
週刊誌や新聞に取り上げられているぐらいだ。とっくに多方面から取材攻勢に会い、調べ尽くされている事だろう。
「んー。今年ね、繰り上がりで涼乃宮 藤也が「二人静」で宗主襲名するんですよ。二年前と同じく鶴岡八幡宮でね。まあトラブル続きで一月延期されたので夜桜能じゃありませんが」
人差し指をあごにあてて、言葉にあわせるかのように、何度か弾く。
「まあ、それは良いんですが。面と装束をつけての"申し合わせ"──ああ、リハーサルですね。それをすると、必ず相手役の「菜摘み女」が舞台上で痙攣して倒れるんだそうです。能面にも装束にも特に何かが細工された形跡は、少なくとも今回はありませんでした」
「恨みか」
タバコの煙を吐き捨てる。年に百件は聞くようなありふれた事件の構図だ。
「恨みなら、相手役じゃなくて主役の静御前──藤也くんを狙うと思いますがね」
鼻の奥で一度だけくすん、と鳴らして榊は目を細める。
「ふん、しかし死人はまだ出てないんだろう? わざわざ警察庁が出張る事件でもないと思うがな……まあ、ウチは楽して金が取れるならどうでもいいが」
「直接の依頼主は涼乃宮家の現宗主の菊人さんです。ああ。能楽協会からも出るからウチが依頼するよりは、多少報酬に色は付くと思います。ともかく律子ママがヒステリックでね、警察側をつっぱねちゃうんです。事件じゃないからってね」
「律子ママ」に奇妙なイントネーションをつけながら、榊は穏やかに言う。
本妻にしてみれば、ようやく正当な息子に正当な立場が転がり込んできたのに、亡霊や警察に邪魔されて、風評が落ちてはかなわないというところなのだろう。
今も昔も変わらないな、と眉間にしわを寄せると、榊がどこか遠い目をして窓の外を見た。
「……それに「人はすでに死んで」います」
「え?」
「まあ、亡霊と共に舞台に立ってみればわかるかもしれませんね」
刹那の表情をかき消すかのように、悪戯めいた笑みで肩をすくめた。
しかし、見落とす筈もなかった。
窓の外を見た時に、榊の唇がかすかに動き声にならない言葉をつぶやいたのを。
──ジスルフィラム、亡霊と共に舞え。と。
「じゃあ、はい」
にこにこと、相変わらず頭の線が一本とはいわずすべて飛んでいるのではないかと思える、脳天気な笑みで榊は封筒をシュライン・エマに差し出した。
「じゃあ、はいって……」
こめかみを押さえつつ、ため息をつく。
中身は鎌倉行きのチケットだろうと、封筒の薄さから用意に推測できる。
この脳天気警視の頭の中では、すでにシュラインは調査メンバーに入っている様だ。
確かに行かないと言った訳でも、行けない理由もなかったが。
「まあ、いいじゃないのか? そんなに面倒な事件でもなさそうだしな」
処理仕切れない書類が雪崩のように崩れおち、机の面積の99.9%が使用不能の所長席で、積み上げられた書類の上に無理やり足をあげ、手を頭の後ろに組んだ格好のまま草間が適当なことをいう。
確かに、東京タワーが爆破されるとか、サンシャインが崩れるとか、怪しい宗教団体が暴れまくるとか、吸血鬼に血を吸われまくっているとかいう、常識はずれな事件に比べれば、まだしも「面倒な事件でもない」のだろうが。
草間を振り返ると、のんきに煙草の煙でわっかなんぞをこさえている。
相変わらず出不精の所長は、自分で現地に赴く気などこれっぽっちもないようだ。
シュラインは深い蒼の瞳に、あきらめの色を浮かべて肩をすくめると、榊から封筒を受け取る。
「一つだけ聞きたいわ」
「何でしょう?」
腕にかけていたスーツを着ながら、榊は答えた。
「既に死……それは蓮くんね?」
何気なく言い流していた榊の言葉を、脳内で正確に再生しながら、一番引っかかった場所を口にする。
榊は少しだけ困ったような顔をして目をそらせた。
「まあ、なんというか。能楽協会からね、確実じゃない事をべらべら言うのはやめてくれと言われてるんです。ああいうところは世間体を気にしますからね。特に警察官である私が「涼乃宮蓮が殺害された」なんてストレートにいっちゃうと、真実であろうとなかろうと、面倒な事になっちゃう訳で」
ひょい、と道化めいたしぐさで肩をすくめて一瞬だけシュラインの瞳をまっすぐに見据えてきた。
顔は笑っているが、瞳はわらっていない。
(この人は)
――証拠がないが、殺人と確信している。
そういう目だった。
(思ったより面倒な事になりそうだわ)
鎌倉で初夏をゆっくり堪能とはいかないようだ。
榊を見送り、頭を降ると、気分を入れ替える。
澪にコーヒーを入れてもらい、所内唯一のパソコン(すでに化石と言ってもいいほどの年代物なのだが)の前に座って、キーボードの上に指を走らせる。
(ジスルフィラム、か)
声なくつぶやいた榊の最後の言葉を、唇の形だけでなぞる。
「なんだ? 何をしらべているんだ?」
おまけに入れてもらったコーヒーを片手に草間がシュラインの肩越しに画面をのぞき込む。
「ジスルフィラム? なんだそれ」
当然の反応に、シュラインはコーヒーで唇をしめらせたあと、ディスプレイに現れた説明を要約すべく口をひらいた。
「慢性アルコール中毒者に対する嫌酒薬ね。この薬を飲んで、アルコールが多く含んだ医薬品や食品、化粧品を使うと急性アルコール中毒と同じ症状になるそうよ。"律子ママ"あたりが警察の介入を嫌がったのもこの辺りかも」
急性アルコール中毒と聞けば、誰も毒殺とは思わないだろう。
しかも未成年の急性アルコール中毒。
そう聞けば、しきたりを重んじ、世間体を気にする能楽界では、仮に蓮が助かったとしても「面汚し」の汚名はさけられまい。
シュラインの肩に置いた手に力を込めながら、草間は眉間にしわを寄せた。
「生臭いな」
単に霊的な怪奇事件とは思えない。
どこかに人間の作為を感じる。
「ともかく。これ医師の処方箋が必要なの。まずはそこから調べられそうな気がするわ」
霊感などない。
あるのは語学の知識とあらゆる「音」を聞き出し、つむぎだす己の体だけ。
だが。霊以外の部分なら、自分にも何とか探り出せるかもしれない。
伊達に草間興信所最古参のアルバイトではないのだ。
それにしても。
(これって、アルバイトじゃなくてもう正社員よねぇ?)
ここを訪れるスタッフの何人が、シュラインの正式な地位を理解しているのか、そのうち聞きただすべきだろう。
いくら「所長ととある仲」にあるといっても、それはそれ、これはこれである。
不況の世の中、待遇に見合った給料をもらわなければ。
そう決意しつつ、シュラインは頭一つ高い位置から、ディスプレイをのぞき込む、出不精の探偵をちらりと見上げた。
東京から横須賀線を利用すれば、鎌倉はすぐだ。
源平の争いの後に幕府として栄え、数々の寺を抱く古都だが、駅前はやはり開発によりビルや店が乱立している。
それでも、一歩通りを離れると、昔ならではの苔むした情景を見つける事ができる。
東口を出て段葛沿いに歩くと、観光名所のひとつである鶴岡八幡宮へとたどり着ける。
その道を、やや風変わりな男女があるいていた。
一人は燃える炎のように鮮やかな深紅の髪もつサングラスの男。
男の顔には精巧な龍の刺青が施されており、ゆく人の視線を引きつけている。
それはいわゆるヤクザのように見えるから、という訳ではなく、むしろ、あまりにも違和感無く男の顔に居座り、引き立て、周囲を威嚇しているので、視線を引きつけずにはいられないのだ。
残る一人の女は、髪の色こそ日本人によくある漆黒で男よりは目立たない風貌ではあったが、瞳は明らかに異国の、忘れることを許さない強い意志と静かな知性をたたえる蒼の瞳をもっていた。
「5月といっても結構熱いわね」
手にした書類封筒をうちわ変わりにして、ぱたぱたと顔を扇ぎながらシュライン・エマがぼやく。
「紫外線対策してないと、老けておばさんになっちまうぐらいにな」
くすくすと笑いながら、黒月焔がからかうようにいい、サングラスをずらす。
「何ですって?」
鋭い口調で切り返すが、その目は、相手のからかいに全く動じてはいない。
「まあ、ともかく。病院側からの薬の入手の情報を得る際には、宗主さんと警察に協力ねがいましょ」
てきぱきと、現地に着いてからのお互いの仕事の切り分けを始める。
いつもながら小気味よい手際だ、と関心しながら、焔はシュラインに向かって肩をすくめてみせた。
「二人靜の方は……らしいといえばらしいな。女の亡霊と共にあたかも寄り添う影のように舞わなければならない能の難曲だ」
指先でサングラスをずらして、遠くにある鶴岡八幡宮の屋根をみると、ポケットからタバコを取り出しながら続けた。
「要するに死んだ蓮が義弟と舞いたいが為に邪魔してるんだろう……兄弟愛というより一線を越えたものを感じるが。まぁ、それは人それぞれだし」
一線とは何なのか、小一時間問いつめたい気分になったが、聞いたとしても、どうせ顔に彫り込まれた龍と一緒にニヤニヤわらいながら、「んん? 何だ? シュラインの姐さんは何を想像したんだ? んん?」などと、逆に問いつめられて、しまいには(最近興信所に出入りしてる高校生から何を学んだのか)ホモネタがスキな女を表す「腐女子」などとあらぬあだ名を頂く羽目になるだけだ。
いずれにしても、彼・黒月焔はあらゆる快楽に対して抵抗がない。
それを咎める気はないが。シュラインまで同類だと吹聴されてはかなわない。
「まあ、立場に関わらず蓮くん藤也くんの関係は気になるわね。仲は良好……芸では深い部分で繋がりがあったんじゃない?」
たとえ親……律子が蓮を邪魔だと想っていたとしても、子が親の思惑どおりに動くとは限らない。
仲が良かったと周囲がいうならなおのこと、周囲が認めるほど仲が良いのであれば、なおさら、母親の律子は蓮を憎んだだろう。
その時、藤也がどう感じていたか。
「ひょっとしたら、この騒ぎを起こしているのは藤也くん本人では? 食事等に薬を混ぜておけば化粧品などから痙攣起こせるし」
つらつらと、己の推理を連ねる。
と、唐突に脇から声をかけられた。
「それはありえんな」
驚きのままに、シュラインと黒月が顔を上げると、鶴岡八幡宮に向かう最初の石段に二人の男が……能楽師である沙倉唯為と十桐朔羅が並んで立っていた。
亀岡八幡宮の石段でタクシーをおりる。
と、聞き慣れた声が聞こえてきた。
ふと、顔をあげると、黒髪碧眼の女性が書類の入った封筒らしきものを抱えたまま、こちらへ向かってきていた。
その女性から一歩遅れるようにしてタバコを吹かしている、赤毛の男性にもまた、見覚えがあった。
女性は、何か思案するようすで前もみず、つらつらと言葉を重ねていた。
「ひょっとしたら、この騒ぎを起こしているのは藤也くん本人では? 食事等に薬を混ぜておけば化粧品などから痙攣起こせるし」
「それはありえんな」
朔羅が止める間もなく、唯為が挨拶もなしに唐突に声をかけた。
「久しぶりだな。焔、あの「龍」の事件以来だったか?」
薄い唇の端を二ミリだけ持ち上げて唯為が笑う。と、焔もまた同じ種類の笑みを浮かべた。
まるで双方の腹のウチを探るかのように、敵か味方か見定めるように。
「あら? 二人ともお出ましなのね?」
講演数こそすくないものの、知る人ぞ知る能楽師の二人をみて、シュラインは苦笑した。
そうだ。「能」が関係するのなら、プロが出てきても当然ではないか。
「能楽教会にも多少顔がきくんでな」
面倒くさそうに言う唯為の不作法さを、取り繕うように朔羅が着物の裾を蹴りさばいて、丁寧にシュラインに挨拶をした。
「……久しいな」
「本当に。それよりありえないってどういう事?」
ともすれば雑談に流されそうになる雰囲気を押しとどめ、シュラインがよく通る声で唯為に聞き返した。
「能は化粧はせんよ。直面(ひためん)ならする事もあるだろうが……」
「あ、そうか……面を着けるから化粧はしない、か。だとしたら飲み物や食べ物かしら?」
「それは……どうかな」
朔羅が首を傾げる。
「「翁(おきな)」の要に、神楽の性質を持つ能では、確かにシテ……主役は精進潔斎として、家族の者と火も食事も別にする。しかし、事件の起きてる能は三番物。俗に「かずらもの」と呼ばれる観賞用の曲。食事もみんなと同じ物を、特に舞台前は多くの方が出入りするから、皿料理ではなく鍋料理……カレーとかになるだろう。別に薬を盛るのはむずかしい」
「能にカレー……以外だわ」
あまりにもかけ離れたイメージに、シュラインがいうと、唯為が頭の後ろで両手を組みながら、黒いスラックスに包まれた長い足を石段にかけた。
「ただ、あるとすれば「能面」だな」
ふん、と鼻をならす。
「二人靜なら、面は「小面(こおもて)」だろう。あれは面の唇と演者の唇が同じになる。謡をすれば、唇と舌が面に触れざるを得ない」
唯為の言葉に、シュラインが関心したようにうなずく。
「そう。だとすればジスルフィラムの粉末か溶液を面に塗って置けば良い訳ね。確かに、上演中やリハーサルの時なら、演技に集中して味どころではない筈ね……」
つぶやいて、唯為の後を追うように、石段を登る。
両脇に茂る雑木林が、風にざわ、と揺れた。
「とはいえ、二年前。能はとっくに手入れされて木箱にしまわれている筈」
当たり前の事のように、朔羅が断定する。
「ふん、だから榊はでばって来なかったって訳か。裁判で勝ち目がもてない事件は事件じゃないという事なんだろうな。ふん、あいつらしい」
証拠がないから事件ではない。
しかし人は殺されている。と断言している。
(読めてきたな)
内心で唯為はつぶやく、おそらく焔も同じ事に気づいたのだろう。
警察が手を下せないので、そちらで「事件」に出来るような証拠を集めろ。というのならわかる。
しかし、それなら能楽師である朔羅や唯為に話を振る訳がない。表向きとはいえ同じ世界にいるのだ、仲間をかばう可能性がないでもない。
であるならば、だ。
(因果応報、か)
やれやれ、と空をみる。どうやら利用されたらしい。
同じ世界の身内であれば、内々に処理する事もできる。ましてや、唯為と朔羅は裏では「妖」を始末する一族なのだ。影から影にすべてを眠らせる事は難しくない。
「それにしても、能面の内側に唇が触れるって事はあれだな。間接キスってヤツだ」
石段を上がりながら、重苦しくなった空気を払おうとでもいうのか、焔が奇妙な笑いを浮かべて唯為と朔羅を振り返った。
「阿呆」
「なにを、戯けた事を」
両者異口同音に否定する、と、引っかかったと言わんばかりに焔が声を上げて笑い、告げた。
「別にお前さん方二人が間接キスしたなんて、一言も俺はいっちゃいないがな」
両者が二の句を告げずに呆れていると、シュラインがこめかみを押さえながら、しょうがない男どもを一別した。
その瞳は、これ以上無いまでに真剣に、そして沈痛にある感情を浮かべていた。
――「このメンバーで大丈夫なのかしら」という不安を。
つい、と伸ばされた腕は細くしなやかで、まるで春を迎えたばかりの若木のよう。
歪みなく伸びやかな立ち姿は、今まさに飛び立とうとする若鷹の潔さ。
音なく裁かれる足は、ゆるやかな大河の流れの優雅さで。
二十歳という若さを端々に表しながら、けれど、未熟さは微塵も感じられない。
足下には、舞人と同じ装束と面が置かれている。
もう一人の靜の、見立てだ。
「綺麗ね」
感嘆を隠さずにシュラインがつぶやくのを耳にして、唯為は微苦笑し、目の前で舞う藤也から目をそらした。
確かに、非の打ち所がない。
経験のなさ、まだ体が作りあがっていない事、それらを差し引いても十分「名」を取るだけの技量はある。
だが。
(それだけ、だ)
強いて言えば、藤也の舞は「それだけ」だ。
技のみ。
心と体がまったくついて行ってない。舞だけを、その技術だけをみれば美しくもあろうが。
舞台として「魅せる」力に決定的に欠けていた。
そう、まるで心と体にあるすべての力をどこか「よそ」へと預け、空っぽの人形のような体が、定められた型にしがたい操られている。そういう舞だ。
(なるほど、な。菊人が藤也を選ばなかった理由は、二年前の件と涼乃宮流継承問題の裏は「そこ」かもしれんな)
能の世界は過酷だ。
「舞」に命をかけてもかまわないといった、能楽師は何人もいるだろう。
最高の「舞」の血を残すために同門、あるいは同じ花柳界の人間しか一族に入れない。という徹底ぶりを見せる家すらある。
それもこれも、古くから受け継がれる「舞」の形と魂を残す為だけに……。
息子とはいえ「技」のみの藤也より、祇園の芸妓、京舞を幼いころから見て、肌に感じて、吸収し多感に舞う「蓮」を選んだのであるならば、他家が口をさしはさむべきことではない。「能」という財産を残すという観点からみれば致し方ない事でもある。
何より。
藤也が望んで「蓮」を宗主に進言したというのならば、なおのこと。だ。
(だから余計に、許せなかったのか?)
あえて名前を出さずに、すべての起点となった女を思う。
煮詰まった珈琲を飲んだあとのような、苦さを旨の奥に感じながら、唯為は藤也の、そして藤也と蓮の二人を見つづけてきた家政婦との対話を思い出していた。
「わぁ! 沙倉さんですね! この間の名古屋城での能みましたよ! あの、土蜘蛛の夜桜能っ」
感動を隠しもせず、顔をほんのりと紅にそめながら藤也が言う。
まるっきり、流行のアイドルに会った少女のような反応だ。
大きく、顔全体を幼く見せている瞳、シュラインではなく一心に唯為にそそがれている。
それもそうでしょうとも、とシュラインは苦笑しながら唯為と藤也の会話に肩をすくめた。
唯為は藤也の反応に対した感銘をうけていないのか、当たり障り無くその言葉を流していく。
能の先輩であり、着目されている若手の能楽師と、これから能の本当の世界に身をゆだねようとしている青年。
二人の邂逅はほほえましくあったが、それだけに時間をとられる訳にはいかない。
「ちょっと、良いかしら?」
話の切れ目を見つけられず、やむを得ず割り込むようにシュラインは話を切り出す。
「少し、聞きたい事があるの」
「……二人靜の……蓮の事ですか?」
途端に顔が曇り、警戒を露わにした表情で藤也は二人を見た。
仮設能舞台の脇にある、大きな樫の木が、強い風にざわと枝を揺らめかせた。
その乱れた音は、まるで藤也の心の動揺を表しているようで、シュラインは何とはなしに居心地がわるかった。
「僕は……くやしい」
何も話す気はないのか、と想わせるほど長い沈黙のあとで、藤也はぽつりとつぶやいた。
「くやしい?」
思わずシュラインは反復した。
かなしい、でも、仕方ない、でも怖いでもなく……悔しい。
「それは、母さんの気持ちもわかる。し、父さんが蓮を選んだ理由もわかる」
唇をときおり噛みしめながら、藤也は言う。
自分が胎内にいて、母が生みの苦しみに耐えている時、父はどこにいた?
京都の祇園で、母ではない女と恋におち、そして「蓮」という存在をつくった。
さらに、自分の息子ではなく、蓮を後継に選んだ。
母の、律子のくやしさと憎しみは理解できないでもない。
だが。
「蓮は、本当に、悔しいけど。ううん、悔しいって言葉を言えない位に舞が上手かった」
悔しい、という言葉とは裏腹に、あこがれに似た視線のまま藤也は空をみながら言った。
だから、父が蓮を選ぶのは当然だし、自分もそれを望んだのだと視線が語っていた。
能を愛する者にとっては、自信の立場より、何より「能」という文化が先に、さらに高く、世界に、歴史に残る事がなにより愛おしい。
舞う者として、父の気持ちも、自分の気持ちも、それは同じ――だけど、「舞わない」母にはこの気持ちを理解してもらえない。悔しさ。
「最初は、ね。蓮に対して母さんもそこまで「酷く」は無かった。でも……この鎌倉に来てから、何かに乗り移られた見たいに変わってしまった」
「変わった? それ以前に鎌倉に移って来たって?」
「東京から、だろう」
シュラインの疑問に、唯為が事もなげに答える。
学業および、講演の打ち合わせなどの都合で、二人が中学を卒業するまでは、涼乃宮家から菊人の一家だけ離れて東京にいたのだ、との藤也の補足に、なるほど、と想う。
「鎌倉ねぇ。この近所?」
「いいえ、涼乃宮の本家は由比ヶ浜の近くなんです」
「ふぅん」
由比ヶ浜、とメモに書き込んだ瞬間、何かが心にひっかかった。
何か、とても大事な事を忘れている気がする。
「こっちに来てから、なんか、母さん変で……一時期、ちょっとお酒に逃げてた頃もあったみたいです。で、それがやんだかと想うと、蓮を酷く厭うようになって」
(キッチンドリンカーか)
シュラインはため息をついた。
榊も人がわるい。
ここまでわかっていて、証拠がないから殺人じゃないです。なんて、警察の怠慢にもほどがある。
たとえ事件まで数年のブランクがあるとしても、カルテぐらいはまだ残っているだろう。
それとも、解剖もされなかったのだろうか? おそらくそうに違いない。
解剖か、血液分析してればすぐにでも殺人だとわかっただろうに。
それをしなかったから、今の今になって、古い膿のように禍根が渦巻いてくる。
(まったく、お役所仕事なんだから)
不満を心中でつぶやいていると、ふと、藤也と目があった。
「僕は、蓮が後継になれなかったのが、悔しい」
一片の嘘も許さない瞳で、藤也はシュラインと唯為を見た。
「本当にあれは、同じ「人」とは思えない位、綺麗だった。二人靜の申し合わせの時ほど、蓮が綺麗に舞ってるのをみた事がなかった。おかしな話ね、僕は申し合わせが終わって馬鹿な事いっちゃったんです」
白いシャツにつつまれた肩を、ひょい、とすくめて藤也は少女のように笑った。
「どこにも、行くなって」
ざわ、とまた樫の木が揺れた。
「もし、母が蓮を許せないなら、それはそれでかまわない。憎しみから蓮からすべてを奪おうとするのなら、僕は奪われた全てをあの人の息子として、そして蓮の舞を愛する者として蓮に与えようって……ずっと想ってたんです」
馬鹿な話でしょ? と表情を形だけ微笑みに作り、瞳を伏せた。
(だから、悔しい、か)
唯為は憐憫とも、いらだちとも付かない何かを心中に抱えながらそっと、唇だけを動かした。
崇拝にも似た、舞手への愛しさ。
自分が舞えない分だけ、高く、遠く、その極みまで上り詰めろと祈る気持ち。
それは飛べない人間が、空高く飛ぶ鷹に想いはせるのに似ている。
そっと、シュラインが唯為の脇をペンでつついた。
ふと視線を落とすと、蒼い瞳が困惑のまま唯為を見返してきた。
言いたい事はわかる。
この子は、知っている。と。そして違う、と。
藤也は二年前母親が、蓮から全てを奪ったと確信している。しかし、今回の事件の犯人ではありえない。と。
何かが心にひっかかっている。
唯為をつついたペンを、再びメモに戻してシュラインは白い紙面を見る。
能、二人靜、由比ヶ浜、くやしい、奪われた全てを与える。
書き連ねられた単語は、一向に言葉にならない。
(でも、ともかくは解決が先よねぇ)
精神的な解決は勿論、この怪現象も解決しなければ、話にならない。場合によっては怪現象の解決が「精神的な解決」に結びつくかもしれない。
「……一度菜摘み女の衣装を舞台に置き、相手がいるつもりでリハやってみてはどう?」
亡霊が本当にいるのなら……二人の共演叶えてみたいってのは欲張りかしら?
たとえ欲張りな願いだとしても、かなえずには居られない。また藤也も蓮もそれを望んでいるように感じた。
「それで、すべてが解決するなら」
唐突なシュラインの提案に、すこし目を見開いたあと、おどおどと微笑みながら藤也が言った。
「でも、沙倉さんに見られるのは、怖いかな」
上目使いに唯為をみて、藤也が言ったのに、ついついシュラインは吹き出してしまった。
準備してきますね。と走り去る藤也の背中を見守っていると、ぼそり、と彼らしくない不明瞭な声で唯為がつぶやいた。
「俺はそんなに容赦ない男に見えるのか……」
知己でなければ見抜けないほどの、かすかな不満を声に含ませて言う彼に隠すことなく笑いを返すと、一言でシュラインは切り捨てた。
「かなりね」と。
舞台はちょっとした騒ぎに満ちていた。
結局、シュラインの提案により、装束を身代わりに置いて舞ったが。何一つ変化はなかった。
装束では、血の通わない人間ではダメという事なのだろう。
「暑い」
不満を一言に集約して、焔が言う。
胴着とよばれる羽二重の綿入れの上に、摺箔と呼ばれる絹に銀糸折りの厚手の単衣。下は腰巻と呼ばれる錦の袴、最後にはひらと、袖長く舞う長絹。
いくらまだ夏の出始めとはいえ、これだけ着れば、暑いし、重い。
「大丈夫なの?」
着慣れない和服だからか、どこかいつもよりぎこちない動きをする焔にいう。
まるでゼンマイ仕掛けの玩具のようだ。
「む。まあ、なせばなる」
「強がりにしか、聞こえぬ……」
普段は言葉少ない朔羅も、焔の素人じみた動きについついツッコミを入れている。
「その通りさ。やってみなければわかるまい」
焔と同じく、周囲をあわてふためかせ、右往左往させてこの事態を心から楽しんでいる唯為が、喉で押さえた笑いを漏らしながら言う。
能の「の」の字はもちろん、日本舞踊さえ経験のない男が、申し合わせとはいえ舞台に立つのだ。
騒ぎに鳴らない方がおかしい。
ある意味、幽霊騒ぎよりもよほど「見物」だ。
笛と鼓の音が、会わせられ、ゆっくりと音楽が始まる。
先ほどの騒がしさとは打って変わって静穏な空気が、仮設の能楽堂に流れ出す。
「さて、どこまで上手く「引っ張れ」るか」
舞台の正面、きざはしの前から少し離れた場所。もっとも良いポジションに立ちながら、唯為は好奇心に満ちた目で舞台を見ていた。
「どういう、つもりだ」
そっと、音もなく寄り添い朔羅がいう。
「どういうつもりもない。話をまとめただけだ」
菜摘の女役の全てが、まるで何かに乗り移られたように上手く動いたという。
であるならば、もし本当に「何か」が乗り移るのならば、舞の経験が無い焔の方が「乗り移ったかどうか」がわかりやすい。
自分や朔羅が立てば、舞えて当然。
それが霊の力か、そうでないか。霊の力として「どの程度の舞手」が降りているのかがわかる。
「能、二人靜、由比ヶ浜、くやしい、奪われた全てを与える」
韻を踏みながら、唯為がそっとささやく。
「何を」
言いかけて、息を飲んだ。
――見渡せば。松の葉白き吉野山。幾世つもりし。雪ならん。
ツレである菜摘の女の――焔の声が聞こえた。
声量こそ、プロの能楽師には負けるが、その言葉と韻の踏みはとても素人とは思えない。
――かゝる恐ろしき事こそ候はね。急ぎ帰り此由を申さばやと思い候。いかに申し候。唯今帰りて候。
一語一句に間違いがない。
二人靜、そのものだ。
と、焔の身体が青白い燐光につつまれているのが「見え」た。
「でたな……「靜」が」
唐突な唯為のつぶやきは、今し方舞台に現れ、合舞をしようとしている藤也を指しているのか、蓮の思念を指しているのか……それとも、別の何かなのか。
朔羅には、わからなかった。
身体が、きしむ。
自分の意志に反して伸び、動く。
誰かに、何かに操られているのを焔は感じた。
(こいよ……。思う存分舞わせてやる)
心を透明にする。何も考えては行けない。
空気のように、水のようにクリアな状態でなければ、死は降りては来ない。
また、雑念という足がかりを残せば、心を乱され、支配力を奪われ、乗っ取られる。
単純なようにみえて、実に、精神の繊細なコントロールを要求されるのが、死霊術なのだ。
長絹の白く透ける袖が、ふうわりと風を含んで舞う。
身体の力を極力ぬいて、近寄ってきている霊の好きにさせているが、それは楽という事ではない。
まるで子供が子猫に無理に服でも着せるように、意志に反して筋肉を、間接を動かされるのだ。
苦痛でしかない。
だが、その苦痛を顔に、心に表したりなどしない。
それこそ、霊が身体を乗っ取るきっかけになる。
あくまでも飄々と、己を消す事無く。
霊に遊ばれる事無く、霊を遊び、支配することが寛容なのだ。
狭い能面の目から、かすかに「外」が見える。
誰しもが、驚愕の視線に捕らわれている。
自分だってそうだ。舞が舞えるなど想っていやしない。
唇が、何かに突き動かされるようにして動く。
――唐土の祚国(さこく)は花に身を捨てて。
藤也の声と動きが一致する。
刹那、後頭部に蒼い光がひらめき始めた。
二つの思念がぐるりと回る。
ひとつは、か細く、小さな声。弱く、困まりはてた少年の声。
もう一つは、どこか遠く、それでいて近い所から聞こえる、女の声。
か細い声が繰り返す。
もう、いいよ。貰った全てを君に返すよ。――と。
愛しさに満ちた声、肉親を、同じ舞を愛する者の暖かい思念が焔の思考をかき乱す。
(こいつが、蓮か)
だとするなら、もう一つは?
「くっ」
意志に反して腕が伸ばされる。筋肉が切れそうに引きつれる。
間接が悲鳴をあげそうだ。
能面の向こうで沙倉唯為が、楽しそうに笑ってるのが見えた。
(アノヤロウ)
わかっていやがったな、と舌打ちする。
能に使う舞の筋肉は、普段の人間が生活したり、術者が術をかけるために使う筋肉とは異質である。
たとえ上手く死霊を寄せられたとして、身体がもつかどうか。
いや、そんな肉体の限界じゃない。
蓮ではない、蓮のような単純な思念じゃない、もう一つの思念もつ存在だ。
憎しみ、悲しみ、後悔、安堵。
舞を愛しながら、舞を憎み、命を乞いながら、命すら惜しくないとおもう。
あらゆる相反する雑多な思念を抱え込み、長々と昇華できないでいたもう一つの「霊」がいる。
指が震える。
身体が限界だ。
と、瞬間、能面の向こうの鮮やかな初夏の世界に、一人の中年の女性が……いや、その後ろに渦巻く黒い思念が見えた。
――答えが、わかった。
全てが、見えた瞬間、身体が限界を訴えた。
最終段にさしかかる寸前に、膝がかってに落ちて、舞台に両手をついた。
小面をむしるように取り、荒々しく息を吸い込む。
「大丈夫?!」
シュラインが慌てて舞台に上がってくる。
いくら空気を吸い込んでも、あの胸くそ悪い女の霊を振り落とせない。そんな気がして周囲の心配を余所に、焔は深呼吸し続けた。
「意識を失わない人は、初めてです」
宗主の菊人が、驚いたようにつぶやく。
当然この程度の霊で倒れる事はない。
そう強がろうとした刹那、全てを見抜いていた男――沙倉唯為が、低い声で言った。
引き分けか、と。
観客が静まりかえっている。
パンフレットをめくる音も、ほとんどない。
鶴岡八幡宮を囲む森さえ、風に梢を揺らすことなく。静寂がその一帯を包み、俗世から切り離された神聖な空間を作り出そうとしているかのようだ。
朔羅はため息をついて、目の前の鏡を見る。
手元には檜の箱にいれられた、小面がひとつ。
一体何人が、この小面をつけて舞つづけてきただろう。
何を想い、何をおもわれ、舞台に立っただろう。
丁寧に塗りを施された小面は、答えない。
ただ、木独特の柔らかい手触りを、朔羅に伝えてくるだけだ。
「大丈夫、かしら?」
黒い髪を肩から払いながら、シュラインは言う。
何一つ解決しないまま本番を行う。菊人の出した結論はそうだった。
いや、解決するには、本番を行うしかないと唯為が提言し、焔もそれを支持したのだ。
「さあ、どうかな。ただ」
「ただ?」
「私は、菜摘の女を舞う。それのみ」
何が起ころうと最後まで舞う。それがおそらく解決につながるのだ。
「そうねぇ」
頬に手をあててシュラインはため息を付いた。
(能、二人靜、由比ヶ浜、くやしい、奪われた全てを与える。か)
メモの言葉を繰り返す。
何かが形になろうとして消えていく。
何が?
途端、ひらめいた。
「ねぇ。確か歴史上で靜御前が舞を舞ったのも、ここだったわよね?」
「ええ」
言葉にうなづいて、息を飲む。
静御前も、舞を待った。
律子がおかしくなったのは由比ヶ浜近くに引っ越してから……。
「まさか」
異口同音に二人がつぶやく。
と、舞台の始めを知らせる口上が聞こえた。
ゆるりと、舞う。
風に長絹の袖を泳がせながら。
それは透き通るような無垢な美しさだ。
果たし得ない、願いを願う靜御前の悲しみ、願いかなわないもどかしさと苦しみ。
切ない。そんな陳腐な一言に集約することは出来ない。
そう、シュラインは想う。
抜けるように白い足袋が、流れるようについ、と動く。
全く同じである双の小面は、微妙な演者の動きにより、楽しげにも悲しげにも見えた。
謡いに合わせて、唇を動かす。
場はゆっくりと、合舞へと進んでいく。
源義経を思い、にくき頼朝の前で踊った、あの舞の場面へ。
(え……)
ぞくり、と背筋が震えた。
蒼い光が朔羅を包んでいる。
絹の模様に光が弾かれたか、と想ったが、それとは違う。
蒼い光が、まるで朔羅を守護するように。否、朔羅と蓮を守護するように舞台をたゆたっている。
音にまじってかすかな声が聞こえた。
――返すよ。と。
柔らかく優しい少年の声だ。
(憎しみから蓮からすべてを奪おうとするのなら、僕は奪われた全てをあの人の息子として、そして蓮の舞を愛する者として蓮に与えよう)
藤也の言葉がゆるりと心を揺るがした。
人ならざる蓮の舞。そして技のみと唯為に評価された蓮の舞。
二人を合わせ半分にしたとしたら……。ちょうど「一人前」だったのではなかろうか。
そして、与えられた舞を返したいが為に、蓮は「菜摘の女」として最後の舞台を共に舞おうとしていたのだろうか。
無意識に与えて貰った、蓮の「舞」の力を返し、自分の「舞」の力を、これから生きていく弟に捧ぐ。
(ああ。だとしたら、そうだわ)
まぶしいものをみるように目を細めた。
二人分の「舞」の力と、いとおしさを一人の普通の能楽師が受け止める事など出来ない。
受け止めてさらに返すなど、至難の業でしかない。
神々しさをます二人の舞をみながら、シュラインは全てを理解した。
優しさを感じる。
まるで、何かを教えるように、ずっと背後に一人の少年の霊がいる。
朔羅の腕に、そっと燐光がよりそう。
大人が子供に何かを教えるように、強引に動かすのではなく、そっと、導く。
(これを、やりたかったのか)
二人静は二人の息が合わねば成り得ぬもの。
(……兄弟の舞、見てみたかったな)
このようなやさしい心もつ舞ならば、きっと桜がまうようなはかなく美しい舞台になっただろう。
だが。
もう蓮には肉体がない。
だから、せめても。このひと時だけは。と朔羅は心をゆっくりと開きながら、腕を、燐光の、蓮の意志にまかせた。
朔羅が動く。
その動きに誘われるように、藤也の舞が、一段と鋭く、透明に磨き上げられる。
謡いの声が、遠くへと飛ぶ。
喉をふるわせる。
声を完全に支配する。
言葉に、言葉を重ね、ひとつひとつに意味を「言魂」を込める。
とまどう蓮の霊を導くように。
もとから言葉の持つ霊力を使い、彷徨える霊等を本来それらが進むべき道へ導く力でもって、あやかしを「あるべき場所」へ送り返す力持つ朔羅だ。
難しい事ではない。
赤字桃に藤模様の、鬘帯が、舞にあわせて空気を薙ぐ。
金地に藤模様を散らした二つの扇が、くるり、くるりと閃いては、初夏の陽光を返す。
まるで天上の蝶が舞うように、扇が、帯が、袖が舞う。
女性の紛争を表す紅入、赤い色を用いた衣装は華やかさと同時に、どこか悲しい恋慕を表している。
これは、合舞ではないな、と苦笑する。
ここは二人ではない、三人が居る。
藤也と、朔羅。そして蓮が。
(なんとも豪華な、舞台なことだ)
――それのみならず憂かりしは。頼朝に召し出され。静は舞の上手なり。とくとくと有りしかば。心も解けぬ舞の袖。
地の謡方が、告げる。
頼朝が靜が舞の名手としり、この場所で舞わせた下り。
二人靜のクライマックスだった。
息を吸う。そして全身の力をひとつの言葉に集約する。
――賤やしず 賤の苧環 繰り返し 昔を今になすよしもがな。
一瞬、時がとまった。
蓮と藤也が朔羅をみていた。
そうだ。
昔を今に返せればよい。だが「できはしない」のだ。
(振り返るな)
前を見て行け。
言霊を込める。二人に告げる。
ふと、二人が能面の下で微笑んでいるのがわかった。
朔羅の言葉に応えるように。
――弔ひ給へ静が跡を・弔ひ給へ。
そして、曲が終わる。
静寂の中で、朔羅はそっと唇を動かした。
弔ひ給へ蓮が跡を。と。
決着をつけたくはないか? という唯為の言葉は渡りに船だった。
否、言われなくても、繰り出していたに違いない。
本番の舞台はシュラインと朔羅に任せておけばいい。蓮ならばあの二人で押さえられる。
そんなものよりもっと「大物」が引っかかっているのだ。
結末を見ずにいられまい。
由比ヶ浜は、夕方とあって靜かだった。
日が暮れたからか、犬の散歩の姿もない。
ただ、寄せては返す波だけが、耳に優しく、寂しい。
と、一人の女性が現れた。
身なりの良い薄紅色のブランドモノのスーツ姿。
砂浜に不似合いな、ヒールの高い靴。
綺麗に整えられていた筈の、髪は、海風にほつれ、女性を狂女めいて見せていた。
否、事実狂女なのだ。
焦点の合わない瞳のまま、ふらふらと歩いている。
涼乃宮律子。
蓮をあやめた犯人……いや、あやめるように操られた犯人だ。
本来ならば、このような場所に居るはずがない。
望みどおり舞台は成功し、蓮は能楽師として道を歩み始めたのだ。
ようようと自慢話をし、息子を褒め称え、周囲を辟易させているべきなのだ。だが。
違う。
もはや彼女の役目は終わりに近いのだ。
(解放してやらんとな)
くっ、と喉をならし、指を闇に走らせる。
途端にほの白い光が爪にともり、闇に不可思議な文様を描き出す。
海の際だ。呼び出す雑霊には事かかない。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
手まりのように、浮遊する霊が形となり、律子の前に現れる。
と、律子は顔をあげて霊の光を、その向こうで壮絶な笑みを浮かべている焔を見た。
「おのれ……邪魔だてする気か」
「ふん、十分に遊んだだろう?」
「まだ足りぬ……まだまだ足りぬ。我が息子いきておりすれば、このような栄華を越える栄華を手にしたり」
やけに時代がかった口調で律子が言う。
「そうかな? だが地獄の向こうでお前が殺した息子が、手招きしてるが? ほら」
つい、と指を動かす。
その動きに合わせて、燐光が律子の後ろへと飛んでいく。
狼狽のままに律子は振り向き、悲鳴を上げた。
そこには、静御前がいた。
砂地とはおもえぬほど、すらりとした立ち姿。
海風に舞う長絹は深い宵の紫。
手に持つ扇は藍色を基調にした、愛別離苦の狂女を表す白群露秋草模様。
烏帽子は歪みなく、かづらの髪は風にさらされながらも乱れてはいない。
それは、静御前だ。
だが、あの舞台の華やかな靜ではない。
憎む男の前で踊らされ、望みもしない命を与えられ、そして――宿っていた愛する男の子を、この砂浜に沈め殺された。
影の靜御前だった。
つい、と扇が動く。
それは蓮や朔羅の柔らかさとは違う。
向かい来る夜の汚れを切り裂く刃のような、冷たく鋭い動き。
能面は、断罪するかのように冷たく、傲然と律子を見ている。
波の音が、鼓変わりに拍子を取る。
遠く飛ぶ海鳥の鳴き声は、笛の音となり律子を責め立てる。
ゆるりと、だが、確実に「静御前」は律子に舞い近づき、そして追いつめる。
――世間を。
朗と声が、周囲の全ての音を圧倒した。
――世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。
万葉の一句を歌とし、「静御前」は即興の舞いを舞う。
――されども、枯れ果てぬ夢あくがれ濁る心もて、現世さまよう故よあはれ。
ぴたり、と扇を律子の首筋にあてて、「静御前」は動きを止めた。
「いい加減にしようか、靜御前さんよ」
燐光を操ったまま、焔が言う。
そうだ。事件を起こしたのは律子である。
だが、そのきっかけは違う。きっかけは。
「うぬらに、わかりはせぬ。我がさずかりし義経殿の御子を、あの頼朝に沈められた悔しさは」
自分の子供が生きていれば、義経がいれば。
この鎌倉の栄華は、自分の愛する男と息子のモノだったのだ。
と、律子が……いな、静御前の霊が憎々しげにつぶやいた。
二人靜の合舞が、靜を誘った。
律子の、自分の息子に栄華が来ない悔しさが、その居場所を作った。
亀岡八幡宮という場所で、呪いは形となった。
全ては、この静御前の霊が……そして鎌倉という場所によって作られた、事故ともいえる呪いだった。
「歴史に「たられば」は有り得ない」
靜に乗り移られた律子が歯をむき出した。
懐から扇を取り出し、それを広げ、振り向き様に「静御前」を払う。
と、能面に扇が当たり弾け飛び、唯為の白面が現れる。
「往生際の、悪い」
皮肉げに笑う。
しかし、これで、律子を呪縛していた舞の効果はうち破られた。
繰り出される扇の攻撃を、同じく軽やかな舞い手の動きで交わす。
それはひとつの合舞であった。
ただし、調和ではない。
戦いの、意志と意志がせめぎ合う乱拍子の舞い。
たとえ沙倉唯為であれども、歴史的な白拍子であり、舞いの名手である静御前相手ではいささか分がわるかった。
砂地という足場に、装束の動きにくさも負の素因であった。
「ち」
かすった扇が、唯為の頬に浅い傷をつけ血を流させる。
「見てないで、手伝え」
荒々しく吐き捨てる。
先ほどから高みの見物をしている焔に対して、だ。
「いや、なかなかにすさまじい舞台だなと」
傍観者のように気楽に返す。
これほどまでに洗練された舞台というのは、なかなかお目にかかれない。だから、見ていた。
単純かつわがままな言葉に呆れるまもなく、唯為に向かって閉じた扇が突きと共に繰り出される。
「やはり、命がけというのは、美しいな」
軽やかにいい、焔は指を鳴らした。
「だから、見物人があつまる」
に、と白い歯を見せる。
刹那。
波の合間から、甲冑の男達が現れた。
ししおどしの肩当て、三日月を模したかぶと。折れた太刀や、血にぬれた腕。
「ひ」
靜御前が狼狽した。
あわててきびすを返して逃げる。
霊が恐ろしいのではない。焔が呼び出したのは義経を追いかけ、靜をとらえた頼朝の追撃兵の霊だった。
過去とはいえ、本能的に刻まれた逃亡者の記憶は捨てられなかったようだ。
「俺で遊んだ代金は、高い」
もう一度指をならし、裂帛の声とともに手のひらを前に突き出す。
武者の霊が律子を一斉に遅いかかり、そこに憑依していた静御前の霊をむしばみ、覆い尽くす。
「消えろ」
端的に言った瞬間、全ての霊が激しく内側から光り、音もなく弾けた。
とさり、と律子が砂浜に倒れる音がした。
それが最後の幕であると告げるように。
「静御前か」
バーの片隅でシュラインがつぶやく。
グラスに注がれたビールの泡は、すでに消えている。
「執念に執念がとりついたということか。ち、もう少し早く亀岡八幡宮のキーに気づいていれば楽できたんだがな」
ビールグラスを引きながら、焔がうそぶく。
彼にしては珍しく「失敗」したからだ。
もっともあれほどの武者霊を操る死霊術を持つのだから、それぐらいの失敗はみのがして良さそうなモノなのだが。
「何にしても、女の執念は恐ろしいものだな」
「あら? 私も女なんだけど」
からかうようにシュラインは言う。と、焔は「草間にそう伝えておくよ」といいつつシェイカーに氷を落とし、日本酒にミドリを入れる。
グラスに塩抜きした桜の塩漬けをいれ、そっとカクテルを注ぎシュラインの前に差し出した。
サファイアからペリドットの新緑へ。
見事なグラデーションの上に、桜がひとつ浮いている。
「あら? 新作? 私何も頼んではいないんだけど」
グラスを掲げながら、シュラインがカクテルに沈む蒼と同じ色の瞳に好奇心の色を浮かべた。
「さて? 何という銘だったか」
言って、焔は視線をつい、とバーの片隅に写した。
そこにはひとつの古びた扇が無造作に飾られていた。
「ああ、なるほどね」
透明なのに、どこか口に苦いカクテルを味わいながらシュラインはカクテルの「銘」を悟った。
カクテルの名前は「静御前」だと。
そしてどこか遠くから、能の謡いが聞こえた。
――弔ひ給へ静が跡を・弔ひ給へ。と。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0599 / 黒月・焔(くろつき・ほむら) / 男/ 27 / バーのマスター 】
【0733 / 沙倉・唯為(さくら・ゆい) / 男 / 27 / 妖狩り】
【0579 / 十桐・朔羅(つづぎり・さくら) / 男 / 23 / 言霊使い 】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、立神勇樹です。
さて、今回の事件は「エピローグを除いて9シーン」に分割されております。
能を題材にしたシナリオは初めてでしたが、上手く和風な雰囲気はでていましたでしょうか?
ちょっと複雑になったかな? と反省するところもしきりです。
また2年前の事件のからくりですが。全員正解されてました。
また「なぜこのキャラが、こういう情報をもってこれたのかな?」と思われた方は、他の方の調査ファイルを見てみると、違う角度から事件が見えてくるかもしれません。
もしこの調査ファイルを呼んで「この能力はこういう演出がいい」とか「こういう過去があるって設定、今度やってみたいな」と思われた方は、メールで教えてくださると嬉しいです。
「能」という題材は奥が深いので、また単発でシナリオを出すかと思います。
(雪月花の小面の話や、翁の話など、本当に深いですね^^ 空想をかきたてられます)
興味を持たれた方は、ご愛顧くださいますようお願いします。
またあなたと私で、ここではない、別の世界をじっくり冒険できたらいいな、と思ってます。
シュライン・エマ様
お久しぶりです。
今回は調査に終始してあまり派手な活躍はなかったりしたのですが。
いかがでしたでしょうか。
何故か母親の調査に行くと答えた方がいなかったりしたので、若干話が唐突に感じられたかもしれませんが。
解決はできたということで。
よろしかったら、またのご参加お待ちしております。
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