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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


調査コードネーム:「二人静(ふたりしずか)」

■オープニング■

「で?」
 桜の季節も終わり、若葉の薫りが風とともに胸の奥を清涼にしてくれる初夏の午後。
 そのさわやかな季節と裏腹に、胡散臭げな声が草間興信所に響いた。
 言うまでも無い。一応この興信所の所長である草間武彦の声だ。
 春霞より薄い、けれど季節の風流さなどまったくないタバコの煙が、狭い所内に広がり掻き消えた。
 眉間にしわを寄せて草間が凝視しているのは、応接テーブルの上に並べられた古臭い新聞と週刊誌の記事だ。
 日付は二年前の4月。

《涼乃宮流宗主候補が謎の突然死!》
 鶴岡八幡宮にて行われる涼乃宮流の夜桜薪能にて上演される「二人静」により、涼乃宮流宗主として襲名が予定されていた涼乃宮 蓮(18)が面と装束をつけての"申し合わせ"(リハーサル)後、急性アルコール中毒で倒れ病院に運ばれたが、まもなく死亡した。
 部屋から大量のアルコール類が発見された為、襲名のプレッシャーに耐えかね無茶な飲酒をしたのではないかと言われている。しかし関係者によると「蓮君が襲名の重圧に負けるとは思えない。本当に舞が好きなよい若者だったのに」との声が強い。
 また本人も義弟(涼乃宮 藤也(18))との友舞による襲名披露を楽しみにしていたという。
 涼乃宮流では本妻である律子さんの子である藤也君ではなく、芸妓との間にできた庶出の蓮君を「宗主」とする事に疑念を持つ一派もあり、陰湿な後継者闘争があったのではないかとも疑念されている。
 いずれにしても後継者不足に悩む能の世界において、期待の若手を無くしたとの声は耐えない。
 
「ねぇ?」
 微苦笑をうかべて、陽だまりのようにほわんとした顔立ちの男──警察庁の特殊犯罪調査官である榊千尋が首をかしげた。とても20代後半に片足突っ込んでいるとは思えない、少年くさい仕草だ。
 もっともその腹底まで少年のように純情だとは限らない。
 まるで折り紙をもてあそびかのように、古ぼけた雑誌の記事を指先でつまんでは草間の鼻先でひらめかせてみせる。
「それで? こんな古ぼけた二年前の事件を今更調査しろとでも?」
 週刊誌や新聞に取り上げられているぐらいだ。とっくに多方面から取材攻勢に会い、調べ尽くされている事だろう。
「んー。今年ね、繰り上がりで涼乃宮 藤也が「二人静」で宗主襲名するんですよ。二年前と同じく鶴岡八幡宮でね。まあトラブル続きで一月延期されたので夜桜能じゃありませんが」
 人差し指をあごにあてて、言葉にあわせるかのように、何度か弾く。
「まあ、それは良いんですが。面と装束をつけての"申し合わせ"──ああ、リハーサルですね。それをすると、必ず相手役の「菜摘み女」が舞台上で痙攣して倒れるんだそうです。能面にも装束にも特に何かが細工された形跡は、少なくとも今回はありませんでした」
「恨みか」
 タバコの煙を吐き捨てる。年に百件は聞くようなありふれた事件の構図だ。
「恨みなら、相手役じゃなくて主役の静御前──藤也くんを狙うと思いますがね」
 鼻の奥で一度だけくすん、と鳴らして榊は目を細める。
「ふん、しかし死人はまだ出てないんだろう? わざわざ警察庁が出張る事件でもないと思うがな……まあ、ウチは楽して金が取れるならどうでもいいが」
「直接の依頼主は涼乃宮家の現宗主の菊人さんです。ああ。能楽協会からも出るからウチが依頼するよりは、多少報酬に色は付くと思います。ともかく律子ママがヒステリックでね、警察側をつっぱねちゃうんです。事件じゃないからってね」
 「律子ママ」に奇妙なイントネーションをつけながら、榊は穏やかに言う。
 本妻にしてみれば、ようやく正当な息子に正当な立場が転がり込んできたのに、亡霊や警察に邪魔されて、風評が落ちてはかなわないというところなのだろう。
 今も昔も変わらないな、と眉間にしわを寄せると、榊がどこか遠い目をして窓の外を見た。
「……それに「人はすでに死んで」います」
「え?」
「まあ、亡霊と共に舞台に立ってみればわかるかもしれませんね」
 刹那の表情をかき消すかのように、悪戯めいた笑みで肩をすくめた。
 しかし、見落とす筈もなかった。
 窓の外を見た時に、榊の唇がかすかに動き声にならない言葉をつぶやいたのを。
 ──ジスルフィラム、亡霊と共に舞え。と。

 竹に流れる水と、時折甲高く鳴る添水の音に耳を澄ませながら、十桐朔羅はうっすらと目をあけた。
 まつげの影で、おぼろげにしか室内は見えない。
 張り替えられたばかりで、汚れひとつない障子を通して、庭にある竹林の笹がゆらゆら揺れているのが影となり、室内に微妙な陰影を作り出していた。
 朔羅はため息をついて、ふたたび目をとじ、脇息にのせた腕の上に頭をもたげた。
 染めのない生麻地の着流しが、かすかな動きにあわせてさらりと鳴る。
 もし、この情景を見た画家がいれば、目をみはっただろう。
 薄く銀鼠色に沈んだ書院に、うつうつと眠りに沈む和装の男。
 その髪はあらゆる光彩を写し、反射させ、何者にも染まらない、白かと見まごう見事な銀の髪。
 脇息にもたげた腕も、髪に負けず劣らずどこまでも白く、まるで光の世界に一度も出たことがないかのように汚れない。
 添水の竹の甲高い音にさそわれ、時折うっすらと開けられる瞳は、左こそ黒曜石のごとき黒ではあったが、右の瞳は黒とも、鳶色とも付かず、光の加減によっては蒼とも紅とも見える。
 寝乱れた単衣の胸元から除く白い肌は、男とおもえぬまでになまめかしい。
 幽玄風花。
 ふと、そんな言葉がよぎるまで、怪しくも切なく、はかなくして永遠の刻を夢想させる。
 この和室の空間は、朔羅がいることで満たされ、完璧となると同時に、朔羅の内包する雑多な感情を悟れないが故に、また、虚無でもある。
 見る者をひるませ、言葉を失わせるほどに閉ざされた空間は、けれど、朔羅にとってこの上ない安らぎの時間でもあった。
 が。
 うつうつと、うたかたのような眠りと瞑想の波に捕らわれ、遊ぼうとした時。
 遠くから荒々しい、男の強さを感じさせる足音が聞こえる。
 否、荒々しくはあるが、乱れてはいない。
 まるで能の名作「道成寺」の乱拍子を踏むかのごとく、規則正しく、乱れはない。
(きたか……)
 舌打ちしそうになる己を押しとどめながら、甘美な夢想の世界の誘惑を断ち切り、脇息から頭をあげる。
 瞬間、派手な音がして、障子が両に開かれた。
 差し込む初夏の鮮烈な光に、思わず目をかばい、顔を背ける。
 何度も瞬きを繰り返し、かろうじて目の端で開け放たれた障子を、そこに立ちはだかる長身の黒い男の影をにらむ。
「来たぞ」
 男の端的な物言いに、顔をしかめる。
 電話もなしに唐突に訪れては、いつも朔羅を困惑させる。
 しかも、本人に悪びれるところがないのが困った所である。
 さらに困った事に、男――沙倉唯為は朔羅の受け継ぐ能の本家宗主にあたる人間だということだ。
 数秒おくれて、住み込みの弟子があたふたと現れ、視線だけで朔羅に謝ってみせる。
 おそらく、取り次ぎの為おまちください、などと「宗主」に礼儀をもって丁重に案内、もてなそうとしたが、ものの見事に蹴散らされ、ずかずかとあがられ、ここを探り当てられたに違いない。
「西沖、お茶を」
 微妙にイントネーションを変えながら、弟子ではなく、唯為にあてつけるように言う。
 が、言われた本人は、全く感じ入らない様子で、勝手しったるといった調子で部屋の隅にある座布団を引き出し、朔羅の目の前に座った。
 ため息をついて、額にかかる白髪を指先でかき上げた。
 慣れない……否、慣れてたまるものか。この男のゴーイングマイウェイに引きずられるのは、勘弁だ。
 そう想いつつも、どこかで、引きずられる事を期待してる自分に。居心地はよいが夢想のみの世界から現実へ引き出す腕に、羨望ににた嫉妬を抱いてる自分に気づき、朔羅はため息を付いた。
「さて、話をしようか」
 こちらの意図や予定など、完全におかまいなしの、無邪気そうに見える笑顔に、めまいを感じながらも、朔羅は姿勢を正すしかなかった。

「なるほど。こんなにも身近な所で騒動が起こっていてはとても黙っては居られぬ」
 玉露の入った湯飲みを手のひらで包んだまま、つぶやく。
(――涼乃宮流か)
 知り合いというには接点がないが、無関係と言い切れるまでに面識が無いわけでもない。
 いずれにせよ、このまま放置すれば、能楽の家すべてがマスコミに取りざたされるに違いない。
 やれ、お家騒動だなんだと、痛くもない腹をつつかれては「本業」の方も動きづらくなる。
「私も調査に加わらせて頂こう」
 乾いた喉を茶でしめして、さらに続ける。
「その記事を頭から信じる気は無いが、二年前の蓮の死、些か腑に落ちん」
 黒いシャツの合間から除く、銀のケルト十字架のネックレスを、つまらなさげに指先でいじりながら唯為がいう。
「確かに、唯為の言う通り、二年前の蓮の死、少々引っかかる事が多い。おそらく今回の事件と繋がりがある筈」
「ジスルフィラム、というのを知っているか」
 耳に心地よい、低い声をさらに一段低くして唯為がつぶやく。
 その単語を何度か復唱する。と、遥か昔に講演後の宴会を断り切れず、酔いさめぬまま舞台にでて、人気を落とした狂言師を思いだした
――その時、アルコール中毒の薬として使われていた、確か、その薬の名前である。
「その薬品……服用中にアルコールを接種すると、痙攣などを起こす事もあるときく」
「そうだ。ジスルフィラムという薬品を服用したならば、少量のアルコールでも急性アルコール中毒を起こす場合がある。ましてや死に至る筈だ」
 ――殺人の可能性も高い。
 ぎらりと、光も影もはねつける、銀の瞳が言わなかった言葉を強く刹那に朔羅に伝える。
「洗い直す必要があるな。二年前の件と涼乃宮宮流継承問題の裏、探りを入れてみるか」
 一息に茶を飲み干すと、唯為は形の良いタレ目を細めた。
 それだけなら、人当たり良い柔和な顔にみえるのだろが、意志の強さを想わせる、りゅん、と上がった眉が、侮れない不敵な印象を与える。
「もし蓮が殺されたとなると、一番疑わしいのは藤也と律子……ヒステリーを相手に出来る自信は無いんでな、今回の騒動……それに蓮について、藤也と話がしたい」
「承知した」
 唯為の言うとおり。
 後継者闘争の末の死だとするならば、疑われるのは当然藤也……。
 それにしても、嫡子ではなく何故庶子を後継者としたのか……。
「二人の関係も含めて、私は現宗主の菊人を当たってみよう」
 言う、と、我が意をくみ取られたり、といった満足げな表情で唯為がうなずいた。
「しかし、菜摘み女役ばかり倒れる事も気になるな……。二年前の二人靜、蓮が菜摘女役だったとすれば、誰かが蓮の恨みを晴らす為にやって居るとも考えられる」
 ふと、疑問を口にする。
 と、唯為は一度だけ驚いたように目を見開くと、すぐに鼻の奥でくすりと笑った。
「それは、ふたを開けての「お楽しみ」さ」
 茶を、漆塗りの盆に戻し、唯為は障子に移る影を眺めた。
「亡霊など信じるつもりもないが、静御前と同じように、藤也の舞が蓮に降りてきているのやもしれんぞ?」
「なるほど。物理的なものより、時には精神的なダメージの方が効果的だし」
 もし怨恨が動機ならば……連の母親、か?
 つらつらと、推理を重ねていると、唯為がまっすぐに自分をみているのに気づき、あわてて顔を上げた。
「二人の靜に二人の宗主、さながら陰と陽か。さて、どちらが亡霊か……」
 意味深な言葉に、眉間を寄せていると、不意に唯為の手が首筋にのばされ、思わず身を固くした。
 唯為は、朔羅の反応を面白がるように肩をすくめると、かすかに首にふれていた指をずらし、単衣の衿を掴んで正した。
「着崩すのも悪くはないがな、客の前では適度に身を整えたほうがいいぞ」
 まるで胸元が丸見えだ、とからかうように言われ、自分で征するより先に言葉が飛び出た。
「整えようとしていたのに、いきなり上がり込んだのは、唯為だろう」
 かっ、と頬に血があがるのを感じながら、一息にいうが、からかった本人は、後腐れのない、高く、響きの良い声で笑うと、来た時と同じような唐突さで立ち上がり、部屋を出ていったのであった。

 亀岡八幡宮の石段でタクシーをおりる。
 と、聞き慣れた声が聞こえてきた。
 ふと、顔をあげると、黒髪碧眼の女性が書類の入った封筒らしきものを抱えたまま、こちらへ向かってきていた。
 その女性から一歩遅れるようにしてタバコを吹かしている、赤毛の男性にもまた、見覚えがあった。
 女性は、何か思案するようすで前もみず、つらつらと言葉を重ねていた。
「ひょっとしたら、この騒ぎを起こしているのは藤也くん本人では? 食事等に薬を混ぜておけば化粧品などから痙攣起こせるし」
「それはありえんな」
 朔羅が止める間もなく、唯為が挨拶もなしに唐突に声をかけた。
「久しぶりだな。焔、あの「龍」の事件以来だったか?」
 薄い唇の端を二ミリだけ持ち上げて唯為が笑う。と、焔もまた同じ種類の笑みを浮かべた。
 まるで双方の腹のウチを探るかのように、敵か味方か見定めるように。
「あら? 二人ともお出ましなのね?」
 講演数こそすくないものの、知る人ぞ知る能楽師の二人をみて、シュラインは苦笑した。
 そうだ。「能」が関係するのなら、プロが出てきても当然ではないか。
「能楽教会にも多少顔がきくんでな」
 面倒くさそうに言う唯為の不作法さを、取り繕うように朔羅が着物の裾を蹴りさばいて、丁寧にシュラインに挨拶をした。
「……久しいな」
「本当に。それよりありえないってどういう事?」
 ともすれば雑談に流されそうになる雰囲気を押しとどめ、シュラインがよく通る声で唯為に聞き返した。
「能は化粧はせんよ。直面(ひためん)ならする事もあるだろうが……」
「あ、そうか……面を着けるから化粧はしない、か。だとしたら飲み物や食べ物かしら?」
「それは……どうかな」
 朔羅が首を傾げる。
「「翁(おきな)」のように、神楽の性質を持つ能では、確かにシテ……主役は精進潔斎として、家族の者と火も食事も別にする。しかし、事件の起きてる能は三番物。俗に「かずらもの」と呼ばれる観賞用の曲。食事もみんなと同じ物を、特に舞台前は多くの方が出入りするから、皿料理ではなく鍋料理……カレーとかになるだろう。別に薬を盛るのはむずかしい」
「能にカレー……以外だわ」
 あまりにもかけ離れたイメージに、シュラインがいうと、唯為が頭の後ろで両手を組みながら、黒いスラックスに包まれた長い足を石段にかけた。
「ただ、あるとすれば「能面」だな」
 ふん、と鼻をならす。
「二人靜なら、面は「小面(こおもて)」だろう。あれは面の唇と演者の唇が同じになる。謡をすれば、唇と舌が面に触れざるを得ない」
 唯為の言葉に、シュラインが関心したようにうなずく。
「そう。だとすればジスルフィラムの粉末か溶液を面に塗って置けば良い訳ね。確かに、上演中やリハーサルの時なら、演技に集中して味どころではない筈ね……」
 つぶやいて、唯為の後を追うように、石段を登る。
 両脇に茂る雑木林が、風にざわ、と揺れた。
「とはいえ、二年前。能はとっくに手入れされて木箱にしまわれている筈」
 当たり前の事のように、朔羅が断定する。
「ふん、だから榊はでばって来なかったって訳か。裁判で勝ち目がもてない事件は事件じゃないという事なんだろうな。ふん、あいつらしい」
 証拠がないから事件ではない。
 しかし人は殺されている。と断言している。
(読めてきたな)
 内心で唯為はつぶやく、おそらく焔も同じ事に気づいたのだろう。
 警察が手を下せないので、そちらで「事件」に出来るような証拠を集めろ。というのならわかる。
 しかし、それなら能楽師である朔羅や唯為に話を振る訳がない。表向きとはいえ同じ世界にいるのだ、仲間をかばう可能性がないでもない。
 であるならば、だ。
(因果応報、か)
 やれやれ、と空をみる。どうやら利用されたらしい。
 同じ世界の身内であれば、内々に処理する事もできる。ましてや、唯為と朔羅は裏では「妖」を始末する一族なのだ。影から影にすべてを眠らせる事は難しくない。
「それにしても、能面の内側に唇が触れるって事はあれだな。間接キスってヤツだ」
 石段を上がりながら、重苦しくなった空気を払おうとでもいうのか、焔が奇妙な笑いを浮かべて唯為と朔羅を振り返った。
「阿呆」
「なにを、戯けた事を」
 両者異口同音に否定する、と、引っかかったと言わんばかりに焔が声を上げて笑い、告げた。
「別にお前さん方二人が間接キスしたなんて、一言も俺はいっちゃいないがな」
 両者が二の句を告げずに呆れていると、シュラインがこめかみを押さえながら、しょうがない男どもを一別した。
 その瞳は、これ以上無いまでに真剣に、そして沈痛にある感情を浮かべていた。
 ――「このメンバーで大丈夫なのかしら」という不安を。

 正方形の本舞台から、一の松、二の松、三の松、と等間隔に松の枝をそえた渡り橋の向こうに、主役であるシテの控えの間。面と、己の内面と対峙する鏡の間があった。
 大きな姿見のみがかけられた、三畳ほどの板張りの間には三人の男がいた。
 十桐朔羅と黒月焔、そして涼之宮流の宗主である第十二代・華烙と呼ばれる涼之宮菊人であった。
「上演が延期となった原因の「トラブル」……ですか」
 どこか物憂げな調子で菊人は言う。
 宗主であり、二十歳になる息子をもっている男らしく、髪の毛には数筋、白いものが混じり始めていた。
 精悍というよりは、静穏といった雰囲気の男は渋竹色の着流しの袂に両手を入れて瞑目すると、まるで謡をつづるようにゆるりと唇を動かした。
「榊さんからお聞きになられたかと思いますが。"申し合わせ"(リハーサル)として、面と装束をつけて舞うと、必ず、準主役である菜摘の女役が痙攣して倒れてしまうのです」
「痙攣して、倒れる?」
 朔羅が言葉尻を繰り返すと、菊人は苦々しげな表情で、だがしっかりとうなずいた。
「まさに静御膳に取り付かれたかのように、その者にはありえないほどの出来で舞を舞ったかと思うと、曲の途中でばったりと倒れてしまうのです」
 長く重苦しいため息をついて、菊人は頭をふった。
「原因はまったくわかりません。ツレである菜摘の女役を別の同門の舞手に変えても、装束や小面を変えても、後場で同じ事が起きてしまうのです」
「要するに死んだ蓮が義弟と舞いたいが為に邪魔してるんだろう。榊がちょっかい出してるって時点で「普通の犯罪」ではありえんからな」
 乱雑に猩猩緋の髪をかき乱し、ぶっきらぼうに焔がつげた。
「装束や小面を変えてもだめ、相手役を変えてもだめなら、毒物の可能性はないと見たほうがいいだろう」
「なるほど、確かにそういう「得体の知れない」理由でシテが倒れて"申し合わせ"がことごとく失敗しているのであれば、無理に本番をしても失敗は必須」
 着物の袖につめを沿わせ、朔羅は生麻に薄く描かれた藍染めの千鳥にぼんやりと視線を落とす。
 相手役が、役を降りたいと懇願する事もあっただろうし、そんな不気味なことがおきる役にどうしてなりたがる者がいるのだ。
 ほかの楽曲ならば、ごまかしもきく。
 しかし、披露目に使うのは二人静……相舞の曲なのだ。
 いまさらパンフレットなどを刷り変えることもできない。
 と、そこまで考えて、ふと朔羅は想いあたった。
「なぜ……菊人殿は、舞になられない?」
 尋ねた瞬間、さっと菊人が視線をそらした。
「お恥ずかしい話、私も菜摘の女が倒れる真相をさぐろうと、あれと……藤也と舞台で舞いました。ですが、やはり最後まで舞えませんでした。私だけではなく、ほかの者も口をそろえて言うのですが、あれと舞台に立った瞬間から、まるで違うのです」
「違う、とは」
「まるで自分の体ではない。という感じでしょうか。目を覚ました時、体を動かしたくても思うように動けない……、そういう感覚でしょうか? いえ、むしろ、体の限界をこえて動きが止まらない、というのが正しいかもしれません」
 よほど不覚だったのか、言葉の端々に悔しさとも情けなさともつかない感情がたゆたっている。
(ふん、なるほどな)
 カラクリは、読めた。
 一緒に藤也と舞いたい蓮の「霊」が降りて着ているのだ。
 本舞台から流れてくる、二人静の拍子を耳に、焔は目を細めた。
 しかし、不気味ではある。
 いくら乗り移ったとしても、霊には生前に出来ることを越えた力があっても、蓮より経験の長い菊人の限界を超えるというのは些か奇妙な話だ。
(蓮だけでは、ない?)
 何かほかの素因があるとでもいうのだろうか。だが。
「……いいぜ、榊の言うように亡霊と共に舞ってやろうじゃねぇか。死霊術はそう不得手じゃない。ただでさえ未練で残っている想念を実体化させるのはそう苦じゃないだろう」
 一息に吐き出す。と、朔羅と菊人が虚をつかれたのか、まるで巣からおちた雛鳥のように目と口を見開いて焔をみる。
「舞う、といっても、能の心得はあるのか?」
 やんわりとした言葉遣いだが、声は懸念と不安に満ちている。
「舞えるのかって? んなもん、やってみねぇとわからんだろう」
「要するに未経験と……」
「おうよ」
 間髪いれずに、朔羅の呆れを肯定する。
 しかし、ほかにどんな手立てがあるというのだ。
 やれることから「試す」しかないではないか。
「一旦、舞えば未練は晴れるか。依頼人を危険に晒すわけにはいかない。この際、俺で我慢してもらうか」
 最早とめても聴かないだろう。
 朔羅はこめかみを形のよい指で抑えた。
 確かに、ほかに方法はない。
 試してみるだけの形はある。しかし。
「「重習」……つまり、奥伝や中伝といった、能の上位曲は玄人であっても勝手に上演することは許されぬ。師匠家の許しを得て初めて舞台で上演できる類のもの……いくら解決の為といっても、それを能楽協会や本家が許すかどうかはなはだ疑問だ」
 能の世界の、よく言えば職人的、悪くいえば排他的な一面を隠すことなく朔羅が口にした刹那、渡り橋と鏡の間をわけるのれんを上げてつつ長身の男が現れ、笑いを隠す事もなく、言い切った。
「いいじゃないか。面白い」
 藤也の稽古を見終わったのか、能の一流派を担う、宗主である男・沙倉唯為が挑発的な笑みのまま焔を見ていた。
「本番は無理でも"申し合わせ"なら問題はなかろうよ」
 
 舞台はちょっとした騒ぎに満ちていた。
 結局、シュラインの提案により、装束を身代わりに置いて舞ったが。何一つ変化はなかった。
 装束では、血の通わない人間ではダメという事なのだろう。
「暑い」
 不満を一言に集約して、焔が言う。
 胴着とよばれる羽二重の綿入れの上に、摺箔と呼ばれる絹に銀糸折りの厚手の単衣。下は腰巻と呼ばれる錦の袴、最後にはひらと、袖長く舞う長絹。
 いくらまだ夏の出始めとはいえ、これだけ着れば、暑いし、重い。
「大丈夫なの?」
 着慣れない和服だからか、どこかいつもよりぎこちない動きをする焔にいう。
 まるでゼンマイ仕掛けの玩具のようだ。
「む。まあ、なせばなる」
「強がりにしか、聞こえぬ……」
 普段は言葉少ない朔羅も、焔の素人じみた動きについついツッコミを入れている。
「その通りさ。やってみなければわかるまい」
 焔と同じく、周囲をあわてふためかせ、右往左往させている、この事態を心から楽しんでいる唯為が、喉で押さえた笑いを漏らしながら言う。
 能の「の」の字はもちろん、日本舞踊さえ経験のない男が、申し合わせとはいえ舞台に立つのだ。
 騒ぎに鳴らない方がおかしい。
 ある意味、幽霊騒ぎよりもよほど「見物」だ。
 笛と鼓の音が、会わせられ、ゆっくりと音楽が始まる。
 先ほどの騒がしさとは打って変わって静穏な空気が、仮設の能楽堂に流れ出す。
「さて、どこまで上手く「引っ張れ」るか」
 舞台の正面、きざはしの前から少し離れた場所。もっとも良いポジションに立ちながら、唯為は好奇心に満ちた目で舞台を見ていた。
「どういう、つもりだ」
 そっと、音もなく寄り添い朔羅がいう。
「どういうつもりもない。話をまとめただけだ」
 菜摘の女役の全てが、まるで何かに乗り移られたように上手く動いたという。
 であるならば、もし本当に「何か」が乗り移るのならば、舞の経験が無い焔の方が「乗り移ったかどうか」がわかりやすい。
 自分や朔羅が立てば、舞えて当然。
 それが霊の力か、そうでないか。霊の力として「どの程度の舞手」が降りているのかがわかる。
「能、二人靜、由比ヶ浜、くやしい、奪われた全てを与える」
 韻を踏みながら、唯為がそっとささやく。
「何を」
 言いかけて、息を飲んだ。
 
 ――見渡せば。松の葉白き吉野山。幾世つもりし。雪ならん。

 ツレである菜摘の女の――焔の声が聞こえた。
 声量こそ、プロの能楽師には負けるが、その言葉と韻の踏みはとても素人とは思えない。

 ――かゝる恐ろしき事こそ候はね。急ぎ帰り此由を申さばやと思い候。いかに申し候。唯今帰りて候。

 一語一句に間違いがない。
 二人靜、そのものだ。
 と、焔の身体が青白い燐光につつまれているのが「見え」た。
「でたな……「靜」が」
 唐突な唯為のつぶやきは、今し方舞台に現れ、合舞をしようとしている藤也を指しているのか、蓮の思念を指しているのか……それとも、別の何かなのか。
 朔羅には、わからなかった。

 身体が、きしむ。
 自分の意志に反して伸び、動く。
 誰かに、何かに操られているのを焔は感じた。
(こいよ……。思う存分舞わせてやる)
 心を透明にする。何も考えては行けない。
 空気のように、水のようにクリアな状態でなければ、死は降りては来ない。
 また、雑念という足がかりを残せば、心を乱され、支配力を奪われ、乗っ取られる。
 単純なようにみえて、実に、精神の繊細なコントロールを要求されるのが、死霊術なのだ。
 長絹の白く透ける袖が、ふうわりと風を含んで舞う。
 身体の力を極力ぬいて、近寄ってきている霊の好きにさせているが、それは楽という事ではない。
 まるで子供が子猫に無理に服でも着せるように、意志に反して筋肉を、間接を動かされるのだ。
 苦痛でしかない。
 だが、その苦痛を顔に、心に表したりなどしない。
 それこそ、霊が身体を乗っ取るきっかけになる。
 あくまでも飄々と、己を消す事無く。
 霊に遊ばれる事無く、霊を遊び、支配することが寛容なのだ。
 狭い能面の目から、かすかに「外」が見える。
 誰しもが、驚愕の視線に捕らわれている。
 自分だってそうだ。舞が舞えるなど想っていやしない。
 唇が、何かに突き動かされるようにして動く。
 ――唐土の祚国(さこく)は花に身を捨てて。
 藤也の声と動きが一致する。
 刹那、後頭部に蒼い光が始めた。
 二つの思念がぐるりと回る。
 ひとつは、か細く、小さな声。弱く、困まりはてた少年の声。
 もう一つは、どこか遠く、それでいて近い所から聞こえる、女の声。
 か細い声が繰り返す。
 もう、いいよ。貰った全てを君に返すよ。――と。
 愛しさに満ちた声、肉親を、同じ舞を愛する者の暖かい思念が焔の思考をかき乱す。
(こいつが、蓮か)
 だとするなら、もう一つは?
「くっ」
 意志に反して腕が伸ばされる。筋肉が切れそうに引きつれる。
 間接が悲鳴をあげそうだ。
 能面の向こうで沙倉唯為が、楽しそうに笑ってるのが見えた。
(アノヤロウ)
 わかっていやがったな、と舌打ちする。
 能に使う舞の筋肉は、普段の人間が生活したり、術者が術をかけるために使う筋肉とは異質である。
 たとえ上手く死霊を寄せられたとして、身体がもつかどうか。
 いや、そんな肉体の限界じゃない。
 蓮ではない、蓮のような単純な思念じゃない、もう一つの思念もつ存在だ。
 憎しみ、悲しみ、後悔、安堵。
 舞を愛しながら、舞を憎み、命を乞いながら、命すら惜しくないとおもう。
 あらゆる相反する雑多な思念を抱え込み、長々と昇華できないでいたもう一つの「霊」がいる。
 指が震える。
 身体が限界だ。
 と、瞬間、能面の向こうの鮮やかな初夏の世界に、一人の中年の女性が……いや、その後ろに渦巻く黒い思念が見えた。
 ――答えが、わかった。
 全てが、見えた瞬間、身体が限界を訴えた。
 最終段にさしかかる寸前に、膝がかってに落ちて、舞台に両手をついた。
 小面をむしるように取り、荒々しく息を吸い込む。
「大丈夫?!」
 シュラインが慌てて舞台に上がってくる。
 いくら空気を吸い込んでも、あの胸くそ悪い女の霊を振り落とせない。そんな気がして周囲の心配を余所に、焔は深呼吸し続けた。
「意識を失わない人は、初めてです」
 宗主の菊人が、驚いたようにつぶやく。
 当然この程度の霊で倒れる事はない。
 そう強がろうとした刹那、全てを見抜いていた男――沙倉唯為が、低い声で言った。
 引き分けか、と。

 観客が静まりかえっている。
 パンフレットをめくる音も、ほとんどない。
 鶴岡八幡宮を囲む森さえ、風に梢を揺らすことなく。静寂がその一帯を包み、俗世から切り離された神聖な空間を作り出そうとしているかのようだ。
 朔羅はため息をついて、目の前の鏡を見る。
 手元には檜の箱にいれられた、小面がひとつ。
 一体何人が、この小面をつけて舞つづけてきただろう。
 何を想い、何をおもわれ、舞台に立っただろう。
 丁寧に塗りを施された小面は、答えない。
 ただ、木独特の柔らかい手触りを、朔羅に伝えてくるだけだ。
「大丈夫、かしら?」
 黒い髪を肩から払いながら、シュラインは言う。
 何一つ解決しないまま本番を行う。菊人の出した結論はそうだった。
 いや、解決するには、本番を行うしかないと唯為が提言し、焔もそれを支持したのだ。
「さあ、どうかな。ただ」
「ただ?」
「私は、菜摘の女を舞う。それのみ」
 何が起ころうと最後まで舞う。それがおそらく解決につながるのだ。
「そうねぇ」
 頬に手をあててシュラインはため息を付いた。
(能、二人靜、由比ヶ浜、くやしい、奪われた全てを与える。か)
 メモの言葉を繰り返す。
 何かが形になろうとして消えていく。
 何が?
 途端、ひらめいた。
「ねぇ。確か歴史上で靜御前が舞を舞ったのも、ここだったわよね?」
「ああ」
 言葉にうなづいて、息を飲む。
 静御前も、舞を待った。
 律子がおかしくなったのは由比ヶ浜近くに引っ越してから……。
「まさか」
 異口同音に二人がつぶやく。
 と、舞台の始めを知らせる口上が聞こえた。

 ゆるりと、舞う。
 風に長絹の袖を泳がせながら。
 それは透き通るような無垢な美しさだ。
 果たし得ない、願いを願う靜御前の悲しみ、願いかなわないもどかしさと苦しみ。
 切ない。そんな陳腐な一言に集約することは出来ない。
 そう、シュラインは想う。
 抜けるように白い足袋が、流れるようについ、と動く。
 全く同じである双の小面は、微妙な演者の動きにより、楽しげにも悲しげにも見えた。
 謡いに合わせて、唇を動かす。
 場はゆっくりと、合舞へと進んでいく。
 源義経を思い、にくき頼朝の前で踊った、あの舞の場面へ。
(え……)
 ぞくり、と背筋が震えた。
 蒼い光が朔羅を包んでいる。
 絹の模様に光が弾かれたか、と想ったが、それとは違う。
 蒼い光が、まるで朔羅を守護するように。否、朔羅と蓮を守護するように舞台をたゆたっている。
 音にまじってかすかな声が聞こえた。
 ――返すよ。と。
 柔らかく優しい少年の声だ。
(憎しみから蓮からすべてを奪おうとするのなら、僕は奪われた全てをあの人の息子として、そして蓮の舞を愛する者として蓮に与えよう)
 藤也の言葉がゆるりと心を揺るがした。
 人ならざる蓮の舞。そして技のみと唯為に評価された蓮の舞。
 二人を合わせ半分にしたとしたら……。ちょうど「一人前」だったのではなかろうか。
 そして、与えられた舞を返したいが為に、蓮は「菜摘の女」として最後の舞台を共に舞おうとしていたのだろうか。
 無意識に与えて貰った、蓮の「舞」の力を返し、自分の「舞」の力を、これから生きていく弟に捧ぐ。
(ああ。だとしたら、そうだわ)
 まぶしいものをみるように目を細めた。
 二人分の「舞」の力と、いとおしさを一人の普通の能楽師が受け止める事など出来ない。
 受け止めてさらに返すなど、至難の業でしかない。
 神々しさをます二人の舞をみながら、シュラインは全てを理解した。

 優しさを感じる。
 まるで、何かを教えるように、ずっと背後に一人の少年の霊がいる。
 朔羅の腕に、そっと燐光がよりそう。
 大人が子供に何かを教えるように、強引に動かすのではなく、そっと、導く。
(これを、やりたかったのか)
 二人静は二人の息が合わねば成り得ぬもの。
(……兄弟の舞、見てみたかったな)
 このようなやさしい心もつ舞ならば、きっと桜がまうようなはかなく美しい舞台になっただろう。
 だが。
 もう蓮には肉体がない。
 だから、せめても。このひと時だけは。と朔羅は心をゆっくりと開きながら、腕を、燐光の、蓮の意志にまかせた。
 朔羅が動く。
 その動きに誘われるように、藤也の舞が、一段と鋭く、透明に磨き上げられる。
 謡いの声が、遠くへと飛ぶ。
 喉をふるわせる。
 声を完全に支配する。
 言葉に、言葉を重ね、ひとつひとつに意味を「言魂」を込める。
 とまどう蓮の霊を導くように。
 もとから言葉の持つ霊力を使い、彷徨える霊等を本来それらが進むべき道へ導く力でもって、あやかしを「あるべき場所」へ送り返す力持つ朔羅だ。
 難しい事ではない。
 赤字桃に藤模様の、鬘帯が、舞にあわせて空気を薙ぐ。
 金地に藤模様を散らした二つの扇が、くるり、くるりと閃いては、初夏の陽光を返す。
 まるで天上の蝶が舞うように、扇が、帯が、袖が舞う。
 女性の紛争を表す紅入、赤い色を用いた衣装は華やかさと同時に、どこか悲しい恋慕を表している。
 これは、合舞ではないな、と苦笑する。
 ここは二人ではない、三人が居る。
 藤也と、朔羅。そして蓮が。
(なんとも豪華な、舞台なことだ)
 ――それのみならず憂かりしは。頼朝に召し出され。静は舞の上手なり。とくとくと有りしかば。心も解けぬ舞の袖。
 地の謡方が、告げる。
 頼朝が靜が舞の名手としり、この場所で舞わせた下り。
 二人靜のクライマックスだった。
 息を吸う。そして全身の力をひとつの言葉に集約する。
 ――賤やしず 賤の苧環 繰り返し 昔を今になすよしもがな。
 一瞬、時がとまった。
 蓮と藤也が朔羅をみていた。
 そうだ。
 昔を今に返せればよい。だが「できはしない」のだ。
(振り返るな)
 前を見て行け。
 言霊を込める。二人に告げる。
 ふと、二人が能面の下で微笑んでいるのがわかった。
 朔羅の言葉に応えるように。
 ――弔ひ給へ静が跡を・弔ひ給へ。
 そして、曲が終わる。
 静寂の中で、朔羅はそっと唇を動かした。
 弔ひ給へ蓮が跡を。と。

 決着をつけたくはないか? という唯為の言葉は渡りに船だった。
 否、言われなくても、繰り出していたに違いない。
 本番の舞台はシュラインと朔羅に任せておけばいい。蓮ならばあの二人で押さえられる。
 そんなものよりもっと「大物」が引っかかっているのだ。
 結末を見ずにいられまい。
 由比ヶ浜は、夕方とあって靜だった。
 日が暮れたからか、犬の散歩の姿もない。
 ただ、寄せては返す波だけが、耳に優しく、寂しい。
 と、一人の女性が現れた。
 身なりの良い薄紅色のブランドモノのスーツ姿。
 砂浜に不似合いな、ヒールの高い靴。
 綺麗に整えられていた筈の、髪は、海風にほつれ、女性を狂女めいて見せていた。
 否、事実狂女なのだ。
 焦点の合わない瞳のまま、ふらふらと歩いている。
 涼乃宮律子。
 蓮をあやめた犯人……いや、あやめるように操られた犯人だ。
 本来ならば、このような場所に居るはずがない。
 望みどおり舞台は成功し、蓮は能楽師として道を歩み始めたのだ。
 ようようと自慢話をし、息子を褒め称え、周囲を辟易させているべきなのだ。だが。
 違う。
 もはや彼女の役目は終わりに近いのだ。
(解放してやらんとな)
 くっ、と喉をならし、指を闇に走らせる。
 途端にほの白い光が爪にともり、闇に不可思議な文様を描き出す。
 海の際だ。呼び出す雑霊には事かかない。
 ひとつ、ふたつ、みっつ。
 手まりのように、浮遊する霊が形となり、律子の前に現れる。
 と、律子は顔をあげて霊の光を、その向こうで壮絶な笑みを浮かべている焔を見た。
「おのれ……邪魔だてする気か」
「ふん、十分に遊んだだろう?」
「まだ足りぬ……まだまだ足りぬ。我が息子いきておりすれば、このような栄華を越える栄華を手にしたり」
 やけに時代がかった口調で律子が言う。
「そうかな? だが地獄の向こうでお前が殺した息子が、手招きしてるが? ほら」
 つい、と指を動かす。
 その動きに合わせて、燐光が律子の後ろへと飛んでいく。
 狼狽のままに律子は振り向き、悲鳴を上げた。
 そこには、静御前がいた。
 砂地とはおもえぬほど、すらりとした立ち姿。
 海風に舞う長絹は深い宵の紫。
 手に持つ扇は藍色を基調にした、愛別離苦の狂女を表す白群露秋草模様。
 烏帽子は歪みなく、かづらの髪は風にさらされながらも乱れてはいない。
 それは、静御前だ。
 だが、あの舞台の華やかな靜ではない。
 憎む男の前で踊らされ、望みもしない命を与えられ、そして――宿っていた愛する男の子を、この砂浜に沈め殺された。
 影の靜御前だった。
 つい、と扇が動く。
 それは蓮や朔羅の柔らかさとは違う。
 向かい来る夜の汚れを切り裂く刃のような、冷たく鋭い動き。
 能面は、断罪するかのように冷たく、傲然と律子を見ている。
 波の音が、鼓変わりに拍子を取る。
 遠く飛ぶ海鳥の鳴き声は、笛の音となり律子を責め立てる。
 ゆるりと、だが、確実に「静御前」は律子に舞い近づき、そして追いつめる。
 ――世間を。
 朗と声が、周囲の全ての音を圧倒した。
 ――世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。
 万葉の一句を歌とし、「静御前」は即興の舞いを舞う。
 ――されども、枯れ果てぬ夢あくがれ濁る心もて、現世さまよう故よあはれ。
 ぴたり、と扇を律子の首筋にあてて、「静御前」は動きを止めた。
「いい加減にしようか、靜御前さんよ」
 燐光を操ったまま、焔が言う。
 そうだ。事件を起こしたのは律子である。
 だが、そのきっかけは違う。きっかけは。
「うぬらに、わかりはせぬ。我がさずかりし義経殿の御子を、あの頼朝に沈められた悔しさは」
 自分の子供が生きていれば、義経がいれば。
 この鎌倉の栄華は、自分の愛する男と息子のモノだったのだ。
 と、律子が……いな、静御前の霊が憎々しげにつぶやいた。
 二人靜の合舞が、靜を誘った。
 律子の、自分の息子に栄華が来ない悔しさが、その居場所を作った。
 亀岡八幡宮という場所で、呪いは形となった。
 全ては、この静御前の霊が……そして鎌倉という場所によって作られた、事故ともいえる呪いだった。
「歴史に「たられば」は有り得ない」
 靜に乗り移られた律子が歯をむき出した。
 懐から扇を取り出し、それを広げ、振り向き様に「静御前」を払う。
 と、能面に扇が当たり弾け飛び、唯為の白面が現れる。
「往生際の、悪い」
 皮肉げに笑う。
 しかし、これで、律子を呪縛していた舞の効果はうち破られた。
 繰り出される扇の攻撃を、同じく軽やかな舞い手の動きで交わす。
 それはひとつの合舞であった。
 ただし、調和ではない。
 戦いの、意志と意志がせめぎ合う乱拍子の舞い。
 たとえ沙倉唯為であれども、歴史的な白拍子であり、舞いの名手である静御前相手ではいささか分がわるかった。
 砂地という足場に、装束の動きにくさも負の素因であった。
「ち」
 かすった扇が、唯為の頬に浅い傷をつけ血を流させる。
「見てないで、手伝え」
 荒々しく吐き捨てる。
 先ほどから高みの見物をしている焔に対して、だ。
「いや、なかなかにすさまじい舞台だなと」
 傍観者のように気楽に返す。
 これほどまでに洗練された舞台というのは、なかなかおめにかかれない。だから、見ていた。
 単純かつわがままな言葉に呆れるまもなく、唯為に向かって閉じた扇が突きと共に繰り出される。
「やはり、命がけというのは、美しいな」
 軽やかにいい、焔は指を鳴らした。
「だから、見物人があつまる」
 に、と白い歯を見せる。
 刹那。
 波の合間から、甲冑の男達が現れた。
 ししおどしの肩当て、三日月を模したかぶと。折れた太刀や、血にぬれた腕。
「ひ」
 靜御前が狼狽した。
 あわててきびすを返して逃げる。
 霊が恐ろしいのではない。焔が呼び出したのは義経を追いかけ、靜をとらえた頼朝の追撃兵の霊だった。
 過去とはいえ、本能的に刻まれた逃亡者の記憶は捨てられなかったようだ。
「俺で遊んだ代金は、高い」
 もう一度指をならし、裂帛の声とともに手のひらを前に突き出す。
 武者の霊が律子を一斉に遅いかかり、そこに憑依していた静御前の霊をむしばみ、覆い尽くす。
「消えろ」
 端的に言った瞬間、全ての霊が激しく内側から光り、音もなく弾けた。
 とさり、と律子が砂浜に倒れる音がした。
 それが最後の幕であると告げるように。

「無茶をする」
 半分固まりかけた、唯為の頬の傷を朔羅は指先で撫でる。
 ひりつく痛みがあるのか、かすかに唯為が顔をしかめた。
 普段みない、子供っぽい仕草に、つい咎めるような口調で言う。
「靜御前の本物が、全てをなしていたとは。無茶にも程があろう」
 霊とはいえ、歴史に残るほどの舞い手と舞いで闘うとは。
 考えるだけで恐ろしい。
 だが、それをやってのけるからこそ沙倉唯為なのだろう。
「拗ねるな。蓮は蓮で放っておけぬと想ったまでだ」
 ぶっきらぼうに吐き捨てて、唯為はタバコを口にした。
「拗ねる? 私がか?」
 あの兄弟を放っては置けないというのはわかる。
 しかし、何故自分が拗ねなければならないのだ。
「お前も、見てみたかったんじゃないのか? 静御前と俺の対決を」
 からかうように言い、止めていた車の助手席のドアをあけた。
「知らぬ」
 ぷい、と着物の裾を蹴りさばき、背中を向ける。
 送っていくつもりなのだろうが、このままでは好き勝手につつかれるだけだ。
 それぐらいなら歩いた方がまだマシだ。
「お、おい」
「まったく、馬鹿とやらにつける薬はなさそうだ……」
 珍しく狼狽した声を心地よく感じながら、朔羅は鶴岡八幡宮に背中を向けて歩きだした。
 あわてて追いかけてくる唯為を背中に感じながら。空に浮かぶ月を見ながら歩いた。
 皐月の月は、どこかぼんやりと白く柔らかく。
 二人の能楽師を笑っているように見えた。
 

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0599 / 黒月・焔(くろつき・ほむら) / 男/ 27 / バーのマスター 】
【0733 / 沙倉・唯為(さくら・ゆい) / 男 / 27 / 妖狩り】
【0579 / 十桐・朔羅(つづぎり・さくら) / 男 / 23 / 言霊使い 】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、立神勇樹です。
 さて、今回の事件は「エピローグを除いて9シーン」に分割されております。
 能を題材にしたシナリオは初めてでしたが、上手く和風な雰囲気はでていましたでしょうか?
 ちょっと複雑になったかな? と反省するところもしきりです。
 また2年前の事件のからくりですが。全員正解されてました。
 また「なぜこのキャラが、こういう情報をもってこれたのかな?」と思われた方は、他の方の調査ファイルを見てみると、違う角度から事件が見えてくるかもしれません。
 もしこの調査ファイルを呼んで「この能力はこういう演出がいい」とか「こういう過去があるって設定、今度やってみたいな」と思われた方は、メールで教えてくださると嬉しいです。
 「能」という題材は奥が深いので、また単発でシナリオを出すかと思います。
(雪月花の小面の話や、翁の話など、本当に深いですね^^ 空想をかきたてられます)
 興味を持たれた方は、ご愛顧くださいますようお願いします。
 またあなたと私で、ここではない、別の世界をじっくり冒険できたらいいな、と思ってます。

 十桐 朔羅様
 はじめまして。
 なのでしょうか。どうやら沙倉さまのPLと同一の方のようで。
 一応二人の性格の違いを描写に出すように心がけてみたり。同じシーンを別視点で書いてみたりしましたが。
 お気に召していただけましたでしょうか?
 口調の件本当にもうしわけありませんでした。
 また、別のお話でお会いできれば幸いです。