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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


僕は何者ですか?

------<オープニング>--------------------------------------

 ガタンと電車が大きく揺れる。
 腕組みしながらうつらうつらしていた名壁智也は前につんのめりそうになり、ガバッと置き上がった。
 車内は先ほどの揺れなど何でも無いことのように静まり返っている。智也は瞬きして目をこすり、それから慌てて立ち上がった。
 ここは、何処だ?
 智也は慌てて窓にとりつく。しかし電車は駅と駅の間を走っているところらしく、線路に寄り添うようにして建っている背の低い家々しか見えない。
 電車は突然トンネルに入る。智也の行動範囲に、トンネルを通る場所など無かったはずなのだ。
 鼓膜が痛くなり、智也は呆然と窓の外を睨みつづける。
 鏡のようになった窓には、見覚えの無い青年が写っていた。
 酷く地味な青年だった。シャツにジーンズ、中肉中背。年のころは智也と同じだろうが、見覚えは全く無い。
 しかしその青年が、驚いた顔をしてガラスに写っているのだ。
 ガラスに向かって手を押しつける。地味な青年も、同じように手を押し付け返してくる。
 どういう、ことだ。
 智也は頬や腕を叩いてみる。電車の両脇に座っていた婦人が、智也から離れようと身体を捻っている。
 もう一度顔を確認しようと思った時、電車はトンネルを抜けた。
 窓の外は明るく、もう智也の姿を写してはくれない。
 JR新宿駅に到着した電車から、智也はふらふらと降りた。
 ポケットの中にサイフが入っている。サイフには家の物らしい鍵がくっついていた。それから、携帯電話。プロフィール画面を見てみるが、携帯電話の番号とEメールアドレスが表示されるだけだ。名前は判らない。
 Eメールの履歴を見る。見知らぬ人の名前が延々と連なっている。送信履歴もまた。一つのメールを開いてみたが、この携帯電話の持ち主の名前は判らない。
 サイフの中には定期も免許証も入っていない。カードのところにはイオカードタイプのスイカと、キャッシュカードが二枚入っているだけだ。キャッシュカードに書かれた名前はイワイヨシノリ。
 そんな名前の人間は知らない。
 智也はトイレの中で自分の所持品を全て出してみた。サイフ、鍵、携帯電話。それしかない。
 イワイヨシノリと智也の関係を示すようなものは何も無い。トイレの鏡に写るのは、智也がどう頑張ってもお友達にはならない類の地味で根暗そうな顔。
 違う。自分はこんな顔ではない。自分はもっと……
 もっと?
 智也は愕然として、鏡の前に立ち尽くした。
 思いだせない。何も。何もだ。
 自分の顔も、何もかも。自分が、名壁智也という名前であると言うこと以外、何も。
 智也はふらふらとトイレを出た。幸いスイカイオカードの遣い方は判っていて、改札は問題なく通ることが出来た。
 新宿東口から人ごみを避けて歩き、階段を上って外へ出る。見なれたALTA前には人がごった返しており、大きなオーロラビジョンでは丁度今日の天気と明日の天気を放送している。
 日が、暮れようとしていた。
 
 ×
 
 シェルは青くなってあたりを見まわしていた。
 掴んでいた風船の一つが、何処かに飛んでいってしまったのである。
 死に神であるマザー・ムシュのところにシェルが拾われてきたのはもう随分と昔になる。マザー・ムシュは死に神だが、天使の仕事の代行のようなことをやっていた。シェルはなんでも意識が育った直後に死んでしまった胎児の幽霊だということで、マザー・ムシュは出来かけの意識を持った幽霊を消去してしまうのが突然寂しいことのように思えて、生かしてくれた。死に神の娘にしてくれたのである。
 そんな死に神の娘は少なくなかった。マザー・ムシュは幼くして死んだ魂や、不幸なことに自分の死に気付かない幽霊などを時折哀れんでは、仲間に引き入れるのだ。
 マザー・ムシュの仕事は、人々の最後の息を引き取りに行くことである。本来ならば天使の役目なのだが、シェルたちが仕事をしているこの国は人が本当に複雑に沢山死んでいる。逃げたり迷ったりするので、捕まえるのが一苦労なのだ。天使は他にもたくさんの仕事があるし、マザー・ムシュには娘が多い。そのため、マザー・ムシュは娘たちを遣って最後の息を集めて天使に渡すと言う仕事をしているのだ。そのついでに、死ぬべき者の枕元に立ったりする。
 本業と副業が逆転してしまったような忙しさなのだ。
 シェルは今日初めて、仕事を言い遣った。一番最近に娘になったシェルはまだ一度もマザー・ムシュの手伝いをしておらず、姉たちのようにマザー・ムシュの仕事を手伝う日を心待ちにしていたのだ。
 そして、失敗した。風船に詰めた最後の息の一つを、逃してしまったのだ。
 探しに行かねばならない。
 彼はまだ、自分が死んでしまったことに気付いていないのだろうから。
 
 ×
 
 自分は誰だ。誰だ。誰なんだろう。
 そう思いながら新宿を徘徊し、智也はやけになって酒を飲んだ。自動販売機で買った缶ビールでは味気ないと思い、何だか親近感を感じた大型チェーンの居酒屋に入り、飲み放題にしてひたすら飲んだ。
 結果、酔った。
 酒を飲んでいる間だけは、「何故」「何が」を繰り返さずに済む。そう思って飲んでいたら、したたかに酔った。
 このまま泥酔して、目が覚めたら何もかも平穏ならいい。
 そう思い、新宿の町をふらふらと歩いた。
 夏のはじめにある新宿は、何処もかしこも生ごみの腐ったような気持ちの悪い匂いがしていた。そして、智也の中に「新宿の夏はいつもこうだ」という思いがある。
 こういうことは判るのに、自分のことが思いだせない。不思議なことだった。
 歩きつかれて、智也はあるビルの前に座りこんだ。
 腰を下ろすと、もう眠気に勝てなかった、まぶたが重く全身が倦怠感に包まれている。
「おい」
 乱暴な声が掛けられたのはその時だった。
 煙草をくわえた男が、不機嫌な顔で智也を見下ろしていた。
 智也が緩慢な動きで見上げると、顎をしゃくる。
「ここはオレのビルなんでね。酔っ払いに座りこまれて汚されると困るんだ」
 つっけんどんに言い放つ。智也は壁に背中をこすり付けるようにして立ちあがった。
 二階の窓が奥から光っており、窓に張りつけられた「草間興信所」の文字が見える。
 智也は興信所の文字に衝撃を浮け、男を見た。
「倒れるなら隣のビルにしてくれ。遠くにいってくれりゃ、遠いほどいい」
 男は口を動かして、そう言う。煙草をつまみ、とんと弾いて灰を地面に落とした。
「あの」
 智也は救いを求めるような眼差しで男を見つめた。
「探偵さん、なんですね? 僕のことを、僕は何か……」
 智也は男に向かって一歩踏みだす。
「僕は、何者なんですか?」
 ろれつの回らない声でそう言う。男が、気味悪そうに顔をしかめた。
 智也の意識がもったのは、そこまでである。
 男の困ったような顔を目に焼き付けて、智也はばったりと道に倒れた。


 煙草を買いに行く、と言って出ていった草間が三十分ばかりかけて戻ってくる間に、シュライン・エマはすっかり片付けを終えていた。
 文句を言う口が不在な内に、ここ三日で荒れ放題に荒れた所長机の上を片付けたのだ。 ゴールデンウィークという時期には、何を考えているのかよく判らない者も沢山コウシンジョを訪れる。ミステリ作家志望の学生が飛びこんできて取材を申し込まれたり、新しい戸籍が欲しいなどとお門違いの依頼を持って来る者、駆け落ちしたいから手伝って欲しいと申し出る若いカップル。などなど。
 それらをさばいて、時に叱り、時になだめすかして帰らせるだけで手一杯になるのが、草間興信所のゴールデンウィークである。そしてシュラインともう一人のアルバイト野田桃子が奔走している間に、所長の草間がやることといえば机の灰皿を吸殻でいっぱいにすることぐらいだ。今年の春は気温が高く、「こういう日はビールがうまい」なんて言いながら今回は新発売のビールや発泡酒の缶を積み上げることまでしてくれたのである。
 客の応対をしながら小言を差し挟んでも一向反省の気配が無く、こうして草間が席を離れている間に掃除をすることになったのだ。
「け、結構重労働だったわね」
 煙草の灰がこびりついたデスクマットまで綺麗に拭き、シュラインは溜息を付いた。
 吸殻と空き缶をごみ袋に詰めた桃子も、「本当です」とか言いながらやや疲れた様子だ。
 最後の仕上げに背中側の窓を大きく開け放って空気を入れ替えていると、やっと草間が帰ってきたようだ。来訪者を告げるドアホンが鳴る。
 桃子とシュラインは同時に振り返り、そして同時にぽかんと口を開けた。
 草間が、ぐったりした青年を引っ張っていたのである。
 
 ×
 
「すみませんでした」
 アクエリアスの500ミリペットボトルを一息に飲み干し、青年がよろよろと頭を下げる。シュラインは草間の隣、青年の正面に座りこんだまま、呆れた眼差しで青年を見つめた。
 少し暗そうではあるが、そこそこ整った顔立ちのごく普通の青年だ。身なりも綺麗で、とてもホームレス予備軍には見えない。
 シュラインが促すような目で草間を見つめると、草間は口をへの字に曲げて首を振った。
「ビルの下で座りこんでたから、吐かれたりしたら困ると思って声をかけたら、目の前で倒れたんだ。放っておいて死なれても嫌だし、連れて来た」
 言い訳するような早口でそう言う。
 奥のミニキッチンでタオルを濡らして来た桃子が、青年にタオルを差し出す。
 青年は乱暴に顔を拭い、くるくると丸めてぽんとテーブルの上に置いた。
 草間興信所の応接セットだ。主に依頼人と商談をする時に遣われる場所だ。
 青年は三対の瞳に見つめられ、更に隣に座った桃子が膝の角度まで自分の方に向けて話を聞く態勢を作ってしまったので、話さないわけには行かないと感じたらしい。俯き加減にぼそりと「嘘だ、とか言わないで欲しいんです」と前置きしてから口を開いた。
 シュラインは話を聞くときの癖でメモを取りながら、あちこちに飛ぶ彼の話をうまく誘導してやる。
 青年の話が終わり、桃子がぽかんとした顔のまま長い溜息を吐いた。
「記憶喪失ではないのね」
 シュラインは確認とも独白ともとれる言い方で呟く。彼の名前は、名壁智也。彼に判るのは、今の身体が名壁智也のものではなく、そして何故か今こうして新宿に居る。ただそれだけのようだ。
 雲を掴むような話だった。名壁智也。佐藤なにがしや鈴木なにがしよりは少ない名だろうが、それだけで一体何が判ると言うのか。
 彼はこの状況にすっかり落胆してしまっているらしい。僕は何者なんだと小声で繰り返していた。
「誰でも、いいんじゃないのか?」
 あっさりと切り捨てたのは草間だ。シュラインは驚いて隣の所長を見る。
 相手がクライアントではないからか、酷くゆったりとソファに腰かけた草間は早速新しい煙草の封を開けている。一本取り出し、火をつけて深く吸いこんだ。
「ここは新宿。自分の本当の名前なんて忘れちまったヤツも、それを忘れたくてさまよってるヤツも山ほどいる街だ。ま、お前みたいなのがいても結構何とかなるさ。健康な大の男なんだしな」
 草間はうんうんと頷く。
「会話や常識には困ってないんだろ? んじゃ、お前は今日から生まれ変わった名壁智也として生きていけばいい。めでたしめでたし。ほら、立て」
「ちょ、ちょっと、岳彦さん!」
 シュラインは慌てて腰を浮かす。草間はくわえ煙草で手を持ち上げ、青年に立ち上がるように示す。
「桃子、お客様のお帰り」
「所長! そんな、放り出すって言うんですか?」
 桃子も慌てて首を振る。草間は面倒くさそうに眉を寄せ、シュラインと桃子の顔を交互に見た。
「どうしろって言うんだ。バイトの手は足りてないが、オレは男なんて遣いたくないぞ」
「また、冷淡から温厚まで考えが飛ぶわね。どうにかしてあげないの?」
 シュラインは立ち上がって腕組みする。草間は面倒くさそうに首を振った。
「どうにもなりません。男は一人で生きていけばいいの」
 茶化した調子で言う。
「せめて、記憶喪失の原因探ってあげたりとか、しないんですか?」
 桃子が責めるような声を出す。シュラインも頷いた。
「袖擦りあうも他生の縁。って言うじゃないの。名壁クン、今夜はここのベッドを貸してあげるわ。明日、ちょっと四人で考えてみましょう。その代わり、ちょっと事務所のお手伝いしてね」
 シュラインはさっさとそう決め、奥の仮眠室を指差す。ちゃっかりと翌日の無料バイトの手も確保して、よしと大きく頷いた。
「じゃ、私帰ります。また明日」
「送りますよぉ。シュラインさん」
 桃子がシュラインの手際に感動したのか、ぱたぱたと手を打ち鳴らす。にっこりとそう言った。
「あらそう? じゃあお言葉に甘えちゃおうかしら」
「春のドライブ、二輪だと最高ですよ。それじゃ所長、また明日ー」
 二人はバッグを掴み、煙草をくわえたままぽかんとしている草間に元気に手を振った。
 
 女性二人がばたばたと出ていった後、草間はようやく口を閉じる。
「おい。所長は、オレ」
 困ったような声でそう言った。
 
 ×
 
 不況と言う泥沼の中で、日本経済が喘いでいる。
 大きく揺れ動く流れに乗り損なえば、何もかも無くすのではないか。そういう思いが企業人の胸に宿り始めて久しい。社交場で交わされる会話も躁鬱状態で、あっちが上がればこっちが下がり、世の中は終わりの無いシーソーゲームのただ中にあるようだった。
 人生というものの底と天井を同時に知る荒祇天禪は、人の心と世界の大きさを引き比べて哀れんでみたり、その中で喘ぐ様を微笑ましく眺めたりする日々が続いていた。
 一昔前は会長職とはつまり隠居の名誉職であり、実際は一歩離れた場所から会社の成り行きを見守るものであった。しかし、最近では会長こそが事実上のトップであり、社長は次席という企業が増えてきた。天禪の会社も例に漏れない。人が育っていないわけではないが、どうにも天禪に依存しているきらいのある者が多いのだ。
 それが突然窮屈になる。何か楽しいことに出会ってみたくなる。
 それを天禪は「退屈の虫が騒ぎだした」と呼んでいるが、今回も虫が腹のあたりで暴れ始めたのだ。
 こうなると、もう仕事など手につかない。そうでなくとも天禪は人ではなく、いつ何時特殊な理由で人間社会から身を隠さねばならくなるか判らない存在なのだ。人間のふりをする以上、一定年齢で死ぬふりもせねばならない。天禪がふと出かけてもうろたえないように教育はしてある。
 秘書に後を任せ、徒歩で外へ出た。春の陽気が初夏の暑さに吹き飛ばされている。スーツ姿の者は暑そうに、若者は早々と二の腕を晒して歩いている。
 散歩がてら、新宿に行ってみようと考える。
 草間興信所という空間は天禪にとって、退屈な時に開くおもちゃ箱のような場所だった。
 
 ×
 
 弱弱しくも静かな光が、戸惑うように揺れながら浮かんでいた。
 新宿ALTAビル前の雑踏でそれを見つけ、天禪は視線を定める。人魂のようだがそれよりももっと静かな光だった。
 ふわふわと人ごみを抜け、何かを確かめるように人々の後頭部あたりにまとわりついては離れると言うことを繰り返している。
 目を凝らすと、ぼんやりと姿が透けて見えた。
 十歳ほどの少女に見える。黒いハイネックのワンピースを着ており、巨大なストローを手に持っていた。大きめのポシェットを首から下げている。
 驚くほど澄んだ瞳をしているが、きゅうっと眉根が寄せられて哀しそうな顔をしている。どうやら探し者をしているようだと、暫く眺めていると判った。
「どうした」
 天禪は静かに少女に声を掛けてやる。少女は驚いたように天禪を見た。
 大きなストローを握りしめ、恐る恐る天禪に近づいてくる。
 瞳をぱちくりさせながら、天禪の目の前に辿りついた。
「お前は何者だ」
 天禪は少女に話しかける。少女は大きな瞳を更に大きく見開いて、天禪を見上げる。
「シェルです」
 小さな声でそう言った。
 面白い少女だった。霊体のようだが、色々なものに対する執着と言うものが全く見えない。余りに無垢で儚かった。
 天禪は興味をそそられて少女に話しかける。おずおずと答えた言葉を総合すると、こうだった。
 少女はマザー・ムシュという死に神の30番目の娘でシェルという。初仕事の最中に、死者の最期の息を詰めた風船を無くしてしまい、こうして風船を探している。という。
 しかしシェルにも風船や最期の息については判らないことが殆どで、どうやって探したらいいのか見当もつかないし、どうなるのかも判らないと言う。天禪は面白くなって唇を歪めた。
 少女を伴って雑踏を抜ける。八咫烏はすぐに天禪に気付き、肩へと舞い降りてきた。
 東京は八咫烏の根城だ。全てのカラスの目は彼の目になり、失せ物探しで右に出るものは居ない。
『変わった者をお連れで』
 はシェルを見てそう感想を述べる。天禪は微かに笑った。
「この娘が、最期の息を詰めた風船を無くしたそうだ。見つけてやりたい」
『風船でございますか』
 八咫烏が驚いたような声を出す。ばさばさと羽根を揺さぶった。
『昨日の昼過ぎのことでございますが。妙な光を見つけたました。それが、言われて見れば風船に見えないこともないような』
「それをどうした」
『わたくしめが近づきましたら、ぽんと弾けてしてしまいました』
 八咫烏は済まなそうに言う。
 どうやら鳥の言葉が判らないらしいシェルに、天禪はそれを通訳してやる。シェルの顔が青くなった。
 頬を両手で覆う。困ったように俯いてしまった。
「何か、判ることは無いのか」
 天禪は少女に声を掛ける。シェルはふるふると首を振り、また俯く。
「シェルは、印が出ている人のところに行って、このストローで最期の息を吸って、風船に移して持って帰ることしか知りません」
 天禪はシェルの肩をぽんぽんと叩いた。
『あのう』
 八咫烏がおずおずと嘴を挟む。
『関係無いことかもしれませんが、草間殿のところに昨日、妙な男が転がりこんだようですよ』
「ほう」
 天禪は興味を示してカラスに手を伸ばす。八咫烏は天禪の指に嘴を擦りつけた。
「そういうものを引き寄せるのもヤツの特技だったな。話してみよう」
 八咫烏はホッとしたように空を仰ぐ。羽根を羽ばたかせ、天禪から離れた。
 草間興信所までは、歩いて数分だ。天禪はシェルを促して道を歩き始めた。
 
 ×
 
 午後になってようやく一息吐く暇が出来た。
 シュラインは応接セットのソファに深く座りこみ、大きく背もたれに寄りかかる。草間の視線が反り返った胸にとどまっているのに気付き、じろりと横目で睨んでやった。
「お昼食べ損なっちゃったわね」
 これ見よがしに襟ぐりをつまんで直し、そう呟く。今日は朝から、ひっきりなしに客が来ている。どれもこれも、衝動的に興信所に駆け込んだと思われるような些細なことで、シュラインは今日だけで十回は「奥さんの浮気を疑う前にゆっくり話を聞いてあげてみてください」という台詞を言っていた。
「名壁クン、お腹空いてるでしょう」
 草間が大量にためこんでいた力仕事を一気に押しつけられた名壁智也は、ぐったりして奥のミニキッチンで手を洗っていた。
「あたしもお腹が空きました」
 同じように来客の応対に奔走した桃子が、シュラインの向かいでお腹をぽんぽんと叩く。
「お腹空いたわ、所長」
 シュラインはデスクの上を散らかして煙草を吸っている草間を見る。
「お昼、ピザでもとりましょうか。ね、所長」
「ピザ代出せって言ってるのか?」
 草間はようやく椅子から立ちあがる。尻ポケットからサイフを取り出した。
「わーい、所長のご馳走ですね! 名壁くん、ピザ何処が好き?」
 桃子が嬉々として三社のカタログを引っ張り出してくる。二日酔いの様子もなさそうな名壁は、嬉しそうにカタログを覗きこんだ。
「ねえ、名前以外のこと思いだした?」
 シュラインは名壁にそう尋ねる。青年はふと顔を曇らせ、ゆっくり首を振った。
「いいえ。全然ダメです。それどころか、段々色々なものが遠くなっていく感じがして」
「忘れちゃうってこと?」
 桃子が注文をメモに書きながら心配そうな声を出す。名壁は少し考えるような目をして、それから小さく頷いた。
「それって急がないといけないんじゃないの?」
 シュラインが問いかけると、名壁は困ったような顔をする。
「でも、手掛かりらしいものも思い出せないし」
「こうやってみると、意外に自分を特定できるものってないんですね」
 桃子がピザ屋に電話をしながら言う。注文を伝え、電話を切った。

×

 事務所の中は、チーズとトマトケチャップや香辛料の匂いに満ちていた。
 天禪はノックもせずにドアを開け、ちょっと顔を顰める。草間興信所の面々が、デリバリーピザを頬張っていた。
「これは会長。いらっしゃいませ」
 草間がのほほんとした顔で言う。
 その横に、見なれない男が座っていた。
 酷く影が薄い印象だ。表情は生き生きとしているが、消える寸前の幽体と同じ程度の生命力しか感じられない。
 シェルが天禪の横を擦りぬけ、青年に近づいた。
 そっと手を伸ばす。
 青年の首に、細い細い髪の毛のような糸が絡まっていた。
 その先を、シェルが摘まむ。
 天禪を見上げた。
 興信所でアルバイトをしているシュライン・エマだけが、シェルの光だけを捉えているようだ。シェルを見つめていた。
「光……」
 小声で呟いた。
「どうかしましたか、会長」
 草間がソファから立ち上がる。天禪は手を伸ばし、シェルの肩に手を置いた。
 少し力を注いでやれば、草間にも彼女が見えるだろう。
「この男は、何だ」
 天禪は、草間とシェルに同時に問う。シェルの返事は無かった。
 ただ、指に力がこもる。細い糸が、引かれる。
「昨日、オレの目の前で倒れた記憶喪失者です。この下で倒れられたんで拾ったんですが」
「待って、荒祇さん。その子は何なの?」
 シュラインが椅子から立ち上がる。
 シェルは無言で糸を引く。常人には見えない糸が、男の首に絡まって、ゆっくりと締めて行く。
 
 智也の視界の隅に、少女の姿が映った。
 黒い服を来た少女には見覚えがあった。何だろう、そう思った瞬間に息が苦しくなった。
 智也の脳内に、鮮やかな映像がフラッシュバックする。鋭い光、車が近寄ってくる轟音。酔いがいっぺんに冷めて、恐怖が足元から這いあがってくる。
 大きな、衝撃。
「うわああっ!」
 智也は立ちあがり、悲鳴を上げた。
 
 目の前で突然悲鳴を上げた名壁に、シュラインは駆け寄った。
 名壁は震えながら頭を抱え、少女を睨みつけている。少女は何かを掴み損ねたように手を虚空に差し出したまま、困ったような顔をしている。
「どうしたの、名壁くん!」
 シュラインは名壁の肩に手を載せる。倒れたコーラの缶から、甘い匂いのする中身がこぼれている。桃子が手を伸ばし、缶を拾い上げる。
「その青年の身体に、間違った魂が入っていると言っている」
 天禪が静かに言う。
「間違った?」
 草間がオウム返しに問い返す。天禪が頷いた。
「この少女は死に神の見習いだ。昨日、肉体を失った魂に逃げられている。それが、その青年だと彼女は言っている」
 天禪は静かに言う。名壁が血走った目を少女に向けた。
――死んだ、魂。
 シュラインは瞬きする。そんな印象は全く無かったのだ。彼は生命力に溢れているとはいいがたいが、それでもごく普通に生きている人間に見える。
「もう一度、僕に死ねって言うんですか」
 唾を飛ばして名壁が叫ぶ。天禪が冷ややかとも言える表情で頷いた。
「人の人生は、一度きりだ」
 静かにそう言った。
「嫌だ!」
 名壁が叫ぶ。シュラインを突き飛ばして立ち上がった。
「草間さんは、僕でも生きていける場所があるって言ったんだ。僕は死にたくない!」
 じりじりと後退する。膝が応接テーブルにぶつかった。
 少女が哀しそうな顔をする。逃げ出そうとした名壁を止めるように、桃子がドアの前に立ち塞がる。
 桃子はどうやら混乱しているようだった。名壁を逃がすのと、このまま見殺しにするのと、どっちが正しいのか判らないのだろう。
 シュラインも、混乱していた。だが。
 違う身体に入っている、という言葉が引っかかっていた。
 少女が巨大なストローを抱き、名壁に近付く。名壁は救いを求めるように、シュラインと草間と桃子を見る。
「名壁くん」
 シュラインは涙目になっている青年を見た。
「生きる権利は、その身体の持ち主にだってあるんじゃないのか」
 天禪が言う。この男は達観したような事を言う。
 シュラインはそこまで割り切れない。だが、名壁の命と、彼が入っている身体の意志、どちらを尊重すべきかも判らない。
 生きたいという気持ちは、どちらも同じくらい切実だろう。
「待って、待って、待って」
 シュラインは少女に手を伸ばす。ストローを握った。
「彼に、夢を見させた責任がお嬢ちゃんにあると思うの。だから」
「だから?」
 天禪が問う。何かを楽しむような目をしていた。
「チャンスをあげられないかしら。名壁くんに、この肉体にとどまるチャンスを」
「ほう」
 感心したような声を出し、天禪が少女の肩に手を置いた。
「どういうチャンスだ」
「ええと」
 シュラインは口篭る。そうは言ったものの、案があるわけではない。
「そういうのは、運を天に任せるってのがいいんじゃないか」
 草間が、場の雰囲気にそぐわないぞんざいな声を出した。
「天に?」
「出だしが偶然なら、結果も運だめしがいいんじゃないかと思ったんだけどね」
 煙草を取り出し、火をつける。
 大きく吸いこみ、ゆっくりと煙を吐きだした。
「五百円玉の裏表を当てるなんて、いいと思うぜ」
 のんびりと言う。名壁を指差した。
「どうする」
 少女が困惑したように、名壁と草間を見ている。シュラインは相変わらず一歩外れた思考をする所長の言葉に、くらくらするような怒りを感じた。
 茶化してどうするのだ。
「や、やります」
 頷いたのは名壁だった。
 草間は立ち上がり、ポケットに手を突っ込む。
「それじゃ、裏か表か選びな」
 名壁青年がごくりと生唾を飲みこむ。
 表。と言った。
「お嬢ちゃん、表が出たらこいつを見逃してやって欲しい」
 ちなみに、今回は500の文字の方が表な。と草間が付け加える。
 少女は困ったように、ストローを引っ張った。
 
 シェルが泣きだしそうな顔をしているのを見て、天禪は笑い出したい気持ちになる。随分と弱腰な死に神だと思った。
 少女の視線は空中をさまよい、名壁と草間、シュラインと辿った後天禪で止まる。
 人間ではありえないほど澄んだ瞳で見つめられ、天禪は軽く目を瞑った。
「やってみたいなら、やればいい。仕事をしたいなら、そう言え。お前の好きな方に合わせてやろう。コインを裏返すも、殺すも、簡単なことだ」
 シェルにだけ、そう伝える。少女の戸惑うような気配が伝わってくる。
「やります」
 小さな泡が弾けるような気配が伝わってくる。天禪は満足して頷いた。
 草間の指がコインを弾く。薄金色をした新五百円硬貨が宙に舞う。
 くるくると回るコインを、草間が空中で捉える。
 ぴしゃりと自分の手の甲に伏せた。
 
 静かに、掌をどける。
 
 裏。
 
 深い溜息が、シュラインと野田桃子、そして名壁と呼ばれた青年の唇から漏れる。
 シェルの中には感慨は無いようだった。ただ、決定したと思っただけ。
 人の死が決定する瞬間に立つフラグと、今草間武彦の手の甲にある五百円硬貨は大差がないのかもしれない。死に神にとって、それは時に車が衝突した瞬間であり、高い場所から地面に激突した瞬間であり、病魔が身体を蝕みきった時であり、老いが頂点に達した時であり。
 時には、五百円硬貨が裏側だった時。なのだろう。
 大きなストローが、青年の顔の前に突きだされる。
 彼の漏らした長い溜息を、少女の唇が吸い取る。
 少女はポシェットの中から風船をとりだした。真っ赤な風船だ。
 それに、ストローで息を吹き込む。
 糸を巻きつけて口を縛ると、風船が一つ出来あがった。
 
 ×
 
「やれやれ」
 倒れこんだ青年を見下ろし、草間が溜息をついた。
 シュラインは屈みこみ、青年の頬を軽く叩く。頬は暖かく、ややすると青年が目を開いた。
「あれ?」
 名壁青年のものとは全く違う声で、そう呟く。
「ここは……?」
 寝ぼけたような声を出して、むっくりと起きあがった。
「新宿よ」
 シュラインは青年に手を貸してやり、彼を立たせる。
 青年は状況が全く判らないらしく、きょろきょろとあたりを見回している。桃子がドアの前から退いた。
「階段を降りて、左手に進めば甲州街道に出ますから」
「え? え? え?」
 ドアを開いてやる。青年は促されるままに、のろのろと出口から出ていった。
 草間は青年が階段を降りていく音を聞きながら、ぽんぽんと五百円玉を弄んでいる。
 少女の姿が薄くなる。風船を掴んだまま、ふわりと宙に浮く。
 ゆっくりと消えていった。
「ふふん」
 荒祇天禪が、愉快そうにそう鼻を鳴らす。細めた目で、草間を見た。
「中中冷酷なことだな」
 楽しそうに、そう言った。
「探偵なんてやってると、人情とかだけじゃ食えませんから」
 草間が肩をすくめる。
 シュラインの方に、五百円玉を投げてよこした。
 シュラインは両手で硬貨を受け取る。
 両方とも、裏。
「な!」
 シュラインは絶句する。表も裏もない。二面とも、数字が描かれていないのだ。
「武彦さん!」
 暫くすると、怒りと呆れが同時に湧き起こってきた。
「怒るなよ」
 草間は拗ねたような声を出す。
「モノってのは、あるべきところにおさまるのが正解なんだ」
 そう、言った。
 シュラインは手の中で、五百円玉を弄ぶ。
「それじゃ、今度からキャビネットの書類もあるべきところに必ず戻していただけませんこと?」
 冷ややかな声で、そう言ってやる。
 桃子が吹き出した。
「藪をつついて蛇を出す、だな」
 荒祇がそう呟く。シュラインはふんっと鼻息を荒くした。
 硬貨を自分のポケットに押しこむ。
「没収」
 ぱん、とポケットの上を叩いた。
 

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

 0086 / シュライン・エマ / 女性 / 28 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト
 0284 / 荒祇・天禪 / 男性 / 980 / 会社会長
 0328 / 天薙・撫子 / 女性 / 18 / 大学生(巫女)
 1252 / 海原・みなも / 女性 / 13 / 中学生

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■         ライター通信          ■
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 和泉基浦です。こんにちは。
『僕は何者ですか?』をお届けします。
 迷った魂をどうするか、というPC独自の見解が出せていればと思います。
 お楽しみ頂けたら幸いです。
 またご縁がありましたらお会いしましょう。では。