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<東京怪談ノベル(シングル)>


   はるのおわりに




 ビルを一歩でると、むっとした熱気が身体を包だ。
 春の女神は、夏の太陽神の軍勢の前に不本意な後退を続けている。
「あっつ‥‥」
 噴き出す汗を左手で拭い、シュライン・エマが呟いた。
 五月半ばだというのに、地球温暖化の影響なのかもしれない。
 爽やかさとは無縁の暑熱が、じっとりと肌に絡みついてくるようだ。
「武彦さんが逃げ出したくなるのも判るけどねぇ」
 振り仰ぐ。
 青い瞳に事務所に窓が映っていた。
 草間興信所。
 ここが黒髪の事務員の職場であり、怪奇探偵と異名をとる恋人の牙城でもある。
 もっとも、
「所長不在じゃ、仕事にならないって‥‥」
 嘆息。
 現在、事務所の経営者たる草間は行方不明だった。
 むろん、犯罪に巻き込まれたとか、そういうことではない。
 蒸し風呂のような事務所でデスクワークに従事するのが嫌で、逃亡を図っただけだ。
 まことに子供じみた理由というべきだろう。
 シュラインだって草間零だって我慢しているのに。
 当主みずからが逃げ出すとは。
 他の職員の指揮だって低下してしまうというものだ。
 ちなみに、そもそもの遠因はエアコンディショナーが故障してしまったことに由来する。
「あれだけバカバカ煙草吸えば、壊れるわよね‥‥」
 とは、蒼い目の美女の嘆きだ。
 もちろん煙草の煙だけが故障の原因ではない。いまどきの機械がそんなもので壊れるはずがないから。
 あるいは、事務所を訪れる特殊能力者たちの力の余波を受け続けたからかもしれない。
 だが、人間とは常に目に見える対象に責任を押しつけるものだ。
 かくして、灼熱地獄と女性陣の冷たい視線に耐えかねた草間は、あえなく敗走してしまったというわけである。
「ま、どうせいつもの喫茶店でしょうけどね」
 たった一人の捜索隊が、苦笑を浮かべたまま歩き出した。


 レストオブエンジェル。
 天使の休息という意味の名を持った喫茶店が、黒髪の探偵の行き付けの店である。
 クラシック調にまとめられた瀟洒な店内は、ごく控えめに表現しても、草間にはまったく似合っていなかった。
「なかなかの逸品だ」
 白磁のカップからコーヒーをすすりつつ論評などしている。
 生意気なことに。
 ヘビースモーカーの彼に、まともな味覚などあるのかどうか。
 だいたい、事務所のコーヒーだって、インスタントか一〇〇グラム一二〇円くらいの安物なのだ。
 とはいえ、
「穏やかな午後、流れる環境音楽、降り注ぐ日差し。こんな休日も悪くない‥‥」
 なんだかタワゴトを口にしている。
 どうやら心はすでに夢幻の地に旅立ってしまったようである。
 誰の迷惑になる事でもないから、放っておくのが一番であろう。
 アンニュイな昼下がりを楽しむのも、想像の翼を羽ばたかせるのも、本人の自由というものだ。
 ところが、現実というものはけっこう厳しかったりする。
「武彦さん☆」
 笑みを含んだ声が降りかかった。
 びくっと身を震わす怪奇探偵。
 顔を上げなくても誰かは判る。
「や‥‥やあ、シュラインくん。キミも休日かね? HAHAHAHA」
 奇態な口調をつくる。
 頬を冷たい汗が伝っていた。
「‥‥いつから、今日は休日になったのかなぁ?」
 どこまでも優しい問いかけ。
 この笑顔だけで、エアコンはいらないかもしれない。
「えーと‥‥」
「んー?」
「‥‥ごめんなさい」
 草間が素直に謝った。
 まあ、絶対に勝てない勝負を戦う気にはなれなかったのであろう。
「判ればよろしい」
 シュラインも、それ以上の追求はしなかった。
 向かい合わせの席に座り、自分の分もコーヒーを注文する。
「迎えに来たんじゃないのか?」
「コーヒーを飲むくらいの時間はあるわ」
 微笑する。
 どうやら蒼い目の美女も、灼熱地獄には戻りたくないらしい。
 まあ、当然といえば当然の話だ。
「零ちゃんの我慢強さには頭がさがるけどね」
「あいつ戦中派だからなぁ」
 草間も笑う。
 この場にいない人物を話の具にするのはあまり上品ではないが。
「なんにしても、あんなところじゃ仕事にもなりゃしないな」
「買うしかないわよねぇ」
「だな」
 溜息が漏れた。
 どうしてこう、次から次へと家電製品が壊れるのだろう。
 DVDプレイヤーだって欲しいのに。パソコンだって新しいを導入したいのに。
 新作ゲームだって欲しいし、壁紙も張り替えたいし、夏もののスーツも新調したい。
 それなのにそれなのにそれなのに。
「泣くぞ? しまいにゃ」
「大きく稼いで大きく使う。それが探偵の醍醐味でしょ」
 軽く流したシュラインが、コーヒーカップに唇をつけた。
「冷たいなぁ。シュライン」
 草間がめそめそする振りをした。
 くすくすと笑うシュライン。
 なんだかんだいっても、仲良しな二人だった。


 東京では、桜の季節はもう終わっている。
 新緑が萌え出で、すっかり少なくなった大都会の自然をささやかに演出していた。
 ところが、
「ここは、まだ咲いているんだ」
 草間がいう。
「綺麗ねぇ」
 と、シュラインが歓声をあげた。
 古木が、鮮やかなピンク色に飾られている。
 電気屋によってエアコンの契約を終えた二人は、たいして大きくもない公園にきていた。
 取り残されたようにそびえる桜。
 優美でもあり哀しくもあるような光景だった。
「不思議な話だろ?」
「ええ‥‥」
 本当は、不思議でもなんでもない。
 この桜は八重桜だ。染井吉野よりずっと開花が遅いのだ。
 そのことを、草間もシュラインも知っていた。
 だがそれ以上に、ここで植物学の解説なをするような野暮はすべきではない、ということを知っていたのである。
 桜花が降り注ぐ。
 この桜も、もうすぐ時期が終わるだろう。
 最後の見物客を楽しませるように、ピンク色の花弁が踊っていた。
「ありがと。武彦さん」
 なんとなく礼を言ってしまうシュライン。
「ん、あ、ああ」
 草間が頭を掻く。
 それから、少し照れたように、
「腹、へってないか?」
 と言った。
 くすりと笑ったシュラインが頷く。
「ちょっと歩かなきゃいけないけど、小洒落たレストランがあるんだ」
「へぇ‥‥」
 意外そうに相づちを打つシュライン。
 事実、草間とお洒落さは点対称の位置にあると信じて疑わない彼女だった。
「でも、もっとオススメがこの近くにある」
「なにそれ?」
「この公園の奥の屋台のヤキソバ」
 不器用に、草間が片目をつむってみせた。
「そうね。じゃあ怪奇探偵オススメのヤキソバにしましょ」
 言って、恋人の腕にしがみつく。
「あ、信じてないな。本当に美味いんだって」
「信じてるわよー」
 笑い合う。
 恋人と食べるものなら、貧相なヤキソバだってご馳走だ。
 もちろん、意地っ張りな美女が口にできる言葉ではないが。
 突き抜ける蒼穹。
 雲雀たちが遊んでいる。
 去りゆく春を惜しむように。
 あるいは、夏を待ちわびるかのように。





                       終わり