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般若
風が啼く。
まるで赤子の泣き声のように。
助けを乞うように。
上空には三日月。
紅く紅く。
血光にも似た光で、地上を射る。
「妖月‥‥か」
青年が呟く。
闇に溶けるような黒髪黒瞳。
武神一樹という。
都内で骨董品店を営む青年である。が、一部のオカルティストの間ではそれなりに名が知られてもいる。
曰く、怪奇探偵の友人。
不本意この上ないが、事実である以上、否定するわけにもいかない。
むろん、腐れ縁も友情の範疇に入る、という前提のもとだが。
「さて‥‥出てきたらどうだ? 気づかれていないと思っているわけではないのだろう?」
闇に向かい口を開く武神。
深夜の住宅街。
人の気配などないというのに。
ややあって、闇が動いた。
「‥‥‥‥」
無言のまま、青年が武神の前に姿を見せる。
敵意は感じない。
当然だ。
「吉備のもの、だな」
確認するように問いかける。
「そういうアンタは‥‥」
「調停者、と、呼ぶものもいる」
「へぇ‥‥」
古来より、人と魔との間に幾度となく繰り広げられてきた戦い。
多くの血が流れ、互いに多くの同族を喪った。
そして、いつの頃からか、両者に平和論が持ちあがるようになる。
共存が不可能であるなら、互いに境界を設けて不干渉を貫こう、というわけだ。
人は人、魔は魔。
それぞれの世界で、それぞれに発展すればよい。
無理に混ざり合おうとするから紛糾し、争いとなる。
何百年か前に不可侵条約が結ばれ、以後、双方の間に致命的な諍いはない。
だが、人間社会と同様に、魔にもまた「はみだしもの」がいる。
そういった連中が人の世に現れ、無用のトラブルを起こすこともしばしばだった。
とはいえ、それは人体にたとえれば、軽い皮膚病や風邪のようなもので、適切な処置をしている限り死に至る事態にはなりえない。
その処置をおこなうのが、調停者という存在だ。
人界と魔界。双方の利益を擁護し、もって平和を維持する。
「アンタがねぇ‥‥噂は聞いてる」
青年が呟いた。
武神が軽く頷く。
「俺は‥‥そうだな。桃太郎とでも呼んでくれ」
「鬼退治というわけか。なるほど」
微苦笑を浮かべる調停者。
月が、人を斬ったばかりのような紅い光で、二人の青年を照らしている。
人生とはままならないもの。
子が欲しいのにできない夫婦など、いくらでもいる。
欲しくて欲しくて、バートナーと相談し、医者に助けを求め、ついには神にまですがることも珍しい話ではない。
母成神社も、そういった子宝をもたらすという御利益がある神社の一つだ。
黒木敦子という女性が、ここに祈願したことが、そもそもの遠因である。
「ここまでなら、べつに妙でも珍でもない話だがな」
武神の声は苦い。
残念ながら、この神社に祀ってあるものは、神と呼ばれる存在ではなかった。
鬼。
一般に、そういわれるものである。
子宝をもたらす代わりに、その子を喰らう。
鬼にとっては、ある種の契約のようなものだ。
祈願してきたものには、数年間、母として充実した時間を与える。
そして自分は、育った子を喰らう。
人間にはとうてい許容できない契約であろう。
とはいえ、人間だって食料を養殖する。養殖されたあげく食われる家畜や魚介類から見れば、人間の行為もまた鬼の所行となる。
そういうものだ。
動物が食われるのは良くて、人間が食われるのは罪。
鬼にその理屈は通じないのだ。
「べつに、鬼は快楽のために人を殺すわけじゃない。あいつらにしてみれば自分が生きるためだ」
桃太郎と名乗った青年が告げる。
「その通りだ。奴らが襲うのは祈願したものだけ。そうでないものを襲うことはない」
調停者が応える。
どんな願いも、リスクを負わずして叶えることはできない。
神ならばボランティアで動くかもしれないが、鬼はそうではない。
冷たい言い方をするなら、そんなものに祈願する方が悪いのだ。
「敦子が祈願する際、誰か止めなかったのだろうか?」
「義母。つまり亭主の母親が制止しているな。だが」
「制止を振り切って神社に赴いたわけか‥‥」
鋭角的な下顎に右手を当てる武神。
熟考時の癖だ。
そこまでして子が欲しかった、というのは同情に値する。
悩みに悩んだ末のことだったのだろう。
だが同時に、迂闊さと危機感のなさを指摘されてもやむをえなかろう。
民間に伝わる伝承には、多くの示唆が含まれているのだ。
敦子の義母も、むろん意地悪で嫁を制止したわけではない。
母成神社にまつわる悲劇を伝え聞いていたからこそだ。
にもかかわらず、敦子は神社を訪れ祈願してしまった。
追いつめられていたということもあろうが、それ以上に、伝説や伝承を軽く見ていたのだ。
結果が、今の状態である。
「最近、こういう人間は増えているよな‥‥」
「ああ‥‥」
産業革命以後、時間と空間の認識は一転し、銃と機械と科学は世界を塗り替えた。
闇には人工の光が当てられ、古くからの伝統などは嘲笑の対象でしかなくなってしまった。
そして、そこに秘められた意味も、忘れ去られてゆく。
「時代の流れってやつか‥‥」
便利な道具が増えれば増えるほど、人は、生き物としての原初の魂を失い、べつのなにかへと変貌してゆくのかもしれない。
「ああ‥‥そうだな」
ふたたび、武神が重い吐息を漏らす。
現在の人のありようが間違っているとは、調停者は思わない。
時代が変われば生活や価値観も変わる。
むしろ当然のことだ。
だが‥‥わずかでも良い、古人の遺した教訓に耳を傾けてくれたら。
深淵に何が潜むのか、思い致してくれたら‥‥。
「で、アンタはこれからどうする?」
「あの母娘を護る」
「へぇ‥‥意外だな。どんなときでも中立なのが調停者じゃないのかい?」
「契約というのは‥‥」
「あん?」
「契約というものは、双方の同意があってはじめて成立する。この場合、敦子は鬼の存在を知らなかったのだから」
「契約は成立しない?」
「法的な言い方なら、善意、ということになるな」
もってまわった言い回しをする。
法的意味においての善意とは、「ある事実を知らなかった」ということである。
逆に悪意とは、「ある事実を知っていた」という意味になる。
このケースにおいて、もし敦子が鬼のことを十分に知っていて、伝承も完全に理解していて、結果についても判っていて、それでも子宝を祈願したのなら、武神の出る幕ではない。
冷たいようだが、約束とはそういうものだ。
金は借りたいが返したくない、というのでは筋が違う。
「だから、守るってわけか」
「そうだ」
短く応える調停者。
「‥‥素直じゃないねぇ」
ぼそりと、青年が呟いた。
このように理屈を並べているが、調停者の心理は見え透いているように思う。
子は親にとって、文字通りかけがえのない宝だ。
何人たりとも、その絆を引き裂いてはならない。
おそらく、そう考えているのであろう。
少なくとも、彼が噂に聞く調停者とは、そういう人物だった。
「‥‥理屈っぽいけど、理屈もないようなヤツよりずっとマシだな‥‥」
むろん、声に出さない言葉である。
知ってか知らずか、武神がシニカルな笑みを浮かべた。
かつかつと。
アスファルトが鳴る。
靴音、ではない。
もっと古風な音だ。
浮かび上がる人影。
白を基調とした和装。
女性の姿。
かつては美しかったのかもしれぬ顔には、憤怒の形相が刻まれていた。
般若。
古来より、ひとはそう呼び慣わしてきた。
ついに鬼の眷属が実行をおこそうとしている。
黒木家の結界が薄れたからだ。
ごく平凡な邸宅を、般若が見つめた。
と、そのとき。
「‥‥ずいぶん遅かったな」
背後から、男性の声がかかる。
振り返った般若の目に映ったものは、端然とたたずむ青年だった。
武器を持たず、緊張したふうもなく。
むろん、武神である。
「‥‥噂を流したのが、そもそもの失敗だったな」
世間話でもするように語りかける。
得体の知れない迫力に、般若がじりじりと後退した。
「母娘を心理的に追いつめようととしたのだろうが」
噂とは、一定範囲以上に広がらなくては意味がない。
たしかに、宣伝媒体として最も有効なものが噂ではあるが、それは常に諸刃の剣なのだ。
範囲が広がるということは、外部に察知される可能性が高まる。
事実として、噂が流れたことによって桃太郎と名乗る青年が動いた。
そして、それが呼び水となって草間興信所に依頼が入った。
結果だけみれば、まったくの逆効果である。
回りくどいことなどせずに、力押しすれば良かったのだ。
「完璧な計算に基づいて動いたのだろうが。その計算に足をすくわれたな」
調停者の言葉が続く。
得々と、という口調ではなかった。
事実を事実として語っているだけだ。
もし最初から力押しされていたら、武神にも手の打ちようなどない。
「ぐ‥‥」
さっと踵を返し、黒木邸へと走る般若。
気づいたのだ。事態がここまできてしまった以上、再度の侵攻など不可能だということに。
えらそうに講釈をたれる男など無視して、目的を遂げるべきだ、と。
「そう。その通りだ‥‥だが、やはり遅かったな‥‥」
武神が呟く。
わずかな同情と寂寥を込めて。
瞬間。
黒木邸を守る結界が、一気に強度を上げた。
霊力を持つものには、無数の光の蛇が般若に襲いかかったのが視認できただろう。
弾かれ、喰い裂かれた般若が地面に転がる。
どうしてこんな事になったのか判らぬままに。
ずっと母娘を守っていたはずの桃太郎と名乗る青年の姿がなかった。そして武神の姿があった。
これこそが陥穽だったのだ。
調停者が務めたのは囮役である。
般若の気を逸らすため。桃太郎の気配を隠すため。なによりも、般若に短兵急な行動をとらせるため。
罠とは、敵をして願望が充足されるように、あるいはそれ以外に選択肢がないように錯覚させることに神髄がある。
般若は、みすみす罠にはまってしまった。
退却してもよかったのだ。
武神も桃太郎も人間だ。ということは無謬ではありえない。
必ずどこかでミスを犯す。
一旦退いて、そのチャンスを伺うことだってできたはずだ。
もちろんそうさせないために、調停者は趣向を凝らした演出をしてみせたのだ。
お前の考えることはすべて判るぞ、という態度を取り続けたこともその一つである。
静かに歩を進める武神。
倒れ伏した般若へと向かって。
「‥‥言い残すことはあるか?」
問いかけ。
「‥‥‥‥」
応えは、なかった。
般若とは、もともとが鬼の眷属ではない。
人間が変化したものだ。
「布留部由良由良布留部由良由良‥‥」
調停者の右手が光をはなつ。
白く清廉で、優しい光。
ゆっくりと指先が般若の額に触れた。
「‥‥心平らかに瞑れ。‥‥よ」
名を呼ぶかたちで唇が動く。
歴史のどこかで、道を違えてしまった女性の名だ。
「ありがとう‥‥これでねむれます‥‥」
般若の顔が変わる。
美人ではないが穏やかな顔に。
だが、それも一瞬で終わり、女の身体は砂のように崩れ、大気に溶けていった。
魔と化して死んだものは、骸すら遺すことができぬ。
「つぎは‥‥幸せになれ」
去った魂に手向けた言葉。
聞くものとてない呟きが、風に消えてゆく。
葬送の歌のように。
紅い月が、黙したまま見つめていた。
エピローグ
神奈川県鎌倉市、北鎌倉に母成神社という神社がある。
ある時、その境内は滅茶苦茶に荒らされていた。
まるでなにものかが死闘を演じたかのように。
以来、この神社に参拝して祈願しても子宝成就の御利益はなくなった、と、いわれる。
付近の住民たちは、誰かが神社を荒らしたせいだと噂した。
真実は、常に闇の中に‥‥。
終わり
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