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ヴァンパイア・レセプション
■オープニング
永遠とは、肉体と精神に架せられた、絶え間なき苦痛の縛鎖。
――エドゥアルド・V・ヘルシング
朝宮美奈は、クラスでも目立たない地味な少女だった。
17歳という年齢ならば、恋のひとつもしていておかしくない年頃のはずだが、彼女はクラスメートの男子生徒と、面と向かって話すことさえできなかった。
そしてそんな自分を変えたいと、心のどこかで望んでいた。
自分とは対象的で、それまでさほど親しいわけでもなかった三浦智子の誘いに応じて、その夜、渋谷の街へと出かけたのも、あるいはそうした願望故のことであったのかもしれない。
「ごめんねぇ、朝宮。付き合ってもらっちゃってさ」
「いえ……」
行き交う人ごみの中をすたすたと歩きながらはしゃぐ智子と、周囲を不安げに見まわしながらその後をついていく美奈。
街頭の時計はすでに10時を差している。門限はとうに過ぎてしまった。これまで門限を破ったことなど一度もなかった美奈には、帰ってから両親にどのように言い訳したらいいのか、全く思いつかなかった。
「この先の、ちょっとあやしいとこなんだけどさ、いい店があんの。前に、美紀に教えてもらったところなんだけどさっ」
「お店……?」
「そそっ。朝宮はまだ、ああいうとこ行った事ないっしょ。アタシもこないだ初めて行ったんだけどさァ、凄かったよぉ」
美奈にとっては全てが、初めての経験だった。三浦智子に遊びに誘われたことも、それに応じたことも、門限破りをしてこうして夜の街を歩いていることも。そしておそらく、これから自分たちを待っている出来事も。
「……でも、どうして私を誘ってくれたの、三浦さん」
「そりゃいっくらアタシでも、一人で行くの怖いもん。ほんとは、茜を連れてこようと思ってたんだけどさぁ、あの子、こないだから何かあって入院してるらしくて」
やがて二人は、センター街から狭い裏通りに入った。人の賑わう表の通りとは異なり、裏通りは人気もまばらで、左右の軒には妖しい色のネオンが静かにまたたいている。
不安と期待、緊張と不思議な高揚感が、美奈の胸の中で混沌と渦を巻いていた。
「――ここよ」
やがて、智子が足を止めた。
二人の目の前に、小さな建物が建っていた。もう建てられて相当な年季の入った、古いテナントビル。その右側に、穴倉を連想させる狭い地下への降り口があった。その奥には照明らしい照明はついておらず、階段の先は見えない。
頭上には、小さな蒼い夜光照明がぼんやりとした不気味な光を放っていた。
『Club Nirvana』と、ネオンの光が、文字通りその階段が涅槃の入り口であることを示していた。
智子とともに暗い階段を降りていく美奈。不思議と恐怖はなかった。不安はあったが、それよりも、新しい世界へと踏みこもうとしている事への、期待の方が大きかった。
どれくらい階段を降りただろう……涅槃の口にも、終点は存在した。
錆付いた鉄板の扉。暗くて色はほとんどわからないが、光を当ててみれば侵食した錆のせいで不気味に赤黒く染まっていたことに気づいただろう。
触れると、思ったよりも軽く、扉は奥に開いた。
その向こうに広がっていた世界は――まさしく、めくるめく光と音の奔流だった。
地下とは思えないほどに広大なダンスフロアに、響き渡る激しいビートサウンド。魂さえも震わせるようなそのリズムに合わせて、たくさんの人々が躍動していた。
(すごい……)
その世界に驚き、すっかりその空気に飲みこまれてしまいそうになる美奈。
「……ねっ……て、……った……しょ?」
智子が歓喜に満ちた表情で、美奈に向かって叫ぶ。しかしその声ももはや、響き渡るサウンドに飲まれて、うまく聞き取ることができない。
「……さ、お……ろ!」
智子に強引に手を引かれて、困惑しながらフロアに連れ出される美奈。
(で、でも私、踊ったことないのに……)
焦る美奈を尻目に、躍動する渦の中に飲まれて、智子の姿が消えた。
そして代わりに、一人の青年が目の前に現れた。
『――踊れないのか』
驚いたことに、青年の声は、この大音響の中でも、はっきりと聞こえた。
『おいで。私に合わせるといい。ダンスはどう踊ったっていいんだ。ただ魂の震えるままに、リズムに身を任せればいい』
青年の声は甘く、そして危険な毒を宿した果実のように響いた。
美しい青年だった。まるで美の女神がその慈愛の全てを注いで生み出したかのような、端正な美貌と、首の後ろで束ねられた豊かな黄金の髪、そして淡い蒼い瞳。
どのくらいの間、共にリズムの中で揺れていただろう。
青年とのひとときは夢のようであった。
「あなたは……あなたの名前は?」
『――そうだな。『ヴラド』とでも呼んでくれ』
青年はそう囁いて、美奈を抱き寄せた。
「あっ……?」
『夢を見せてあげよう。昏い闇の中に生きる者のみが知っている、甘美なる夜の夢を』
そして、青年の唇が、美奈の白い首筋に触れた――。
※ ※ ※
その数週間後。
草間興信所に一本の依頼電話があった。
朝宮美奈の両親からのものだった。
真面目そのものだった娘が、毎晩のように家を抜け出し、朝方になると抜け殻のようになって帰ってくる。それを心配した両親が、娘の行動を調査し、可能であれば夜遊びをやめさせて欲しい、というものだった。
「珍しく、まともな依頼ですね」
依頼の内容をまとめた資料を見ながら呟く零に、草間武彦は苦い笑いを浮かべながら答えた。
「――本当に、ただの不良娘の素行調査で済めばいいが、な」
■#1 依頼
――愛している、と男は囁いた。
その穏やかで深みのある低い声は、まるで夜露と蜜にしっとりと濡れた花のような、心地よく甘い香りを帯びて、少女の耳朶に響いた。
恍惚とした少女の身体を抱いて、男はまるで呪文のように、囁く。
気の遠くなるような長い時間を生きてきた。
孤独の中で。
この世に生を受けたときから、私から分かたれた魂の欠片を求めて。
長い長い旅路……
私をひとり遺して去ってゆく人々、変遷する時代。
そして私はようやく、答えにたどりついた。
君という答えに。
男の瞳は、不思議な色をしていた。
吸いこまれるような黒であったり、荘厳な印象を抱かせる紫であったり、深い海のような蒼であったり。
男の表情とともに、瞳の色も変わるような気がした。
しかし少女には、その瞳の色が本当に何色なのかはわからない。
ただ、その瞳が見つめるものが、自分でさえあればよかった。
私は、君を愛している。
誰より、愛している。
君の魂が、そしてその身体の内に流れる血の全てが、私に歓びに震えさせてくれる。
私を、受け入れてくれ。
私に属する、夜の世界を受け入れてくれ。
その代わり、人には決してたどり着くことのできぬ、至上の愛を君にあげよう――。
男の唇は美しい形をしていた。
艶やかな、そして鮮やかな紅。
こぼれる静かな吐息は、夜を渡る涼やかな風のようだった。
初めてのキスは、少女の震える唇へと重なった。
柔らかな、甘いくちづけ。
少女の心の中を、甘美な何かが満たしてゆくような、そんなキス。
そして、男の唇はそのまま、少女の白い頬を伝って――首筋へ。
――ここが、境界(ボーダー)だ。
生と死、光と闇、昼と夜の世界の狭間。
踏み出したら、戻ることは、できない。
首筋に唇を這わせたままの男が、たしかにはっきりと、そう『言った』。
初めて、甘い恍惚の中から言い知れぬ違和感に気づいて、少女は、男の貌を見た。
――紅い、鮮血を思わせる紅い瞳をしていた。
「……!」
目覚めると、全身がぐっしょりと汗で濡れていた。
身体が、まるで鉛のように重い。
どうにか上半身を起こし、おそるおそる、首筋に手をやる。
ぬるっとした感触に一瞬身体を震わせて――戻した手のひらを濡らしたものがただの汗だったことを知り、少女は安堵した。
ベッドの脇の窓から、カーテン越しに白い光が差し込んでいる。いつもは心地よい鳥の声も、やけに耳障りに聞こえた。
時計はもう、八時過ぎを差していた。
「美奈、いいかげんに起きなさい」
部屋のドアの向こうで、母の声がした。
「今日も学校、休むつもりなの?」
母の声には、落胆と諦めの色が混じっているようだ。
「……ううん。行く……」
そして自分の声は、まるで魂のない人形のようだ、と美奈は思った。
「朝ごはんは?」
「……いい」
「でも食べていかないと、元気出ないわよ」
「……食欲……ないから……。もう、遅刻だし……」
ブレザーの制服姿に着替えた美奈は、心配そうに見つめる母にそう答えた。
廊下から、玄関へと渡る途中、応接間の方で、何やら話し声が聞こえた。
「……お父さん、仕事に出てないんだ……」
「今日はちょっと、お客様がみえてるのよ……気をつけて、行ってらっしゃい」
「……うん……」
玄関に、見なれない靴がいくつか並んでいる。
客人は複数いるらしい。
美奈には、関わりのないことだったが。
玄関のドアを開けると、外は初夏の朝の、白い光に満ちていた。
すがすがしく心地よい、その世界へと踏み出すのが、こんなにも苦痛なのは何故だろう。
「行ってきます……」
※ ※ ※
「あの子、ですね」
応接間から廊下を玄関の方へと向かったブレザー姿の少女を見送って、長い黒髪の青年が言った。
一見女性のようにも見える端正で穏やかな美貌と、神秘的な光を湛えた瞳。ソファに座っているその姿さえ、見るものに洗練された印象を与えるその長身の主は、宮小路皇騎(みやこうじ・こうき)といった。
「確かに、遊んでるような感じの子には見えないわね」
そう呟いたのは、すらりとしたスレンダーな体躯を赤のスーツと黒のスカートに包んだ美女、シュライン・エマ。
淡く琥珀色ににじむ色眼鏡の奥で、切れ長の蒼い瞳が、今しがた聞かされた話に興味をそそられたかのように、どこか愉しげに揺れている。
そして、彼女の隣に座っている、もうひとりの若い娘が、海原みその。
全身を包む、ゆったりとした漆黒の装束。宮小路やシュラインのそれよりもはるかに長い、艶やかで美しい黒髪。
怜悧で知的な雰囲気を持ちながら、その実、躍動する情熱を内に宿したシュラインとは対照的に、深い静けさと穏やかさ、そして常人には想像すらつかない深遠の叡智を携えているかのような少女。シュラインを夏の光に満ちた海にたとえるなら、まさしく彼女は光の届かぬ深海の底の世界そのものだった。
「……お恥ずかしい話で」
三人の客人を前に、苦い表情を浮かべてそういった恰幅のいい中年の男が、今回の依頼人、美奈の父親だった。一流企業で管理職を務めている身分だけあって、厳格で頼もしい口調と風貌の持ち主だが、娘に対してだけは甘くなってしまうようだ。
「ですが今まで、こんなことはなかったのです。悪い遊びもせず、人様に迷惑をかけるようなこともなく、きちんと門限にも帰ってきておりました。美奈は自慢の娘だったのです。それが――」
「一ヶ月ほど前から、様子がおかしくなった、ということですね」
みそのの言葉に、美奈の父が頷いた。
「毎晩毎晩、どこに出かけているのか――家内や私がどれだけ注意しても、一向にやめる気配もなく……そして朝方になったら、抜け殻のようになって戻ってくるのです。一体どこで、何をしているのか……!」
娘を溺愛している分、苛立ちを隠せないらしい父親の訴えに、宮小路は出されたコーヒーに口をつけつつ、答えた。
「ご心配はよくわかります。それで、我々にその調査をご依頼されたのですね」
「ええ。そしてできることなら、娘の夜遊びを、なんとかやめさせていただきたいのです」
「ふむ……」
しばらく黙して考え込んでいたシュラインが、ふと口を開いた。
「遊びたい年頃の女の子ですものね。……夜遊び全てを否定したりはしないし、好奇心や気骨があるのは良いと思うの。
ただ、遊ぶって範囲の事ならば、ね」
「……それは、どういう事です?」
怪訝そうな表情を浮かべる美奈の父。
「『抜け殻のようになって帰ってくる』とおっしゃいましたね。もしかすると娘さんは……ただの夜遊びでは済まないことに、巻きこまれているのかもしれません」
「わたくしも、そう思います」
みそのが、シュラインの言葉を継いだ。
「お休みの間に診させていただいた、あのお嬢様の『流れ』――奇妙な感じがいたしました。『自我』の流れがきわめて弱く、まるで外部から何者かに操られているかのような――」
本来、『深遠の巫女』として深海に座しているみそのの漆黒の瞳は、ほとんど物を映す役割を果たしていない。その代わり、彼女はあらゆるものの『流れ』の波動を感じ取り、周囲の状況や対象を認識している。それゆえに彼女には、美奈の流れの異常さが、文字通り目で見るよりも明らかに判ったのだ。
「いくらなんでも、そんな、まさか――」
そう言いつつも、美奈の父もまた、真面目だった娘の唐突な変貌ぶりに、尋常ならぬ何かを感じ取っていたには違いない。そうでなければ、草間興信所にわざわざ依頼するはずもないのだ。
「とにかく、この件は引き受けました。ひとまず、美奈さんが夜出歩くようになった原因を詳しく調べてみる必要がありそうですね。まずはお手数ですが、彼女のこれまでの様子など、もう一度詳しく教えていただけますでしょうか?」
「……それと、彼女の周囲の人間関係も一度当たってみたほうがよさそうね。真面目なコだったのなら、誰かが夜、どこかに連れ出すきっかけを作ったのかもしれないし。お父様、美奈さんのクラス名簿もお借りさせていただけますか?」
宮小路、そしてシュラインの言葉に、美奈の父は戸惑いながら頷いた。
※ ※ ※
「教会で清めた十字架と聖水……だな。了解した」
シュラインからの電話連絡を受けて、草間武彦は己の勘の良さを恨めしく思った。
やはり思ったとおり、ただの素行調査ではなかったか。
《何に使うかは訊かないの?》
「聞くまでもあるまい。この東京にも夜の眷属(ノスフェラトゥ)がかなり紛れ込んでいるようだ。俺も何人か知っている」
《戦ったことが?》
「いや、進んで人に害を為す類の者と直接まみえたことはないな。過去にそういった事件があったことはあったが」
《少し人手が要りそうなの。できれば、あと何人か、応援が欲しいんだけど――》
「……わかった。ちょうど今、適任の人物がここに来ている」
武彦は、ソファに座っている二人の男女に目をやって、そう答えた。
その受話器が置かれると同時に、男の方が口を開いた。
「厄介事か」
穏やかに低く、どこか鋭さを感じさせる声音。
若者と呼ぶほどには若くはないが、鍛えられ、無駄な肉のついていない体躯の持ち主だった。無骨だが、どこか達観したようなその表情も、瞳の奥の光も、その男が数多の修羅場をくぐりぬけてきた熟練の戦士であることを物語っていた。
「俺の剣が役に立つなら、喜んで力になろう」
男の名は、静波歩(しずなみ・あゆみ)。『七式退魔剣術』を操る、腕利きであった。
「すまないな。……霧島くん、君にも、悪いが力を貸してもらいたい」
静波の隣に座っていた、もう一人の女性にも、声をかける武彦。
肩のところで揃えられた明るい色の髪、少し気の強そうな美貌。瞳はエメラルドのような不思議な色をしていた。細めの身体をビジネススーツに包んだその姿は、有能なキャリアウーマンを思わせる。
事実、彼女は有能と評判の女性だった。依頼者の要望通りに、秘書、データ入力、家事からベビーシッターまで、あらゆる業務をこなすプロフェッショナルの派遣社員。そして今回も、多忙な草間の仕事をサポートするために派遣されてきたのだった。
その女性――霧島シエルもまた、頷いた。
「ご要望とあらば、どのような事でも」
■#2 調査
四時限終了のチャイムが鳴り、教師が去っていくと同時に、授業から開放された生徒たちの喧騒が教室に広がった。
「朝宮、あんた大丈夫なの?」
窓際にある美奈の席にやってきた智子が、そう問いかけた。
「ここんとこ、ちょくちょく休んでるみたいだけどさ……今日も遅刻してきたみたいだし」
「……」
智子を、気だるげな瞳で見つめながら、美奈は空ろな表情のまま、沈黙していた。
「あんた、あれから毎晩あそこに通ってるんでしょ? さすがにヤバいんじゃないの?」
「……何が言いたいの……」
ぼそり、と美奈の唇から、小さく言葉が洩れた。
「何がって、アタシはただ、あんたを心配して……」
「お節介はやめて。私のことは放っておいて。貴方には関係のないことよ」
美奈の言葉には何の感情もない。ただ、淡々と響いた。
「関係ないって……どうしてそんなことを言うの? 友達じゃないさ、アタシたち」
「友達……ね」
美奈の口の端が、不意に吊り上がった。嘲りの笑み。
「片桐さんが入院してから、あなたたちのグループ、バラバラだもんね。誰かとつるんでないと、不安でたまらないのよね、三浦さん」
「なッ……!」
「だから私を都合のいい『友達』にしようとしたんでしょ? 知ってるのよ、あの夜、何故貴方が私をあそこへ連れていったか」
びくっ、と智子の身体が震えた。
「だけどお生憎様。私は貴方の道具にはならない。『選ばれた』のは、私のほうだから」
それは、どういう意味なのか。
ぎりっ、と歯噛みして、智子は沸きあがった怒りに任せて美奈の頬を張ろうと右手を上げ――そして凍りついた。
美奈は笑っていた。
ぞっとするような、冷たい笑みだった。
そのやりとりを、中庭を挟んだ反対側の校舎の窓から見つめるものがあった。
美奈の父から依頼を受けた、宮小路だった。
「……これは……」
開け放たれた窓際で、智子と話している美奈。その姿を見つめながら、宮小路は驚いたように呟いた。
彼の瞳の前には、一枚の紙きれがかざされている。しかしそれは視界を遮るものではなく、むしろそれを通して霊的状態を『見る』ことができる。陰陽師たる宮小路の操る、呪符のひとつなのであった。
その符を通じて、宮小路には美奈から伸びる青白い糸のようなものが見えた。それは壁もなにもかもを貫いて、遥か遠く彼方へと延びている。その先がどこに繋がっているのか、肉眼では確認できないほどだ。
「呪縛の糸……なのか……?」
教室での美奈とのやりとりの後で、三浦智子が苛立ちの表情を浮かべながら、廊下を足早に歩いてゆく。
不意に背後から肩を叩かれて、不機嫌な表情で智子は振り向いた。
背後に立っていたのは、赤いスーツを纏った若い女だった。まるでファッション雑誌の中のモデルのようなスタイルに、中性的なものを感じさせる怜悧な美貌に浮かぶ艶やかな笑み。
思わず、智子は見とれていた。
「三浦智子さん……ね?」
日本人ではないようだが、その唇から流れる声は、まるで子供のころからこの国にいたような、流暢な日本語だった。
こんな教師はこの学校にはいないはずだ。いれば男子生徒が騒がずにはおくまい。この学校の出身者だろうか、と思いつつ、智子は思わず敬語で応じた。
「……誰……ですか?」
「私はシュライン・エマ。事情があって、朝宮美奈さんについての調査をしている者なの。少しお話を聞かせて貰いたいんだけど、いいかしら?」
※ ※ ※
世田谷にある、とある大病院の一室に、その少女は収容されていた。
美奈のクラスメートの一人であり、二ヶ月ほど前から長期入院している少女、片桐茜。
シュラインに頼まれて、みそのはその少女に会いに来たのだった。
病室のドアをノックする。
しばらく待ったが、中からの返事はない。
みそのは持ってきた花を手に、中へと入った。
個室の小さなベッドの上で、点滴を打たれたまま、片桐茜が眠っていた。
(この『流れ』は……)
その少女を、みそのは知っていた。
かつて『災厄の紅』と呼ばれた口紅を手に入れ、己の傲慢さからその報いを受けた娘。
みそのには見えないが、髪の毛は多分に白髪が混じり、かつては自慢だったその美貌も、今は痩せこけて見る影もない。
不意にドアが開いて、看護婦が入ってきた。おそらく点滴の様子を確認しにきたのだろう。
病院には似つかわしくない、みそのの黒装束姿に一瞬ぎょっとした表情を浮かべてから、見舞いだと悟り、頭を下げる。
「……お友達の方ですか?」
みそのが静かに頷くと、看護婦は言った。
「この子、起きているときはいつも、皆が自分を責めているような声がして、不安でたまらないみたいなんです。
無理もないかもしれませんね。お父様の会社も、これまでの強引な経営が裏目に出て、今かなり厳しいとかで……ここしばらくは誰も、この子のお見舞いにも来てくれなくて……残念だわ、目が覚めたらきっと喜ぶと思うのに」
どうやら、今回の件には、彼女は関わりはないようだ。
みそのは花だけをその場に残し、病室を出ていった。
※ ※ ※
一方、シュラインと宮小路は、人気のない理科準備室の一角で、智子から話を聞いていた。
「『クラブ・ニルヴァーナ』?」
智子が口にしたその名前を、シュラインが反芻した。
「渋谷のセンター街から裏に入った通りの奥にあるのよ。そこに、朝宮を連れてったの」
「その頃から、彼女の様子がおかしくなった、というわけですね」
腕組みをしながら、宮小路が呟いた。
「そのクラブには、何か秘密があるのではありませんか?」
宮小路の昏い色の瞳に見つめられて、智子の表情が変わる。焦りの色に。
「それは――」
反論を口にしかけた智子の目の前に、宮小路は先刻の呪符を取り出した。
「先ほど、貴方を『霊査』させていただきました。美奈さんと違い、貴方には『糸』がない。その代わり、あなたの魂には人以外の何かが混じっている」
焦りが、驚きと、そして敵意の色に変わるまで、一秒とかからなかった。
「あんたたちは……ッ!」
少女の相貌がみるみる血の紅に染まってゆく。
智子の長い髪が、ばさりと揺れて、隠されていた首筋が露わになった。
白い肌に、赤黒くうじゃじゃけた傷の跡。
「――やはり――!」
「宮小路、下がって!」
シュラインの矢のような声に、その場から飛びすさる宮小路。
次の瞬間、飛びかかってきた智子の腕に喉元を掴まれるシュライン。智子は、まるで十七歳の少女とは思えない恐ろしい力でぎりぎりとシュラインを絞め殺そうとする。
シュラインはそれにも表情を変えず、ハンドバッグから取り出した香水の小瓶を取り出し、蓋を開けた。
そして眼前の智子の顔めがけて、その中身を浴びせる!
「ぐううッ!!」
苦鳴を上げ、目をおさえる智子。
その鳩尾に一撃を与えて、シュラインが少女を気絶させる。
「大丈夫ですか? 今のは、一体……」
荒い息をついてその場に座りこんだシュラインと、気絶した智子とを心配そうに交互に見つめながら、宮小路が言った。
「武彦さんに頼んでおいた、カトリック教会で聖別の儀式を受けた聖水よ。……それより、この子……」
「眷属にはされていない。それは、陽光の下を歩けることからも確かです。ただ、血を吸われて魅了されていたのでしょうね」
夜の眷属による吸血の行為は、それを受けるものに想像を絶する喜悦と快楽をもたらすという。たとえ眷属とされ、下僕として全てを支配されなくても、その快楽の虜となり、主の意思に操られることは珍しいことではない。意志の弱い、心の弱い娘ならなおさらのことだ。
「この子はひとまず、保健室に連れて行ってあげてください。魅了した主さえ倒せば、また元の彼女に戻るでしょう」
■#3 クラブ・ニルヴァーナ
緑の閃光が闇を薙いだ。
苦鳴を上げて、床に倒れこむ男の身体。
「……ずいぶんと手荒い歓迎じゃないか」
乾いた笑みを浮かべて、静波は手にした『武器』を青眼に構えた。『心』を具現化させた、美しい緑の光を放つ刃。
その刃を用い、七つの退魔技で構成された『七式退魔剣術』を操る彼にとって、緩慢な動作で襲ってくるちんぴら風の男たちなど敵ではなかった。
難しいのは、殺さずに無力化することだ。
左右から同時に襲ってきた二人を、流れるような動作で同時に迎え撃つ。光刃が右の男の胸を薙ぐと同時に、返す刀で反対側の男の足を払う。
『斬る』ための鋭い刃から、打撃を与えるための、いわば木刀のような状態にしてはあるが、それでもその一撃を受ければ相当なダメージを被るはずだ。
全部で六人いた男たちは、ことごとく床に倒れ伏し、苦痛のうめきを上げていた。
「すごーい。私の出番、なかったわね」
呑気にぱちぱちと手を叩いて、背後で様子を見ていたシエルが感心する。
「それにしても、この人たちは一体何者なのかしら?」
「ただの用心棒(バウンサー)さ。だが、客と不審者とを見分ける目はないらしい」
呟いて、静波は足元に倒れていた男の胸倉を掴んだ。
「マダムはどこにいる? アポはすでに取ってある」
男は答える代わりに顔をそむけ、奥の階段を顎で示した。
東京に情報屋を名乗る者は数多い。
だが、このところ東京にたてつづけに起こっている怪異な事件について、明確な手がかりや答えを持つ者となると、ほんの一握りに絞られる。
原宿の竹下通りからほど近く、テナントビルの地下に居を構える、マダム・メアリもまたその一人だった。
ビルの前に立てられた、『占い師メアリの部屋』という粗末な立て看板は、あくまでカモフラージュに過ぎない。ごくたまに純粋な占い目的の若い女性が入ってくる時以外は、『占い』ではなく『事実』を買いに来る客がほとんどなのだった。
階段を降り、ルーン文字の刻まれた木製のドアを開く。
薄闇に包まれた室内は、むっとする異国の香の匂いに満ちていた。
「生きてたのかい、静波。また会えて嬉しいよ」
嬉しくもなさそうな口調で、部屋の奥に座していた老婆が言った。
全身を覆う黒衣、身動きするたびにじゃらじゃらと音を立てる装身具。枯れ木の樹皮を思わせる皺だらけの肌に、鋭いワシ鼻と、しわがれ声。
その姿はまさしく童話にでてくる悪い魔女のようだ。
「あんたも儲かり過ぎて困っているようだな、マダム。躾のなってない番犬を放し飼いにしてあるのは、来過ぎる客を追い返すためか?」
「最近は何かと物騒でね。あたしもこういう商売だし、使えない犬でもいないよりはマシさね」
フェッフェッフェッ、と老婆は笑った。悪意がなくとも、悪意を含んでいるように聞こえる声だった。
「それで、調べてくれたんだろう。何かわかったのか」
「渋谷の『クラブ・ニルヴァーナ』だね。……察しの通り、ここはまっとうな商売をしてる店じゃないよ。もちろん、表向きは普通のクラブを装ってはいるけどね」
老婆は眼鏡をかけると、テーブルの下から一冊のノートを取り出した。A4版のありふれたノートだが、高級ブランドのマークが描かれている。
興味深そうにその様子を見ていたシエルに、老婆はにやりと笑った。
「羊皮紙を束ねた冊子の方がよかったかい? お生憎様、あたしはブランド指向でね」
そしてそれをパラパラとめくる。
「あったあった。バーの経営は、ルーマニアに本部のある貿易会社が行ってる。……東欧の貿易会社が、わざわざ極東のこんな街で、クラブを経営している理由がわかるかえ?」
マダム・メアリの眼が愉快そうに揺れた。
「マダム、悪いが俺たちは謎かけ(リドル)を聞きにきたわけじゃない。俺たちが知りたいのは『答え』の方だ」
わずかな苛立ちを含んだ静波の声。
老婆が反応するよりも早く、シエルが口を開いた。
「……貿易会社、よね。ということは、その会社が扱っている商品を、そこで取引しているとか……」
「察しがいいね、お嬢ちゃん。その『クラブ・ニルヴァーナ』は、その貿易会社が秘密裏に製造・輸出しているドラッグの取引場になってるんだ。……だが、それだけじゃない」
眼鏡の奥の眼光がより鋭くなったかのようだった。
「吸血鬼(ノスフェラトゥ)のことはあんたたちも知ってるだろう。悪魔との契約によって不死を得た、夜の眷属。クラブを経営してる貿易会社ってのは、彼らが裏社会で形成しているコミュニティの一部なんだ」
「つまり、そのクラブは吸血鬼どもの持ち物ということか」
「おそらく、ドラッグの取引場としてだけではなく、奴らの餌場としての役割も果たしているのだろうよ。あんたたちが調べているその少女も、その網にかかった犠牲者なんじゃないのかい」
※ ※ ※
時計を見ると、すでに9時を回っていた。
「……出てきたわ」
美奈の家の前で、張りこみを続けていたシュラインが、宮小路に携帯で連絡する。
《了解。こっちは、みそのさんと合流しましたよ。私達はこのまま、彼女に繋がっている『糸』の先をたどってみます。どうせ後で合流することになるでしょうけれどね》
今夜も、美奈が『クラブ・ニルヴァーナ』へと向かうことは予測できていた。
そして、例の『糸』が『クラブ・ニルヴァーナ』に潜む誰かと通じていることも。
携帯を切ると同時に、背後に人の気配を感じて、振り返るシュライン。
「おまたせ」
静波とシエルだった。
「どうやらちょうどいいタイミングだったようだ」
そして、玄関から出てきた美奈に注目する三人。
華奢な身体を包むのは、黒のワンピース。唇は、鮮やかな口紅の色を纏わせている。
昼間の、地味なブレザー姿とはまるで別人のようだった。
その瞳だけが虚ろなまま、まるで夜風の中を渡ってゆくように、少女は歩いてゆく。
「尾けましょう。……まあ、行く先は、わかってるけれどね」
渋谷。センター街から細い路地を抜けた、薄暗い裏通りの奥――。
マダム・メアリからの情報、そして三浦智子が語った言葉。そのどちらもが一致する場所に、『クラブ・ニルヴァーナ』は涅槃への口を開けていた。
亡霊のような足取りで、美奈はその中へと姿を消していく。
「……やはり、ここでしたか」
美奈と繋がっている『糸』の行方も、やはりこのクラブの中に通じているらしい。
美奈を尾けて来た三人のところへ、宮小路とみそのが合流した。
宮小路は昼の時と同じ、ダークグレーのジャケット姿だが、みそのの方は黒装束姿から、黒豹の柄がプリントされた、フェイクファーのキャミソールとタイトスカート姿に着替えている。頭にも、流れるような長い黒髪の合間から、豹耳がのぞいている。
「変でしょうか?……これからあの中へ潜入すると伺ったので、なるべく目立たない格好をと思ったのですが……」
「いや、よくお似合いですけどね」
成熟した身体のラインがすぐにわかる、艶っぽいその姿に、一緒に歩いてきた宮小路も彼にしては珍しく、少し照れたような表情をしている。
「それにしても、この建物……」
みそのが眼前の古ビルを見上げて、呟いた。
「すごく、嫌な流れを感じます……。地下深いところに、たくさんの人の混沌とした気の流れと……それに混じって、とほうもなく強くて、冷たい流れが、4つ……」
「おそらくそれが、客に混じってる吸血鬼だろう。そのうちの一人――もしかすると全員が、敵かもしれん」
静波が腕組みをしながら呟く。
「やはり、戦いになるんでしょうね」
宮小路が気乗りしない風情で呟く。
「ひとまず、朝宮様を支配している『主』を見つけて、説得してみてはいかがでしょう? 話せばわかる方かもしれませんし……」
「俺はそうは思わん」
みそのの言葉に、静波が反対意見を述べる。
「その子と『主』とやらがどんな関係にあるのかはわからん。だが吸血から始めた以上、交渉の余地はない。それよりは、先手必勝で倒すべきだと思うがな」
「私もその方が安全だと思うわ。彼女にとっても、私達にとってもね」
シュラインも静波に同意する。
そのやりとりを聞きながら、しばらく考え込んでいたシエルが、不意に口を開いた。
「……ここは、私に任せてもらえない?」
※ ※ ※
涅槃の底は、まさしく地上とは異なる世界だった。
飛び交う蒼と白、オレンジに赤、そしてその合間を埋めるような薄闇。
空間そのものをびりびりと揺らすような、大音響の激しいビート。
そしてそれに合わせて歓声とともに揺れる人々。
この世界を支配するものは、地上のそれとは明らかに違うものなのだった。
『クラブ・ニルヴァーナ』。……ここに集う者達のどれだけが、この世界がここに築かれた意味を知っているのだろうか、とシエルは思った。
霧島シエルには二十歳以前の記憶がない。『今の自分』は、一年前からようやく築き上げてきたものに過ぎない。
それでも、無意識のうちに刻まれたことは、自然と身体が覚えている。
ダンスホールでどう振舞えばいいのか、どう楽しめばいいのか。それもまた、失う前の記憶の中に眠っていたものなのだろうか。
「カクテルを頂けるかしら?」
ダンスホールの人の群れに混じる前に、景気づけにバーカウンターで注文するシエル。
「……何にします?」
「とりあえず、あるものを一通りね」
無愛想なバーテンに艶っぽく微笑して、シエルは周囲を見まわす。
美奈は少し離れたテーブル席に座っていた。一人でグラスを傾けている。
時折、他の客と思しき若者たちが近づいてきてなにやら声をかけているが、興味のない風情で反応のない美奈に、諦めて去っていってしまう。
出されたカクテル――モスコ・ミュールやスクリュードライバーを口に含みつつ、シエルは美奈を監視しつづけた。店内の別の場所で、他の四人も同様に目を光らせているはずだ。
しばらくして――。
ダンスホールの人の群れの中から、一人の男が姿を現した。
他の若者たちとはあきらかに違う、異質な雰囲気を持った若い男。
闇を思わせる漆黒のスーツをまとい、染めたものとは明かに違う、美しいブロンドを後ろで束ねている。
その瞳は、七色に切り替わる店内の照明のような、不思議な色をしていた。
(来た!)
男はゆったりとした足取りで、美奈へと近づく。
それをみとめた美奈も、歓喜の表情を浮かべて席から立ちあがった。
空になったグラスをカウンターに置いて、シエルもまた、二人のほうへと近づいていった。
『美奈……』
男の声は囁きのようだった。
『今宵も、私の招待を受けてくれたことを、嬉しく思うよ』
「私も……あなたに会えて嬉しい、ヴラド」
魂のない人形のようだった美奈の表情に、浮かぶ、歓喜の笑み。
それは、恋するものの至福の笑みに似ていた。
ヴラドと呼ばれた男の手が、美奈へと差し伸べられた、その時。
横から飛びこんできた人影が、その手を押しのけて、男にしなだれかかった。
「……あーらぁ、ごめんなさい」
頬を薔薇色に染めて、シエルはそう言った。しかし離れるどころか、その細い腕を男の肩にまわして、より体重をあずけていく。その様子は、酔って足元さえおぼつかないかのようだ。
ヴラドは無反応なまま。
驚きと、怒りの色を浮かべた眼前の美奈を、シエルは笑みを浮かべたまま見つめた。
そして、唇をかすかに開いて、『声』を発した。
常人には聞こえない、超高音域の声。その声で、他者の無意識に暗示を与え、その者をコントロールする。それが霧島シエルの持つ特殊な能力だった。
《この店も、この男のことも幻。これは、眠るあなたが見ている夢に過ぎない。目が覚めたら、いつもと同じように学校へ行って、夢の出来事は忘れてしまうのよ》
その声は、少女の耳元に、確かに響いた――はずだった。
『……なるほど、面白い術を使う』
男が冷ややかに言って、シエルの背筋に冷たいものが走った。
シエルの腕を、男の手のひらが掴んだ。そのまま、万力のような力で、ぐい、と引き寄せられる。
『どうやら、招かれざる客がいたようだ』
シエルを抱き寄せたまま、ヴラドは冷たい笑みを浮かべた。
■#4 死闘
『そのような術では、私と彼女の血の絆を断つことなどできぬ』
男の白い手のひらが、シエルの喉元にかかる。
『――何者だ? 先ほどの能力、人よりもむしろ、我らに近い――』
その言葉が終わらぬうちに――。
男の首筋を、緑の閃光が薙いだ!!
シエルの身体を捕らえたままの姿勢で、刎ね飛ばされた首が、まるでボールのように地面に落ちる……その瞬間、ヴラドの首と身体は、漆黒の蝙蝠の群れへと姿を変えて、ダンスホール奥のステージの方へと飛び去ってゆく。
「無事か、霧島!」
光の刃を手にした静波が、床に倒れたシエルを助け起こす。
「まったく、いくらなんでも、無茶をする!」
『目障りな鼠は他にもいたか。我が領域を侵した報い、受けてもらうぞ』
ヴラドの声が店内に響き渡る。ふと気づくと、音楽も、暴れるように明滅する照明の動きも、全てが止まっていた。
そして残ったのは不気味な静寂と、薄闇と、そして――。
虚ろな目を静波とシエルに向ける、店内の客たち。
緩慢な動作で、二人――ソファで気を失っている美奈もふくめれば、三人になる――のもとへと、黒い波のように近づいていく。
その全てが一瞬にして、ヴラドの操り人形と化したのだ。
(これだけの数が相手となると、さすがに分が悪いな……。手加減しなければ切りぬけられなくはないが、操られてるだけの連中を斬るわけにはいかん……)
ちっ、と舌打ちして、光刃を構える静波。
その刹那――。
「虚無より馳せよ、我が布陣に力を!」
澄んだ声が響きわたった。
同時に、店内の床に、五芒星の陣が浮かび上がる。
「我らに仇なす全ての者に眠りを!!」
五芒星が輝き、操られていた客たちが、まるで糸の切れた操り人形のように、ばたばたと倒れてゆく。
陣の中央に、宮小路が立っていた。
彼が操る陰陽道の術のひとつ、『微睡み』の陣。宮小路は、客たちが敵として襲ってくることをあらかじめ用心して、五芒星の先端となる部分の床に塩を撒き、陣を展開する触媒となるよう用意していたのだった。
この陣によって、室内の人々は強烈な睡魔に襲われ、その場で眠りに落ちてしまう。その術の効果を受けないのは宮小路本人と仲間たち、そして――人ではない吸血鬼たちだけだ。
宮小路、シエル、静波……そして、ステージの前で手に十字架を構えているシュラインと、その背後にたたずむみその。
そしてその眼前に、ヴラドが立っていた。静波の光刃に刎ねられたはずの首は、何事もなかったかのように身体とつながっている。
『見事なものだ。いずれもただの鼠ではないというわけか。だが――』
ヴラドの艶やかな唇の形が歪んだ。そしてその両端から、不気味なほどに白い骨を思わせる、一対の長い乱杭歯が姿をのぞかせる。
『夜の世界の覇者たる我々が、うぬらごとき下賎の輩に倒されると思うてか!』
ヴラドが手を振り上げた。すると、今までどこに身を潜めていたものか、黒服姿の男たちが2人、ステージの左右から忽然と姿を現した。
そして、背後のバーカウンターの中にいた、無愛想なバーテンダーの男も。
全部で四人――まさしく、みそのが感じた、途方もなく強くて冷たい流れの持ち主たちであった。
そのいずれの者たちの口元からも、大きな乱杭歯がのぞいていた。その相貌は血のように紅く染まっている。まさしく、悪鬼の形相だった。
『――殺せッ!!』
ヴラドの声とともに、三つの影が跳躍した!
「我が手のうちに来れ、魔を屠る牙よ!」
宮小路の手にした武器召喚の符が燃え上がる。宮小路の手の中で、炎はたちまち一振りの日本刀に姿を変えた。
古来より数多の鬼の血をその刃に吸いつづけてきた、斬鬼の名刀『髭切』。
宮小路はそれを両手に携え、青眼に構えた。
黒服の指先から伸びた異様に長い爪が、鋭い刃となって襲いかかってくる。
それを流れるような動作で弾くと、返す刀で黒服の胴をなぎ払った。
苦鳴とともに、後方へと飛びすさる黒服。
「下がっていろ!」
静波が叫ぶ。
宮小路が退くと同時に、静波が、構えていた銃の引き金を引いた。
バシュッという音とともに、銃の先端に取り付けられていた細い筒状のものが黒服の男たちめがけて放たれ、炸裂する。弾けたそれは白い霧状のものとなって男たちを包んだ。
この世ならぬ苦悶の声を上げて、その場にうずくまる男たち。
催涙弾の弾筒に聖水を詰めた、対吸血鬼用聖水弾の効果であった。シュラインの頼みで草間武彦が用意した聖水を使って作り上げた、間に合わせの武器だが、効果はすさまじいものだった。
瞬く間に三人の下僕が無力化され、ヴラドは愉快そうに笑った。
『面白いぞ、鼠ども。……だが、何故私の邪魔をする? まさか、《女伯爵(カウンテッサ)》の――』
そう口にしかけて、ヴラドの笑いが消えた。
『ふん、あやつが脆弱な人間風情を刺客によこすとも思えぬな……』
「わたくし達は朝宮様を、元の生活にお戻しするよう、ご家族より依頼を受けたのです」
みそのが悠然とした口調で言った。
「彼女を解放してください。そうすれば、わたくし達もこれ以上無益な争いをしなくてもすみます」
それを聞いて、ヴラドは一瞬みそのを見つめて、そして嘲笑した。
『思いあがるな、鼠風情が。美奈は渡さぬ、この私のものだ!!』
かっ、とその瞳が見開かれた。
次の瞬間、ステージの上から溶け崩れる霧のようにヴラドの姿が消え――
ダンスホールを挟んだ後方の席で、気を失っていたはずの美奈が、ゆっくりと立ち上がる。
――いや、一瞬にして美奈のもとへと移動した漆黒の姿が、美奈の細い体を包むように抱き上げていたのだった。
『この者こそ、長らく捜し求めていた、我と惹き合う血の絆を持つ娘――』
そちらへ駆け寄ろうとする五人を制するように、長く鋭い爪を、美奈の喉元に当てる。
『この娘が私に安息を与えてくれる。苦痛と孤独に満ちた永劫の時を、この娘が変えてくれるのだ』
男は歌うように言った。
『昼の世界に別れを告げる時間も要ようと、人のままにしてはおいたが……』
美奈の顎を傾けて、白いうなじを露出させる。
『もはや待ちきれぬ。今ここでこの娘に、夜の眷属としての新たな生を与えてくれよう。うぬらはそこで、その瞬間を見届けるがいい。何ひとつできぬまま、な!』
勝ち誇った笑みを浮かべて、剥き出した牙を少女の首筋に突き立てようと、ヴラドが唇を近づける――。
その刹那。
美奈の唇から、声がこぼれた。
「パパ……ママ……。ごめん、ね……」
気を失っている美奈は、確かにそう言ったのだった。
閉ざされたその瞳から、綺麗な涙をこぼして。
ヴラドに生じた一瞬の隙――その期を逃さず、シュラインが左手に握った聖水入りの小瓶を投げつける!
反射的に、その小瓶を右手の爪で薙ぎ払うヴラド。甲高い音とともに小瓶が砕け散った。
『くっ……ぐうぅぅッ!!』
夜の眷属にとっては激しい苦痛をもたらす聖なる水を浴びて、思わず少女の身体を手放したヴラド。
間髪いれず、宮小路が動いた!
「不動明王の加護、我が右手に宿らん!! ――『羂索』!!」
胸元から取り出した呪符が、炎の鞭となってヴラドを襲う!
紅蓮の帯にからめとられ、動きを封じられたヴラドめがけて、静波が奔った!!
手にした光の刃に、最大の破邪の気を込めて、ヴラドの心臓を貫く!!
『その、刃は――』
信じられない、といった表情で、自らの胸を貫いた光の刃を見つめるヴラド。
静波の纏わせた心の具現化である、緑色の光……それが消滅すると、ヴラドの胸を貫いていたものの姿が露わになった。
……樫の樹で作られた、十字架だった。
十字架の杭を胸に打たれて、冷たい床の上に横たわるヴラド。
しかしその表情から、先ほどまでの邪悪さは消えていた。
『気の遠くなるような長い時間を生きてきた。……孤独の中を……』
自らを倒した五人を見上げながら、苦しげに呟く。
『ヴラド……私にこの忌まわしい夜の生を与えた男……そして私に、自らの名を与えた男……』
最も憎み、最も敬愛した者の名を受け継いだ吸血鬼は、自嘲げに笑った。
『その男が言ったのだ。血の絆で結ばれた娘との出会いが、私に安息を与えるだろう、と……。やっと、その意味が、わかった……』
ごぼり、と男の口の端から、鮮血がこぼれた。
『だがな……私は、彼女を愛していた。たとえ別の世界に属する命であったとしても、私は彼女を確かに……愛していたのだ』
その言葉は、誇らしげですらあった。
『済まぬが、彼女に伝えてくれ……。
誇りを持て、君は誰よりも……美しい、と……』
そしてそれを最後に、男は瞳を閉じ、そのまま、二度と瞳を開けることはなかった。
美奈を自宅に送り届けたとき、すでに東の空は白く染まっていた。
「……これでよかったのでしょうか……」
沈んだようなみそのの言葉に、静波はしばらくの沈黙の後、口を開いた。
「……俺が今まで何人の仲間を失ったと思う? 62人だ。だが……その度、俺は思うんだ。『俺たちが戦ったから街は綺麗なままだ。無数の命が助かった。後に来る連中も最低の犠牲で済む、無意味じゃない』ってな……」
それは、腕利きの退魔剣使いであり、数多の戦場を駆け抜けて来た彼を支えてきた思いなのだろう。
五人を乗せた宮小路の車は、それぞれの思いとともに、朝焼けの街を走り抜けていった。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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整理番号/ PC名 / 性別 / 年齢 / 職業
1388 / 海原・みその / 女性 / 13 / 深遠の巫女
0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26 / 翻訳家&幽霊作家
0461 / 宮小路・皇騎 / 男性 / 20 / 大学生(財閥御曹司・陰陽師)
1106 / 静波・歩 / 男性 / 36 / 遊撃退魔剣術使い
0937 / 霧島・シエル / 女性 / 21 / 派遣社員
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■ ライター通信 ■
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たおです、この度はご発注真にありがとうございました!(≧∇≦)/
そして、長いことお待たせしてしまいまして申し訳ありません(><。
今回は個人的に大好きな吸血鬼モノ、ということで、意気込んで頑張ってみたんですが……果たして、楽しんで頂けるとよろしいのですが……。
本当はこの『ヴァンパイア・レセプション』、全5話くらいの予定でやっていこうと最初に構想を立てておりまして、実はこの本編中にも、次回への伏線になりそうなネタがいくつかしこまれてます。
結局この事件はこの話の中で一応完結してしまったので、本当に続きをやるのかは微妙ですが……(いいのかそんなんで)。
それでは、各参加キャラクターさん達のプレイングについてのコメントを(≧∇≦)/
■海原みその 様
みそのさん、すごくいいキャラで気に入ってます。
でも物語にからむと、結構どう動かしていいのかまだ戸惑う部分がありますね。あまり能動的なタイプではないみたいなので……。もっと活躍させてあげたいんだけどなあ……。
彼女が病院で片桐茜と絡むエピソードは、みそのさんが参加してくださった拙作『カラミティ・ルージュ』とリンクしたちょっとしたお遊びです。『カラミティ・ルージュ』でみそのと出会った時に茜が連れていたとりまきの中に、実は三浦智子もいたという設定だったりします(裏設定をこんなとこで明かすなと言うのに)。
■シュライン・エマ 様
『ANGEL EYES』に引き続いてのご参加、ありがとうございました(≧∇≦)/
今回もストーリーの牽引役的な役割を果たしてもらってますね。
シュラインさんが草間武彦氏に聖水と十字架を用意させていたことが、今回の事件解決に一番貢献していたんじゃないでしょうか。
シュライン、が名前で、エマ、が苗字なんですね。エマさん、って呼ぶほうが個人的にはイメージがぴったり来るのですが、今回は、シュラインさん、で呼称を統一してみました。……細かいことですけどね(笑)。
■宮小路皇騎 様
宮小路さんもまたご参加いただき、ありがとうございました(≧∇≦)/
宮小路さん、今回結構いろいろ活躍してますね。結構陰陽術を使う機会が多かったせいもあると思うんですけどね。
宮小路さんのアクションを書くために、陰陽道の資料や、北辰一刀流の資料をあれこれ読みましたが、あまり本編に活かされてない気がするのが悲しいです。次こそは!(▼皿▼メ)←こんなんばっかり
■静波歩 様
前半の調査編では、シエルさんとともに宮小路チームとは別行動となってしまって、あんまり目立たなかったですが、後半大活躍ですね。一番ヒーローっぽい役どころだったんじゃないかな。
性格的にも攻め攻めの能動的なキャラだったので、すごく動かしやすかったです。……というか、意識しなくても勝手に動いてる感じのキャラですね(笑)。プレイング文に書かれていた台詞がどれもかっこよかったので、本編中に意識して使わせてもらっています。
■霧島シエル 様
本編が届く前のファンレター、ありがとうございました(笑)。
本当は日明さんも参加される予定だったんですよね。事情を知っていれば受注をあけたままにしておいたのですが、シエルさんでジャスト5人目になってしまったので……タイミングが悪かったです><。
ほんとはこっそりと日明さんも出してあげたかったんですが(影で見守ってて、ちょっとだけ手助けするとか)、日明さん、見た感じじゃ絶対そういうキャラじゃないしなあ(笑)。
次はぜひお二人一緒にラブラブっぷり(……じゃないのか?)を書いてみたいなと思ってます。(≧∇≦)/
今後も、より一層頑張りますので、どうかよろしくお願いします(≧∇≦)/
ご意見、ご要望、ご不満などありましたら、是非聞かせてやってくださいね。
またのご参加をお待ちしております!ヾ(≧∀≦)〃
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