|
只恐れよ、角という角を
■序■
怪奇小説家、中之島憶人。
狂気に苛まれ死んだ。ポオと同じくして、奇才がまたひとり、ぞっとしない死に様を迎えたのだ。
彼は死の直前に長野の山奥で発見された不可思議な遺跡を訪れている。『長野球形古墳』と名付けられたものだ。古墳には実に様々な形状があるり、作られた時代もまた様々。この球形古墳は比較的新しいもので――いびつとはいえ、石室は球形をしていたのだ。石の継ぎ目は泥で塗り固められ、角張ったものは何一つ存在していなかった。
中之島はここを訪れている。
中之島はここで何かを見た。
彼が死んでいた部屋もまた、この古墳のように、角という角を失っていたのだ。
月刊アトラスがこの異常かつ不可思議な事件に興味を抱かぬはずもなく、碇麗香は抱えている記者たちに取材を命じたのだが――
「この事件に関わるべきではありません。せっかく警察があっさり『病死』ということにしてくれたのですから……この『奇跡』をふいにするのですか?」
リチャード・レイが突然イギリスからやってきて、麗香にそう忠告をした。
しかし、このネタを麗香が簡単に手放すはずもない。
レイの言い分を一部聞き入れ、……麗香はこの手の危険を問題にしないような『記者』を呼びつけたのだった。
リチャード・レイはあからさまに不機嫌な顔で、編集部を出た4人の『記者』を出迎えた。出迎えたというよりは――ばったり出会ったといった状況か。どうやら再三の忠告に来たようだったが、一行の中に見知った顔を見つけた途端、レイは迷惑そうに顔をしかめたのだった。
「……まあ、レイカさんが一目置いている方々ですから……わたしが心配するのは大きなお世話といったところでしょうか」
彼は多少の英語訛りがある日本語でそう嘯いた。
灰の髪、灰の目、灰の服。まだ若いが、奇妙なほど落ち着いた眼差しを持っていた。彼はその目で4人を順繰りに一瞥していった。
端正な顔から負の感情は静かに消えて、彼は軽く頭を下げる。
「リチャード・レイと申します。今回の件は皆さんにお任せしましょう。ただ、『猟犬』に勝とうとは思わない方がよろしいかと……あれはそもそも生死や勝ち負けといった概念を持っておりませんからね」
彼は言いながらファイルを開き、資料を取り出して、4人に手渡してきた。
「レイカさんに任されたお仕事は『取材』であることをお忘れなく。わたしはこれで失礼致します。また、お会いできるといいですね」
にこりともせず、かと言って慇懃無礼な態度でもなく、彼は別れを告げると背を向けた。麗香に会う予定は変更になったらしい。
4人は――海原みその、星間信人、武神一樹、天薙撫子は――レイから渡された資料に目を落とした。それは長野球形古墳と、作家中之島憶人邸の所在地を記したものだった。
■狂気の宴■
勝とうと思うな?
麗香が一目置いている?
心配?
――馬鹿馬鹿しい。星間信人は一笑に付する。見知らぬ男に心配されるほど、信人は自分が平凡ではないことを自負している。自分は『違う』のだ。能力も知識も頭の構造も思想すらも(そして、彼自身は気づいていないが、正気と狂気の境目の基準も)。
……が、あのレイという男はそこらの凡人ではないようだ。というのも、一瞬ちかりとあの男の灰眼が紫に光るのを見て取ったし、かすかに『門』の臭いをまとっていた。そもそもレイであるのはあの身体だけだった。器を満たしているものは全く別の魂だ。凡人ではない信人にはそれがわかっていた。
信人にとって、愚かな作家の死や、その死をもたらしたものなどどうでもよかった。ただこの件には彼が心身を捧げるある存在の世界が絡んでいる。大事なのはその点だけで、信人の目的は取材などという枠に収まりきるものではなかったのだ――少なくとも、星間信人にとっては、の話だが。
汚らわしい水の臭いが、先ほどから鼻についている。全くもって忌々しい。
ちらりと視線を落とせば、黒い少女が微笑みながら立っていた。挑戦的とも取れる態度であった。彼女はそこに居るだけで信人を不愉快な気持ちにさせる。
(水)
だが、この筋ではよく知られている水の精の、いずれとも違う存在の気配だ。この地球という星は、一体どれほどの神性や精や悪を魅了するつもりなのだろうか。たかが直径12000キロのこの星に、幾柱の神が住まうのか。
何にせよこの小娘は始末せねばなるまい。この小娘は、自分と同じ(それ以上とは死んでも認めたくなかったし、考えたくもなかった)信徒だ――巫女だ夜伽だとこの小娘が主張しようとも――信人にとっては、障害以外のなにものでもない。
しかし、何ということか!
この少女は、信人を見上げて微笑んでいるではないか。すべてを見透かしているかのようだ。それはことごとく信人の精神を掻き乱し、脳漿が沸騰しかねないほどの怒りと苛立ちを誘うのだ。
「よろしくお願い致しますわ」
「ええ、こちらこそ」
そんなふたりが交わした最初の会話は、あろうことか、こんな月並みなものだった。
勝とうと思うな?
麗香が一目置いている?
心配?
――わかっている。みそのはすべてを知っていた。憐れな作家が見たもの、そして作家を狩りたてたものの正体、リチャード・レイという男のこと、件にかかわることならば何もかもだ。
レイと再会できたのはそれなりの喜びであった。『門』が絡んでいる以上、避けては通れない因縁のようなものがあるだろう。しかしレイの身体を借りている魔術師は、この再会を良しとしなかったようだ。ちかりと輝いた紫色の瞳は、みそのの瞳にこそ映らなかったが、感情の乱れは流れの妨げのようなもの。とはいえ、レイはみそのの力を目の当たりにしているわけだし、他の3人の力も期待をかけていいものと判断したようだ。
今回の件は『猟犬』が絡んでいる。レイもそう言っていたし、みそのはつい昨日夢の中で話をすっかり聞いていた。調べずとも、中之島憶人が何を見たのか、何に狩りたてられたのかを知っている。『猟犬』だ。レイが言う通り戦って勝てる相手ではない。戦おうと思うことからしておこがましいだろう。やつらはこの時間の支配を受けない。時間が生まれる前から存在しているのだ。
ただ、この魔犬の存在は人間たちにもとりあえず知らせるべきではないか――みそのはそうも考えた。これから先、中之島の死を追う者が出てこないとも限らない。そうなれば、件の古墳に調査は行きつくだろう。古墳はやつらを封じていた。これは間違いない。この事実、月刊アトラスを通して少しでも多くの人間に知ってもらいたい。この世にはどうにもならないものごとが存在するのだ。残念ながら。
猟犬の対処は以上として、目下みそのにとって最大の問題は、今日初めて出会った星間信人という小柄な壮年であった。
(風)
ひりひりと肌に渇きをもたらし、ちりちりと頬を裂かんばかりの空気が、みそのを悩ませているのだ。みそのの瞳は深淵へと通じていた。信人が白手袋で隠していても、みそのには見える。彼の手の甲に刻まれた風の刻印、<黄の印>が!
常々神はみそのに警告しているのだ。
風に用心しろ。
風を見るな。
風の名を呼ぶな。
みそのが仕えている神は、ルルイエでいびきをかいている神とは違い、風との戦いを望みはしていないようだ。だが、相手はどうもそうではないらしい。人当たりのいい微笑みを浮かべているが、その奥では謂れもない怨嗟がとぐろを巻いている。この男とはふたりきりにならない方がよさそうだ。
それに、今のところ何とかしなければならないのは、鎖も首輪もついていない猛犬だ。
この男ではない。
「よろしくお願い致しますわ」
「ええ、こちらこそ」
そんなふたりが交わした最初の会話は、あろうことか、こんな月並みなものだった。
■火華■
「今の御方は――」
撫子は戸惑い、形のいい眉をひそめた。
思わず呟いてしまったのは、勿論、先のイギリス人のことだ。見ようとせずとも見えてしまった。リチャード・レイではなかった。
「ああ、そのようだな」
撫子が言わんとしたことを、一樹は親切に汲み取っていた。
「だが、こうして親切に忠告してきたところから見て、悪いものではなさそうだ。無理矢理乗っ取った気配もない。問題は彼よりこっちだろう」
一樹は難しい顔になると、資料に目を落とした。
そして、麗香から聞かされた経緯とを照らし合わせる。
「『角のない部屋』……」
言葉尻だけでも異様で禍禍しい。何もないわけがない。何かがあることを前提とした存在だ。撫子はこれまでに感じたこともないような予感に囚われて、否応無しに緊張していた。妖というものの図鑑をつくることは不可能だ。生の数だけ死があり、正の数だけ歪みがある。無限に挑んで終わりはあるか? だからこそ、撫子は経験の数が意味をなさないことを心得ている。
「『ティンダロスの猟犬』という存在を知っているか?」
黙りこんでいた一樹が口を開いた。やれやれ、と言った口振りである。どうやら彼の経験の中に、この異様な事件の鍵が含まれていたようだ。
いいえ、と撫子はかぶりを振った。
「事件としては単純だが、根本的な解決方法はない。さっきの男が言っていた通り、やつらには俺たちの持つ常識がないからな」
「祓えないと?」
「そういうことだ。だが、うまくやれば追い返せるし、二度とここに来られないようにすること出来る。……『出来る』というか、そうするのが精一杯だ」
「それが最善の策であり、唯一の策ですのね」
「深追いは無用、ってところさ。あの外国人の言う通り、俺たちは『取材』をしようじゃないか。これ以上この事件に首を突っ込むやつが出てこないくらい、完璧に」
撫子と一樹は顔を見合わせると、ようやく微笑んだ。
だがしかし、一樹はこの場に集まった他の人間に目をやって、内心頭を抱えている。時空やそれを超越したものが絡めば、もれなくあの男がついてくる。
星間信人だ。
撫子は単なる感じのいい壮年(ただし、この件にすすんで絡んできたわけだから、単なる壮年というわけではないだろう。撫子はそう考えられないほど愚かではない)としか受け止めていないが、あの男は危険であり、狂人であり、猟犬である。この場合大切なことは、この場で撫子だけがその事実を知らないと言うことだ。
信人のそばにいるあの少女もまた只者ではない。それは撫子にも一樹にもわかっている。正体については知る由もない。
――この、神社のお嬢さんには悪いが……。
「なあ、二手に別れないか」
一樹は提案した。みそのと信人も微笑んだ。先に言ってしまった方が有利だ。本当に心が痛むが、あの信人とみそのという少女は引き離しておいた方がいい。このままことを運べば、もっと心が痛む事態になりかねない。
「作家の家と古墳、調べるものは2つある。早めに仕事を切り上げないと碇に何言われるかわかったもんじゃない。効率よく進めようじゃないか」
一樹は言うと、みそのを見下ろした。みそのは一樹が次に何を言わんとしているか、その闇色の瞳で、何もかも見透かしているかのようだった。
「お嬢ちゃんは、俺と一緒に作家さんの家に行く気はないかい?」
「喜んで」
星間が危険であることすら、この少女は見透かしているのか。
何も知らない撫子には本当に悪いことをする。しかし、何も知らない人間にとっては、星間は無害の人間であり続けるはずだ。
「では、わたくしは星間様と古墳へ」
撫子は素直に従った。星間は――何も言わなかった。表情も変わらず穏やかだった。一樹はふと口元を緩めて言い放つ。
「星間、妙な気を起こすなよ」
「起こすはずもないでしょう」
一樹と信人は束の間視線をがちりと打ち交わした。
何も知らない人間が見ても、どうと言うことはない光景であった。
■遺跡の角より■
武神一樹め、余計なことをしてくれた。
星間信人は心中で歯噛みし、地団太さえ踏みたい心境であった。その怒りと苛立ちも、当たり触りのない態度と微笑みの下へと追いやられている。実に巧みであった。
海原みそのと言ったか。だが、焦ることもなかろう。その結論に達したところで、ようやく信人は落ち着いた。東京は狭いのだ。またとは言わず、何度も会うことになるに違いない。
そんな信人の様子をちらりと見て、撫子もまた少しだけ一樹を恨みたくなっていた。信人の狂気に、彼女は気づいている。いかに温和な皮を被ろうとも、その眼光と気の流れは誤魔化せるものではないからだ。撫子ほどの経験と能力があれば、容易く読み取ることが出来る。
しかし、海原みそのと言ったか。仕方のないことだろう。信人があの少女を見る目は異常であった。みそのと一緒にさせるわけにはいかない。割り切ることで、撫子は不満と不安を押し殺すことが出来た。
古墳は小さな神社の裏手に広がる森の中にある。撫子は周囲の民家を尋ねてまわったが、めぼしい情報は得られなかった。忘れられた遺跡なのだ。その方が良かったに違いない。忘れられるためにあの遺跡はあったのだ。
「あら、意外と小さいものですのね」
草木をかき分け、ふたりは球形古墳に辿りついた。撫子が思わず首を傾げてしまったほど、古墳は小ぢんまりとしていたのである。
と、撫子を押し退けるほどの勢いで、信人が古墳に近づいた。若木をへし折り、草を引き千切り、古いいびつな石室に飛び込む。
「ほ、星間様――」
驚き呆れる撫子の呼びかけにも応じず、信人の姿は消えてしまった。
ここで彼を追うのは得策ではあるまい。
ふと、聞き慣れない鳥の声のようなものが空から降ってきた。カケスの数十倍は耳障りな声で、撫子の正気と胸を掻き乱す。彼女は暮れかけた空を見上げた。何か異様で恐ろしいものが、空を横切ったような気がした。
星間は石室の中に入ったまま出て来ない。
撫子は空の獣以外に新たな気配を感じて、さっと振り返った。ぼうぼうと生い茂る草木の中に、小柄な神主が佇んでいた。足音などは聞こえなかった。
こんばんは、と撫子は微笑んだ。年齢不詳の神主もまた控えめに微笑み返し、頭を下げた。少なからずの親近感を覚えつつ、撫子は神主に歩み寄る――
「もう、調べものはこれで最後にして下さい」
神主はぽつりと呟いた。ぎゃアぎゃアといういびつな鳴き声が空から降ってきている。あれが何なのか気にしているのは撫子ばかり。神主には、あの気配すら届いていないのか。
「あのお墓は、忘れておくべきなのです」
「そんな。それでは、葬られている御方が浮かばれませんわ」
「いいえ、あの中の方もそれを望むでしょう」
「……世に出てはいけないものなのですね」
神主は大きく頷いた。
「この国とは言わず、世界中にそのような秘密はあるものなのです」
しぎゃアアあッ!
ひときわ大きな声で、空の獣が鳴いた。撫子は思わず空を仰いだ。蜂のような、蝙蝠のような、鳥のようなその存在は――ばさばさと不器用に羽ばたくと、古墳の近くに降り立った。
撫子が再び顔を下げたとき、すでに神主の姿は消えていた。神主が立っていた位置の草は、まったく曲がってはいなかった。そこに人はもとから居なかったのである。
円形の石室はまったくつまらないものだった。
丸い石のかめが中央にあるが、それだけで歩き回るのも苦労するほどの狭さ。
しかし――
「素晴らしい」
目的のものがないことには落胆したが、信人は思わず賛美した。この完璧なまでの角のなさ、古代の人間にも禁断の知識はあったのか。否、現代の愚鈍どもよりも余程神々を畏れ敬っていたのだから当然か。
かめの中には風化しかけた人骨がある。しかし、鼻が曲がりそうな異臭を放っていた。それはこの骸から発せられているのではない。かめにこびりついた青と緑と灰の色が混じり合った、粘液から発せられているのだ。粘液は干からびた人骨にもまとわりついていた。
猟犬は餓えている。何しろしばらくの間(やつらにとっては数千年の時など、一瞬か、長くて「しばらくの間」だろう)この獲物だけを餌にするしかなかったのだ。おそらくこの墓が暴かれたとき、嬉々として角の中へと帰ったに違いない。
そして獲物がちょくちょくやってくることに気がついて、この忌まわしい球へと戻ってきたのだろう。そしてひとりの浅はかな作家を狩りたてたのだ。
信人が追っているものはなかった。無駄足だったが、よいものを見た。多少ながらも満足しつつ、信人は踵を返そうとした。
にちゃ、
悪臭と異様な音に、信人は足を止め――凄惨な狂気の笑みを浮かべた。猟犬がやってくる。どちらが獲物か教えてやるとしようか。
にちゃ、
かめの中から粘液が溢れ出そうとしている。
古墳の出口に、呼び出しておいたビヤーキーが降り立った。ぎちぎちとやかましく鳴きながら、信人の帰りを待ち、猟犬の訪れを呑気に待っている。
入口に転がっている小石から、煙が吹き上がった。
「ははははははははは!」
まさかこの目であの訪れを見ることになろうとは!
信人の哄笑に呼応し、煙は吼えた。
明らかに、その咆哮は狗のものであった。
あのレイという男は『猟犬』という言葉を残した。
撫子はものも言わずにすらりと『神斬』を抜き放ち、美しい顔を強張らせ、草木を裂くような勢いで走り出した。古墳はすぐそばだ。
翼持つ異形が、信人を抱え上げて飛び上がった。あの邪悪は信人が呼び出したものらしい。信人の顔には恐怖もなく、ただ歪んだ悦びと狂気だけがあった。
と――撫子の視界に、煙のような、粘液のような、おぞましい猟犬の姿が飛び込んできた。見ただけで気がふれそうなほどの歪みであった。
鋭ァっ!!
撫子の気合とともに、神をも断つ刀は振り下ろされた。
猟犬は凄まじい臭気を放ちながら首をすくめただけだった。刀は確かに猟犬の躰をとらえたが、猟犬はまったく動じなかった。撫子は考えるより先に飛び退いた。
「かれは神でも魔でもないのですよ」
信人が上空で嘲笑っている。いや、一応助言してくれてはいるのか。
「われわれが不浄と呼んでいるものが姿を取っただけなのです」
「不浄――」
撫子はぱちんと霊刀を収めた。
「祓えないのならば、封じましょう」
「それがよさそうです」
信人は翼もつ者に命じ、猟犬の前に降り立った。
『我が声途絶えることも無し! 我が魂の歌途絶えることも無し!
謳われることなく滅ぶべきは、我が神/我の御前に座するものども!』
『涙流されぬままに涸れ果てよ!』
『かの地かの星かのカルコサの如く!』
信人の白手袋が腐り落ちた。
加えて、放たれた烈風を浴びた草木もまた、吐き気を催す臭気を上げながら腐り果てていく。この臭い、あの猟犬に勝るとも劣らぬ。
だが猟犬は腐らなかった。もとより腐っているからだ。ただ、烈風を浴びてよろめき、転倒した。猟犬は風に押されて、あの古墳の中に転がりこんだ。
「さ、迅速にお願いします」
信人は手を下ろし、風は止まった。どこからともなく新しい白手袋を取り出して手に嵌めている。
その言葉を待たずして、撫子は風が止まると同時に走った。小さな古墳の周囲を駆け回る。無論、ただぐるぐると迷走していたわけではない――
神の糸を、古墳に巻きつけていた。
ぐるるるるるるるるるるるるるるるるるぅぅぅぅおおおおお!!
餓えた猟犬の、怒りの咆哮。飛び出そうとしたが、神の糸を掻い潜ることが出来ずにいた。その苛立ちのために、猟犬はまたもや咆哮する。
がるるるるるるるるるるるるるるるるるぅぅぅぅおおおおお!!
ぐるる、うるる、がるるるるぅぅ――
いずこかに飛んでいっていた信人のビヤーキーが戻ってきた。鉤爪のついた手と足で、丸い岩石を持っている。
ビヤーキーはやかましい笑い声を上げながら、古墳の入口めがけて岩を投げた。
猟犬は吼えた。それから、唸り始めた。
こんなことをして、ただで済むと思うなよ。
やつはおそらくそういうことを言っていた。
ぅうるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる、
ぐるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるううううぅぅぅううぅぅぅぅぅ――
どうやら諦めたらしい。
猟犬は再び封じられた。
■中之島憶人の最期■
「古墳の謂れも謎。中之島が何で古墳に興味を持ったのかも謎。わかったのは怪異の正体だけ。古墳の役目に至っては推測ね」
麗香は調査の結果にあまり満足していないようだったが、妥協したようだった。
「私たちが踏みこんではならないことも確かにあるわ。命あっての『特ダネ』だものね」
レポートをファイルに挟み込んだ麗香に、撫子が控えめに切り出した。
「あの、お願いがあります」
「ええ、わたくしからも。……一樹様も、同じですよね?」
「ああ」
一樹は難しい顔で腕を組んだ。
信人だけが何も言わずにこにこしている。麗香は信人を除いた3人が何を言い出すのかどうも察しているようで、仏頂面になった。
「なあに?」
だがとりあえず尋ねてきた。
「記事にはしないで下さいませんか。世間に知られたら、またあの古墳と作家先生を追う方々が出てくるでしょう。わたくしどものような力を持たない方々がもし、あの異形と出会ったら――」
「……」
「封じてはおいたが、やつらには基本的に不可能はないんだ。俺たち人間は欠点だらけだ。ちょっとした綻びから、やつらは飛び出してくる」
麗香は大きく溜息をついた。
「……まったく、もう」
彼女は明らかに惜しそうな顔をしていた。
だが、4人の目の前で、一旦はファイルにしまったレポートを取り出すと――三下がついさっき提出した原稿とともに、シュレッダーに放り込んだのだった。
「でもま、一応取材料は出たな」
「お断りしましたのに……」
少ないながらも報酬を渡され、撫子は困惑していた。撫子だけではなく、一樹もみそのも取材というより、人の世のために今回は動いたつもりでいたのだ。4人はそれぞれの思惑を胸に、アトラス編集部を出た。
4人――であるはずだったのだが。星間信人は姿を消していた。
一樹は鋭い目で辺りを睥睨したあと、万札を不器用に数えているみそのを見下ろして微笑み、撫子にも笑いかけた。
「じゃ、なかったことにしようじゃないか。今日全部使うってのはどうだ」
「え?」
「ちょっと高くつくが旨い懐石料理の店を知ってるんだ」
「……そうですね、それもいいかもしれません」
「かいせきりょうり? どういったものでしょうか?」
苦笑する撫子と首を傾げるみそのを連れて、一樹は少しだけ自信ありげに歩き出した。本当に、旨い店なのだ。……めったに行くことが出来ないほど、高くつくのも本当だった。
みそのは振り返り、改めてうっすらと笑みを浮かべる――深淵の如き瞳には、その微笑みがない。
そしてその視線の先には、猟犬のように牙と爪を研ぐ星間信人の姿があった。
彼もまた、微笑んでいた。
がるるるるるる。
(了)
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0173/武神・一樹/男/30/骨董屋『櫻月堂』店長】
【0328/天薙・撫子/女/18/大学生(巫女)】
【0377/星間・信人/男/32/私立第三須賀杜爾区大学の図書館司書】
【1388/海原・みその/女/13/深淵の巫女】
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
モロクっちです。お待たせいたしました。
今回はOMCのサーバー障害をまたいでの募集となりまし
た。
わたしはライターとしてだけではなくユーザーとしてもO
MCサイトを楽しんでいる立場ですので、復旧まで不安でつ
まらない日々を過ごしていました……。
ともあれ、復旧して何よりですね。
さて、今回の『ティンダロスの猟犬』ですが、モロクっち
がガタノトーアに次いで愛している神性です。しつこいやつ
らという公式(?)設定があるのが有り難いです。また登場
させられますからね(笑)。リベンジにやってきた際には、ま
た構ってやって下さると嬉しいです。今度こそ時間が生まれ
る前の時空へ追い返してやって下さい。
なお、この作品は分割されています。古墳側と中之島邸側で
す。お時間があれば合わせてお読み下さいませ。
■天薙撫子様
はじめまして! (エセ)クトゥルフの世界へようこそ。
大和撫子タイプの女性は経験が浅く、手探り状態での執筆と
なってしまいました。描写等、ご期待に応えられたのならば
幸いです。
それでは、この辺で。
またご縁があればお会い致しましょう!
|
|
|