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星降る夜
日がとっぷりと暮れ、遠目のライトが照らすのは夜の顔だけだった。
新月の闇は1つまた1つと深さを増す一方で、麓の村までの道のりは僅かに遠い。助手席に座る人物に気を使ってか、男の愛車――The BMW Z3 roadsterはルーフを閉ざし、車内はカーナビと碧色の点々とした明りが灯るだけ。濡れたジャケットを後部に放り込んで、シャツの前ボタンを遠慮なく広げた男は時々現れては遠ざかる外灯に目を細める。残像のように現れては消える、その光に沙倉唯為はその銀色の眼を隣へと転じた。
「…………」
車に乗り込んでから……否。獣道を下って、歩き始めたそのときからこの人物の機嫌は頗る悪い。いつも以上に口を硬く閉ざし、これ見よがしに顔を窓の外へと向けている――十桐・朔羅は仏頂面を文字通り顔に貼り付けて、繊細な白髪が近づく外灯、遠ざかる光に彩られては、また闇に飲み込まれる。その姿を右手で軽くハンドルを動かしながら横目で確認した唯為は、小さく息を落とした。
「…朔羅」
呼びかけたとしても決して返事は無い。それ所か一切の反応もない。唯為は視線を広くなった路に向けたまま、
「疲れたなら寝ていろ」
短く云って、ラジオのチューナーボタンを押した。赤い小さな石の付いたシルバーチェーンのネックレスが鎖骨から滑り落ちるように金属音を立て、揺れる。
『よるのおどもにガガ…ピピ……わんだ…ガガガ…ふ…』
雑音とモノの見事に共演した声に男は即座にそれを消す。ハンドルを右手から左手に預けると、慣れた手つきで今度はCDの再生ボタンを押した。低音が響くそのメロディーは普段、唯為が何気なく聴いているものだった。
秋口とは言え、山の夜は底冷える。漆黒を塗り潰したような風景を引き連れて、深紅の車が駆け抜ける。相変わらず、口と云わず心と云わず、頑なに閉ざした朔羅に唯為は再び口を開いた。
「腹、減ってないか?」
その後も、沈黙の問答が繰り返される。「寒くないか?」と尋ねては空調を気にする男などお構いなしに、朔羅は窓越しにポツンポツンと見え始めた民家の光に瞳を向けたままだった。
その様子に流石の唯為も呆れたのか。
「……小学生か」
溜息交じりにそう零す。と、同時にハンドルを大きく左にきって古びた橋へと差し掛かった。
「煩い」
車幅ギリギリの橋を渡りながら初めて返ってきた科白は非道く淡白で短い。あからさまに顔を背ける朔羅の姿に、唯為は大きな溜息と自嘲気味た笑みを同時に浮かべた。
――全く。
星だけが降り注ぐ闇に見た泣き顔。まさか自分のことであんな顔をするとは正直思ってもみなかった。
唯為はあの紺碧の淵で垣間見た己の本性と――そして、確信した感情に救われた気がする。『生』に執着する心を持つことはこの手で殺めた母に対し、非道く申し訳ない気がした。否、母のことをずっと無理やり心の奥に押しやってきた。そうすることでしか、弱い自我を保つことが出来なかったから……目を瞑ることで憎き我が分身『緋櫻』をふるってきたかのように思える。そうでなければ――当の昔に狂っていた。
――いつか、この手で……。
悠久の時を血風を纏い、命を食むことで生き長らえた妖刀・緋櫻。これ以上……俺がこの刀を手にした以上。刀の運命と共に己の命を犠牲にするのも悪くない。一緒に無言の淵に沈むなら、それでも良かった。
だが。
だが、しかし。
妙に冷静だった……興醒めた脳裏に浮かんだのは、藤色の羽織に身を包んだ後ろ姿。ゆっくりと振り返ると、変わらない瞳がそこにある。金色に意識が乗っ取られたそのときも、軋むまでの運命に呪われようとも。いつもあの櫻の木の下で、白い髪を着物の裾と共に揺らし、立っている。
――俺が死んだらアイツはどんな顔をする……?
驚くぐらい自然に出てきたその問いに閉ざされかけた意識は白く開かれた。いつものように顔色1つ変えず、あの場所にいるのだろうか。それとも……。
――それとも?
見出した答えは果たして正解だったのだろうか? 否、この世の中に……人間の生き様に『答え』など存在する筈が無い。誰もが苦しい定めと僅かに掴んだ希望に明日を託し、運命と云う手のひらで、もがき喘ぐ。
しかし、確実に男が――唯為が手にした『答え』は安楽の『死』ではなかった。
まるでマリオネットのように、仕組まれた断ち切れぬ糸に翻弄されていたのは誰だ……?
唯為は明りが増えた周辺を何処か遠くに見ながら、村に1つだけあると云われる信号にスピードを落とし、停車した。煙草を1本、と胸ポケットを探ったが、ジャケットは濡れたまま後部に放り込まれている。それに気付いた男はサイドボードにでも……と視線を巡らすが、そのときカクン、と甘い香を連れて白い髪が鼻をくすぐった。
「…さ……」
開かれた口はすぐに苦笑いに変わった。
スースーと小さく寝息を立てているその顔は、まるで純真無垢な赤子のようで……黒い睫毛が綺麗に縁取られた瞳は、あの涙をまだ残しているのか。少し濡れていた。
「あんな顔してくれるとは思わんかった……いつまでも…」
聞こえるか聞こえないか……低く篭った声で男は云う。すまんな、と。
そして、細い躯を支えた右腕で朔羅の頭を撫でた。今度は決して、母親が子供をあやす、そんなものではなくて。
寄りかかってきた頭と同時にポテンと投げ出された手を左手で、やんわりと包み込むように握り締める。唯為は口元に小さな笑みを作って、繊細なその髪に口付けを落とした。
信号が青に変わろうとも、こんな夜更けに他の車などいる筈もなく。
子供のように温かい朔羅を腕に抱いたまま、
――俺の『答え』は……。
先見えぬ闇に己の運命を重ね、男は嗤う。
今宵――星降る夜に宿を求めて。
Fin
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