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<東京怪談ノベル(シングル)>


未完成の刻



 日が高くなって来ました。水面から顔を出すと、頭上から光が降りそそいできます。
 光はとても滑らかで、水やあたしの肌を包み込みます。眺めていると、時間を忘れてしまいそうな程に。
 ――けれど今は訓練中ですから、光に見とれている訳にはいきません。
(この訓練は、とても大切なこと)
 あたしは気持ちを整えてから、再び海の中へ――。

 自主訓練を続けてきたせいか、随分と人魚としての能力が増してきました。
 今では、広範囲に渡って水を操ることが可能です。
 ――ですが、これだけではいけません。他の方々の足を引っ張りたくはないのです。
(水に触れなくても操れなければ――)
 最近はそれも可能になってきました。
 精神が高揚した時か、周囲の湿度が高い時に、心を本能に委ねれば水はあたしの願い通りに動いてくれます。
 ですが、あたしが冷静な時には水は反応してくれません。
 あたしの心の何処かに、迷いがあるのでしょうか。
 本能に頼るのを辱とする理性が、あたしを引き止めているのかもしれません。
(それではいけないのです)
 このまま諦めてしまうには、あたしは大切な人や感情を知りすぎました。
(この手で受け止められるものが、一つでも多くなるように)
 願いが想いになり、絡み合っていくのがわかります。
 ――精神の高揚。
(今なら――)
 あたしは海から上がりました。

 海を見下ろし、光の反射を見ました。おそろしく美しい海です。
(これを操れたなら)
 目を閉じ、自分を抱くように手で肩を包み込みます。
(お願い――)
 耳元で、サラサラと音が流れ出しました。
 風が海をなぞるようなその音は、次第に強さを増してきます。
 音は、あたしの身体中に響き渡り――
(あたし自身が海であるかのように)
 海という生き物が動き出しました。

 どれくらいそうしていたでしょうか。
 瞼の奥で、光が溶けるように混じり合い、あたしを呼ぶのです。
 ――そろそろ、頃合いでしょうか。
 そっと目を開くと――。
 眼の前には、緩やかなカーブを描いた水のアーチがありました。
 アーチの向こうには、濃い青を呈した海が見えます。
 眺める者の心を奪える程の鮮やかさ――と表現すれば良いのでしょうか。
 絶対に存在しない油絵とも言えます。
(問題はここから)
 これをいつまで維持出来るかが重要なのです。
 一時の感情に任せての攻撃なら、今のあたしにも出来ます。
 ですが、状態の維持となると――極めて困難なのです。
(あたしの感情を、揺るがしてはならないから)
 水のアーチを動かさずにいられることは、すなわち自分の精神を操ること。
(少しでも長く維持したくて)
 あたしは再び目を閉じました。

 でも――もしかしたら、あたしはとんでもない間違いを犯しているかもしれません。
 人魚の力を使う度、そのような考えが頭に浮かぶのです。
 そもそも、人魚としての能力が強まるというのは、どういうことなのでしょうか。
(人魚の血が強まることなのでしょうか)
 そうなると、今までのあたし――人間としてのあたしの血は薄まることになります。
(それはつまり――)
 覚醒前のあたしとは完全に違うあたしになるということでしょうか。
(いいえ、あたしは確かにあたし)
 けれど――覚醒前のあたしとは何かが変わっている気がするのです。
 あたしの本能的な感覚が違ってきた、と言えば良いのでしょうか。
 以前のあたしは、普通の生活を送ってきました。
 普通、ということが何なのかは正確には存じませんが、世間一般で言う「普通」に属するものではありました。
(それが今では――)
 たまらなく水が心地良いのです。水はあたしの心を、身体を、自由にしました。
 ――これは、普通でしょうか?
(わからないのです)
 あたしにとっては、これらは全て日常です。
 学校に通い、海底に潜り、水を操り、それに委ねる。幾度となく繰り返してきたことです。
(どちらもあたし)
 以前と今と違う部分があっても、変わりません。
 ですが――あたしの何処かが崩れている気がするのです。
「違う」と言っているような――声が聞こえるのです。
(あたしはいつも理性が先立つから)
 思えていないのかもしれません。あたしはあたしだと、思い込もうとしている自分がいる――それが真実かもしれません。
(本当は揺れている)
 あたしが、今も本当にあたしのままでいるのか――それとも。
(不安――)
 人でないあたしも、皆様は受け止めてくれるでしょう。ありのままのあたしを、穏やかに包んでくれる筈です。
 ですが、一般社会や一般常識の元ではどうなのでしょうか。
 あたしはどう思われるのでしょうか。
 ――不安。
(本当は、ずっと前から不安だったのです)
 怖いのです。とても。
(だから――)
 水を操るのを、一瞬ためらってしまうのです。
 誰かに「大丈夫だよ」と支えてもらえたら楽でしょう。
(ですが、これは自分で解決しなければならない問題です)
 なぜならあたしは、あたしだからです。他の方が、あたしになることは出来ません。決断は自分にあります。
(今、やらなければならないこと)
 それは、皆様の足手まといにならないよう、訓練することです。
 あたしは目を開きました。
 ――そっとではなく、パッと外界を開くように。

 目の前にあった水のアーチは、跡形もなく崩れていました。
 海は穏やかに光を反射しているだけです。
(考え事をしてしまったから)
 きっと、すぐに崩れてしまったのでしょう。仕方がありません。
 あたしは胸に手を当てました。
 鼓動は普段通りの速度で動いています。
 普段なら、高揚させるところですが――
(今なら出来るかもしれません)
 自分の不安の根底を探った今なら。
 あたしは、目を閉じました。


終。