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<東京怪談ノベル(シングル)>


きずなのかたち




 風鈴が涼やかな音を立てる。
 初夏の日差しは燦々と降り注ぎ、たいして広くもない事務所が光に溢れる。
 新宿の一角にある古ぼけたビル。
 その三階に居を構える草間興信所。
 不景気そうなたたずまいだが、じつはそれなり儲かっている探偵事務所である。
 もっとも、健全経営の功績は所長たる草間武彦には帰さない。
 怪奇探偵の異名を取る三〇男の経営能力など皆無に等しいからだ。
 では、誰のおかげで経営が成り立っているかというと、衆目の一致するところ、すべて黒髪蒼眸の事務員の功績だ。
 シュライン・エマである。
 キーボードを叩く繊手とまっていた。
 新調したエアコンディショナーの風が、白い肌を心地よくくすぐっている。
「‥‥ふぅ‥‥」
 溜息。
 辣腕なる大蔵大臣も、一時的に失調することもあるようで、今日は朝から仕事の手が止まりがちだった。
 処理しなくてはいけない案件が、まだまだたくさん残っているというのに。
「疲れてるのかしらね‥‥」
 軽く首を回す。
 たしかにオーバーワーク気味ではある。
 シュラインはまだ若く鋭気に富み、人生に疲労するということもないはずだが。
 視線を転じる。
 事務所の主人とその妹が、面白くもなさそうな顔で事務処理をおこなっていた。
 所長のデスクからたちのぼる紫煙が、ゆっくりと大気に溶けてゆく。
 いつもの日常。
 いつの頃からか事務所に染みついたマルボロの香りにも慣れてしまった。
「‥‥‥‥」
 シュラインの唇が小さく動く。
 音波になるには、あまりにも小さすぎる動き。
 だが、注意深く観察すれば、それが恋人の名のカタチだったことが判るだろう。
 不意に不安に駆られたのだ。
 理由もなく。
 三人の関係は良好である。
 恋人たる草間とも義妹とも上手くいっている。
 もちろん喧嘩もするし言い争いなど日常茶飯事だが。
 喧嘩するほど仲がよい、とは、よくいったものである。
 にもかかわらず、なんとなく不安になってしまう。
 右手の薬指に輝くシルバーのリング。
 花の都で怪奇探偵から送られたものだ。
 溜息が、銀色の指輪をわずかに曇らせた。
 心の色を映すかのように。
 一緒にいても、哀しいことがある。
 それは、人間というのは、ひとりひとりみんな違うから。
 他人の心の中は見えないから。
 絶対に。
 愛しみあった男女でも、それは変わらない。
「ああっ もうっ」
 小さくうめいて頭を振るシュライン。
 まるで出口のない迷路に入り込んでしまったようだ。
「やっぱりバイオリズムが低下してるのかなぁ。カルシウムが足りないのかも」
 ちなみに、カルシウム不足で起きるのはイライラだ。
 この場合、足りないのは糖分かもしれない。
 まあ、このあたりがすでにしてシュラインの失調をあらわしているのだろう。
 仕事をしていたはずの草間が席を立つ。
 微苦笑を浮かべて。
「ちょっと調査に出掛けてくる。シュライン、一緒にきてくれ。零は留守番を頼む」
 やや唐突な言葉。
「あ、はい」
 面食らったように立ちあがる事務員。
 今日は外回りの予定などなかったはずだが。
 もっとも、処理の過程で現地調査が必要になるのは、よくあることだ。
 表情を引き締めたシュラインが、怪奇探偵に続いて事務所を出てゆく。
「いってらっしゃい」
 と、留守番の少女が手を振っていた。
 どういうわけか、微笑しながら。


「ねぇ武彦さん」
「どした?」
「いま零ちゃん笑ってなかった?」
「気のせいだろ?」
 応える草間が笑っているのだから、説得力など欠片もない。
「むー」
 ちょっと頬をふくらます蒼眸の美女。
 恋人の手が伸び、黒い髪をくしゃっと掻き回す。
「ちょっと散歩でもしようぜ」
「‥‥‥‥」
「嫌か?」
「調査で外に出たんじゃなかったの?」
 言い返しつつ、シュラインにも真相は見え始めていた。
 思い屈しているのを草間兄妹に見抜かれていた、ということなのだろう。
 冷静で慎重な彼女らしくもないミスだが、人間である以上、無謬ではいられない。
 なんだが恥ずかしい場面でばかり失敗しているような気もする。
「俺は仕事に出るなんて、一言もいってないぜ?」
 まったくその通りだ。
 普段のシュラインであれば、すぐに気が付いたであろうが。
「‥‥‥‥」
「シュラインと一緒に歩きたかったんだ、と、言ったら怒るか?」
「‥‥ばか」
 照れたように言ってから、恋人と腕を絡める。
 馬鹿という言葉は、一般には罵声として認識される。
 だがこの場合、それは睦言。
 かぎりなく優しい憎まれ口。
「なにを悩んでたんだ?」
「べつに‥‥たいしたことじゃないわ」
 初夏の通りをそぞろ歩く。
 背の高い事務員と、同じく背の高い怪奇探偵。
 なかなか絵になるカップルだ。
 二人の黒髪が風にそよいでいる。
「たいしたことじゃないなら、話してみろよ」
「‥‥ちょっと将来のことなんかを、ね」
「うちで働くのが嫌になった?」
「そんなこと、あるわけないじゃない」
 やや語調を強くするシュライン。
 恋人がいて、友人がいて、毎日が充実している。
 嫌になどなる理由は、どこにもない。
「それなら良かった。シュラインがいてくれないと大いに困るんだ。事務所としても、俺個人としても」
 戯けたように語りかける草間。
 たとえ内心で真剣そのものだったたとしても、命懸けでもそうは見せないのが、この男の度し難い悪癖である。
「まあ、辞めたいっていっても、俺が辞めさせないけどな‥‥」
 頬を掻く。
 本当に、感情表現の下手な男だ。
 くすりと笑ったシュラインが、
「そうね。条件次第で残留してあげる」
 と、いった。
 いつもの笑顔だった。復調の兆しらしい。
「そっか。じゃあ奮発しないとな。こないだ話したレストランでランチってのはどうだ?」
「悪くない条件ね」
「働き者のお姫さまに、ささやかなプレゼントさ」
「王子さまの誘いを断るのは失礼よねぇ」
「まったくだ。では姫、参りましょうぞ」
「お随従いたしますわ。王子さま」
 絆の形は、人によって異なる。
 でも、どんな形だってそれは幸福の範疇に入るのだろう。
 きっと、白髪の老人になっても恋はできるのだ。
 ゆっくりで良い。
 いまはまだ、この心地よく騒がしい日常とともにあろう。
 答えを出すのは、愛の謎を解くのは、今を充分に楽しんでからだ。
 右手のリングがきらりと光る。
 戯けながら歩く二人。
 通りには、昼をしめす短い影が映っていた。








                           終わり