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兎目の石
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「ちょいと、お兄サン、月の石ってのを知ってるかしらねェ?」
やけに馴れ馴れしい態度で話しかけてきたのは、水商売上がりと解るような徒っぽい女だった。年の頃は四十過ぎだろうか。だが、長年の化粧で痛んだ肌は五十過ぎにも見える。色の抜けた髪は艶がなく、きめの粗い肌と相まって女を乾燥した印象に見せていた。
私はゆっくりと足を組み替えながら首を横に振った。
「いいえ、存じません」
「だろうねェ。アタシも知らないのさ」
喉の奥で引きつった笑い声をあげ、女は身を乗り出してきた。
「だからね、お兄サン。それを探して欲しいのさァ」
「料金の方はどのようにしてお支払いいただけますでしょうか」
「その月の石をあげるよォ。アタシはそれが見たいだけなんだから、手に入らなくたって構やしないのさァ」
「わかりました。では早速、調査に」
「あァ、そうだ。お兄サン。兎に気をつけなさいよォ」
そう言って、死んだ女は姿を消した。現れたときと同様に。
残された私は行動を共にしてくれる調査員を捜すことから始めなくてはならなかった。
1
ふふ、と紅い唇が艶やかに笑った。
「……盗み聞きとは、らしくない」
草間探偵も冷笑で返す。
「バカを言うわね。あたしは、彼女が来る前からここにいた……違う?」
色の薄いサングラス越しに見上げられて、藤咲愛は目を細めた。ルビーとも、ガーネットとも違う目の色が陰りを帯びて、一層すごみを増す。
「で、この依頼、どう片づけるつもり?」
机に頬杖をついて、草間探偵は彼女を見上げた。自然と上目遣いになった彼に何かを感じ取ったらしく、愛は唇の端を引き上げるように微笑んだ。
「あたしがやっても良いってワケね」
「頼めるか?」
愛は微笑みを湛えたまま頷いた。
「引き受けたわ。これで私も久しぶりの調査に出られる。何の不都合があるというの」
そう言って笑う彼女に、草間探偵はこっそりとため息をついた。肉感的な肢体と、それに相応しい微笑みは、こんなうらぶれた事務所で見ても魅力的だ。だが、この場所には相応しくない。少しはTPOを弁えて欲しいとさえ、思った。
そんな草間探偵を一瞥して、愛は整った指先で紅を掃いた唇をなぞった。
「月の石……どういう意味かしら」
草間探偵も彼女と同じように首を傾げた。
「言葉の意味そのまま……ってワケじゃないだろうな。本物の月の石は上野の国立科学博物館に二つも展示されている。だから、月面で採取された『月の石』じゃない」
「それに、宝石のムーンストーンでもないわね。宝石店へ行けばムーンストーンのアクセサリーぐらい置いてあるし。だから、依頼人は何かを『月の石』と喩えた……そう考えるのが一番正解に近そうね」
「そして、その『月の石』には兎が関係している。これも手がかりになるな。兎なぁ……耳が長いヤツとか、目の紅いヤツということか?」
「あたしと同類……ってコト?」
嘲るような口振りに、草間探偵は思わず苦笑した。そして肩を竦める。
「まぁ、この案件はあんたに任せる」
「任せなさい。蛇の道は蛇、ってね。ああ、報酬には『月の石』、もらうわよ」
「依頼人に見せた後ならな」
「ふふ……解ってるわ」
長い紅髪を靡かせ、愛は踵を返した。
2
あの女、どこかで見た覚えがあった。どこで見たのだったか、それさえも思い出せないほど、微かな繋がりがある。
愛は黒いレザー張りのソファで足を組み替えた。店の中には、重低音の音楽が鳴り響いている。時々、防音ドアの向こうから聞こえるのは、客たちの悲鳴と女の罵声。そして嬌声。いつもと変わらない夜だ。
今夜は、無理を言って仕事を休ませてもらっている。それなのに、ここに座っている彼女を、店員たちは不審そうに見る。そんな視線を気にすることなく、愛は唇に指をくわえた。待合室にいる男たちが喉を鳴らす。
あの幽霊。確かに、どこかで見た顔だ。水商売上がりの女みたいだったから、この界隈ですれ違っていても、何の不思議もない。だが、もっとちゃんとした場所であった気がする。この店に彼女が来る、ということは考えられない。なら、愛が彼女の店に足を運んだのだろうか。いや、と首を振る。呑むなら、この界隈には来ない。
ならば、どこで。
記憶を反芻しても、ぼんやりとしたイメージしか掴めない。指を離して、気怠げにため息をついた。
視点を変えてみよう。
「兎、だったわね」
女が気を付けろと言っていた。
兎。動物の兎なら、気を付ける必要もないだろう。それが遺伝子操作で肉食になっていたなら、話はそれこそ別物だが。ならば、兎も『月の石』同様、何かの喩えなのだろう。
いったい、何を兎と喩えたのか。
兎。ウサギ。長い耳の人間のことか。それならモアイでも良い。何かもっと、直接的な感じがする。
ウチの兎がねぇ、月に帰りたいって言うんだよォ。
不意に蘇る言葉。
「レイナ!」
思わず立ち上がった愛を、店員と客が目を見開いて見つめていた。
思い出した。あの女は、クラブ『レイナ』のママだ。本名は確か、水野礼子。あの店にいる北欧風のバーテンダーが、兎と名乗っていた。彼の目が、愛と同じ赤い目で、それで覚えていたのだ。どこかであった気がすると思ったのも、兎の印象が強かったせいで、水野礼子の記憶が朧になっていたせいか。それにしては、兎のことをすぐに思い出せなかったのが、自分でも不思議だった。
あれはいつだったか。前回、草間探偵から依頼を受けて調査をした。それを完了し、報告をした足で呑みに行った店が、『レイナ』だった。そのとき、兎は自分に赤いカクテルを作ってくれた。当然、レッド・アイを。
「地上で出会えたお仲間に」
そう言って、あの男はグラスの中身をステアしたのだ。それを飲み干した後、水野礼子が兎が欲しがっているものの話をしてくれたのを、愛は思い出していた。
「邪魔したわ」
新人のウェイターを押しのけて、彼女は足早に店を後にした。
3
記憶にあったとおり、その店は裏路地の一画にあった。場所とは裏腹に、小綺麗な外観をしている。
愛は鍵のかかっていないドアを開けて中へ入った。薄暗い店内の中、磨かれたカウンターにスポットライトのような灯りが落ちている。以前と同じダイニングバーのような店だった。
「すみません、まだ開店前なのですが……」
カウンターに立っていた男が顔を上げた。長い金髪は緩やかにうねり、その白い貌の中で赤い目が異様に光っている。その目が愛を見ると、ふわりと笑った。
「おや、あなたは……」
この男だ。愛はその目の前に立った。
「水野礼子を殺したのはあんたね?」
にっこりと、店のバーテンダーは笑った。自分のしたことに欠片ほども罪悪感を抱いていないような、そんな無邪気な笑顔だ。
「水野さんにはお世話になりました」
「なら、何故、殺したの?」
兎は赤子のように無邪気に笑う。
「水野さんが私と一緒になりたいと言ったんですよ。だから」
「殺した? 意味がわからないわ」
「私と一体になりたいと望んだのは彼女の方なんですよ?」
「あんたと、一体になる?」
言葉の真意を測りかね、愛は眉間にしわを寄せた。兎は小首を傾げ、カウンター上のスポットライトを見上げた。
「人は死なないと、私と一体になれないんですよ。お世話になった水野さんだから、私はその願いを叶えてあげようと思ったんです」
「あんた、何を言ってるの?」
さすがに、愛の声も緊張で強張る。だが、そんな彼女に、バーテンダーは寧ろ困ったような顔をした。何故、彼が緊張するのか解らないと言った顔だ。
「私が月に帰るために手を貸してくれた水野さんだから、私は一緒になりたいと言った彼女の願いを叶えたんです。それだけのことでしょう?」
彼は、本当に解らないのだ。
愛は慄然として、つばを飲み込んだ。
「水野礼子の死体は、どこにあるの?」
「ここですが?」
そう言って、マスターは自分の腹の上に手をおいた。意味を悟ると、愛は知らず一歩退き、顔を歪めた。
「……食べた、の?」
「ええ。死んだ人は私の食料ですから。私と一体になってるでしょう?」
そう言う意味か。
再び唾を嚥下して、愛は掠れそうになる声を振り絞った。
「『兎』の分際で!」
そこでようやく兎の顔に緊迫感らしきものが浮かんだ。だが、それはほんの一瞬でかき消え、また笑みを浮かべる。
「何だ、ご存じじゃないですか。私は月に帰りたいんですよ。月の兎ですから」
「……本気で言ってるの? あんた」
彼女の押し殺した怒声に男は微笑んだ。
「私はね、ヒキガエルと一緒にいるのが嫌になって地上に来たんですけど、やっぱり長年暮らしていた場所が恋しくなりましてね。その話をしたら水野さんは喜んで協力してくれましたよ。月へ帰るために、大きな木を育てなくちゃいけないんです」
「木?」
ええ、と兎は頷いた。そして、磨いていたグラスを置いて、クロスを畳む。
「昔、呉剛という男がいました」
「ごごう……?」
「ええ」
中国の伝説に曰く、中秋の夜半、霊隠寺という寺の僧侶が屋根を打つ水滴のような物音を不審に思って庭へ出ると、そこには色とりどりの粒が散らばっていたとある。その粒は美しく冷たい光を放っていた。その僧侶がそれらを拾い集め、翌朝、和尚に見せたところ「月にあるという桂の大木から落ちてきた物だ」と言った。
固く、色のある、粒。
「まさか……それが、『月の石』?」
「そうですよ。呉剛が落としてしまった桂の種をね、私はようやく手に入れることができました。けれど、それを育てるためには、水が必要だったんです。それを手伝ってくれたのが、水野さんだったんですよ」
兎は水を満たしたグラスを差し出した。澄んだ水が、ぴしゃりと跳ねる。
「これが、その月の石にもあげている綺麗な水です。美味しいですよ?」
兎は、愛に口を付けるように勧める。彼女は息を止め、唇をグラスに付けて、水を飲む振りをした。断ると話が進まない気配があったのだ。
「美味しいでしょう? 月の桂もこの水が好きでしてね、たくさんやるんですよ。でも、まだ足りなくて、なかなか大きくならないんです。だから、私が月へ帰れるのは当分先の話なんですよ」
実に残念そうに言って、兎はほっと息をついた。
愛は胃がむかついてきていた。
「もうたくさんだわ。それより、『月の石』を見せてちょうだい」
「ええ、良いですよ」
あっさりと承諾した兎に、彼女は一瞬呆気にとられた。親しかった水野礼子でさえ見たことがないと言うから、よっぽど大事にしているのだろうと思っていたのだ。かたくなに拒まれることも覚悟していたのに、これでは拍子抜けだ。
男はカウンターの奥のドアを開け、どうぞと手招いた。扉の先には階段があり、地下へと潜っている。薄暗いそこには小さな電灯が点っているきりだ。
「この先にあるんですよ」
そう言って先に立ち、どんどん地下へと降りていく。愛は扉は開け放したまま、その後に続いた。
階段の天井はかなり低い。彼女ですら身を屈めなければならない。それなのに、兎は易々と階段を下っていった。
一階分ほど下ると、開けた空間に出た。古いワインセラーのようだ。中央にはコンクリートで作られた長方形の水槽。中に電灯でも仕込んであるのか、水面からほのかに光を放っている。
だが、木の陰はない。辺りを見回しても煉瓦の壁があるばかりだ。
「この中ですよ」
マスターはそう言って、コンクリートの水槽の中を示した。愛は恐る恐る近づいて中を覗き込み、息を呑んだ。
水槽一杯に張られた水。その床には色とりどりの石が敷き詰められている。その上に横たわる、白い骨。漂白されたように白いそれに、石の光が反射して美しい。
「あァ、ようやく見られたよォ」
「ッ!」
不意に聞こえてきた声に、愛は思わず息を呑んでいた。見れば、水槽に傍らに水野礼子の姿がある。その体を通して、向こう側の壁も見えた。
「レイナ……?」
「ありがとうねェ。お兄サンの助手サン」
「おや、水野さん、どうしたんです?」
「あァ、兎。アタシはねェ、あんたがご執心だった『月の石』を見たくってねェ」
水野礼子は自分の骨が漂う水槽を、満面の笑みを浮かべて覗き込んでいた。
「あんたと一緒になっちまう前に見せて貰おうと思ったのさァ」
目元の辺りに笑みの気配を漂わせて、水野礼子は満足げに呟いた。兎はにっこりと笑って、愛を見た。
「そういうことでしたか。しかし、困りましたね。滅多な方にはお見せしたくないんですよ。水野さんはお世話になった方ですし、お見せするのは構わないんですけどね」
「兎、やめておくれよォ。頼んだのはアタシなんだからさァ。アタシを少しでも好いてくれるんなら何もしないでおくれよォ」
「大丈夫ですよ。何もしやしませんよ」
腕を伸ばし、白い指先で水槽の水を跳ね上げる。濡れた指先を唇に当て、兎は冴え冴えとした笑みを浮かべた。
「この水を飲まれたんですから、私が何をしなくてもいずれ、あなた方も私と一つになるんですから」
白骨の漂う水槽。その寝台の如き月の石。微笑む兎。苦笑する女の死霊。
「……そういう水だったの……」
愛の喉から絞り出された声は、それこそ干涸らびていた。
4
「……それで、依頼は完了したのか?」
「だから、水野礼子に月の石を見せた。それで完了でしょう?」
長いため息をついてから、草間探偵は調査依頼書に完了の判子を押した。
あの兎の店を飛び出してから、一夜明けた今日。愛はことの顛末を草間探偵に話した。その結果がこれである。何故、ため息をつかれなければならないのだ。
「その水を始末するべきだったな。被害が増える可能性もある」
「ああ……そういうこと」
愛は納得がいって、頷いた。
「大丈夫よ。さっき、ここへ来る前に店に行ってみたわ。綺麗さっぱり、見事な空き地になっていたわよ」
「空き地?」
「雑草がぼうぼうのね。それでもまだ、文句があるって言うの?」
ふっと肩で笑い、草間探偵は首を振った。
「いいや、充分だ」
「で、報酬は?」
「何?」
「あんな『月の石』、気味が悪くてもらうどころじゃなかったんだから。報酬は、弾んでくれるんでしょうね? まさか、このあたしにタダ働き、なんて真似させるつもり?」
愛の指先が草間探偵の頬をなぞる。引きつった顔で、彼はそれから逃れようとした。
「わ、解った……ちゃんと、払う」
「それで良いのよ」
ふふ、と女は艶やかに笑った。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0830/藤咲愛/女/26/歌舞伎町の女王
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