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哀しい夢
『まだ誰も知らないところへ行こう、とあなたは言うの。
そこへ一緒に行けるんだと思うととても嬉しくて、私はあなたに手を伸ばす。
けれど、そこは誰にも赦されない場所だった。
おねがい、だれか。誰か彼を止めて。一分でも一秒でも早く彼に追いついて。
誰でもいいの。誰か。だれか…………おねがい。』
「……とまあ、こういう感じなんだが」
表示された文字を指で示して、自称「紹介屋」の太巻大介（うずまきだいすけ）は振り返った。
「ネットサーフをしていると、突然画面が切り替わって、スクリーンにこのメッセージが表示されるんだな。スピーカーをオフにしていても、しっかり電源が入って音楽が流れるっつぅスグレモノだ。…で」
太巻が再びエンターキーを叩くと、スクリーンに新しい文章が浮かび上がる。
・貴方の大事なものはなんですか？
・貴方が一番心に残っている思い出は？
質問の下で、答えを待つかのようにカーソルがチカチカと瞬いている。
「コイツが一体なんなのか、確かめて欲しいって依頼だ。こんな簡単なことで小遣いもらえるんだから、ボロい商売だよ。どうだ？受けてくれるんなら、このサイトに辿り着く方法を教えてやるよ。大丈夫、コイツのせいで人が死ぬなんてことはねぇからさ。……たぶん」
最後にぼそりと付け加え、肩肘を突いた銜え煙草で太巻は返答を待っている。
放っておいたら、この人は希望を投げ出してしまうかもしれないと思った。生きることを諦めてしまうかもしれない。悲しみに暮れて、人生を諦めてしまったら？
何かをしたい、と思った。笑みを浮かべタバコの臭いをさせている「紹介屋」が信用できるかはともかくとして。あたしに何ができるかはともかくとして。
「お手伝い、させてください」
考えた末のみなもの言葉に、太巻はタバコを上下に動かして眉を上げた。
「このコに同情しちゃった？」
軽薄そうに聞くので、みなもは顎を引いて太巻の顔を見つめ返す。
「何もできないかもしれませんけれど、何か出来ることがあるかもしれませんから」
ふぅん、と鼻を鳴らしてみなもの顔を静かに覗き込んだ太巻は、
「お嬢ちゃんは、色んなヤツに愛されて育ってるな」
褒めるのでも貶すのでもない口調で呟きながら、胸ポケットから二つに折りたたんだ紙片を取り出した。
「アクセス方法は、このメモに全部書いてある。部屋は照明を落とすこと。静かな空間で繋ぐこと。おれからの留意点はそれだけだ。まあ、何だ…」
迷子にならないようにな、と歯切れ悪く口にするので、みなもは「はい」と頷いた。
辺りは乳白色の靄（もや）に包まれている。そこには上もなく下もなく、不安定になったみなもの足は地面を探して頼りなく揺れる。
一瞬前まで、コンピューターの前に座っていたはずだった。ネットカフェの個室を暗くして、音が入ってこないようにドアを閉め、鈍い光を発するスクリーンに向かいあって文字を追いかけた……。
（……はずだったのですけれど。ここは、一体？）
キーボードに手を触れた瞬間、何かに操られるように指がキーを叩いたのは覚えている。みなもが驚いている間にも、指は流暢に動いてスクリーンに答えを打ち出していった。ピアノの鍵盤を弾くような動きで、その指がエンターキーを押す。
次の瞬間には、一寸先も見えない靄の中だ。静まり返っていて人の気配はなく、風もないのに取り巻いた煙はゆっくりと移動し続けている。誰も居ない世界。心細さを紛らわせるように、みなもは声を出した。
「ここが、あのページの先にある世界なのかしら」
迷子にならないようにと言ってくれたけれど、なんの目印もないこの世界ではそんな忠告も役には立たないだろう。どこをどうやって今ここに佇んでいるのかすら、みなもには定かではないのだ。そもそもこんな場所に一人立ち尽くすはめになるなどとは、予想だってしていなかった。
足を踏み出しかねて佇んでいる彼女を促すように、ふわりと温い風が吹いた。息苦しいほどに立ち込めている靄が、重たい腰を上げてゆっくりと揺らぐ。みなもが風の吹いてくる先に注目していると、靄は重々しく割れて彼女の前に道を作った。
「行きましょう」
立ち止まっていても始まらない。それならば、彼女を導くように靄の退いた先を確かめてみよう、と心を決めた。彼女はそのためにきたのだから。足の裏が地面につく感覚がないので、漕ぐように足を動かす。周囲に立ち込めた靄がゆらゆらと移動していくので、きっと前に進んでいるのだろう。
風に吹かれて靄が移動したのだろう、風の来し方は他に比べて明るい。明るさはみなもが足を進める時の目印になった。どこまで行っても変わらない景色のせいで、時間の感覚はすぐになくなってしまった。てくてくと歩き続けても変わることがない景色は、自分が前に進んでいないのかと漠然とした不安を掻き立てる。立ち止まって、みなもはふぅと息をついた。
「歩数を数えてくればよかったかしら」
振り返った先はもう濃い靄に閉ざされていて、自分が立っていたところを知ることも出来ない。今から数を数えようと決めて、みなもは再び歩き出した。いち、にぃ、さん…、し、ごぉ、ろく。口の中で呟いて、足元をしっかり確かめて歩く。
歩いていくうちに周囲は少しずつ明るくなり始めた。１００まで数えたところで再び足を止めて、みなもは顔を上げる。
「明るい……」
相変わらず靄の中に佇んでいたけれど、辺りはさっきよりもずっと光があった。さっきまで曇り空の色だった世界は、今はクリーム色に色づいて、所々虹色にきらきらしている。少し前に比べたら、ずっと明るい世界だ。
それなのに包むように覆われていた靄が薄くなって、みなもは突然心許無い気分になった。言いようもない不安が胸に飛来する。驚いて理由を探してみるけれど、わけもわからないうちにどんどん息苦しくなって、みなもはぎゅっと作った拳を胸にあてた。
どきどきしている。不安で胸が締め付けられるような感じ。これから何か悪いことが起こると、知っているような感覚。けれど理由ばかりが思い当たらない。
（どうしてしまったの？）
みなもは身体を強張らせて周囲を見回した。揺れてたゆたう、靄。けれどみなもは知っている。何か、とても不安なもの……見たくないものが近づいてきている。それが何だか想像もつかないのに、どんどん大きくなっていく胸のざわざわが、嫌なことが起こると告げている。
水面のように揺れる靄のなかで、それは突然形を取った。みなもの見ている前で、立ち込めていた靄の一部が不吉な動きを始めたのだ。
「なに……？」
靄は吸い込まれるように、一点に集まっていく。その部分だけ色が濃くなり、やがてそこが人の形をとった。はじめは影絵のようにおぼつかなく揺らいでいた人影は、ついにははっきりと形を取り、みなもに向かって歩いてくる。一つは女性のシルエットで、その手は小さな女の子の手を握っているようだ。
おねえさま、と女の子が女性の手を引いた。女の子の声はハキハキしていて、鈴が鳴るように可愛らしい。みなもはますます目を凝らした。胸の奥がざわざわする。聞き覚えのあるこの声。声の似た人間なんて、世の中にはいくらだっているけれど。
「どうしたの？」
少女の姉は、優しい声で彼女を見上げる妹に視線を向けた。それもやっぱり、みなもが愛してやまない人の声によく似ている。
本物じゃない、と震える指を握り締めてみなもは自分に言い聞かせた。どこまで歩いても靄だらけの世界。踏みしめる大地もなくて、空もない。この世界は、みなもが住んでいた世界とは違う。だから、ここで出会う彼女らも、みなものよく知っている姉や妹や家族ではありえない。ありえないんだから、と言い聞かせなければいけないほど、二人の声はみなもの家族に似てくるのだった。
人影はどんどんみなもに近づいてくる。靄に紛れたその形はどんどんはっきりとしてくるのに、その正体は靄に隠されて見ることが出来ない。いくら目を凝らしても、彼女らは靄に包まれたままだった。二人の少女は楽しげに笑いながら、ついにはすいっとみなもの前を通り過ぎる。
「お姉様」
幼い声が聞こえた。みなもは思わずその小さな影に向かって返事をしかけたが、少女の視線はみなもを見てはいなかった。小さな手を繋いでくれている姉だけを見上げて、とても楽しそうに笑っている。
（気のせいに決まっているけれど……でも）
どんなに耳を済ませても、それはみなもの姉と妹の声だった。気のせいだと言い聞かせる心の声を、動揺する感情は認めようとはしない。
みなもの胸がきゅっと締め付けられた。二人は、ずっとお互い二人きりの姉妹だというように中睦まじげに歩いていく。みなもがこんなにも二人の傍にいるのに、みなものことなど気づいてもいないのだ。幸せそうに笑い声を立てている二人の間に、みなもが入る余地はないように思われた。
みなもの目の前を、二人の影が通り過ぎていく。妹がどこかで体験してきた面白い話を姉に聞かせ、姉は穏やかに耳を傾けている。少女が話し終わると、彼女は優しい声で言った。
「今度、二人でどこかにいきましょうか」
「うんっ。二人きりで旅行だー。姉妹水入らずだね！」
少女の声が弾む。みなもは胸に重石でも乗せられたように気持ちが沈むのを感じた。
三人ではなく、二人きりの旅行。姉妹で行くはずの旅行なのに、みなもはその中に入っていないのだ。
「あたしは……？」
本物じゃない、と心のどこかで声がする。あの姉妹は幻で、自分が想っている姉や妹ではないのだ、と。自分を置いて彼女らが楽しげに笑っていても、自分が傷つくことなどないはずだ。言い聞かせてみても、哀しい気持ちは止まらない。震える声で二人を呼び止めようとするけれど、みなもの言葉は声にならなかった。二つの背中は笑いさざめきながら、みなもに背を向けて歩いていく。
気が付くとみなもは泣いていた。はらはらと熱い液体が瞳から溢れて、何度も頬を伝う。目の前を通り過ぎた姉妹の人影はもう見当たらず、みなもはまた一人、靄の中に立っていた。
か細い旋律が聞こえたのは、そんな折である。途切れ途切れだが、誰かの歌声が音楽と一緒に流れてくる。哀しげな調べに、すぐに太巻が見せたスクリーンのメッセージを思い出した。
「アキラを止めて。……おねがい」
泣きそうな歌声が祈っている。みなもは頬を濡らしていた涙を拭った。何のためにここへ来たのか、忘れてはいけない。拳を固めて、みなもは声のするほうへ足を踏み出した。
靄を掻き分けるようにして、一歩一歩進む。時折涙声になる歌に、気ばかり焦って足を早めた。みなもが決意を込めて歩き出すと、靄がさぁっと引いていく。
靄に慣れたみなもの視界が、突然広くなった。靄が晴れたその先に、一人の少女が座り込んでいる。年はみなもよりいくつか上だろう。白いワンピースから覗く肩は、細くて痛々しいほどだった。
いつの間にか歌も音楽も止んでいた。声を掛けるタイミングを逸して、みなもはそこで頭を垂れた少女を見つめる。視線に気づいて顔を上げた彼女は、涙に濡れた目を驚きに見開いた。
「あなたは……？」
「海原みなもと言います。インターネットのリンクを辿ってきました。あなたのお名前は何て言うんですの？」
少女は黒い瞳でじっとみなもを見つめ、震える声でかろうじて「ナミ」と呟く。それからはらりと涙を零した。
「泣かないで」
彼女が泣くと、みなもの胸も痛くなる。それに気づいてみなもは、急いで彼女に頼んだ。
「あたしまで悲しくなってしまいます」
もう一粒涙を零して、少女は小枝のような指で涙を拭った。
「ここにいると、誰もが哀しい夢を見続けてしまうの」
涙に濡れた瞳を瞬かせて、ナミはみなもを振り仰ぐ。白い頬を新しい涙が濡らしたので、みなもはしゃがみ込んでナミの頬をハンカチで拭った。どう見ても年上だというのに、彼女はとても頼りなかった。
「事情を教えてくださいませんか。あたしに出来ることがあるかもしれません。アキラさんというのが、あなたのお友達なんですの？」
「…そうです」
みなもが差し出したハンカチを瞼に押し当て、新しく溢れる涙を堪えるように俯いてから、少女は話しはじめた。
「アキラは……、アキラは人を操る方法を研究していました。そうすれば人は神になれるんだって言って……。でもそんなことは意味がないんだって、誰かに彼を止めてもらいたくて、私はずっと呼びかけていたの」
「それが、あたしが見たメッセージだったんですね」
痩せて尖った顎を頷かせて、少女は目を伏せた。ぽろりと睫を濡らして涙が頬を伝う。一滴では止まらずに、涙は何度も零れては落ちた。
「私は、この場所を離れられないの。だから、お願い。もしもどこかでアキラを見つけたら、彼を止めてくれますか？」
「わかりましたわ」
痩せこけた少女の肩に手を置いて、みなもは安心させるように頷いた。
「でも、あたしにも約束してください。アキラさんを見つけたらきっと説得してみますから、ナミさんは希望を失わずに待っていてください。どんなに辛くても、諦めることはしないでくださいね」
「……はい」
ほんの少し口元をほころばせて、少女は微笑む。瞳は哀しい色を湛えたままだったけれど、みなもが始めて見たナミの笑顔だった。
「約束ですよ」
みなもの言葉に、ゆっくりと頷くナミの顔が靄に霞んで次第に見えなくなる。
はっと気が付くと、みなもはモニターに向かったまま椅子に座り込んでいた。暗い部屋、青白い光を発して明るいコンピューターディスプレイ。周りを取り囲んでいた靄はどこにもないし、ナミという名の少女も居なかった。モニターの中には、チカチカと動画広告が切り替わる何の変哲もない検索サイトが表示されている。
「夢……？」
呆然として何気なく頬を撫でると、そこには確かにみなもが流した涙の跡が残っていた。
「お疲れサン」
真っ暗な部屋のドアが開き、一条の光が差し込んだ。掠れ気味の低い声に、みなもは振り返る。タバコの先を赤く燻らせながら、太巻は手を伸ばして「電気点けるぞ」と予告した。太巻の手が電灯のスイッチをオンにする前に、みなもは急いで涙の跡を拭う。
「長いトリップだったな」
遅いから送って行ってやろうか？と妙に律儀なところを見せながら、太巻はみなもの数歩先を歩いている。考え事をしながらその後をついていたみなもは、意を決したように顔を上げて、太巻の背中に声を掛けた。
「太巻さんは、このお仕事をあたしに紹介する時に、どこまでご存知だったんですか？」
「まあ、商売だからな。下調べはしたぜ」
太巻はとぼけた顔をしながら、ふらりふらりと歩いている。みなもが厳しい顔をすると、ボリボリと頭を掻いて説明してくれた。
「……あのページには視覚と聴覚を刺激して、人間の脳波をある特定の幅に持っていく仕掛けがしてあった。いわゆる催眠状態になりやすい脳波だな。それと分かった時点でおれァ手を出さなかったから、その先のことは知らねぇよ」
言いながら、ピタリと足を止めてみなもを振り返った。
「ホレ、車で送って行ってやるから、帰ろうぜ。おウチの人が心配してんじゃねえの？」
太巻の言葉に、みなもは突然家族に逢いたくなった。
久しぶりに家族でゆっくりと話をしよう。そして、本当に三人で、どこかへ旅行に行くのもいいかもしれない……。
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■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
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ＰＣ
【整理番号 1252／ ＰＣ名 海原みなも／ 性別 女／ 年齢 13／ 職業 中学生】
ＮＰＣ
太巻大介（うずまきだいすけ）/ 一見 ヤクザ/ 性別 男/ 年齢 不明/職業 紹介屋
備考：タバコ狂・コーヒー狂・スピード狂
ナミ/ 性別 女/ 年齢 十代後半/ インターネット擬似空間「哀しい夢」に存在する少女
アキラ/ 性別 男/ その他不詳
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■ ライター通信 ■
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はじめまして！
依頼内容の不備（すいませんすいません）にもめげず、ご注文いただいてありがとうございました。
美女（みなもさん）の隣に並ぶのが野獣（太巻）で申し訳ないです。
なにやら申し訳ないこと尽くしになってしまいましたが、楽しんでいただけたら幸いです。
依頼を受けていただいてありがとうございました。
またの機会には、再び精魂振り絞って（込めましょう）善処させていただきます。
在原飛鳥
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