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鬼社
「ちっ!」
撃ち出される氣弾が地面に穴を穿つ。
猫科の猛獣の動きで身をかわす青年。
巫灰慈という。
視界も足場も悪い林の中。
いずこからともなく襲いくる攻撃を紙一重でかわしてゆく。
「へへ‥‥手荒い歓迎じゃねぇか‥‥」
精悍な顔に浮かぶ不敵な笑み。
鬱蒼とした林を、縦横無尽に駆ける。
二転三転と蜻蛉を切る。
その間も、やすみなく攻撃は続く。
あるいはかわし、あるいは弾き返しつつ、攻勢に転じるタイミングを計る灰慈。
だが、むろん敵も馬鹿ではない。
「ち‥‥隙がねぇな‥‥」
呟く。
暗然と。
彼は分の悪い賭けがけっして嫌いではなかったが、無謀と無計画が結婚して災厄という子供を産み落とすのは避けたいところであった。
「のんびりやってる暇はねぇってのによ‥‥」
ふと右胸に手を当てる。
ありふれたジャケット。
内ポケットに忍ばせた紙幣。
しわだらけの夏目漱石が三人、無言のエールを送っている。
これが、今回の依頼料だ。
たった三千円。
人妖と事を構えるのに充分な額とはいえない。
それでも、依頼人にとっては限界をすら超える金額だろう。
小学生なのだ。
「貯金箱でも割ったかな。ほしいゲームの一つくらいあるだろうにな」
巫の笑みは悪意に満ちたものではなかった。
切ってしまった注連縄。
封印されていた鬼に捕らわれる友達。
助けてほしいと泣く。
「大丈夫だ。心配すんな。必ず助け出してやるから」
心中の残像に語りかける。
あるいは、自分自身に言い聞かせたのかもしれない。
怯懦こそ最大の敵だ。
弱気になったら、おびえをみせたら、そこで終わりなのだ。
誰もいない林のなか。
原初の静謐を破り。
血の色をした宴が続く。
木に何かを封印する。
これは、じつは珍しいことではない。
御神木などと呼ばれるもののほとんどは、たいていは曰く付きのものだ。
もっとも、神社というもの自体がそういう場所に建てられるのである。
今回のケースでいえば、封じられていたのは鬼だ。
それも性質の悪い人喰い鬼。
つまり、捕らわている子供の命は、この上ない危険に晒されている。
だが、先述の通り、巫は子供が殺されていないと読んだ。
むろん理由がある。
鬼とは、本来が欲望の塊であり、同時に奸智も備えている。
たかだか子供一人を喰ったところで満足するはずがない。
であれば、捕らえた子供をエサにして、より大物を釣り上げようとするはずだ。
「海老で鯛を釣る、ってやつだな」
声をかける巫。
正面には和装の女性。
美しい。
白磁の肌。月光を映す銀髪。艶めかしい紅唇。
そして、頭から生えた二本の角。
最後のものが、人ならざるものの証だった。
「よくここまでたどり着けたものじゃの」
鬼の唇が蠢き、言葉を紡ぎ出す。
甘口の赤ワインに血をしたたらせたような、甘美で危険な響き。
男の六割ほどは、この声だけで魂を差し出しても良いと思ってしまうかもしれない。
「奪った子供はどこにいる?」
妖艶さに惑わされない少数派の男が淡々と訊ねた。
「もはやこの世のどこにもおらぬ」
婉然と切り返す鬼女。
「嘘だな」
「なぜそう思うかえ?」
「もし死んだなら魂が感知できるからな」
「‥‥普通の人間ではないということじゃな。そなたも」
「アンタたちと同列に置かれるのは、不本意の極みだぜ」
「何者じゃ?」
「浄化屋、と、呼ぶ人もいる」
「‥‥忌々しい神道の手のものめ‥‥」
鬼女が構える。
封印されていた巨木の前。
千歳のまどろみから目覚め、血の渇望を満たそうとするかのように。
「そなたを喰らえば、力の多くが戻るじゃろうて‥‥」
「喰えればの話だな。それは」
慎重に間合いをはかりながら紅い瞳の浄化屋が嘯く。
鬼女がいったように、彼は普通の人間ではない。
特殊能力と呼ばれるものを有しているからだ。
浄化の力という。
報われぬ霊を慰め、天上への道を啓いてやるのが彼の生業だった。
がさがさと、下草が啼く。
月の光が雫となって大地に落ちる。
瞬間!
両者が動いた。
剣のように伸びた鬼の爪と抜き放たれた日本刀が衝突し、無明の火花が散る。
不毛で愚劣で、だが避けることのできない戦いが幕を開けた。
一瞬の交錯の後、ふたりは大きく距離をとった。
強い。
期せずして同様の感想を抱く。
初手がぶつかったのは、じつのところ単なる偶然であった。
太刀筋が見えなかったのだ。
互いに。
「ふふふ‥‥」
弧を描くように動く鬼。
「へへっ‥‥」
日本刀を握り直す巫。
命を賭した死線のなかにあって、微笑が浮かんでいた。
「やるのう‥‥」
「アンタもな‥‥」
ふたたび両者がぶつかる。
刃鳴りが連なり、闇を虚しい光彩で照らし出した。
斬撃の応酬には果てしがないかと思われた。
しなやかで強靱な肉食獣のような動きで攻撃を繰り出す浄化屋。
地上の法則すら無視したように襲いくる人ならざるもの。
斬りつけ、はずし、受け止め、押し返し、薙ぎ払い、突く。
ときに力強く。
ときに技巧を凝らし。
あたかも叙事詩に登場する伝説的な決闘のように。
五〇合。一〇〇合。
飽くことなく、退くことなく戦い続ける。
互いに無数の傷を負いながら。
壮絶にして壮麗。
苛烈にして剛勇。
人と魔が、互角に斬り結んでいる。
どれくらいの時間が経過したのか、あるいはほんの十数分の事なのかもしれない。
鬼女の放った回し蹴りが、巫の腹に食い込んだ。
肋骨の折れる音。
「ぐっ!?」
吹き飛び、巨木に叩きつけられる。
衝撃で息が詰まる。
暗転しかかる視界を決死の思いで現世に繋ぎ止め、屹っと敵を睨みつけた。
もったいぶった死神のように、鬼女が近づいてくる。
「妾の勝ちのようじゃの」
艶笑。
血に染まったかつては白かったであろう着物。
「‥‥‥‥」
「観念せい」
鬼の手が大きく振りかぶられ、
「‥‥アンタの負けだぜ」
巫の手の中にあらわれる子供。
木の中に封じられていた人質。
「馬鹿な‥‥」
「へへっ‥‥」
ひとりの驚愕と、ひとりの笑い。
素早く立ちあがった巫が、少年を抱えたまま大きく横へ飛ぶ。
賭博だったのだ。
このまま戦い続けても勝算は薄いと見た彼は、わざと敵の攻撃を受け御神木に再接近したのである。
もちろん、先に人質を救出するために。
「これで、アンタの切り札はなくなったな」
怒りよりもなお凄みのある微笑。
少年の命が相手に握られている以上、枷をはめられた戦いしかできない。
だが、これでもう条件は互角だ。
「もう遠慮はしねぇぜ」
「‥‥じゃが、その身体でなんとする? あばらの一本はいかれておろう」
「それがどうした?」
「愚劣な! 今まで通りに動けると思うてか!!」
一気に鬼が距離を詰め、斬撃を繰り出す。
骨折は大怪我だ。
気合いで何とかできるなどという類のものではない。
動きは格段に悪くなるし、なによりも痛みで集中力を欠くことになる。
「自らの策に溺れて死ぬが良い!」
剣のような手刀が愚かなる救出者を貫くさまを、鬼女は幻視した。
「言ったはずだぜ。アンタの負けだと」
男の声が、なぜか遠い。
鬼の手は巫の一〇センチメートル前で止まっていた。
「馬鹿な‥‥」
狼狽。
どうして動けない?
それに、この息苦しさはなんだ‥‥?
「物理魔法さ。アンタが眠っている間に人類も進歩しているらしくてな」
淡々と種明かしをする巫。
「なん‥‥だと‥‥?」
薄れゆく意識の中、鬼女が訊き返す。
「今アンタのいる場所は、酸素密度が通常の七四倍ある。まともな人間なら一発で卒倒もんだがな」
もちろん、鬼にはどういう事なのか判らない。
「過酸素症ってやつだ」
意識が闇に落ちる寸前、男の声が脳裏に響いていた。
持久力というものは酸素摂取量で左右される。
これはスポーツ力学の上では常識だ。
多くの酸素を取り入れることができれば、それだけ長時間戦うことができる。だが同時に、高密度の酸素を吸い込みすぎた場合、過酸素症に陥る。
ライブやコンサートなどで倒れる人は、ほとんどこれが原因だ。
興奮しすぎて、酸素を取り込み過ぎているのである。
巫がやったのは、その状態を人工的に作り出すことだった。
物理魔法で酸素密度を異常に高めたポイントを作る。
あとは多少の演技力で相手をそこに誘い込む。
ついでに挑発して、興奮状態にしてやれば良い。
密度が極端に高くなった空気が相手の動きを阻み、酸素という、生物に必要不可欠な存在が決着をつけてくれる。
「人間はアンタたちに比べりゃずっと弱い。だがな、弱さを知ってるから戦えるんだぜ」
巫の呟き。
古来、鬼が人間に勝ったことはない。
悪霊に滅ぼされた国もない。
力に溺れ、知恵を軽んじるものが最終的に勝利者になった例は、一つとしてない。
柏手を打つ。
「寄る辺なき哀れな御霊。かしこみかしこみ申す」
朗々たる祝詞。
御神木が輝き、光が横たわる鬼を飲み込んでゆく。
封印の儀式だ。
「まだアンタは人を殺したじゃねぇからな。もう一回、封印の中で反省するんだな」
偽悪的な言葉。
巫には、この段階で鬼女を滅ぼすつもりはなかった。
眠りを醒まされたのは、鬼の責任ではないからだ。
直接的な原因は、むしろ注連縄を切った子供たちにある。
だが、それ以上の罪は時代の流れにあるのだろう。
昔であれば、御神木に昇ろうとするものなどいるはずもなかった。
大人たちがちゃんと子供に伝えていたら。
ただ禁止するだけでなく、どうしてここに近づいてはいけないのか、きちんと伝承を伝えていたら、あるいは‥‥。
「っと、いけねぇいけねぇ」
首を振る浄化屋。
彼の仕事は子供の救出だ。
それに、文明批判などおこがましいというべきであろう。
彼もまた近代文明の利益を享受する一人なのだから。
「さて、と。帰るとしますか」
誰にともなく言って、少年の身体を担ぐ。
ざわざわと木々が梢をならす。
わずか痛む身体を引きずり、紅い瞳の青年は鎮守の森をあとにした。
エピローグ
子供たちの元気な声が聞こえる。
事件に関わった少年たちの声だ。
彼らは小遣いを出し合い、切ってしまった注連縄を弁償し、こうして宮司と一緒に締めに来ているのだ。
「元気だねぇ」
「お前もな。灰慈」
腹部にサポーターを当てている男と、怪奇探偵という異名を持つ男が笑みを交わす。
「そういえば、報酬は返えしちまったんだって?」
「いくら俺が貧乏でも、ガキから搾取するわけにいかねぇだろ?」
「なるほどな。それで色を付けて返したってわけか」
「‥‥よけいな情報ばっか仕入れやがって」
微苦笑を浮かべる巫。
三千円の依頼料は、返還されるときに一〇倍になっていた。
注連縄を弁償する足しにしろ、という言葉とともに。
「なぁ、武さん」
「うん?」
「あのガキどもの姿を見てると、人間ってやつはまだまだ大丈夫だって思えてくるぜ‥‥」
「‥‥らしくないことばっかりだな。灰慈。明日は雪でも降るんじゃないか?」
「ほっとけ」
ばつが悪そうに、照れたように青年が頭を掻いた。
夏の太陽が木立をすり抜けて降り注ぎ。
地面に日溜まりを作っていた。
本格的な夏が、すぐ近くまできている。
終わり
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