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<東京怪談ノベル(シングル)>


名も無き聲


 チェンバーズは言う。
 説明不可能な事象が、この世には何と数多くあるのかと――
 星間信人はこう思う。
 現実は小説より奇なり。


 星間信人はその日まで本好きな青年に過ぎなかった。どこにでも居る若者だ。ヒップホップとボード(スケート、スノー、前に付ける単語はどちらでもいい)に陶酔する若者と同じだった。信人の心を捕らえるものは、書物、或いは文字そのものであった。
 読めば読むほど信人の知識は膨れ上がり、書物への興味と欲求もまた、絶え間無く成長を続ける白痴の神のように――彼がこの存在を知るのはまだ少しだけ先のことであったが――大きくなっていった。
 しかし、それでも何の問題もなかったのだ。
 それが、若者というものなのだから。
 ただ問題なのは、それは信人があの黄昏どきに手に取った本が、この世にあってはならないものだったということだろう。


 通称『ミスカトニック大学』、私立第三須賀杜爾区大学。この大学が抱える巨大な図書館こそが、司書たる星間信人の勤め先だった。また、憩いの場でもある。ここに居ると時間を忘れてしまうのだ。勤務時間が終わってから閉架書庫に篭もり、その辺に積み上げられている書物をいちど紐解いてしまえば最後だ。信人がハッと我に返ったとき、書庫の古ぼけた時計が出勤時間を指していることも珍しくなかった。
 この閉架書庫は、スミソニアン博物館の倉庫もかくやと思えるほど雑然としており、信人のような司書が100人で挑んでも、整理に100年はかかりそうな代物であった。この書庫は異次元に繋がっており、書物は毎秒増え続けているのだという噂が実しやかに囁かれている始末だ。おかげで信人は書物への欲求を鎮めるのに苦労はしなかった。尤もそれは、整理が遅々として進まない原因でもあったのだが。
 信人は毎日のようにこの閉架書庫の扉を開く。
 ――噂通り、蔵書が増え続けているのだとしても構わない。むしろ、大歓迎だ。
(僕は読みたい。僕は知りたい。僕は……飽きたくなど、ない)
 彼があの呪われた書を手に取ってしまったのは、偶然であったし、ひょっとすると必然であったのかもしれなかった。遅かれ早かれ、彼は死ぬまでに、あの――『黄衣の王』と『セラエノ断章』を手に取ってしまっていたに違いない。
 そしていずれ彼は、この閉架書庫の片隅で爪を研ぐ『ネクロノミコン』と相見えることになるのだろう。


(まさか! あれはフィクションだと思っていたけれど)
 その背表紙を見たとき、信人は戦慄した。
(どうしてここにあるんだ? 想像の世界から流れてきたとでも?)
 それから彼は苦笑した。この書庫が異次元に繋がっているという他愛もない噂は、真実であったのか。
 古い紙と埃、そしてうっすらとした黴の匂いの中――彼は山積みにされた本の中から、一冊を器用に抜き出した。手馴れたものだ。
 毒々しい山吹色の表紙であった。
 『黄衣の王』。
 実在するとも、想像の産物に過ぎないとも言われていた戯曲である。誰もがこの本を恐れ、内容を話さず、また聞こうともしない。事実内容はごく一部分のみが知られている限りで、特に第二部にかけては、口にすることが禁忌だとでもされているかのようだった。
 信人の欲求を刺激するには充分過ぎるほどであった。
 それをいつもの作業机に持っていくことすらもどかしく、彼は脚立に腰掛けると、ついにその黄の本を開いてしまったのであった。

 黄は、危険の象徴。スズメバチ。信号機。踏み切り。
 だが、こうも言うだろう? 青は進め、黄色は進め、赤は気をつけて進め。
 そして黄は、幸せの色だ。

 ヒヤデス、ハリ、カルコサ、アルデバラン。
 彼方でかれが眼を開ける。
 青白い仮面――するどい風――ぼろぼろの黄衣が星空を覆う。


 息を呑み、信人は我に返った。
 まさに自分は、『黄衣の王』の第1部を読み終えていたのだ。次のページには、『第2部』とだけ記されている。そして、文字とも紋様とも言い難い謎のシンボルが描かれていた。
 正気と良心とが警鐘を鳴らしていた。それこそ、頭痛がするほどにがんがんと打ち鳴らされている。この戯曲はまともではなかった。あまりに美しすぎて、捻じ曲げてとらえてしまいたくなるほど、冒涜的である。
 そして顔を上げた信人は思わず「あっ」と声を上げ、『黄衣の王』を取り落とした。
 目前の本の山に、おぞましい草稿の束と石版を見出したからである。有り得ない。『黄衣の王』を見出す前に検分したはずの山だ。手近な棚の上に、リストも置いてある。確かに自分は、あの山と積み重なった本の表題及びその筆者を、一冊一冊過たず書き記したはずではないか!
 だというのに、何故!
 何故、『セラエノ断章』がそこに在る?!
 あの、本という形すら成されていない禁断の書。某博士が中途まで解読した、その草稿とともに封印されているはず!

 ふつふつと肌を粟立たせる恐怖、風を纏い追い掛けてくる狂気を感じながらも、信人は自分を諌めることが出来なかった。彼の欲求が――そう思いたい――彼を駆り立てるのだ。『黄衣の王』を拾い上げた彼は、眼前の本の山に飛びついた。先ほど『黄衣の王』を抜き出したときとは打って変わって、彼は力任せに『セラエノ断章』を引き抜く。ばさばさと本の山が崩れたが、その音を背にして信人は走った。
 棚や本にぶつかりながら、彼はようやく自分の作業机に辿りついた。スタンドを点け、本を置くと、椅子に座り――そして……


 死んだように動かない湖面を見下ろしていると、やがて空にアルデバランとヒヤデスが昇り始めていた。
 風が死んでいるのだ。だから湖面に漣すら生まれない。
 しかし、
 そのとき、
 ずずん、と音がした。ずっと遠くで石版が倒れたかのような――ずっと遠くで巨大ななにものかが脚を下ろしたかのような。
 ずずん、
 ハリの湖面が揺れている。
 ずずん、
 ずずん、
 否、
 どくん、
 どくん、
 これは――鼓動だろうか?
 星がきらめく夜空が、さっと翳る。
 そう、今こそ、あの名も無い王がマントじみた皮膚を広げたのだ。


 御前の名は何と言う。
 御前は何だ。
 御前は我が眠りを妨げるのか、誘うのか。
 御前は我が風の聲を聞くか。
 御前は我が姿を見るか。
 御前は我が名を知るか。
 其は叶わぬ望み也。
 我こそは、聲、姿、名を持たぬものなれば、
 我は、究極の風であるゆえに。


 星間信人は、その骨のない腕に捕らえられてしまった。


 ハッ、と信人が我に返ると、古ぼけた時計は午前9時を指していた。
 出勤時間だ。だが、それがどうしたというのだ。まさに今得た知識と摂理に比べると、仕事も時間も人間も、何もかもが愚かしく、涙さえ誘うちっぽけな存在に思えた。いや、実際ちっぽけな存在だ。風と真理には、背伸びをしようが逆立ちしようが届かない。
 だが自分は少しだけ違う――信人はそれを自覚し、自負する。何故ならば、その事実に気づくことができ、またその事実の前に屈服することを覚悟したからだ。従わねばならない存在を信人は知った。
 『黄衣の王』のページは開かれたままになっていた。恐るべき第2部が露わになっている。黄金・銀糸の如き美しい詩が並び、悲嘆の溜息と戦慄を呼び起こす。
 『セラエノ断章』の封印を解かれていた。欠けた石版の上に、草稿が散乱している。
 左手の甲に熱い痛みを覚えて、信人は顔をしかめた。
 が、次の瞬間には、その顔は恍惚としたものに変じ――おおお、と溜息さえ漏らしたのである。彼の手の甲には、毒々しい黄色の表紙にうっすらと残されている、黄の印そのものが浮き出ていたのだ。
 『神の奇跡』に涙をも流しそうなほど喜び、
 イア! イア! ハスタア!
 アイ! アイ! ハスタア!
 繰り返し繰り返しそう叫びながら、彼は風のように走りだし、閉架書庫を飛び出した。 古ぼけた机の上に転がる、血塗れのペーパーナイフには目もくれなかった。夜通し書物に向かっていたというのに、力が漲ってくるのを感じていた。幸い誰とも出くわすことはなかった。
 ただ彼を上空から見下ろして、ゲタゲタと耳障りな喚き声を上げる生物たちが居た。蜂のようで、蝙蝠のようで、腐り果てた人間のような、異形だった。風とともに、この現実に現れたのだ。
 かれらは信人の姿を滑稽そうに眺めてはいるものの、それほど蔑んではいない様子でもあり――いや、取るに足らない存在だと感じているのかもしれないが――歓迎のつもりか、ぶうんと信人の頭上をかすめて何処かに飛んでいった。


 彼は最早心から笑い、泣くことはない。
 虚構と真実の合間に封じられた、黄の風の王が目覚めるまで。



(了)