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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


 仮面聖母の襲来

 携帯の着信音が鳴り響く。
 特に何をする訳でもなく雑多な部屋の中央で寝転がって(力尽きて寝ていたという説もある)瀬水月・隼(せみづき・はやぶさ)は音源に向かってのろのろと手を伸ばした。半分眠っていた隼はディスプレイに表示されている発信者の名前を確認せず、着信ボタンを押して携帯を耳に押し当てた。
 ――それが、敗因だった。

「隼?」
 辛抱強く十回ほどのコールを待っていた女は、その待ち時間をおくびにも出さない涼しげな声で、電波の向こうにいる相手の名を呼んだ。途端にばさばさという紙をひっくり返したような音と、どたどたというナマモノが転げているような音、ガシャンという金属化ガラスの破砕音のようなものまでが程好くミックスされて聞こえてくる。女は慌てず騒がず携帯を耳から遠ざけた。しばしの沈黙、そして電波の向こう側が静かになった頃合を見計らい、女は再び携帯を耳に当てた。
「隼?」
 名を繰り返す。
 冷静な声音だが、そこに微かに面白がる響きが感じられるのは何故だろう?
「どうしたの? 大掃除でもしてたの?」
『$%#&¥〇〜〜〜!!!!!!』
 大音量が響く前に、女は涼しい顔で携帯を耳から遠ざけている。真にもって見事な、見事すぎる間である。
 また女の外見も見事だった。
 肩口で切り揃えられた髪は艶やかに黒く、ほつれ一つない。節目がちの目は長い睫に縁取られ、その奥の瞳の深い色を際立たせている。唇の下のほくろは肉感的なそれを更に際立たせている。かっきりと施されたメイクがなくともその顔は十分以上に男好きする美女といえるだろう。そしてその首の下の肉体もまた優美な曲線を描いている。
 退廃的な香りのする、奮い付きたくなるような美女だ。
 再び携帯に耳を当てた女はきっぱりと言った。
「15分後につくわ。……逃げちゃダメよ?」
 それだけを言って、女は携帯を切る。ご丁寧に電源まで落としてから、女は踵を返した。
 高らかなヒールの音を響かせるこの女の名を瀬水月・蘭(せみづき・らん)、電波の向こうの相手にとっては義姉に当たる女だった。

 畜生毎度毎度不意打ちで現れやがって逃げられねえじゃねえかつーか逃がせ何が目的だ命かそうかそうなのか殺せ嫌だけど!
 見事に支離滅裂な思考はしかし音となって唇から発せられたりはしなかった。
 ドアを開けた先に立っていた蘭は涼しい顔で微笑んでいる。一見無害そうにも優しそうにも見えるが、ここでそんな台詞を吐いたらどうなるか、隼は魂の隋まで理解していた。
「おねーさまにいらっしゃいませの一つもないのあなたは?」
「……呼んだ覚えなんかねえよ」
 ボソリと不貞腐れたように呟いた隼に、蘭はにっこりと微笑んだ。
「何か言ったかしら?」
 じわりと押してくる声音、そして全く笑っていない瞳。多用される言葉だが真実それを体得するには数多の年月と経験が必要であろうそれで圧してくる義姉に、隼は命の危険さえ感じて飛び退った。その瞬間に積み上げられていた紙束がばさばさと音を立てて崩れる。
「な、なんの用だよ!」
 声が裏返っている辺りが実に情けない。
 蘭は義弟の様子を目で楽しみつつ、ヒールを脱いで部屋の中に上がりこんだ。
「用がなけりゃ訪ねて来ちゃいけないみたいな言い草ね。おねーさん哀しいわ」
 ほっそりとした指を頬に当て俯いて悲しんでみせる蘭は普通男なら反射的に謝った上でハンカチの一つも差し出しそうな風情だが、生憎蘭の正体を知っている隼には一切通じない。
「だからなんの用だってんだよ!?」
「まあ色々あるんだけど、ふうん」
 けろりと表情を戻した蘭は、面白そうに室内を見回した。
 電源コードや紙束、ジャンクの類いで足の踏み場も乏しい室内は一見したところ何の問題もなく義弟の部屋だ。この義弟が非合法な特技を活かして自活しているのは先刻承知の事である。この乱雑さ加減も、少年の部屋としては実に一般的である。
 しかし隼は蘭の視線に生きた心地もしなかった。
 15分。
 少なすぎるタイムリミットで『あれ』の痕跡は隠した。そりゃもう必死に隠せるだけ隠した。蘭は横暴で傍若無人、血も涙もないが、クローゼットの中を確かめたり鍵つきの机の引出しをあけたりという、普通に母親がするして欲しくないことを実行するほど無粋ではない。――そんな事をしなくても十分察する事が出来るからだが。
 蘭は内心(本人はそのつもりだが実は目に見えて)冷や汗をだらだらと垂れ流している義弟の様子に一切構わず、『ふうん』ともう一度呟いた。少しだけ鼻が動いたように見えたのは気のせいだろうか?
「まあ生活はしてるようね」
 台所の流しに詰まれた食器の山に目をやって、蘭は一先ず観察を止めた。それに隼は思い切り息を吐き出した。
 蘭は足元を適当に蹴りつけて場所を作り、その場に腰を下ろすと己の目の前を隼に示してみせる。
「さて、とりあえず脱ぎなさい」
 そう言った蘭はにっこりと微笑んだ。まるで聖母のように。

 絶対に世の中間違っている。
 大人しく服を脱いで蘭の前に鎮座した隼はその細い指の感触に内心(やはり本人はそのつもりだが実は目に見えて)冷や汗をかいていた。
 指先が発達しきらない少年の体の上を滑っていく。続いてひやりとした感触が胸に押し当てられる。聴診器だ。
 つまりこの義姉の生業は意志なのである。しかもゴッドハンドとまで言われているほどの。
 絶対に世の中激しく間違っている。
 完璧な外面で患者や同僚には聖母のように慕われている蘭だが、その内実はといえば気に食わない患者なら麻酔なしで手術しかねない苛烈さを持ち合わせているのだ。
 誰だこんなのに医師免許とか与えた奴は国かそうか政府か何もかも政府が悪いんだ内閣解散総選挙!
 悪罵は勿論蘭には聞こえない。この状況で聞かれたが最後、己が入院患者に仕立て上げられてしまう。
 顎から汗が滴って落ちる頃、ようやく蘭の手にした聴診器は隼の身体から離れた。
「まあ概ね健康ね」
「そりゃどうも」
「栄養は取れてるようだけど喫煙と寝不足はどうにかしろたほうがいいわね」
「しょうがねえだろ仕事が仕事なんだし」
 不貞腐れたように口答えをすると蘭はクスクスと笑った。
「仕事ねえ」
 仕方のない弟だという響きがその声には色濃く現れている。
 何も自活などしなくても、甘える先がある以上は『仕方なく』などないのだ隼は。最も蘭はその点を指摘する無粋さの持ち合わせはなかった。
 依存して甘やかされて育つよりもこの環境は義弟を余程いい男に育てるだろう。
「それからお父様が心配しているしたまには帰って来なさい」
「あーはいはいその内ね」
 極力逆らわないようにしかし言い成りにもならないように。
 不貞腐れつつも綿密な計算を働かせて隼は蘭に答えた。その気になった蘭に逆らえないのは事実だが、その気にならない蘭は基本的には放任主義だからだ。
 その点だけは隼は蘭に感謝していた。
 恐ろしい相手であることには些かの変わりもなかったが。

「……で?」
「で?」
 聴診器をバックにしまいこみながら蘭が鸚鵡返しに問い返してくる。隼は不貞腐れた顔のままじろりと蘭を睨み据えた。
「用件は? あんたが俺の健康診断でだけここまで足運ぶと思うほど俺も馬鹿じゃねえよ」
「ああ、そのこと」
 蘭はたった今思い出したと言うようにぽんと手を叩き聴診器の変わりに一枚のフロッピーディスクをバックから取り出した。
 何がああそのことだ最初からそれが目的のクセしやがってこの女狐忘れたふりとかしてんじゃねえよ俺が騙されるほど馬鹿だと思ってんのか思ってんだなくそういつか見返してやる無理そうだけど!
 勿論音声ではないので悪しからず。
 その無音の抗議を勿論聞き取れていない事などありえないが、蘭はそれを綺麗に無視した。
「@@区の病院なんだけど、手術中に患者が死んでるわ。執刀医は院長」
 宜しくね?
 蘭はそれ以上の説明をしようともせず、ぬっと隼の鼻先にフロッピーディスクを突きつける。
 資料はフロッピーの中。つまりはその手術についてのデータを要求しているのだこれは。
 ちっと隼は舌打ちを落とした。
「不祥事の改竄データかよ? 俺は便利屋じゃねえぜ?」
 出すもん出せといい募ろうとした隼はその瞬間ギクリと身を強張らせた。
 蘭は微笑んでいた。
 それこそ患者に対する、慈愛溢れる――つまりは哀れむような――顔で。
「ねえ隼?」
「な、なんだよ?」
「偉いわね、一人暮らしの男の子が自炊してるなんて」
 流しには食器の山。
「それに……いつからそんな趣味になったの? 化粧品の匂いがするわよ」
 微かな香り。
 隼は既にぐうの音も出ない。だらだらと冷や汗の染みを畳に落としつつ、硬直するばかりだ。
「な、な、なんのことだろうなあ!」
 声はもう裏声にまで達している。
 蘭はくすりと笑った。
「女の子…ねえ。まあ乱れた性生活のコトまでは黙っててあげるわ、やるじゃないの同棲なんて」
「なーーーーーーーー!!!!!」
 奇声を上げる隼の額にぺしりとフロッピーを叩きつけ、蘭は優雅な動きで立ち上がった。
「待て、一寸待てなんだその乱れた何とかって言うのはコラぁああああ!!!!」
 蘭を追って立ち上がりかけた隼の額からポロリとフロッピーが落ちる。落下する逸れを慌てて手で受け止めたときには、蘭の後姿は既に玄関のドアの前だった。
「それじゃ、宜しくね?」
 振返りもせずにそう言って、蘭はドアを潜って外へ出て行く。
「待てーーーーー!!!!」
 怒鳴り声は虚しくドアにぶつかって、蘭に届く事はなかった。