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<東京怪談ノベル(シングル)>


突き抜ける空
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太古の風が流れていた。
空はどこまでも広く青く、大地は遮るものもなく果てしない。
人が、まだ広大な大地を操るにはあまりにちっぽけで、あまりに非力だった時代。
それでも人は大地に根付いていた。小さな広場を囲むように家を建て、狩りをし、大地を耕して糧を得る。その鼓動は空気を伝わり、風になって焔寿の肌を震わせる。
足の裏に草の柔らかさを感じながら、彼女はそこに立っていた。
作業の手を止めた人々は、集落の中心に設けられた広場に集まっている。
昼だというのに、木を使って組み立てられた松明には火がともされた。集まった人々の中心には一人の女性が背筋を伸ばしている。ある者は祈るように片手でもう一方の手を包み、またある者は見入るように彼女を見つめていた。儀式が行われている。
人々の視線を浴びながら、女性は毅然と顔を上げる。力強く、確固たる動き。流れるような動きだけで彼女は人を魅了し、強い瞳で引き込んでいく。
どうしても聞き取れないその声を聞こうと、焔寿は彼女に近づいた。集まった人々は焔寿の存在に気づかないのか、彼女がいくら声をかけても視線を向けることはなかった。声をかけても返事はかえってこない。彼らと同じ場所に存在していると思っているのは焔寿だけで、彼らは焔寿という存在と交わることが出来ないのだ。
人の合間を縫って歩いて、焔寿はとうとう、女性の顔がはっきりと見えるところまで辿り着いた。彼女の腕や首筋には、他の者たちにはない装身具が揺れている。黒い髪を長く伸ばし、その身体に施された刺青は、焚かれた火に照らされてひどく幻想的だった。巫女、という言葉が脳裏を過ぎる。
初めて会ったはずなのに、女性はとても懐かしい感じがした。声をかけようとしたが、声は言葉にならない。

―――と、彼女を取り囲む人々を見渡していた女性が細く息を吐く。彼女は挙げていた手を下ろして振り向き、さまようことのない視線はぴたりと焔寿にあてられた。
人々が怪訝な顔をしている。巫女が見るものを知ろうと、誰もがきょろきょろと首をめぐらせる。
相変わらず焔寿の存在を確かめられない様子の人々の中で、巫女だけが確かに、焔寿を捉えていた。
口元に笑みが浮かぶ。唇が動いて、何かを告げた。
もっと聞き取ろうと、焔寿は一歩足を踏み出す。

―――そして世界は唐突に遠のいていき、焔寿は目を開けた。
青い空も緑の大地も感じさせない白い天井が目に映るすべてだった。カーテンの隙間から零れる日差しが、穏やかな一日の始まりを告げている。
遠くで聞こえる都会の音。身体を包む柔らかな布団。いつもの朝だ。
夢から醒めきらないまま、焔寿は身体を起こした。見慣れたベッド、足元には二匹の猫が行儀良く座って、焔寿を見上げている。
自分が夢から醒めたのだと自覚するのには少しの時間を要した。肌で感じた太古の風はまだ記憶に生々しく、むせかえるほどの緑の匂いもまだ鼻の奥に残っている。
「チャーム、アルシュ。すぐにご飯をあげるわね」
朝食をねだる二匹の猫に微笑みかけて、焔寿はカーテンを引いた。
カーテンにさえぎられていた窓からは青い空が見え、夢の余韻を残していた部屋から夜の気配を追い出していく。
ガラス窓を通して見たものは自然の青と緑ではなくひしめき合った現代の景色で、焔寿は少しがっかりする。空と大地が恋しかった。
猫たちに催促されて、焔寿はようやくベッドから滑り出る。
夢の名残は身体の端々に残っていた。目に映る日差しがとても懐かしく、床を踏む足に柔らかな草を感じなくて、足取りは頼りない。
ひさしぶり、と口の中で呟いてみる。あの夢を見るのは、実際久しぶりだ。
小さかった頃は、何度も同じ夢を見た。
幼心にもその景色は印象的で、その夢を見るたびに、焔寿は母親に話して聞かせたものだ。
幼い娘を膝に乗せ、母は微笑んで話を聞いてくれたものだった。そして何度も、愛おしむように、包み込むように、その手のひらが幼い焔寿の髪を行き来する。
柔らかいその手のひらと暖かかった母の膝の上のことを、焔寿は今でも覚えている。
それはまだ焔寿が幼く、母親の過去も、その血筋のことも知らなかった頃のことだった。
夢を見た後は、世界が少し違って感じる。
それは太古の風を受けたせいでもあり、同時に包みこむように愛されていた母親の記憶のせいでもある。
大きく取られた窓から差し込む光は、沈黙に淀んだ屋敷の空気を明るく変えた。
空を見上げる。
白く色褪せはしたけれど、相変わらずどこまでも突き抜ける空が、夏の始まりを予感させた。

...突き抜ける空。終。