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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


エンドレス・ナイトメア


■#0 プロローグ

 ……眠り姫は、もう三十年もの間、眠りつづけていた。
 眠りについた時と同じ、十八歳の少女のままで。

 ――美しき眠り姫の名は、松浦真理音といった。

 松浦家は都内各所に多数の不動産を所有する、古い家柄の名家であった。
 世田谷の高級住宅街の一角、広大な敷地を有する古い屋敷へと呼び出された草間武彦は、依頼者に案内されて、小さなベッドで眠る彼女と出会った。
「何が原因なのかは、わかりません」
 少女の眠るベッドの傍らでそう語る男は、一見その少女の父親のように見えた。
 今回の仕事の依頼者、松浦正輝。真理音の二歳違いの弟で、父母ともに他界した今となっては真理音のただ一人の肉親でもある。
 姉が眠りについた時、正輝は十六歳の少年だった。
 三十年という時の流れは、非情に、容赦なく、人を変えてゆく。
「これまでに、たくさんの医者に、姉を診せてきました。ですが、どの医者も、姉の身体には何の異常も見受けられない、というのです。そして誰もこれまで、姉を目覚めさせることはできませんでした」
 彫りの深い顔立ちに苦悩の色を滲ませて、姉の容態を説明する正輝。
「……なるほど」
 またずいぶんと厄介な依頼が来たものだ、と武彦は胸の内で小さく呟いた。
「父母が死んで以来、私は眠りつづける姉を守りながら、今日まで暮らして参りました。……ですが、この先、姉が果たして目覚めるのか……不安でたまらないのです」
 正輝は切実な口調で、そう訴えた。

 松浦家の屋敷から、草間興信所に戻った武彦は、疲れたようにチェアに背中を預けると、煙草に火をつけた。
 紫煙を吐き出すついでの、深い溜息。
「童話のように、王子様のキスで目覚めてくれるなら、話は楽だがな……」
 正輝の提示した依頼内容は、真理音の謎の眠りの原因をつきとめること。そして真理音を眠りから解き放ち、目覚めさせること。
「他に抱えてる依頼もある。俺一人の手には負えんな……」
 しばらく考えてから、武彦はデスクの上の受話器に手をのばした。

 ここはひとつ、また彼らに活躍してもらうとするか。


■#1 眠る少女

 とあるビルの一角にひっそりと存在する『門屋心理相談所』。
 臨床心理士、門屋将太郎(かどや・しょうたろう)は、着流しの上に白衣というラフな格好で、草間武彦からの電話を受けていた。
「――謎の眠り、ねえ」
 『患者』の容態を聞いて、眼鏡の奥の瞳が興味をそそられたように、すっと細まる。
「そいつぁ確かに、うちに電話してきたのは賢明だったかもな。精神的なものが原因の可能性は高いかもしれねぇ。ま、直接診てみねぇことには何とも言えねぇけどな。明日でも、その松浦邸にお邪魔させてもらうことにするよ」

         ※         ※         ※

 都内某所にある骨董品店、『逸品堂』。
 たくさんの骨董品の並んだ薄暗い店内の座敷で、売り物と思しき年代物のランプの明かりを頼りに和服姿の男が文庫本を読んでいる。この店の店主・神谷虎太郎(かみや・こたろう)であった。
 不意に鳴った電話に、読書を邪魔されて、虎太郎はわずかに形のよい眉をしかめると、しぶしぶ受話器を取った。
 聞こえてきた相手の声は、草間武彦のものだった。
「三十年間眠りつづける少女……ですか」
 武彦の話を、虎太郎は興味深そうに聞いていた。
 そしてふと、先ほどまで自分が読んでいた文庫本のタイトルを見返す。
 文庫本の表紙には『睡眠の秘密〜眠りに秘められた超パワー〜』と書いてある。
「……面白そうですね。私も是非お手伝いさせていただきますよ」

         ※         ※         ※

「――あんたか」
 草間武彦からの電話に、黎迅胤(くろづち・しん)は気が置けない口調で尋ねた。
「今日は、一体どんな厄介事が起こったんだ?」
 黎は、主に危険を伴う仕事を主に請け負う、便利屋組織のリーダーを務めている。その仕事柄、日々怪異事件の解決に奔走する草間武彦とは腐れ縁とも言える間柄であり、同時に持ちつ持たれつの関係でもあった。
「……ほう。まさしく、現代の眠り姫、だな」
 武彦の話に、口元に淡い笑みを浮かべる黎。
「確かに、厄介そうな依頼だが……いいだろう、受けよう」
 丸眼鏡の奥の瞳が、愉しげに揺れていた。
「当然、夕飯の一つくらいは奢ってくれるんだろうな?」

         ※         ※         ※

「眠り姫……ですか」
 少女の戸惑いを示すように、その青く長い髪が揺れた。
 草間武彦からの電話を受けた少女の名は、海原みなも。学校から帰ってきたばかりの制服姿で、受話器の向こうの声を興味深げに聞いている。
 ひとしきり説明を聞いてから、みなもは少し考えて、
「あたしでお役に立てるかどうかはわかりませんが……できる範囲のことは、してみます」
 と、控えめな口調で答えた。
「でも、その方が今、目覚めて幸福なのか……私には自信がないんですが……」

         ※         ※         ※

 忙しく何度目かの電話を掛け終えると、草間武彦は椅子の上に体重を預けて、ふう、と深い溜息をついた。
 そして灰皿を見なおす。吸いかけだったマルボロは、灰皿の上で主を待つうちにすでに燃え尽きていた。やむなく、新しい煙草を取り出して、火をつける武彦。
「武彦さん、さっきの電話……」
 デスクで経費伝票の処理をしていたシュライン・エマが不意に口を開いた。どうやら事務作業をしながら、電話での武彦の話が耳に入ったらしい。
「ああ、松浦氏からの依頼の件だ。原因不明の眠りなんて、正直俺たちの領分じゃない。断わろうかとも思ったんだが、幸いなことに何人か調査を担当してくれるヘルプが見つかってな」
 武彦は松浦氏の依頼内容をまとめた資料をシュラインに渡した。
「三十年前から歳もとらずに眠り続ける女性……ねえ。何が原因なのかはわからないけれど、この人が眠りについた三十年前の当時に何らかの理由があったと考えるのが妥当でしょうね」
「……何かわかりそうか?」
「それは、調べてみないことにはね」
 肩をすくめるシュラインに、武彦が言った。
「だったら、君にも調査を頼むよ。特別手当も出すから、この女性を目覚めさせられないか、調べてみてくれないか?」

         ※         ※         ※

 翌日、松浦邸を、草間興信所から派遣された五人の調査員が訪れた。
 依頼者・松浦正輝は仕事のため留守だったが、屋敷の使用人らしい恰幅のいい中年の女性に案内されて、真理音の眠る部屋へ通される。
 部屋は――まるでその主が眠りについてからずっとそうであるかのように――分厚い幕のような静寂がたれ込めていた。
 その奥の小さな木製のベッドで、まるでおとぎ話に出てくる姫君のように、一人の娘が眠っている。
 少女と女性の狭間にある夢見る美貌は、降り積もったばかりの汚れのない雪を思わせた。小柄な体を包むのは淡い空色のガウン。白く小さな両手は、かすかな寝息とともに規則正しく上下する胸の上に重ねられている。
「ふむ……」
 しげしげと眠る娘の姿を眺めて、一番最初に口を開いたのは、黎だった。
「一見した感じでは、特に異常は見当たらんな。事情を知らなければ、彼女が三十年間も眠ったままだということにすら判るまい。……精神医療の専門家の目には、また違って映るのかもしれんが」
 そう言って、傍らに佇む将太郎の方を見る。
「いや、正直なところ、俺の目にも異常は見あたらねぇ。……が、外見からわかるような要因がねぇってことは、思った通り、肉体的なものより精神的な要因の可能性が高そうだ」
「精神的な要因……ですか?」
 みなもの問いに、将太郎は頷く。
「たとえば、PTSD(心的外傷後ストレス傷害)とかな。――人間の肉体のシステムってのは、良くも悪くも精神の影響を常に受けてる。仮に精神に強烈な負荷がかかった時、その影響を受けて肉体にも、常識では考えられないような症状が出ることは充分に考えられる」
 腕組みをしながら話を聞いていた虎太郎が口を挟んだ。
「……そういえば僕も、前に何かの本で読んだことがありますよ。催眠術の実験か何かで、相手に催眠術で煙草の火を押し付けられたって暗示をかけると、実際にその部分に火傷の症状が出たって……」
「それくらい肉体は精神の影響を受けやすいってことさ。彼女の場合も、過去にあった何らかの強烈なストレスが、彼女の時間を止め、三十年もの眠りに入らせた――というのが、臨床心理士としての俺の仮定だな」
「……ともかく、三十年前、彼女が眠りについた当時に、何らかの原因があったと見て間違いないでしょうね」
 シュラインの言葉に四人が頷く。
「まずは手分けして、情報を集めましょう。彼女が何故眠りについたのか、何故未だ目覚めないのか――彼女を目覚めさせるためには、まずそれをはっきりさせないとね」


■#2 屋敷内調査

「もしかしたらこの家、骨董品屋の私にとって、宝の山かもしれませんね」
 かつては書斎だったと思しき一室を漁りながら、嬉しそうな口調で虎太郎が呟いた。
 真理音が眠りにつく前の記録のようなものがあればと考えた虎太郎は、守秘義務を守ることを条件に、屋敷内にある書物や物品の閲覧の許可をもらったのだ。
「しかし、発端が三十年前ともなれば、手がかりを探すだけでも一苦労ですね……」
 物置きとして以外には長らく使われていなかったらしく、埃っぽく薄暗い室内を見回しながら、ふう、と溜息をつく。それでも、虎太郎は商売柄、こういった環境には慣れてはいたが。
「実は真理音さんが日記を書いていて、そこに何か手がかりが……というのは、我ながら虫のいい希望でしょうかねぇ……」

 一方シュラインは、屋敷に勤める使用人達に、真理音について知っている限りのことを尋ねて回っていた。
 しかし現在屋敷に務める使用人は、真理音が眠りについた後で勤め始めた者達ばかりで、当時の情報を知る者は皆無であった。
「真理音さんについて、気付いたことがあれば、何でもいいわ。聞かせてもらえないかしら」
「気付いたこと、と言われましてもねぇ……」
 先ほど玄関から真理音の部屋まで案内してくれた、恰幅のよい女性――どうやら現在のところ、彼女がこの屋敷の使用人たちの中では一番の古株らしい――が、難しい表情を浮かべて、うーんと唸った。
「旦那様はわたくしどもには、ほとんど真理音様のことは話されませんし、また真理音様のお世話も極力ご自分でやろうとなさいますので……」
 彼女が旦那様と呼ぶのは無論、依頼者であり真理音の弟でもある、松浦正輝である。
「真理音さんのお世話……?」
「はい、真理音様はお食事こそされませんが、一日一度は衣類をお着替えいただいて、その際にお体もお拭きせねばなりません。髪を梳いて差し上げたり、そういったことは全て旦那様がご自分でなさいます」
 四十六歳の独身男性が、眠りつづける十八歳の姉の身体を拭き、着替えさせ、髪を梳く。その光景をイメージして、シュラインの表情が微妙な困惑に揺れた。姉弟愛と呼ぶには、なにか倒錯めいたものを感じさせたからだった。
「前に一度、そういった事はわたくしども使用人にお任せくださいと申し上げたことがあるのですが、真理音様のことはご自分でなさると、堅く心に決めておいでのようで――」
 そこまで口にして、不意に女性の声が小さくなった。
「というより、旦那様はわたくしどもを真理音様に近づけたくないご様子なのです。これは内密に願いたいのですが、以前、不用意に真理音様の部屋に入りこんでしまった使用人が、旦那様の逆鱗に触れて、理由も聞いてもらえずに首にされたことがありまして……」
 確かに、真理音と正輝は唯一の肉親であり、真理音が眠りにつく前は強い姉弟愛と信頼で結ばれていたのかもしれない。眠りつづける真理音に、姉を守れるものは自分だけだ、と考えて頑なになるのも解らなくはない。
 解らなくはない、が――シュラインは、何か釈然としないものを感じた。

 その頃、真理音の部屋では、将太郎が眠りつづける真理音の容態を診察していた。黎、みなもがその様子を見守っている。
「……やはり、外傷らしい外傷は見あたらねぇな」
 将太郎が呟く。先ほど念の為に、みなもに頼んで真理音のガウンの下の素肌も確認してもらったが、やはり異常はなかった。
「三十年間の眠りか……一体どんな夢を見ているのやら」
 黎がふと口を開いた。
「そういえば、最近脳波や思念に直接干渉できる機械が開発されていると聞いたことがあるが。それを使えば彼女がどんな夢を見ているのか、わかるんじゃないか?」
「そういや、そんな話、新聞で読んだことがあったな……。まだ試作段階とかで、本格的な実用化はまだまだ先だって話だけどな」
 そう言って将太郎が口にした、その機械の開発メーカーの名は、黎とみなもも耳にしたことがある大手企業の名前だった。
「ふむ……」
 何かを思いついたように、踵を返して部屋を出ていく黎。
 みなもは一人、ベッドの上で眠りつづける少女を見つめながら、考えをまとめようとしていた。
(三十年前、この方の身に何が起こったか……)
 真理音の眠りが、もしこの世ならぬものの影響によって起こっているとするなら。
(……たとえば通りすがりの夢魔がこの方をたまたま気に入って、憑依した――という可能性もなくはないけれど……でも、何か理由があると考えた方が妥当でしょうね。現象、人物、物品、全てにおいて……その時、何かがあったはず)
 みなもは、横たわる真理音の横顔を見つめた。眠り姫の、白い美貌に淡く浮かぶ表情は、まるで全てに満たされた幸福の世界にいるかのようであった。
 姉のような時間干渉や、妹のような霊感の能力が自分にもあればいいのに、とみなもはふと考えてから、
(ま、あたしはあたしの出来ることをするだけか)
 と、気を取りなおして、
「まずは、弟さんに詳しくお話をお聞きしてみたほうがいいんじゃないでしょうか……」
「ああ、俺も今そう思ってたところだ」
 将太郎は立ちあがって、みなもに向き直った。
 そこへ、携帯を手にした黎が部屋に戻ってくる。どうやら先ほどまで部屋の外で、誰かに連絡をしていたらしい。
「松浦氏は今、会社にいるそうだ。アポは取っておいた、会いに行ってみるか?」


■#3 封印された過去

 もう少し真理音の過去の記録を探してみる、という虎太郎を屋敷に残し、シュライン、みなも、黎、将太郎の四人は、松浦正輝が経営する港区の小さな貿易会社へと向かった。
 比較的こじんまりとしたビルの四階、社長室へと通される。十畳ほどの広さのオフィスの奥のデスクで、今回の事件の依頼人、松浦正輝が忙しそうにパソコンのキーボードを叩いていた。
 入ってきた四人に気付いて、手前の応接テーブルとソファの方を手で示すと、そのまま作業に没頭する正輝。
 四人が座ってしばらくの後、事務兼秘書と思しき女性がお茶を持ってきてくれたのと同時に、作業を一段落させた正輝がデスクから離れて、ソファの方へとやってきた。
「申し訳ありませんな。今の時期は猫の手も借りたいくらいに多忙なもので」
 上座のソファに座ると、そう言って一礼する。
「あなた方が草間氏の所から派遣された調査員の方ですな。何かお判りになられましたか」
「いえ、まだはっきりとは」
 シュラインが多忙な相手を気遣った口調で丁寧に答える。
「こちらに伺ったのは、真理音さんが眠りにつかれた当時のことについてなど、詳しくお聞かせ願えればと思いまして」
 正輝は彫りの深い顔に苦い表情を浮かべた。そして、落胆したような溜息をつく。
「私が草間氏にお願いしたのは、姉を目覚めさせてほしい、という事です。そのような事を調べてほしいと頼んだ覚えはありませんが」
「お言葉ですが、松浦さん」
 刺のある正輝の物言いにも特に気分を害した様子を見せず、シュラインは言葉を続けた。
「物事には原因なくして結果はあり得ません。真理音さんが何故眠りについたのか、その理由をはっきりさせなければ、解決策を見出すこともできません」
 正輝は憮然として、しばらくの沈黙の後、重い口調で答えた。
「……わかりました。何から話せばよろしいですか」
「まず、真理音さんが眠りについた時の状況を、詳しく教えていただけますか」

         ※         ※         ※

 書斎じゅうの本、そして無造作に置かれている雑多な品物を一通り見て、虎太郎は埃だらけの床板に腰を下ろした。
「無駄骨でしたか……」
 書斎の片隅に置かれた椅子に座りこんで、途方にくれたように頭を垂れる。
 手ががりになりそうなものは、屋敷じゅう、手当たり次第に見て回った。曰くつきの器物や呪物の類でもあれば、真理音が不用意にそれに触れてしまったが為に、眠りに囚われたと推理することもできるのだが――。
「しかし、日記はさておき、アルバムの類すらないとはね」
 ひとり呟いて、肩をすくめる虎太郎。
 普通、写真の一枚くらいはアルバムに残しておくものだ。眠りにつく当時のものはそう都合よくなかったとしても、真理音が生まれてから幼少期の写真くらいは、保存されていておかしくないはずだ。だが、それすら見当たらない。
 目覚めていたとき、彼女が身につけていたであろう服、読んでいたであろう本、使っていたであろう鉛筆のひとつに至るまで――この屋敷に存在する気配は、なかった。
(まるで何者かが、ご丁寧に彼女の過去を示すもの全てを葬り去ろうとでもしたかのようだ)
 ぼんやりとそんなことを考えて、くたびれた笑みを浮かべる。
(だが、誰がそんなことを?……何の為に?)
 この屋敷の中で、真理音の過去を何よりも知る人物――それは、松浦正輝をおいて他にない。やはり、皆と一緒に正輝に会いに行くべきだったか、と思いつつ。
(……この屋敷内で見ていない所があるとすれば、あとは松浦氏の部屋だけですね)

         ※         ※         ※

「――姉は――」
 そう口にしかけて、語ることをためらううかのように、正輝は口をつぐんだ。
 四人が見守る中、しばらくの沈黙の後。意を決したかのように、言葉を続ける。
「眠りについたあの時、大切なものを失ったのです」
 正輝の顔には苦い表情が浮かんでいた。
 触れたくない記憶の海に、再び身を浸さなければならない苦痛の色。
「大切なもの……ですか?」
 みなもの問いに、正輝は重々しく頷く。
「あなたのようなお嬢さんの前で、こんなお話をするのは気が重いのですが……」
 そう前置きをして、肺の中の陰鬱な空気を全て吐き出すような溜息を吐いてから、静かに続けた。
「姉が奪われたのは――乙女の純潔です」

 ……久しく無意識の奥に封印していた、遠い記憶。
 その中に、学生服に身を包んだ少年時代の正輝がいた。
 暑い夏の日。
 白い光に包まれた世界には、蝉の鳴き声がけたたましく響いていた。
 そしてそれとは対照的に、屋敷は薄暗く、不気味なほどに静まり返っていた。
 少年は誰よりも姉に懐いていた。
 仕事に人生を捧げて滅多に家に戻ってこない父よりも、夫に愛されない不満を、恵まれた社会的立場と若い愛人で満たすことに溺れる母よりも。
 美しく、聡明で、慈愛に満ちた姉を、愛していた。
 両親に向けた軽蔑と失望の分を、少年は姉に求めていたのかもしれなかった。
 屋敷に戻り、いつものように真っ先に、姉の姿を探す正輝。
 そして、わずかに開いた扉の前で、少年は立ちすくんだ。
 その奥から聞こえるくぐもった声と、姉の身体を組み敷いている大きな背中。
 少年はただ呆然と、その光景を見ていた。

「……その日から、姉は心を病むようになりました」
 ぎりっ、と唇を噛み締めて、内から込み上げる憤怒を必死で抑えこもうとするように、小さく身体を振るわせる正輝。
「塞ぎ込み、部屋に閉じこもって、誰が呼んでも部屋から出てこなくなったのです……。まるで部屋の外にいるもの全てを恐れるかのように」
 淡々と語る声の調子にも、いつしか激しいものが混じりはじめていた。
「姉に癒しようのない傷をつけたその男は、新入りの若い使用人でした。姉の様子がおかしくなると、奴は自らが責められる事を恐れて屋敷を去りました」
 四人は、黙したまま正輝の話を聞いていた。
「姉が眠りについたまま、二度と目覚めなくなったのは、男が去った、その日の夜からのことです」
 正輝はそこまで話すと、ソファにぐったりと上半身を預けた。
 見ようによっては冷徹にすら見える正輝の表情が、激しい怒りと苦悩の入り混じった複雑な色に歪んでいる。
「私は、ただ、姉を守りたかった――」
 そんな彼を気遣うように、シュラインが言った。
「すみません……お辛いことを……伺ってしまって」
「いえ……。私が知る限り、眠りにつく前の姉についての事といえば、思い当たることはこれくらいです。……お役に立てましたか」
「…………」
 将太郎の視線は、沈黙したまま、まっすぐ正輝に向けられていた。
 正輝の瞳の中にある、何かを見つめるように。

         ※         ※         ※

 長い廊下を、使用人たちの目を盗むようにこっそりと進んでゆく虎太郎。
 目当ては、屋敷の主人・松浦正輝の部屋であった。
 他の部屋に関しては使用人を通して正輝に許可をもらっているが、正輝の私室ばかりは正面から頼み込んでも許可はもらえまい。
 リスクは大きいが、ここまで屋敷内を探して、眠りにつく前の真理音についてこうも物証が出ないからには、何者かによって完全に破棄されたか、あるいは残る正輝の部屋に何かがあると考えるしかなかった。
 真鍮製のドアノブに手を掛けて、音を立てないように慎重に引く。
 これだけの資産を持ちながら、正輝の私室は真理音の部屋以上に質素だった。ベッドとデスク、それに本棚と、ウイスキー瓶の並んだサイドボード。白い壁紙もシンプルで何の飾り気もない、味気ない部屋に見えた。
(ばれないうちに、さっさと調べさせてもらうとしましょうか)
 そして、なるべく物音を立てないよう気遣いながら、速やかに部屋の中のものを調べてまわる。
 デスクの上やサイドボード、ベッドの上に特に目だったものは何もない。だが、本棚の中に、特に目を引く空色のカバーがあった。
 手に取るとずしりと重い。大判サイズのアルバムであった。
(……どうやら、ビンゴ、だったようですね)
 アルバムの一番奥に収められたその写真を見て、虎太郎は心の内で呟いた。
 色あせた写真の中で、真理音は幸せそうに笑っていた。
 一人の男の傍らで。

 ――男の顔は、マジックで荒々しく塗りつぶされていた。
 まるで、憎しみをぶちまけたかのような、どす黒い色に。


■#4 疑念

 正輝との話を終えて車に乗りこむと、すっかり時刻は夕方になっていた。
 黄昏時の光が濁った街並みをつかのま、淡い黄金色に染めている。
 窓の外を流れゆくそんな景色を見つめながら。
 それぞれの考えに没頭するかのように黙したままの四人。
 その静寂を最初破ったのは、将太郎だった。
「――どう思う?」
 そう問うた。正輝から聞かされた、真理音が眠りについた当時の話について、だ。
「あたしは……なんて言っていいのか……。ただ、その時の真理音さんの気持ちを考えると、辛いなんてものじゃなかったんだろうな、って……」
 まだ若いみなもが受け止めるには、正輝が語ったその話はあまりにも辛く、残酷だった。
「確かに、そんなことがあったなら……心を閉ざししてしまうのもわかる気がするわね。自分の周囲のもの全てを否定して、現実を否定して……自分自身の成長をも否定して、眠りの中に逃げ込んでしまう気持ちも、わかるような気がする」
 シュラインは淡々と、そう語った。
「……けれど、どうもひっかかるのよね。何がどう、って聞かれたら、うまく言えないんだけど……」
「俺もあんたと同じ意見だ、シュライン」
 黎が言葉を継いだ。
「理由はない、あくまでも勘だが……あの男、我々に何かを隠しているように思える」
「それじゃあ……真理音さんについてのあの話は、嘘だっていうんですか?」
 みなもの問いに、黎はさざ波のような笑みを浮かべて、
「全てが嘘ではあるまい。だが、全てが事実でもない……俺は、そう感じた」
 黎は、自らの勘の良さに絶対の自信を持っていた。その鋭さたるや、常人のそれを遥かに凌いでいる。商売柄、これまでにも幾度も危機に見まわれてきたが、その度に脳裏に降ってきた直感に従って、絶体絶命のところを切り抜けてきたのだ。
「――それで、あんたはどう思うんだ、門屋」
 黎の問いに、将太郎はぼんやりと窓の外へ目をやったまま、
「俺は最初から、どうもあの依頼者に妙な匂いを感じてたんでな」
 そして、しばらくの沈黙の後、
「俺には、ガキの頃から妙な力があってな。相手の目を見ると、そいつの言ってることが嘘か本当か、正確にわかっちまう。なんとなく心が読めるんだな。……普段は、使わないようにしてるんだが」
 と呟くように言った。
「話を聞きながら、あの男の心を読んだ。あの時あの男が語った、姉の部屋の前での記憶……あれは事実だ。だがどうも、話の肝心な部分を自分の都合のいいように捻じ曲げているようだ」
「肝心な部分?」
「あの男の心の奥底に、三つの想いが見えた。姉への思慕と、激しい憎しみと、そして――罪の意識。その想いを隠すために、嘘をついている」
 将太郎はきっぱりと断じた。
「今回の事件の中心にいるのは、間違いなく依頼者本人だ」

         ※         ※         ※

 翌日、草間興信所。
 来客用の応接テーブルを囲んで、五人が座っている。
 松浦家ではなく、ここをひとまず集合場所にしたのは、それぞれが昨日集めた情報の交換と、これからの調査についてのミーティングを行うためだった。
 シュラインから、真理音に関して正輝から聞いた話、そして将太郎の『読心』の結果を聞かされ、虎太郎は自らの疑念に確信を持ったかのように頷くと、
「私からも、皆さんに見てもらいたいものが」
 そう言って彼が取り出したのは、三十年前の新聞記事のコピーだった。
「ここの部分を見てください」
 記事の片隅の小さい囲みを指差す。そこには他の記事に埋もれるようにひっそりと、『二十歳学生行方不明』の見出しと、朴訥とした表情を浮かべた青年の顔が映っていた。
「昨日、松浦氏の部屋で真理音さんの写真を一枚だけ見つけましてね。気になったのでこっそり拝借していろいろと調べてみたら、この事件記事が見つかったんです。その写真に、真理音さんと映っていたのがこの彼です」
 青年の名は、三田村祐二。三十年前の夏に行く先も告げぬまま失踪し、現在も家族の元には戻ってきていないという。
「行方不明……」
「写真の感じでは、彼と真理音さんはかなり親しそうに見えました」
 そして、彼の顔を塗りつぶした、どす黒い色。
「真理音さんの眠りと、彼の失踪は、時期から考えてもおそらく無関係ではないでしょうね」

         ※         ※         ※

 都内の某国立病院。
 シュライン、みなも、そして虎太郎の三人は、花を手に、入院病棟の一室へと足を運んだ。
 三田村祐二の母親のいる病室へ。
 白い部屋の中で、長い白髪の老女が点滴を受けながら、ベッドの上に横たわっていた。
「――電話してくださった方たちね。遠慮なくお入りなさい。今日は天気がいいせいか、身体も少し楽なの」
 優しくそう言って、深い皺に刻まれた表情をほころばせた。
 開け放たれた窓の外は、澄んだ青い空にくっきりと白い雲が浮かんでいた。外からの涼しげなそよ風に、淡い色のカーテンが音もなく揺れる。
「もう、息子のことは諦めているの」
 深く息を吐いて、彼女はそう言った。
「三十年も経ったんですもの。もう涙も枯れ果ててしまったわ。それでも心のどこかで、あの子がどこかで幸せになっていてくれてれば――って、思ってしまうのだけれど」
 そして彼女は、息子に関することをぽつり、ぽつりと話しはじめた。そのほとんどは、真理音とは直接関係のない――だが、彼女にとってはとても大切な――思い出話にすぎなかった。
「祐二さんは、誰か親しくされていた方はいらっしゃいましたか」
「お友達はたくさんいたみたいだけど、私にはあまり紹介してくれなかったから。でも、そういえば、あの子が一度だけ、好きな子がいるって話してくれたことがあったわ」
 祐二の母は、遠い記憶の中に埋もれた、大切なものを愛でるように微笑んで、
「その子のそばにいたい、といつも言っていた。……名前は……確か、真理音さん、だったかしら……」

         ※         ※         ※

「まさか、本当に見つけ出してくるとはねえ」
 小型トラックの荷台から降ろされ、屋敷へと運びこまれてきたその大きな機材を見ながら、将太郎は感嘆とも、呆れともとれる溜息をついて、呟いた。
 無骨で装飾も何もない、灰色のスチール製カバーに覆われた、四角い箱のような機械。かなりの重量があると見えて、大の男が3人がかりでようやく持ち上げて、台車に積んでいる。これこそ、将太郎たちが昨日真理音を診た時に、何の気なしに話題にしていた思念スキャン装置の試作品だった。
 あの話題の後で、この装置が事件解決の役に立つと踏んだ黎は、すぐに開発元のメーカーと電話で交渉して、借り出す約束をとりつけていたのだった。
「それにしてもよく、こんな試作品を貸し出してもらえたもんだな。本来は企業秘密だとか何だとかで、まずいんじゃねぇのか?」
 スタッフに機材の運搬を指示しながら、黎はふっ、と笑みを浮かべた。
「商売柄、いろんな業界のいろんな人物にコネがあってな。それに、人員人材を惜しむつもりもない」
「……しかし、こんな機械、今まで見たことないぜ。マニュアルもないようだし……こんなの、どうやって使うつもりなんだ?」
「任せておけ」
 自信に満ちた声で、黎が答えた。

 真理音の部屋に機材が運び込まれると、黎はまるでその仕組みを全て理解しているかのように、複数の機材の接続方法をスタッフに指示した。
 複数台の機材により構成されるスキャン装置が瞬く間に完成する。
 黎は真理音の頭に9つのセンサーをつけて、両手足首にもそれぞれセンサーの埋め込まれた黒いバンドを巻いた。そして、装置のシステムを起動させる。
 そのあまりの手際のよさに、唖然とする将太郎。
「あんた、この機械、触ったことあんのか?」
「……いや。全く初めてだ」
 黎は微笑を浮かべた。
 黎は、その常人離れした勘の鋭さと共に、もうひとつ常人には真似のできない特殊な能力を持っていた。ありとあらゆる機械――それがたとえどのようなものであろうと、黎は瞬時にその内容を把握し、またしっかりと記憶に刻みつけておくことができる。
 機械に頼らねば生きていけないとさえ言える現代において、全く未知の機械さえも自らの分身のごとく操り、活用してみせる黎の神がかり的なその能力を、人は『神の頭脳』と呼んだ。
「準備は完了だ。これより、彼女の思念をスキャンし、彼女が今見ている夢をモニターに投影させる」
 黎が示した装置のモニターは、すでに真理音の脳波に反応してか、灰色のノイズのような線が揺らぐ映像を映し出している。
「……マジでそんなことができるのか。すげぇ装置だな……」
「夢というのは得てして不条理で支離滅裂なものだ。そして何より、現実の常識からは逸脱した純粋なイメージの塊だ。……何が映っても、驚かないようにな」
「俺の商売を忘れてるな? 大丈夫、なにが出てきても驚きゃしねぇさ」
 将太郎は腕を組んで、にやりと笑った。
 そして二人は、モニターにゆっくりと浮かび始めた映像を、じっと見つめた――。


■#5 覚醒

「とうとう、姉が目覚めるときが来ましたか!」
 歓喜に震える声で、松浦正輝が真理音の部屋に入ってきた。
 すでに自分の帰宅を待っていた五人の表情を見まわす。
 そして、ベッドの上を見る――が、その上にいまだ昏々と眠りつづける、姉の姿があるのを認めて、正輝の晴れ晴れとした表情が途端に曇った。
「何故、すぐに姉を起こしてくださらないのです? 『姉を眠りから覚ます方法が判った』と電話で伺って、大急ぎで飛んで来たんですぞ」
「……もちろん、真理音さんを眠りから覚ます方法は判りましたわ、松浦さん」
 シュラインの声は、おだやかな中に、有無を言わせぬ響きがあった。
「ですがその為には、松浦さんのお力をお借りする必要があるのです」
「……どういうことかね?」
 怪訝そうな顔で、五人を見つめる正輝。
「真理音さんの眠りには、きっと原因がある。その原因がはっきりすれば、眠りを解く方法も判る。そう思って、あたし達、いろいろと調べさせていただいたんです。真理音さんのこと、三十年前の事件のこと」
 シュラインの言葉を継いで、みなもが説明する。
「三十年前のあのことなら、私が話させていただいたと思いますが。あの事件はそれ以上でも、それ以下でもない」
 錆びた鉄のような声で、正輝が断じた。
「……三田村祐二さんという方を、ご存知ですか?」
 みなもの問いに、正輝の表情が揺らいだ。
「そんな奴のことは――」
「ご存知のはずです」
 きっぱりとみなもに念を押されて、否定の言葉を飲みこむ正輝。
「この屋敷に三十年前のあの時、使用人として働いていらっしゃった方です。……そして、真理音さんのことを一途に想い、その愛が通じて、真理音さんと相思相愛になられた方――」
「…………」
 正輝は無言で、唇を噛んだ。
「君達は、何が言いたいのかね」
「言葉で説明するより、こいつを見てもらったほうが早いだろう」
 黎がそう言って、スキャン装置のキーボードを操作する。
「そのモニターに映る映像をよく見てくれ。多分あんたには、見覚えのある映像だと思うがな」

         ※         ※         ※

 世界は、灰色に揺らいでいた。
 その中に、一人の少女が浮かんでいる。
 松浦真理音。この世界を産み出し、この世界に囚われたもの。
 彼女はもう三十年間、ずっとこの世界にいた。
 ずっとこの世界の中で、なによりも幸福で、そして絶望的な、あのときの出来事を、繰り返し繰り返し、見つめつづけていた。

 開け放たれた窓の外から、夏の光が差しこんでくる。
 閉め切られ澱んでいた部屋の空気が、外の世界に触れたことで浄化され、まるで命の躍動にさえ満ちていくようだ。
『今日はいい天気だよ』
 と、祐二が言った。
 生まれながらにして病弱で、ろくに外を出歩くことも出来ず、部屋で伏せるばかりだった真理音にとって、祐二の存在はまさしく、外の世界から運ばれてきた新しい風、そのものだった。
 屋敷の者は皆、真理音を大切にしてはくれるが、この部屋の窓を開けて、太陽の光を浴びさせてはくれない。私だって、生きることの喜びを、もっと感じていたいのに。お人形のように、ベッドに寝かしつけようとするばかり。
 自らの部屋の中にしかなかった彼女の世界。
 ほんの一年前、自分の意志で外の景色を見たくなって、この窓を開けて――それが文字通り、彼女の世界に新しい風を迎え入れることになった。
 その時偶然、窓の外――屋敷の前の道を通りかかった若者と、少女は知り合ったのだ。
 やがて真理音はたびたび彼と親しく話すようになり、やがて――彼は、使用人としてこの屋敷で働くようになった。彼女のそばにいるために。
 その若者こそ、彼女の目の前で優しく微笑む三田村祐二だった。
『……祐二さん』
 真理音が囁くように言った。
『あなたのそばにいると、私……すごく、生きてるって感じるの。ずっとずっと、こんな気持ちを感じたかった。こんな私でも、この世界に生きているんだってこと』
 そして、ベッドの傍らに立つ青年に、そっと手を延ばす。
『……こんな私でも、誰かに愛されてるんだってこと』
 祐二は、白い真理音の手に、日に焼けた自分の手を重ねた。その場にかがみこんで、ベッドの上にいる真理音と目線を合わせ、その澄んだ瞳を見つめる。
『僕だけじゃない。気付いてないだけだよ。君は、たくさんの人たちに愛されている。お父さんにも、お母さんにも、正輝君にも、この屋敷にいる使用人の皆にもね』
『……うん』
 真理音は頷いて、愛らしい笑みを浮かべた。心から満たされたものだけが浮かべ得る、至福の笑み。
『でも、あなたみたいな人はいなかった。こんな私を特別扱いしないで、いろんなものに触れさせようとしてくれる。たくさんのことを教えてくれる』
 そして、そっとその手をのばして、祐二の頬に触れた。
『……こうして、人を、好きになることも』
 祐二も、自らの頬に重ねられた真理音の手に触れて――そのまま、真理音の眼前に顔を近づける。
 真理音の淡い唇が、かすかに震えていた。そっと目を閉じる。
『……こんな……キスも……』
 そして、二人は唇を重ねた。
 心の中が、愛おしさと幸福感で、いっぱいに満たされていく。
 青年の逞しい背中に手を回したのは、真理音のほうからだった。
 二人はそのままひとつの影になって、ベッドへと沈んだ。

 その光景を――わずかに開いたドアの隙間から、呆然と見つめる姿があった。
 学生服に身を包んだ少年――松浦正輝、だった。
 絡み合う二人の姿――誰よりも思慕の情を寄せていた姉と、その姉を汚らわしい腕でかき抱いている下賎な使用人の姿を見て、驚愕の後で、少年の心に激しい憎悪が沸き上がった。
 ――殺してやる。
 ぎりっ、と唇を噛み、拳を握り締める。
 ――よくも姉さんを。僕の姉さんを。
 全身を熱いなにかがみなぎり、憎しみという糧を得て噴き出すのを求めているかのようだった。普段、誰よりも理知的で大人びていると評判だった少年は、その時すでに我を忘れていた。
 ――許さない。
 誰もいない調理場から持ち出してきた包丁を手に、二人が愛し合うその部屋の扉を憎しみのままに蹴りあけて。振り向き、驚愕の表情を浮かべた祐二めがけて、手の中のものを振りかざす。
 ――姉さんは、僕が守ってやるッ!

 そして視界が、鮮血の色に染まった――。

         ※         ※         ※

 モニターに映し出されたその一部始終を目の当たりにして。
 正輝は、青ざめた表情で、立ち尽くしていた。
「これは……何だ……」
 呆然と呟く正輝に、
「真理音さんが見ている夢だ」
 と、黎が冷ややかに答えた。
「これが事実かどうかは――あんたの方がよく知っているだろう」

 三十年前のあの時。
 愛し合う姉と祐二の姿に激昂した正輝は、姉への思慕の情のあまりに我を忘れ、姉の目の前で祐二を惨殺した。
 そしてその事件のショックから、真理音もまた心を閉ざし、原因不明の眠りに囚われた。
 事が明るみに出ることを恐れた真理音の父母はその事実を隠蔽し、祐二の遺体とその当時の事を記録する物を全て闇に葬った。そして罪を犯し、一時期錯乱状態に陥っていた正輝にも催眠療法を施し、無意識の内に忌まわしい記憶の全てを封印していたのだった。

「私は……。私は……ッ」
「一応、これまでの調べで、あなたの過去を示す物証は一通り揃っています。それを持って事を公にすることもできますが……それは私達の仕事ではありません」
 虎太郎が若干の憐れみを含んだ声でそう言った。
「ですが、少なくともあなたは、真理音さんに三十年もの間、この悪夢を繰り返し繰り返し、見せ続けてきたのです」
「私のせいではない! あの男だ! あの男が、姉を……姉を穢したせいだッ!」
「ですが真理音さんは、その愛を受け入れていた」
「愛だと!? あの男はただ、世間知らずで身体の不自由な姉につけいって、弄ぼうとしただけだ! 私はあの男から、姉を……あの人を守っただけだ!!」
 語気荒くわめき散らす正輝。
 眼鏡の奥の赤みがかった瞳でその取り乱した姿を見つめながら、将太郎が冷ややかに言う。
「あんたにどうしてそれが判る? 彼女のことのことも、その男のことも、二人の間にあったことも、子供だったあんたには何も判っていなかったはずだ」
「……黙れ! 私は……間違ってなど!」
「あんたは、姉のことが好きだった。だからただ、誰にも奪われたくなかったんだ」
「…………ッ!」
「あんたが自分のやったことを隠そうと、都合よくすりかえようと、そんな事はどうだっていい。だが、あんたの姉は、三十年前のあの時から、その時の傷をずっとひきずって、苦痛に満ちたこの夢を延々と見続けてる。そして、これからも見続けるだろう」
 将太郎の淡々とした言葉に感情の波が去ったか、肩を落として眠る姉を見つめる正輝。
「終わらない悪夢から、解放してやれるのは、あんただけだぜ、松浦さん」
「……どう……すれば、いいんだ……?」
 喉の奥から搾り出すような、苦しげな問いに、将太郎は静かに告げた。
「眠りの中でも、あんたの声は彼女に届く。耳元で、きちんと言ってやればいい。彼女がこの苦しみから解き放たれるように。何を言えばいいかは、あんたが一番よく判ってるだろう」
 そして、部屋を出ていく将太郎。
 その後をついて、他の四人も、共に部屋を出た。
 最愛の姉と二人、取り残された部屋の中で。
 正輝は立ち尽くしていた。

 私は結局、眠り姫の王子様にはなれなかった。
 ……だが、救うことは、できる。

 そして意を決したように眠る姉の傍らに跪くと、その耳元に静かに、小さな言葉を囁いた。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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整理番号/   PC名    / 性別 / 年齢 / 職業
 1252 / 海原・みなも   / 女性 / 13 / 中学生
 1561 / 黎・迅胤     / 男性 / 31 / 危険便利屋
 0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26 / 翻訳家&幽霊作家
 1511 / 神谷・虎太郎   / 男性 / 27 / 骨董品屋
 1522 / 門屋・将太郎   / 男性 / 28 / 臨床心理士

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■         ライター通信          ■
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 たおです。
 この度は、この調査依頼に参加していただき、真にありがとうございました。
 凄まじくお待たせしてしまい、まことに申し訳ございません。

 もう……なんというか……燃えつきました。
 いきなりダメダメな弱音を吐いてごめんなさい。
 ほんとに、今回の『エンドレス・ナイトメア』はぜんぜん書けない状態が続いてて、ようやく書き上げた今、真っ白に燃えつきました。(;´Д`)
 いや、もう泣き事はよそう。
 一生懸命書きましたので、楽しんでいただけると嬉しいです。
 一眠りしたら少し回復すると思いますので、そしたらもっともっと頑張ります。
 こんなショボ―(´・ω・`)―ンな感じのたおですが、どうか見捨てないで、応援してやってくださいね。
 ああ、どんどん自分がみじめになってゆく……(;´Д`)

 またの調査依頼のご参加、お待ちしております……m(_ _)m