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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


闇ヲ囁クモノ

「ここにいるのは…あの子じゃないか?」
 その日、閉館後の美術館で異変に気付いたのは、学芸員の乾政也ただひとりであった。
 彼が見上げるのは、100号のキャンパスである。
 あらゆる色を織り交ぜ、塗りこめられた闇を背景に、佇む一本の夜桜。花びらを散らし、流れを作りながら、それは自身の根を以って、獣とも人とも見える影をいくつも絡め取り、捕らえていた。
 禍々しいまでに美しい、病んだ世界。
 その絵の中に、彼を見る。
 この展示会が始まってから一日とあけず通い続けていた学生服の少年が、根に抱かれた骸のひとつに重なるのだ。
 彼は、いつも夕方になるとここに現れ、入館料300円を払ってはこの絵の前で時間が許す限り立ち尽くしていた。ともすれば閉館時間を知らせる音楽すら耳に届かぬほどに。
 息を呑み、ただ無言で見入る彼は、魂すらもそこに移し込んでいるようだった。
一日経ち、二日経ち、そうして一週間が過ぎる頃には、自分は20歳近く年下の少年と僅かながらも言葉を交わすようになっていた。
 少年ははにかんだ笑みを浮かべ、この絵は自分を呼んでいるような気がするのだと言った。惹き付けられて仕方がないのだと。
 その表情を思い出すと、なぜかざわりと肌が粟立つ。
 彼は今日、ここに来なかった。
 もしもこのまま何事も起こらなければ、或いはこれを奇妙な符号として記憶の片隅にしまい込み、日常に戻れたかもしれない。
 だが、終わらなかったのだ。
 この奇怪な出来事は、少年が始まりでもなければ、終わりでもなかった。
 その事実を知った時、乾は友人の勧めるままに草間興信所の扉を叩いた。
 人を絡め取るあの絵の真実を解明するために。
 そして出来るならば、桜に囚われたあの少年を救ってもらうために。

***

「武彦さん、このパソコン、借りていいかしら?」
 シュライン・エマは、いつからそこに放置されていたのか分からない客人のカップを片付けると、草間にそう声を掛けた。彼女の動きにあわせて、束ねた黒髪がさらりと背で揺れる。
 翻訳家を本業とする彼女は、この興信所では事務整理のバイトをしており、そして時折『怪奇探偵』の調査員となる。
「同じ事例がいくつもあるのなら、そこから何か共通点が導き出せるかもしれないし」
 アプローチを試みるのなら、霊能力の類を持たない自分は現実世界で動いていく方がいい。
 件の絵画に関する予備知識はほとんどゼロに近い。当然、その画家に関しても、だ。
 草間を通じ、乾から得た情報は僅かだ。
 画家の名は『飯沼聖司』。彼は10年前に37歳という若さでこの世を去っている。その死は自らの胸をナイフで引き裂いての失血死。遺書などは見つからなかったが、状況から自殺として処理された。
 このとき彼の死体の傍らにあったものが100号のキャンパスであり、『夢を綴る先』と名付けたれた件の絵画である。
 いかにも何かありそうではないか。
「あの、シュラインさん。あたしもちょっと知りたいことがあるんですけど、一緒に見せていただいてもいいですか?」
 海原みなもがシュラインの背後からディスプレイを覗き込む。
 セーラー服に身を包む青目青髪の少女は、どこか胸につかえるものがあるかのように眉をひそめていた。
「ん、構わないわ。じゃあ、こっちにまわって来て」
 それを見て取ると、シュラインは彼女が画面を見やすいように身体の位置を僅かにずらす。
 全てを真正面から真剣に捉えてしまう、この優しい13歳の少女は、今回の依頼に何を感じたのだろうか。そんなことを頭の片隅で考える。
「画家の経歴と逸話、絵画についての噂。あとは……」
 彼女の白く長い指がキーボードの上を鮮やかに滑っていく。
「あとは、取り込まれた人たちの身元調査、ですよね?」
「正解」
 くすりと笑って、シュラインは眼鏡の奥の涼やかな目を細める。
「すみません。ええと、最後に警察のページにも飛んで頂いてもいいですか?公開されている行方不明者のリストに、もしかしたらあの子の名前があるかもしれませんから」
「名前は確か…」
「小川祐介さん、です。」
 みなもの予想通り、ホームページ上では『小川祐介』の目撃情報を募っていた。
 乾が桜に囚われた彼の姿を絵画の中に認めたあの日と時期を同じくして、12歳の少年はこの世界から忽然と姿を消したのである。
 警察が立ち上げた行方不明者の消息を求めるページには、小川と状況を同じくするものがいくつも目に付く。
 その中の一体どれほどの人が、実際にあの絵画に魅入られたのか。
 パソコンの画面上に打ち出され、発信される言葉。その反響を待つには多少のタイムラグが発生する。
「何か手掛かりがつかめるといいですね」
「期待しましょう」
 時間は有効に使うべきだ。
「さて、これからとりあえずは美術館にと思ってるんだけど…みなもちゃん、私と一緒に行く?」
 全ての作業を終えると、軽く伸びをして、シュラインは少女に振り返った。
「はい、ぜひ」



 桜には死の匂いが付きまとう。



 シュラインとみなもが美術館に辿りつくと、見覚えのある灰色の猫が一匹、その入り口をうろうろと行ったり来たりしている。
「あれは……」
「エリゴネさん?」
 ロシアンブルーを思わせるその毛並みと、そして彼女がまとう空気が、みなもにその名を呼ばせた。
 彼女の名は藤田エリゴネ。興信所で時折昼寝をしていく老猫だ。
 猫は自分を呼ぶ声が届くと同時にぴたりとその動きを止め、
「にゃぁう」
 一声上げると、するりと人ごみを抜け、二人の足元へ身体を摺り寄せる。その仕草は何かをねだる時のものだ。
 もしかしたら彼女もまた何かを感じ、ここへ来たのだろうか。
 みなもはエリゴネを抱き上げると、シュラインを振り返る。
「この子も一緒にいってもいいですよね?」

 件の絵画の前には周囲とは明らかに違う空気を纏う者がひとり、先客としてそこに立っていた。平日の美術館で、男は髄分と人目を引く。
 彼の隣には、依頼主である乾も姿もあった。
「悪いな、乾さん。無理を聞いてもらって」
 標準を越えがっしりとした体躯。日本人にしては彫りの深い顔立ちに、スキンヘッド。その腕には鋭利な刃物を模したトライバル・タトゥが施されている。
 やけに特徴的なその男は橋掛惇と名乗った。肩には画材を詰めたカバンが下がっている。画家の関係かと思ったが、彼の職業は彫師だという。
「あの…橋掛さんも、草間さんを通してこの夜桜の調査にいらしたんですか?」
 標準よりは身長が高いみなもですら、橋掛の表情を確認するのに、随分と首を傾けなければならない。目線の高さが新鮮だと感じるほどの身長差だ。
「草間の兄さんから携帯に連絡があってな。そのまま事務所には顔を出さないでこっちに直行したんだ」
 シュラインとみなも、そして彼女に抱かれるエリゴネに対し、彼はその風貌とは裏腹にひどく穏やかな笑みを浮かべた。大型犬のような優しい安心感を与える。
「そう。武彦さんから連絡が行ったのね」
 納得したように、シュラインは頷く。
「どうしようかしら?もし協力態勢を取れるなら、貴方とも話を詰めたいところなんだけど?」
 その提案に対し、四人の傍らで成り行きを見守っていた乾がふと言葉を挟む。
「でしたらぜひ、我々の部屋をお使いください。狭いですが、お茶もご用意いたしますので」
 そうした乾の勧めもあり、彼らは打ち合わせ場所を美術館奥のスタッフルームへと移した。
 簡易的なテーブルと椅子だけが置かれているその部屋で、改めて彼らは自己紹介を交わし、現在の状況、そしてこれから行うべき予定行動を手短に話した。
「貴方はここに一晩泊まるのね?」
「ああ。まあ、なんと言うか俺も絵に憑かれてる様なもんだからな。うまく行けば呼んでもらえるだろうさ」
 綺麗に剃り上げたうなじを掻きながら、意味深な言葉を冗談めかした笑みで包み込む。
「もっとも、実際にそれが可能かどうかはあやしいんだがな」
 そういって肩をすくめる彼の背負うものが何であるのか、彼女たちは分からない。だが、そこには深い闇が横たわっているように思われた。
「とりあえず、これに喰われちまったらしいボーズたちの調査は、あんたとそこの嬢ちゃんに任せちまっていいか?」
「ええ、構わないわ。」
 シュラインとみなもは外の世界から、橋掛は内側の世界から、それぞれの方法でこの依頼にアプローチを試みる。
 自分では辿ることの出来ないルートから、相手は真実を導き出すのかもしれない。
「何か分かり次第情報交換といきましょうか?」
 それは一種の勘であったのかもしれない。この男は信用に値する。
 シュラインは橋掛と携帯番号を交換し、何事もなければ明日、興信所で落ちあうことを約束した。
「にゃぁう」
 そのとき、不意にエリゴネがみなもの腕をすり抜け、すとんとテーブルに降り立つ。そうして、橋掛の元へ渡り、彼をじっと見上げる。
「なんだ?お前さんも俺と一緒に居残るのか?」
「にゃん」
 頷く代わりに一声。言葉は通じなくとも、意思表示は伝わるらしい。
 エリゴネが自分から橋掛の方へと移るその動きを視線で追いながら、みなもは、ああやっぱり、と思った。彼女は彼と行くのだ。あちら側の世界へ。
「エリゴネさんは霊視が出来る猫なんですよ?」
 至極まじめな顔で、みなもはエリゴネをそう評した。
「へえ。なら今夜一晩、こいつに相棒を願おうか。俺には霊能力の類は持ち合わせがないからな、助けになる」
 それに返す橋掛の表情もまた、至極まじめなものだった。

 美術館を辞すとき、みなもはもう一度あの絵の前に立つ。そうして、周囲の誰にも届かないほど小さな声で呟いた。
「……貴方を…本当にそこから救い出していいの?」
 それはかすかな迷いとともに投げかけられた疑問符。
 乾の依頼を受けながら、自分のなすべきことに僅かな引っ掛かりを覚えている。
 彼は絵の中から自分を呼ぶ声を聞いたという。多くの人間がこの絵を何事もなく通り過ぎていくのに、なぜ彼は呼ばれ、そして絵の中に入ることが出来たのだろうか。
 その原因を考えるとき、みなもはふと、言いようのない思いに駆られる。
 もしかしたら自分は、取り返しのつかないことをしようとしているのではないだろうか。
 外側から、彼らの心を無理やり引き剥がすことになるかもしれない行為。
 それは果たして、救いと呼べるのか。



 桜の木が死を喚起するのは、そのあまりの散り際の潔さと、そしてただ一本の枝を手折るだけで朽ちて行く脆弱さ故だろうか。
 ヒトはそこに深い闇を見るのかもしれない。



 興信所から持ち出したパソコンを、シュラインは近くのカフェで開いた。隣でみなももディスプレイを覗き込んでいる。
 乾に教わった飯沼のアトリエを訪問する前に、いくらかでも情報を得ておきたかった。
 期待を込めて、起動する。そこにはいくつかのメール、そして彼女が求めたものが入っていた。

 彼の経歴は、期待するほどには奇異なものでなかった。
 北海道に生まれ、自然に囲まれながら18年を過ごし、その後、東京の美大に進学。油彩を選考し、そこでいくつもの賞を得ている。
 37歳という短い生涯を自らの手で閉じるまで、およそ、この事件を引き起こすような要因は見つけられなかった。ただひとつ、彼の妻が何の前触れもなく唐突に失踪した、その点を除いては。
 だが、彼女が頼りにしている情報屋は、別のメールにてその役目を十分に果たしていた。
 彼と、彼の作品にまつわる噂は、ごく限られた場所で小さな漣を起こしていた。それはけして表には現れないには、アンダーグランドの囁きである。

 曰く、飯沼は自分自身の血液を織り交ぜた顔料で絵を描いていたらしい。
 彼はこの世ならざる世界を見、囚われた。
 常に終焉を幻視し、かの筆はそれのみを写し出す。
 彼は、妻の蒸発をきっかけに作品の傾向が一変してしまった。
 植物(特に桜)に対し、異常なまでの関心を待ち、時にそれは、死の匂いをまとう程に妄執にとらわれていた。
『夢を綴る先』―――それが、飯沼聖司が描いた最後にして最高の傑作である。それを見るものに呪詛と致死に至る毒を与えるほどに。

「噂の真相、確かめに行きましょうか」



 かつての弟子が管理しているというそのアトリエは、主を失った現在、その機能をほぼ停止していた。今はただの作品置き場と化している。
「先生は確かに『芸術家』でした」
 乾の紹介であることを告げられた30代半ばの男は、シュラインとみなもを案内しながら、俯き、言葉を繋ぐ。
「……絵を愛し、絵に憑かれ、絵に呑まれた……あの人は芸術家以外の何者にもなれなかったんです……」
 木々に囲まれ、広い庭は雑草が刈り取られることなく鬱蒼としていた。
 それらを踏みつけ、三人は現実世界から隔離された小さな平屋にたどり着く。
 大きな窓ガラスが嵌めこまれたフローリングの部屋。そこに広がる、黒ずんだ大きなシミ。大小様々なキャンパスは、あるものは壁に掲げられ、あるものは床に置き去られながら、奇妙に捩れた空間を作り出していた。
 空気すらも、奇妙に歪んで淀んでいるような錯覚さえ覚える。
「噂どおりということかしら?」
 無数のガラスの破片が黒い画面の中で一輪のユリに降り注ぐ『いつか世界が終わる日に』。
 黒い水面に幾重もの波紋を描き、蔦の絡まる白い腕だけが一本、まっすぐに天へと伸ばされた『夜の産声』。
 彼岸花が燃え盛る炎をまいて散り行く『贖罪の業火』。
 彼が内包するそれは、植物への狂気にも似た深い憧憬であったのかもしれない。
「なんだか、怖いですね……」
 呑まれてしまいそうで。そう口の中でみなもは呟いた。
 ごく温かな優しい色合いの花畑に、光溢れる緑の草原。キャンパスに刻まれた日付を遡れば、彼の視線が清浄な色をもって優しく注がれていた作品も見つかる。
 だからこそ、気になるのだ。
 いつから、彼の心は病んでしまったのだろうか。
 世界の終末以外を見ることが出来なくなったのは、そして、自らの胸を引き裂くに至るまでには、どれほどのものが彼の前に展開されたのか。
 狭い部屋を、溢れる絵画を横に退けながら二人は探索する。
 みなもは棚と壁の隙間に落ち込んでいた一冊のスケッチブックを発見した。表紙を見る限り、それはどこにでもある、ごく平凡なデザインのものである。
 何気ない仕草で、彼女はページを繰り、そして、そこに描かれたものに息を止めた。
「どうしたの、みなもちゃん?」
 スケッチブックを開いたまま呆然と佇む様子を訝しみ、シュラインが声を掛ける。
 みなもはただ黙って、彼女の前にそれを差し出した。
 そして、シュラインもまた、ページを開く指を止め、言葉を失う。
 白い紙面に描き出されているもの。それはあの夜桜をモデルとした鉛筆画であった。
 春夏秋冬を現すように、花を描き、葉を織り込み、落ち葉を舞わせ、雪を纏う。一枚一枚に長い時が紡がれていく。
 だが、その景色にはやがてひとつの奇妙な変化が現れる。
 木の根元に小鳥が横たわるようになり、その次は猫、犬、時には魚となり、そして、最後には長い髪をばら撒いてうつろな目を向けた女性が凭れ掛かっていたのだ。
 想像の産物と思うには、それはあまりにも緻密で、あまりにも生々しい。見るものを圧倒するほどに毒を含んだ世界。
 心霊現象やそれと同列の神秘的なものにシュラインはけして怯えない。
 だが、どこまでも高純度な闇の色を前にしたとき、彼女は背筋に冷たいものを感じていた。
「想像以上、ね」
 引きつれた声で、小さく呟く。
 自分の中にはないその闇の淵を覗きこんだ瞬間、引きずり込まれない代わりに、切りつけられるような感覚を覚えた。
 彼は危険な人間だ。おそらくヒトとしての正常回路をどこかで違えてしまっている。もし自分自身を引き裂かなければ、その凶器は間違いなく他に向けられていた。―――いや、もしかしたら、既に向けられ、取り返しのつかない過ちを犯しているのかもしれない。
 芸術家にしかなりえなかった男は、自分の作り出した毒を撒き、悲劇の連鎖を起こす。
「もしかして飯沼さんは……」
 みなもはその続きを言葉にする気にはなれなかった。
 彼はどこまでを幻視し、どこまでを現実に変えたのだろうか。



 ただ、今ここで私が言えることは、墓地に咲く桜ほど美しいものはないという、ごく私的な意見のみである。



 シュラインとみなもは手分けして、陽の落ちきらないうちに、身元調査で判明した囚われの人々の関係者をあたっていった。
 だが、その半数以上は転居などにより既に彼女たちが辿れる軌跡をなくし、ようやく捕まえられたとしても、協力を仰げるような状況ではなかったのだ。
 この世界の居場所を求めて奔走するが、彼らはあまりにも孤独だった。
 それでも、シュラインは言葉を集めた。
 ほんの僅かでも。たった一言でもいいから、彼らをこちらに繋ぎとめる想いを手にしたかった。
 絵の中の彼らにこちらの世界を見てもらいたかった。
 出来ることなら、もう一度、こちらへ戻ってきて欲しい。
 彼女たちは情報網を駆使して、途切れかけた糸を手繰っていく。
その中で、小川祐介の父親にも会うことが出来た。
息子が失踪してから16日、彼は寝食もままならないほどに落ち込み、憔悴していた。
「祐介を…見つけてください……」
 顔面を両手で覆い、呻くように呟いた男の姿は、あまりにも小さく哀れであった。
「私にはもう、あの子しかいないんです……あの子しかいないのに、ずっと仕事で…ほったらかしで……祐介がいなくなった理由すら分からないんです……」
 彼は、自責の念に駆られながら、自分を置いて消えてしまった息子の名を繰り返し呟く。
 みなもはそっと手を伸ばし、慰めの言葉の代わりにゆっくりと嗚咽を洩らす彼の背をさすった。



「桜の木の下には死体が埋まっている」
 あまりにも有名なこのフレーズを残したのは梶井基次郎だ。
 そして、満開の桜を狂気の色彩を加えたのは坂口安吾の「桜の森の満開の下」。
 この国は、死を匂わせる魔性の花に覆われている。 



 いくつもの言の葉を得、シュラインはみなもと共に、閉館の時間を待って再びあの絵画の前に立つ。
 昨日、橋掛は約束の時間に現れなかった。
 何度携帯を鳴らしても繋がらない。彼が都内に構えるタトゥ・スタジオにも念のため連絡を入れてみたが、一昨日から職場には来ていないとの返事が返ってくるのみだった。
 乾は、橋掛の荷物だけが館内に取り残されていたことを証言していた。
 予感は確信に変わる。
 絵の中に、彼女たちはいくつかの変化を見た。
 桜の傍に、見覚えのある影が二つ、そっと紛れ込んでいる。
「…橋掛さんとエリゴネさん、中に入れたんですね……」
 みなもは呟く。
 絵に呼ばれるものを、あの二人は持っていたのだという事実に自分は不可思議な感覚を覚えている。
「そうね……多分、私たちは入れない……だけど」
 シュラインは深呼吸をひとつ。そして、まっすぐに絵を見据え、言の葉を紡ぐ。
 彼女が持つ特殊能力―――声帯模写。
 それを発したものの想いも込めて、語りかける。
(帰ってきて)
(ひとりにしないで)
(置いていかないで)
(待ってるから)
 そして、彼らの名を呼ぶ。幾度となく繰り返し、この世界に存在する最も確かな証として。
 大切なものを取り戻したいという願いのために。失ってはじめてその大きさに気付き、後悔と自責の念に駆られるものたちのために。ひとりになることに怯え、置き去りにされた痛みに苛まれるものたちのために。
 自分はこちら側の人間だから。
 シュラインの声を聞きながら、みなもは今この時点でも、心の中に迷いがあった。
 この絵に呼ばれ、取り込まれたものたちはたいてい、どこかで『死』や『喪失』を体験している。そこに空ろは生まれ、孤独が巣食い、暗い想いが闇を呼ぶ。
 そうでないものもまた、自分の中にわだかまる闇と同質のものに惹かれる性質を持っていた。病んだ心で、あの絵に同調した。
 悲しみや苦しみからの解放。限りない死への逃避。闇への羨望。
 彼らの大半は、おそらく望んで絵の中に入ったのだ。
 本当に呼び戻すことが救いとなるのだろうか。
 だが、小川祐介の父親に自分は会ってしまった。彼に残されたただ一人の家族を呼ぶ、その姿は、自分に大切な妹たちのことを思い出させた。もしも彼女たちが自分を残して唐突にこの世界がいなくなってしまったら、自分はどうするのだろう。
 それを考えたとき、出来るなら全員をその絵の中から呼び戻したいと思った。
「帰ってきてください……あなたを待つヒトがこの世界にいるんです」
 祈りにも似た思いを口にしたとき、シュラインの声がそれに重なる。
「ここに帰ってきて」
 ―――――瞬間。
 どくんっ…という重い衝撃が胸を打つと共に、霧より尚濃い『白の闇』が、自分目掛けて突っ込んできた。  
 視界一杯に舞い上がり、広がる、桜吹雪。
 世界が薄紅色に覆われ、そして世界は暗転する。



 桜闇に喰われて、私もいつかあちらの世界へ行くことになるだろう



 結局、彼女たちが呼び戻すことに成功したのは、橋掛とエリゴネ、そして、彼らに縋りつくようにして光を求めた僅か4名ほどの男女である。
 そこには、小川祐介の姿もあった。
 彼らは意識を失ったまま、美術館の床に横たわる。シュラインは生還者たちを介抱し、みなもはその姿を見ながらぼんやりと考えていた。
 全てを取り戻すことは叶わなかった。
 だが、これで良かったのかもしれないと思う。
 こちらに戻らなかった者たちは、そうであることを自ら望んだのだ。桜と共に夢を綴り、桜と共に闇に堕ちる道を選択した。
 自分には、それを誤りだと断じることは出来そうにないから……多分、これで良かったのだ。

 『夢を綴る先』は、数多の魂を道連れにこの世界から消滅した。
 後にはただ純白のキャンパスが、タイトルだけを冠して、額縁の中に取り残されていた。




END


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086/シュライン・エマ/女性/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【1252/海原・みなも(うなばら・みなも)/女性/13/中学生】

【1503/橋掛・惇(はしかけ・まこと)/男性/37/彫師】
【1493/藤田・エリゴネ(ふじた・えりごね)/女性/73/無職】

【NPC/乾・政也(いぬい・まさや)/男性/31/学芸員】

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■         ライター通信          ■
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 はじめまして、こんにちは。新米ライターの高槻ひかるです。
 この度は当依頼にご参加くださり、誠に有難うございます。「闇ヲ囁クモノ」をお届けいたします。
 お待たせした分も楽しんでいただける内容でしたでしょうか?
 今回は、プレイングの結果から、件の絵画の内側と外側でお話が分割されております。もしよろしければ、もう一方も合わせてお読みくださいませ。

<シュライン・エマPL様
 情報と言霊の収集をメインとして、海原みなも様と2人で、今回はとにかくあちこち移動して頂く形となりました。
 翻訳家でありゴーストライターでもあるシュライン様の、他人の思考や思いを掘り下げる能力が少しでも表現できていればと思います。
 なお、設定や相関図を参考に、海原みなも様、藤田エリゴネ様とは既に顔見知りという形で書かせていただきましたのでご了承ください。

それではまた、別の事件で再会できますことをお祈りしております。