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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


それでも、あなたを、追いかける。


「ついて来るんです、子供が」
 草間がすすめた来客用のソファに腰掛けるなり、開口一番、その女はうんざりしたような声でそう言った。
 年の頃は、三十の前後といったあたりだろうか。日本的な、綺麗な顔立ちをしている。ただし痩せぎすで、病的なほどに肌が白い。化粧気はほとんどなく、長い髪も無造作に束ねられている。身なりに気を使わない女なのだろうかと、タイトスカートのほつれた裾を眺めながら、草間はちらりと考えた。
 その女は深く溜め息をつき、どろりとした目で草間を見上げた。重い疲労を孕んだその視線に、草間は思わず身を引いた。
 女はもう一度、ついて来るんですよ―――と繰り返した。
「私の、子供です。男の子。十歳の」
「……はあ」
 草間は困惑しながらも、とりあえず相槌を打った。
「それは、大変ですね」
 女は、ええ本当に―――と苦々しく頷いた。
 草間はますます困惑する。―――話が見えない。それで、それが一体、どうしたというのだろうか。
 女はぎゅっと眉根を寄せ、額に手を当てた。
「もう、何をする時も。朝も、昼も、夜も、家にいる時も、職場でも。私はスナックで働いてるんですけど、もう、落ち着けなくて、それで」
 もう耐えられなくなって―――と、震える声で、吐き出すように言った。
 草間はいよいよ途方に暮れる。だから、何なのだ。この女は、一体何がしたいのだろう。育児ノイローゼ―――だのという奴なのだろうか。ならば、心療内科にでも児童相談所にでも行って、カウンセリングを受けるべきだ。興信所が出来ることは、何もない。
 草間はなるべく女を刺激しないよう、穏やかに声を掛けた。
「あの、それなら、お子さんは旦那さんに預けてみるとかですね」
「主人は三年前に亡くなりました」
 女は淡々と、そう即答した。草間はすぐに謝ろうとしたが、それより先に、女は続けた。
「息子も、その時一緒に死んだんです。―――死んだんですよ、あの子は」




 もう幾度目か、腕時計に視線を落とし、香坂蓮は眉を寄せた。
 ―――遅い。
 コーヒーカップの載ったソーサーを、苛々と指で叩く。陶器のぶつかる高い音が、自分で立てておきながら、癇に障る。腹立ち紛れに、これも数回目、隣に座る男へと声を掛けた。
「約束の時間は、正午ちょうどだったな?」
 二杯目の烏龍茶を旨そうに飲んでいた武田隆之は、ああ、と顔を上げた。
「昨日、草間の野郎が電話で言ってたな」
「そうだ。場所も、この喫茶店で間違いないな?」
「そのはずだぜ?」
「それなら」
 もう一度、腕時計を見る。―――十二時、半。
「なんでこんなに遅れるんだ」
 何か事故にでも遭ったんじゃないだろうな―――と苦く呟いた香坂に、武田は肩を竦めた。
「大袈裟だな、兄ちゃん。三十分やそこらで、そこまでイライラするこたねぇだろ」
「甘い」
 ぴしゃりと言って、怜悧な青い目で、武田の呑気な顔を睨みつける。
「Time is money.時は金なり。一円を笑うものは一円に泣く」
「別に、誰も笑っちゃいねぇが」
「そんなことはどうでもいい」
 むっつりと腕を組む。武田は苦笑して、煙草に火をつけた。
「まあしかし、可哀想な話だよな。聞いた話じゃ、お母さん、随分疲れちまってるみてぇだってし」
「ああ、―――そこなんだが」
 香坂は顔を顰めた。
「話に聞く限り、その母親は、子供のことを鬱陶しがってるらしいな。それが判らない」
 カップを持ち上げ、すっかり冷めたコーヒーを啜り、続ける。
「死んだ子供が霊になって現れることは、母親にとってそんなに厭なことなのか?」
 むしろ、霊でもいいからもう一度会いたいと思ったりするものではないのだろうか。喜ぶべきだ、などと言うつもりはないが、しかし、頭から煩わしがるというのは納得できないものがある。―――もっとも、赤子の頃に親に捨てられ、肉親の情などというものを知らない香坂に、その辺りを計り知ることは難しいのだが。
 武田は、うーん、と困ったように頭を掻いた。
「そりゃ、一概にどうとか言えることじゃないだろ。俺たち他人には、そのお母さんと子供の間に何があったのかなんて判らんし」
「そうだな。だから、まず話を聞くことが先決だ。何故そこまで子供の霊を厭うのか―――そう、死因は何なのか。いつから現れたのか。そもそも、本当に霊なのか? 疑う余地はあると思うぞ」
「それは、たとえば、幻覚を見てるとかか」
「考えられるだろう」
 なにがしかの強迫観念によって、自分の中にそういったものを創り出し、あまつそれを霊だと勘違いしてしまうようなケースは、珍しくはない。そう、たとえば―――考えたくはないが、夫と子供の死因が女に関係あったりした場合は、罪悪感に駆られ、ありもしないものに追い詰められるようなこともあるだろう。
「そうなると、厄介だ。本当に霊だとしても、俺には見えないこともあるから、その区別が付けられない」
「あ、それなら俺が力になれると思うぜ」
 あっさりとそう言った武田に、香坂は疑惑の視線を向けた。
「あんた、霊感とかが強い人か?」
「あー、いや、俺自身が見える訳じゃねぇけどな」
 武田が言いかけたところで、入り口のドアに付けられたベルが鳴った。二人で顔を見合わせてから、そちらを振り向く。
 ガラス製の扉にもたれかかるようにして、痩せた女が立っていた。遠目にも整った顔の美人であることが判るが、化粧気はなく、装いは地味だ。人を探しているようで、落ちつかなげに店内を見回している。
 ―――あれか。
 香坂が声をあげるより早く、武田が腰を浮かせ、そちらへ向けて軽く手を挙げた。女ははっとした顔をして、周囲をはばかるように近付いて来た。背を丸め、おそるおそるというように、小声で尋ねてくる。
「草間興信所の……ご紹介の方、ですか?」
「そうですそうです。あ、どうぞ」
 鷹揚な物腰の武田に、女は安心したような顔を見せ、すすめられるまま、香坂と武田の向かいの椅子に腰掛けた。
「遅れてしまって、申し訳ありません。―――宮下と申します」
 そう言って重い視線を伏せた女に、武田が明るい調子で答える。
「どうも、俺は武田です。しがないカメラマン。で、こっちの不機嫌そうな若いのが」
「別に不機嫌じゃない。香坂といいます。ヴァイオリンを弾いてますが、まあ、他にも色々と」
 宮下と名乗った女は覇気なく、項垂れるようにのろのろと一礼した。艶のない髪が流れ、恐ろしく白い首筋が覗く。その肉の薄さに、香坂は軽く目を見張った。
 この痩せ方は―――ひどい。いくら近年、細身の女が持てはやされているとは言っても、ここまでくれば、もはや病的である。よく見れば、目の下にはクマが浮き、頬も落ち窪んでいる。―――これはどうも、想像していた以上に憔悴しているらしい。
 武田も同じように感じたらしく、心配げに顔を曇らせた。
「飯とか食ってますか、ちゃんと」
 宮下は、力なく首を振った。
「あまり、食欲がなくて。無理に摂っても、戻してしまうんです」
 そう言った宮下は、忌々しげに顔を歪め、きわめて小さな声で続けた。
 ―――きっとあの子が、私を呪ってるんだわ。
 それこそ、呪詛のような声だった。武田は聞き逃したようだったが、職業柄、人より鋭い聴覚を持っている香坂には聞こえた。聞こえてしまった。
 ―――どうして、ここまで。
 知らず、険しい顔をしてしまっていたらしい。武田が肘で脇腹をつついて来た。
「なに恐ェ顔してんだよ」
「……別に。それでその、息子さんの―――幽霊。今も、ここにいるんですか?」
 香坂には、確認することが出来なかった。武田も同じようで、真剣な顔になって宮下の答えを待っている。
 宮下は首を横に振った。
「一日のうちに、何時間か―――いなくなることがあるんです。日によって違うんですが」
 その間だけ私は安心できます、と呟き、続けた。
「昨日も、その間に興信所に行ったんです。今日も、いなくなるまで待っていて―――それで遅れてしまいました」
「ふぅん。……やっぱり、本人の側でこういう話をするのは、気が引ける?」
 武田の問いに、宮下は黙って頷いた。それくらいの良心は持ち合わせているのか、と、香坂は何故か、少しだけ安堵する。しかしそれも束の間で、宮下は、きっと視線を上げ、言った。
「率直にお願いします。―――あの子を、除霊してください」
 予想はしていた言葉であっても、本人の口から聞くと、やはり複雑なものを感じる。武田も、返事に困ったように頭を掻いた。香坂は宮下の華奢な肩の辺りを見ながら、呟く。
「よく、そこまで」
 自分で思っていたよりも、冷たい声になってしまった。しかしそれを詫びる気にはならない。
 宮下は一瞬痛そうな顔をしたが、それを振り払うかのようにきつく唇を噛み、押し殺したような低い声で、言った。
「―――なにが、判るのよ。あなたたちに」
 香坂は言い返そうとしたが、武田に仕草でいなされ、口をつぐんだ。
 武田は複雑そうな笑みを浮かべ、判りませんよ―――と答えた。
「だから、話を聞かせて欲しいんです。まず、その、お子さんの死因なんかを教えてもらえませんか」
 先程の、香坂とのやりとりに似ている。宮下は重い視線で香坂を睨みつけてきたが、武田に向かって答えた。
「交通事故です。崖から転落して、二人とも即死でした」
「二人ともというと、ご主人も一緒に?」
「ええ。息子は、主人の運転した車に乗っていたんです」
 本人の証言だけでは完全に信用することは出来ない、と香坂は思ったのだが、武田は、それはお気の毒に、と言って目を伏せた。どうもこの男は、わりあい、この未亡人に肩入れしているらしい。―――それが普通なのかも知れないと、そっと自嘲する。やはり自分には、そういった―――親子の絆のようなものを想像する力が、欠けているのだろうか。
 黙り込んだ香坂を気遣うように、武田はちらりと視線をやってきたが、香坂が応えずにいると、再び宮下へと質問を向けた。
「お子さんの幽霊が現れたのは、いつ頃からなんですか?」
「―――ひと月くらい、前からです。朝起きたら、亡くなったあの日の姿のまま、枕元に立っていて。私、混乱して、訳の判らないことを話し掛けたりしました。けど、あの子は何も答えなくて―――それで、更に混乱して」
「何も答えない?」
「はい。一ヶ月ずっと、あの子は口をききません。ただじっと黙って、私の後をついてくるだけなんです。振り向くと、いつも、見上げてきていて。それが、責めるような、悲しいような顔なんです。か―――可哀想で、我慢していたんですけど、だけど、とうとう耐えられなくなって」
 少しずつ、声の調子が乱れて来た。武田は宥めてやりながら、柔らかい調子で重ねて尋ねた。
「一ヶ月っていうと―――亡くなってから、随分タイムラグがありますよね。何か、あったりしたんですか? 一ヶ月前あたりに」
 宮下は答えるかどうかを迷っていたようだったが、結局思い切ったように、言った。
「再婚―――が、決まったんです」
 その答えで、香坂は、全ての合点がいったような気がした。彼女がここまでうろたえている訳、追い詰められている訳、除霊を願う訳。
 香坂が見るに、この女はおそらく、家族を亡くして以来、幸せに暮らしてはいなかったのだろう。他人の何倍もの苦労をしたに違いない。だが最近、やっと幸せを掴んだ。それは彼女にとって、本当に、僥倖だったのだろう。失いたくない、もしかしたら最後かも知れない、一度のチャンス。
 ―――そこに現れたのが、死んだ子供の幽霊だ。
 香坂にも、その時の彼女の驚愕は、想像に難くない。おそらく、再婚の話がなければ、彼女はここまで、幽霊を邪険に扱うことはなかっただろう。隠そうと努めてはいるようだが、先程から、言葉の端々に、子供への本当の想いが見え隠れしている。
 香坂は、彼女が子供の死因に関係しているのでは、などと疑った自分を恥じた。交通事故死というのは、真実なのだろう。根拠はないが、そう思った。
 だが、しかし。その―――『子供の幽霊』が、本物の霊であるかどうかは、まだ判らない。
 もしかすると彼女は、心の奥底で、自分の再婚を、死んだ子供に対する裏切りのように感じているのかも知れない。もちろん香坂は、全くそんなことは思わないが。彼女は、ひどく苦しんで来たのだろう。幸せになってはいけない理由など、あるはずがない。武田や世間一般とて、その意見には賛同するだろう。そしてきっと、彼女の死んだ夫も。それはおそらく、彼女も判っているのだろう。だから、本物であれ彼女の幻覚であれ、夫の霊は出ないのだ。
 神妙な顔で黙り込んだ武田も、そう考えたのだろうか。確認しようと声を掛けかけたが、宮下の突然のうめき声によって遮られた。
「あ、―――あ」
 目を見開き、頭を抱えて、がたがたと震えている。顔は蒼白を通り越して青黒い。香坂は思わず席を立ち、彼女の肩に手を掛けた。
「どうしたんですか?」
「おい、どうした?」
 武田も、慌てたように駆け寄ってくる。
 宮下は指先が白くなるほどきつく自分の肩を抱き、震える声で、言った。
「来た―――戻って来た。うしろに、うしろに」
 はっとして、香坂は後ろを振り向いた。しかし何も確認できない。武田を見やったが、彼も、何も見えない、とジェスチャーで答えた。
 宮下は、泣き出しそうな声で呻いた。
「ごめんなさい、弘ちゃん。弘樹。―――やめて、そんな目で見ないで。ごめんなさい、ごめんなさい―――」
 弘樹。それが、彼女がなにより恐れている、死んだ子供の名前か。
 香坂は他に何も出来ず、取り乱す宮下の背を撫でさすった。武田はどうすればいいやらと困惑していたようだったが、ふと何か思いついたように、座っていた椅子の方へと戻った。テーブルの下へ屈み、何をするのかと思えば、ポラロイドカメラを抱えて出て来た。彼が何やら大きな荷物を持参してきていることには気付いていたが、―――しかし、こんな時に!
「おい、あんた、何してるんだ。それどころじゃないだろう!」
「いいから、ほれ、ピース」
「するか!」
 怒鳴った香坂にまるで構う様子もなく、武田はカメラを構え、シャッターを押した。まもなく、ぺろりと写真が吐き出される。
 武田はそれをぱたぱたと空気に晒してから視線を落とし、―――ははぁ、と苦笑した。その間にも、宮下は震えながら自分の身体を抱き締め、うずくまっている。
「おい―――」
 非難の視線を向けた香坂に、武田は写真を差し出して来た。眉をしかめながらもそれを受け取り、見る。自分と、宮下が映っていた。だからこれがどうしたんだ、と言いかけた時、気が付いた。
 ―――これは。
 説明を求めるつもりで、武田を見上げる。自称しがないカメラマンは、言っただろ―――と香坂の手から写真を取り返した。
「力になれると思うってな。不本意な特技だが、こういう時は役に立つ」
 香坂は宮下の背をさすり続けながら、再び背後を振り向いた。やはり何も見えない。しかし、『いる』。
 ―――写真には、確かに、映っていた。白いシャツに半ズボン姿の、幼い男児。寂しそうな、心配げな顔は、まるきり、怯える母親を心配する子供のそれだった。
 不意に、宮下の身体の力が抜けた。気絶してしまったらしい。前のめりに倒れかけた彼女を、とっさに抱きかかえる。と、パシャッ、とシャッター音が聞こえた。無言で睨みつけると、武田はおどけたように片眉を上げ、手を貸して来た。
「恐ェ顔すんなって。―――幻覚じゃ、なかったな」
「ああ」
 二人で協力して、宮下を椅子へと座らせる。それから三度、彼女の背後、見えない子供を振り向いた。
「坊主」
 武田が、ぶっきらぼうだが、優しい声音で話し掛けた。返事はない。依然、姿も見えない。今度は香坂が声を掛けた。
「……俺たちにも、姿を見せてくれないか。出来るか?」
 返事はない。武田が、更に言った。
「力ずくで引っぺがすようなことはしねぇよ。ちょっと話がしたいだけだ」
「約束する」
 香坂もそう重ねる。
 しばし迷うような間を置いて、―――すぅっと、写真の通りの子供が、姿を現わした。悲しそうな顔で、目を伏せている。母親と似ているなと、なんとなく香坂は思った。
 武田が、にっと笑みを浮かべる。
「よーし、いい子だ。お兄さんたちと話そうな」
「あんたはお兄さんか?」
「黙れ恐い方のお兄さん。優しい方のお兄さんと話そうなー」
「……若い方のお兄さんと話さないか?」
「おまえ、この野郎」
「なんだ、この野郎」
 ふっ―――と、控えめな笑い声が聞こえた。見れば、子供―――弘樹が、かすかに笑っている。
 武田は相好を崩して、そちらに話し掛けた。
「笑えるんだな。その方がいいぞ」
 弘樹は少し寂しそうに目を細めて、―――ぽつりと、言った。
『僕、お母さんを困らせちゃったんだね』
 ふわふわと浮遊するような、不思議な声だった。武田は少し苦く笑った。
「話せるのか」
『うん。……あのね、僕は、お母さんを怖がらせようと思ったんじゃ、ないんだ』
「判ってる」
 弘樹は安心したように、ひとつ頷いた。
『僕はただ、僕とお父さんのことを、忘れないで欲しくて。―――本当は一目だけで、よかったんだ。だけど』
 大きな目から、ぽろりと涙がこぼれた。
『お母さん、僕のこと嫌いになっちゃってて。それが寂しくて、僕、ずっとお母さんにくっついて―――喋るともっと嫌われちゃいそうだったから、我慢して。でも、そのせいで、怖がられちゃって』
 そこまで言って、弘樹は俯いた。香坂はその頭を撫ででやろうと手を伸ばしかけたが、触れられないことに気付き、やめた。その代わりに、出来るだけ優しく話し掛ける。
「弘樹。お母さんのことが好きか?」
 弘樹は、強く頷いた。
「お母さんに、幸せになって欲しいか?」
 もう一度、頷いた。
「お母さんが別の人と結婚―――ああ、結婚って判るか?」
『……一緒に暮らすこと』
「そうだ。お母さんが別の人と一緒に暮らすようになるのは、厭か?」
 迷っていたようだったが、―――頷いた。
「それは、なんでだ?」
『……僕とお父さんのこと、忘れちゃうから』
「「それは違うぞ」」
 武田と声が重なった。互いに顔を見合わせ、視線で順番を譲り合う。
 まず、武田が頭を掻きながら、言った。
「母ちゃんは、他の人と一緒になっても、父ちゃんと坊主のことは忘れねぇよ」
『……本当?』
「本当だ」
 今度は香坂が答えた。
「お母さんは、弘樹のことを嫌いになった訳じゃない。ただ少し、びっくりしただけなんだ」
『……お父さんも、そう言ってた』
「お父さん?」
『毎日、お母さんのこと、話しに行ったんだ』
 ああ、と納得する。母の側からいなくなった時間は、父のところへ行っていたのか。
「お父さんは、どこにいるんだ?」
『空よりずっと上の、高いところ。僕も、そこにいた』
 そう答えて、弘樹は黙り込んだ。じっと宮下を見ている。香坂も武田も、会話を急かさなかった。
 しばらくして、弘樹は、言った。
『お母さん、僕たちが―――死んじゃってから、毎日、お花をくれたんだよ。僕とお父さんの写真に』
 写真―――遺影、仏壇か。弘樹は続ける。
『一ヶ月前、僕が来るまで、毎日』
 それから、ゆっくりと笑った。
『―――別の人と一緒に暮らすようになったら、お母さん、また笑ってくれるようになる?』
 香坂と武田は、無言で頷いた。そう、きっと。
 弘樹は、そっか―――と目を閉じた。
『それなら、いいや。僕たちのこと忘れないで、お母さん笑ってくれれば、いいや』
「―――もう、行くのか?」
 香坂の問いに、弘樹は、うん、と答えた。
『お父さんのところに、帰る。お母さん寝てる間がいいよね』
「いいのか、お母さんと話さなくて」
『うん。だって、話しちゃうと、帰りたくなくなっちゃうかも知れないから。そしたらお父さん、寂しがるもん』
「―――そうか」
『うん。お兄ちゃんたち、ありがとう』
 にっこりと笑った弘樹の姿が、薄くなり始める。香坂は目を細めてそれを見守っていたが、
「ちょっと待て、坊主」
 武田の、あっさりした制止に妨害された。弘樹が目を丸くする。
『何?』
 武田はカメラを持ち上げて、宮下の方を顎で指した。
「母ちゃんと一緒の写真、撮ってやろうか。記念に」
 弘樹は驚いたようだったが、やがて満面の笑顔になった。
『―――いいの?』
「ああ、お兄ちゃんって呼んでくれた礼だ。母ちゃんも喜ぶぞ。ほれ、並べ」
 弘樹は照れ笑いしながら、椅子に腰掛けている宮下の隣に並んだ。カメラを構えた武田が、香坂を振り向いてくる。
「なんなら一緒に入るか、恐い兄ちゃん」
「馬鹿言うな。親子水入らずて撮ってやれ」
 へいへい、と、なんだか嬉しそうに笑った武田は、親子をファインダーにおさめ、シャッターを切った。弘樹は出てきた写真を見ると、何も言わずに、武田に向かってぺこりと頭を下げた。
 そして今度こそ、溶けるように姿を消した。




 気絶したままの宮下の膝にそっと写真を乗せ、二人は喫茶店を出た。
「―――幸せになって欲しいよな、あのお母さん」
 カメラをいじりながら、武田がそう言った。香坂は、そうだな―――と答える。武田は揶揄するように笑った。
「なんだよ、やけに素直じゃねぇか」
「余計な世話だ。―――あ」
 ふとあることに気付いて足を止め、店を振り向く。そしてこめかみを押さえた―――何ということだ。
「報酬、一円も貰ってないぞ」
 それどころか、コーヒー代は自腹を切ったのだ。そう訴えると、武田はあからさまに呆れたような顔になった。
「セコいこと言ってんなよ、兄ちゃん。あの子の笑顔が報酬だろうが」
 それは否定はしないが―――しかし。
 未練たらしく歯噛みする香坂に、武田は、じゃあ―――と一枚の写真を差し出して来た。
「ほれ、これ報酬にしろ」
 その含み笑いに訝りながらも、受け取り、見る。
 そして、黙って突き返した。
 ―――先程の、倒れかけた宮下を抱きかかえた場面が、しっかりと印刷されているその写真を。
 武田は、香坂の背を派手に叩いた。
「羨ましいね、きれいな未亡人と抱き合って」
「……よくあの状況で、こんなもんを」
「プロだからな」
 香坂は、とりあえず、そのカメラマンの後頭部をはたいた。
 ヴァイオリニスト兼便利屋のこの青年が、金を溜め、憧れのグァルネリ・デル・ジェスを手に入れる日は―――近くはないのかも知れない。



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□         ライター通信          □
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1532/香坂・蓮/男/24/ヴァイオリニスト(兼、便利屋)】
【1466/武田・隆之/男/35/カメラマン】

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□         ライター通信          □
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こんにちは、執筆させていただきました醍醐です。
武田隆之氏・香坂蓮氏、香坂氏視点編。いかがでしたでしょうか。
武田氏視点編もご覧いただければ、また違ったお二方の一面にも
気付いていただけるやも知れません。
……しかし長いですね。規定の倍以上の長さになってしまいました。

……これだけの立ち回りで、なぜ他の客や店員が気付かなかったんだ、という疑問は、
そっと胸にしまっていただけると嬉しいです。
香坂氏は、商魂たくましくとも、守銭奴ー! という感じのキャラクターでは
ないように思いましたので、このようなオチになりました。
腕が命のヴァイオリニスト、人間を抱えたりしていいのか。その疑問も、また
そっと胸の小箱に仕舞っていただけませんでしょうか。
沈着冷静なこの御仁に、どつき漫才の真似事をさせてしまったことは、
謹んでお詫び申し上げます。

それでは、ご感想などございましたら、お聞かせ願えると嬉しいです。
香坂氏がいつの日にか、お金を溜め、本物のグァルネリを入手出来ますように。