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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


闇ヲ囁クモノ

「ここにいるのは…あの子じゃないか?」
 その日、閉館後の美術館で異変に気付いたのは、学芸員の乾政也ただひとりであった。
 彼が見上げるのは、100号のキャンパスである。
 あらゆる色を織り交ぜ、塗りこめられた闇を背景に、佇む一本の夜桜。花びらを散らし、流れを作りながら、それは自身の根を以って、獣とも人とも見える影をいくつも絡め取り、捕らえていた。
 禍々しいまでに美しい、病んだ世界。
 その絵の中に、彼を見る。
 この展示会が始まってから一日とあけず通い続けていた学生服の少年が、根に抱かれた骸のひとつに重なるのだ。
 彼は、いつも夕方になるとここに現れ、入館料300円を払ってはこの絵の前で時間が許す限り立ち尽くしていた。ともすれば閉館時間を知らせる音楽すら耳に届かぬほどに。
 息を呑み、ただ無言で見入る彼は、魂すらもそこに移し込んでいるようだった。
 一日経ち、二日経ち、そうして一週間が過ぎる頃には、自分は20歳近く年下の少年と僅かながらも言葉を交わすようになっていた。
 少年ははにかんだ笑みを浮かべ、この絵は自分を呼んでいるような気がするのだと言った。惹き付けられて仕方がないのだと。
 その表情を思い出すと、なぜかざわりと肌が粟立つ。
 彼は今日、ここに来なかった。
 もしもこのまま何事も起こらなければ、或いはこれを奇妙な符号として記憶の片隅にしまい込み、日常に戻れたかもしれない。
 だが、終わらなかったのだ。
 この奇怪な出来事は、少年が始まりでもなければ、終わりでもなかった。
 その事実を知った時、乾は友人の勧めるままに草間興信所の扉を叩いた。
 人を絡め取るあの絵の真実を解明するために。
 そして出来るならば、桜に囚われたあの少年を救ってもらうために。

***

 新緑が陽を受けて映える並木道を、一台の車が走り抜けていく。
 その車内、ハンドルを握る橋掛惇の携帯電話が、草間興信所の番号をディスプレイに示して鳴り響く。
 視線は正面に向けたまま、胸ポケットからそれを取り出す。
「はい、橋掛。どうした、兄さん」
「……ん?時間?時間はまあ何とかなるが………なんだ?人を喰う絵?」
「ああ、いや、OKだ。…そのボーズを助けりゃいいわけだな?」
「他人事じゃないからな……いや、こっちの話だ。……ああ、まっすぐ向かわせてもらう。美術館の住所を教えてくれ」
 草間から聞くべき情報を得ると、橋掛は周囲を確認。対向車線に180度ハンドルを切って進路変更を強行した。

 草間興信所での昼寝兼情報収集を終えた藤田エリゴネは、人間たちの足元をすり抜け、美術館へ向かっていた。灰色の毛並みを、日向の空気が撫でていく。
 彼女は思う。
 まだ自分がただの飼い猫であった頃、まだ、人化の能力など持たなかった幼い頃、日本人留学生だった飼い主は、エリゴネを連れてフランスのあらゆる場所を訪れた。
 ルーヴル。ベルサイユ宮殿。世界的に有名な美術館から町の中で小さく佇む画廊まで、ケージの中から主人とともに見上げたいくつもの絵画。
 芸術に触れ、豊かな心に触れ、そこに映し出される様々なドラマに触れた。
 柔らかで温かな幸福の時間。
 あの人が自分に残してくれたこの愛しい想い出のためにも、出来る事なら絵画を傷つけたくはない。
「エリゴネさん?」
 不意に自分を呼ぶものの声が耳に届いた。振り返ればそこには、エリゴネが時折出入りする草間興信所の事務員と中学生が立っていた。シュライン・エマと海原みなもである。
 受付の目を盗んで忍び込むことも考えたが、彼女たちに頼めば、もっとたやすく侵入することが出来るかもしれない。
「にゃぁう」
 一声上げると、するりと人ごみを抜け、二人の足元へ身体を摺り寄せる。
 みなもはエリゴネを抱き上げると、シュラインを振り返った。
「この子も一緒にいってもいいですよね?」
 
 みなもの腕に抱かれて入り込んだエリゴネの視界に、周囲とは明らかに違う空気を纏う者がひとり、件の絵画の前に先客として立っていた。平日の美術館で、男は髄分と人目を引く。
 彼の隣には、依頼主である乾も姿もある。
「悪いな、乾さん。」
 橋掛は画材を詰めたカバンを肩に提げ、申し訳なさそうに髪のない頭を掻いた。
 標準を越えがっしりとした体躯。日本人にしては彫りの深い顔立ちに、スキンヘッド。その腕には鋭利な刃物を模したトライバル・タトゥが施されている。
 その容姿が纏う空気は、エリゴネの目に周囲の人間とは明らかな相違を持って映った。
 彼は何か大きな力を内包している。その背に、胸に、肩に。
「あの…橋掛さんも、草間さんを通してこの夜桜の調査にいらしたんですか?」
 標準よりは身長が高いみなもですら、橋掛の表情を確認するのに、随分と首を傾けなければならない。青目青髪の少女が懸命に自分を見上げている姿は、妙に微笑ましかった。
「草間の兄さんから携帯に連絡があってな。そのまま事務所には顔を出さないでこっちに直行したんだ」
 シュラインとみなも、そして彼女に抱かれるエリゴネに対し、彼はその風貌とは裏腹にひどく穏やかな笑みを浮かべた。
「そう。武彦さんから連絡が行ったのね」
 納得したように、シュラインは頷く。
「どうしようかしら?もし協力態勢を取れるなら、貴方とも話を詰めたいところなんだけど?」
 その提案に対し、四人の傍らで成り行きを見守っていた乾がふと言葉を挟む。
「でしたらぜひ、我々の部屋をお使いください。狭いですが、お茶もご用意いたしますので」
 そうした乾の勧めもあり、彼らは打ち合わせ場所を美術館奥のスタッフルームへと移した。
 簡易的なテーブルと椅子だけが置かれているその部屋で、改めて彼らは自己紹介を交わし、現在の状況、そしてこれから行うべき予定行動を手短に話した。
「貴方はここに一晩泊まるのね?」
「ああ。まあ、なんと言うか俺も絵に憑かれてる様なもんだからな。うまく行けば呼んでもらえるだろうさ」
 意味深な言葉を冗談めかした笑みで包み込み、橋掛は肩をすくめる。
 芸術と呼ばれるものが持つ深淵を、狂気を、闇を、橋掛はその身をもって知っていた。
 絵は、描いたものの想いを映す。例えそれがどんなカタチであっても。
「もっとも、実際にそれが可能かどうかはあやしいんだがな」
 そして、強い想いを宿したものは、時に歪み、運命を狂わせ、関わるものの魂までも喰らい尽くすのだ。
「とりあえず、ここに取り込まれたボーズたちの調査は、あんたとそこの嬢ちゃんに任せちまっていいか?」
「ええ、構わないわ。」
 シュラインとみなもは外の世界から、橋掛は内側の世界から、それぞれの方法でこの依頼にアプローチを試みる。
 自分では辿ることの出来ないルートから、相手は真実を導き出すのかもしれない。
「何か分かり次第情報交換といきましょうか?」
 橋掛はシュラインと携帯番号を交換し、何事もなければ明日、草間興信所で落ちあうことを約束した。
「にゃぁう」
 そのとき、不意にエリゴネがみなもの腕をすり抜け、すとんとテーブルに降り立つ。そうして、橋掛の元へ渡り、彼をじっと見上げる。
「なんだ?お前さんも俺と一緒に居残るのか?」
「にゃん」
 頷く代わりに一声。言葉は通じなくとも、意思表示は伝わるらしい。
「エリゴネさんは霊視が出来る猫なんですよ?」
 至極まじめな顔で、みなもはエリゴネをそう紹介した。
「へえ。なら今夜一晩、こいつに相棒を願おうか。俺には霊能力の類は持ち合わせがないからな、助けになる」
 それに返す橋掛の表情もまた、至極まじめなものだった。



 真の芸術とは、自身の深淵を覗き込む行為から始まるのかもしれない。



 日が暮れ、やがて館内に閉館を告げる音楽が緩やかに流れ出した。
 まばらだった客は立ち去り、職員もまた、最終点検を終えてこの美術館を後にした。
 ひとつひとつ照明は消されていき、後には薄ぼんやりとした非常灯だけが、そこに残る橋掛とエリゴネに緑色の光を投げかけるのみとなった。
 静寂が、降りてくる。
 キャンパスに塗りこめられた闇桜は、深く静かに、彼らを見下ろしている。
 この絵と、そしてこの画家に関し、乾から得た情報は僅かだ。
 画家の名は『飯沼聖司』。彼は10年前に37歳という若さでこの世を去っている。その死は自らの胸をナイフで引き裂いての失血死。遺書などは見つからなかったが、状況から自殺として処理された。
 このとき彼の死体の傍らにあったものが100号のキャンパスであり、『夢を綴る先』と名付けたれた件の絵画である。
 絵に魅入られ、絵に囚われたその姿に自分を重ね見る。
 彼がその身に背負うのは、地獄の門とケルベロス。広い背に刻まれたこの『絵』が、今橋掛を喰らっているものだ。
「他人事じゃなんだよな、本当に」
 スケッチブックを広げながら、橋掛は苦い笑みを口元に浮かべてひとりごちる。
 橋掛は実のところ、草間からこの話を受けた当初、問題の絵画を破るなり燃やすなりをしてこの世界から消滅させることを考えていた。
 だが、ここに来て実際に『夢を綴る先』を前にしたとき、そうしてしまうことがひどく惜しい気がしたのだ。
 自分はこの絵を気に入ってしまった。
 橋掛の持つ鉛筆が、スケッチブックの白い空間を埋めていく。紙面を走るその音だけが、静まり返った館内に微かに響く。
 呼び声を待つ間、時間潰しに彼はタトゥの原画を起こすことにしたのだ。
 時折無意識に胸ポケットのシガレットケースへ手を伸ばしては、途中で気付いて、館内での禁煙を続行する。
 時折寄り添う猫の喉を撫でながら、その時を待っていた。
「何か見えるのか?」
 灰色の猫は、微動だにせず、ただじっと絵を見つめている。その瞳は明確な意思を持って光り、獣ではありえない知性をひらめかせていた。
 もしかしたら自分と同じようにこの猫も、自身を呼ぶ声を待っているのだろうか。
 
 エリゴネは、あの少年――小川祐介が聞いたという『絵の呼び声』を待っていた。彼女が持つ『霊視能力』で、この絵画に刻まれた過去を見つめながら。
 木々に囲まれ、大きな窓のある部屋で、男は筆を取り、キャンパスと向かいあっていた。
 その真摯な姿勢は、彼女がかつてフランスで触れた画家たちとなんら変わるところはない。
 やがて、絵を中心に映像は少しずつ現在へと流れていく。
 何千、何万という人がこの絵の前に立ち、そして、そのうちのほんのわずかなものたちが、闇の素質を以って絵に取り込まれていった。
 『闇』を内包する核は様々だった。あるものは死への誘惑であり、あるものは深い喪失の記憶を抱いている。純粋な狂気をはらむものもいた。
 エリゴネは意識をさらに集中させる。
 意識して、自分の中の闇を覗きこみながら。
(―――――で…)
 ぴくりと彼女の耳がかすかな音を捉えて反応する。それに遅れて、橋掛の耳にもそれは届いた。
(――――いで―ここに――)
 ふたりの意識が、呼び声に同調する。それは、自身の中に抱く深い闇の記憶すらもゆるやかに絡め取っていく囁き。
 半ば朦朧としながらも、自分は声に応える。

 そして、深夜の美術館から、息づくものがふたつ消えた。



 理由…あるとすればそれは、自身の中に『闇』を飼っているか否か、それにつきる。



「ここがあの絵の中ってことか?」
 茫洋とした薄闇の中。
 彼らの立つ地面は、さらさらと足元を流れていく花の河で埋め尽くされていた。
 空気の流れを、その肌に感じることはない。だが、花びらは足元を流れ、そして時折はらはらと空を舞う。
 気を抜けば、足を取られそうだ。
「にゃうん」
「流されて埋まっちまうな」
 花びらの川に片手を突っ込み、橋掛はエリゴネを掬い出す。
 エリゴネは腕に抱かれることを避けるように、上着に爪を掛けると、肩までするりと駆け上る。そうしてそのまま器用に蹲ってしまった。
「そこが気に入ったんなら構わねえが、落ちそうだからって背中に爪は立ててくれるなよ?」
 思わず苦笑を浮かべながらも、橋掛の目はやはり優しい。
「なぁう」
 心得ているわ。そう言うように、彼女は一声で言葉を返す。
「さてと、どっちへ進んだもんだが検討もつかないな」
 行くべき場所は知っている。だが進むべき方向を決定付けるものが一切存在しない。
 エリゴネは、橋掛の肩の上でゆっくりと意識を周囲へ巡らせていく。
 今最も強い力は、間違いなくこの男の中から発せられている。
 だが、この世界を創り出したものの気配がそれに掻き消されることはない。ただあまりにも広範囲に渡っている為に、その中心部を掴むことが難しいのだ。
 なおも感覚を研ぎ澄ませ、彼女は世界の中心を探る。
 細く細く、自分たちを呼ぶ声を辿る。
(――――いで―ここに――で――――夢を…見せてあげよう――)
「にゃぁう」
 エリゴネの柔らかな前足が、橋掛の頬を押す。
 捕らえた中心に、彼の意識を、そして身体を向かわせるために。
「ん?ああ、OKだ。こっちでいいんだな?」
 花びらを掻き分け、蹴散らしながら、橋掛はエリゴネの誘導に従う。

(おいで…―――君が抱く闇(ゆめ)を…見せてあげる―――)
 
「こいつはまた…随分と……」
 橋掛は言うべき言葉を失った。
 そこにあるのは、たった一本の、だが圧倒されるほど凄絶な美しい桜の巨木。
 いっそまがまがしい程に幻想的な、美しい光景。
 その向こうに、『彼』はいた。
 木製のイーゼルを立て、キャンパスを置く。手には絵筆と油彩用のパレット。足元には半ば埋もれるようにして、絵の具や油の詰まった木製の道具箱がぼろ布と共に置かれている。
 視線はただまっすぐに桜へと注がれていた。
 彼が飯沼聖司本人に間違いないだろう。
「あんたが呼んだんだな、飯沼聖司さん?」
 声を掛ける。出来るだけ穏やかに。
 だが、橋掛の声に顔を上げた男は、そこにはいない誰かを向こう側に見るような目で、答えにならない言葉で応える。
「桜の下には死体が埋まっている……聞いたことはありますか?」
 男はやつれた顔にどこか恍惚とした笑みを浮かべる。
「あまりにも有名なこのフレーズを残したのは梶井基次郎。そして、満開の桜を狂気の色彩を加えたのは坂口安吾の『桜の森の満開の下』……実に印象深い作品です」
「なんで、こいつらを絡め取る?」
 再度、今度は飯沼の肩に手を掛け、問いかける。
 だが、その行為すらも、彼の意識をひきつけるには一瞬の効果しか発揮しなかった。
「ここを訪れる方々はみな、夢を綴るものたちです」
 微妙な齟齬を生じながらも返してきた答えと思しきものは、ただひとこと。
「桜には死の匂いが付きまとう」
 橋掛の問いにはまるで頓着していないかのように、熱を帯びた視線を桜に注ぎ、言葉を紡いでいく。
「な〜う。にゃ、にゃ」
 エリゴネが、橋掛の肩から飯沼の膝へとかろやかに飛び移り、爪を立てずに興味を惹こうと彼の足を踏み押す。
 だが、反応はない。
 彼は確かに触れられる。ここに存在している。なのに、彼との距離はあまりにも遠い。
「桜の木が死を喚起するのは、そのあまりの散り際の潔さと、そしてただ一本の枝を手折るだけで朽ちて行く脆弱さ故なのでしょうかね」
 夢うつつの表情が、歪んだ高純度の闇を内包して笑う。
「この国は、死を匂わせる魔性の花に覆われている……」 
 彼の独白はまるでスクリーンの向こう側で演じられるひとり芝居のようだと、エリゴネは思う。
 こちらが何を語ろうとしても、シナリオに手を加えることは出来ず、そこに立つ役者には一切干渉することが叶わない。そんな、一方通行の印象を受ける。
「予感は……していたんです」
 不意に、男は笑みを消し、空を見据えた。声すらも静かに音を下げていく。
「桜闇に喰われて、私もいつかあちらの世界へ行くことになるだろうって……」
 橋掛の、そしてエリゴネの足元を流れいく花びらが不意に風に攫われる。
「―――っ!」
 声を飲み込んで、目を見張る。
 薄紅色の装いを払い去ったそこには、土の代わりに継ぎ目のないガラスが覗く。
 その下に広がる光景は、この世にあらざる死の共存。
 あるものは既に自身の身体を樹木化し、あるものは人の瑞々しさを保ちながら、根に同化している。
 それはあの、『夢を綴る先』と呼ばれた絵画そのものである。
「ごく私的な意見なんで恥ずかしいんですが……墓地に咲く桜ほど美しいものはないと、そう思っているんですよ」
 凄惨な光景とは裏腹に、飯沼は自身の告白と共にはにかんだ笑みを、その口元に浮かべた。
 この男は埋めたのだろうか……自分の手で、小鳥を、猫を、熱帯魚を、ヒトを………?
 橋掛は知っている。これは、深淵を覗き込まずにはいられない、芸術家の業だ。
「夢を綴りましょう…?あなたが打ちに抱く闇を以って……」
 飯沼聖司の声に呼応しているのか。
 ぎしり……と、桜の枝が根が幹が、かすかな軋みを上げてゆっくりと動き出す。
「……悪いが、オレにはまだ遣り残してきたもんがありすぎる。まどろんでいる時間は寝えんだ」
 この言葉は彼に届いただろうか。
「ボーズを返してもらいたい。そういう依頼を受けて、俺とエリゴネはここに来たんだ」
 画家はゆっくりと頭を振った。そして、膝に乗っている彼女の存在を忘れて立ち上がる。
 あらゆる魂を絡め取り、ひとつの意志あるものとなった桜の枝が、彼にその枝を差し伸べる。
 それに応えるように飯沼は嫣然と微笑み、手を伸ばし、絡め、口付け、自らを樹木に同化させていく。
「俺は出来ればこの世界を壊したくねえんだ。正直勿体無いとすら思う。だが、悪いもんは始末しちまった方がいい。そう考える人間だっているんだ……」
 そう言葉を繋げて行く橋掛に、突如、攻撃が開始される。
 飯沼を取り込んだ桜の細い枝が、互いに絡み合いながら、鋭い槍となって一斉に襲い掛かる。
「―――っ!」
 それは橋掛の意思とは無関係に繰り出された。
 腕に施されたタトゥが桜の敵意を吸収する。自動的能力。飛び散る鮮赤とともに、黒い刃が唐突に出現し、そして桜の根を薙いだ。
「やめさせてくれ、飯沼さん!」
(枝を折らないで)
(この世界を傷つけないで)
(起こさないで)
(このままずっと夢を見せて)
(お願い)
(お願い)
(ここから出たくない)
 押し寄せてくるのは、人の可聴域を超え、ただエリゴネにだけ伝わる悲鳴。
 それは悲痛な訴えであり、深い哀切を込めた嘆願である。
 この絵に呼ばれ、取り込まれたものたちはたいてい、どこかで『死』や『喪失』を体験している。そこに空ろは生まれ、孤独が巣食い、暗い想いが闇を呼ぶ。
 そうでないものもまた、自分の中にわだかまる闇と同質のものに惹かれる性質を持っていた。病んだ心で、この男が描いた世界に同調した。
 悲しみや苦しみからの解放。限りない死への逃避。闇への羨望。
 彼らの大半は、おそらく望んで絵の中に入ったのだ。
 だから、全てを救おうとは思わないし、救えるとも思えなかった。
 学生服の襟首に牙を食い込ませ、幾度目かの衝撃で木の呪縛から転げ落ちた小川少年の身体を引き摺り、彼女はその小さな身体で彼を必死に護ろうとする。
 彼にはまだ、彼を必要とし、彼の存続を望むものの気配がする。
 絵を傷つけてほしくない。
 この世界を傷つけたくはない。
 どれほど病んだ想いを抱えていたとしても、エリゴネにとってそれは忌むべき存在ではなかった。
 だが、飯沼は自分たちを排除しようと襲い掛かる。
 橋掛の黒刃は彼自身の血をまといながら空を裂き、悲鳴を上げ抵抗する桜を容赦なく切り刻む。
 不意に、言葉が降りてくる。
 想いの破片を載せた、優しい言葉。

(帰ってきて)
(ひとりにしないで)
(置いていかないで)
(待ってるから)

「……あの嬢ちゃんたちだな」
 突如攻撃の手を止めた桜の傍らで、橋掛は膝をつき、空を振り仰ぐ。
 天上から舞い落ちる光を宿した言の葉に触れて、桜がゆっくりとその巨体を崩壊させていく。
 散り行く花びらと、砕けていく木片。
 ソレを追って、薄紅の空間にも亀裂が生じる。
 その向こうで待っているものは、どこまでも深く病んだ真の闇。
 自身の名を呼び、懸命に呼び戻そうと訴えかける想いに惹かれ、再び生への執着を覚えた者たちが、縋るように橋掛と、そして光ある言葉にその手を伸ばす。
 朽ちていく桜の呪縛から逃れる道を彼らは望む。
「にゃうん!」
 橋掛の肩に飛び乗り、エリゴネは彼の意識をこぼれ落ちていくものたちへ向けさせる。
「あいつらを捕まえればいいんだな?」
 すべての幻想が無音のうちに崩壊していく中、生を望む意思に、橋掛は確実に応える。

(帰ってきてください……あなたを待つヒトがこの世界にいるんです)
(ここに帰ってきて)

 ―――――瞬間。
 どくんっ…という重い衝撃が胸を打つと共に、霧より尚濃い『白の闇』が、自分目掛けて突っ込んできた。  
 視界一杯に舞い上がり、広がる、桜吹雪。
 視界が薄紅色に覆われると、世界はいっそ鮮やかに暗転した。

***

 結局、橋掛とエリゴネが呼び戻すことに成功したのは、空から舞い落ちてきた言葉に縋りつくようにして光を求めた、小川祐介を含む僅か4名ほどの男女である。彼らは意識を失ったまま、冷たい美術館の床に横たわる。
 全てを取り戻すことは叶わなかった。
 だが、これで良かったのかもしれないと橋掛は思う。
 こちらに戻らなかった者たちは、そうであることを自ら望んだのだ。桜と共に夢を綴り、桜と共に闇に堕ちる道を選択した。
 自分には、それを誤りだと断じることは出来そうにないから……多分、これで良かったのだ。

 『夢を綴る先』は、数多の魂を道連れにこの世界から消滅した。
 後にはただ純白のキャンパスが、タイトルだけを冠して、額縁の中に取り残されていた。





END



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086/シュライン・エマ/女性/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【1252/海原・みなも(うなばら・みなも)/女性/13/中学生】

【1503/橋掛・惇(はしかけ・まこと)/男性/37/彫師】
【1493/藤田・エリゴネ(ふじた・えりごね)/女性/73/無職】

【NPC/乾・政也(いぬい・まさや)/男性/31/学芸員】

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■         ライター通信          ■
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 はじめまして、こんにちは。新米ライターの高槻ひかるです。
 この度は当依頼にご参加くださり、誠に有難うございます。「闇ヲ囁クモノ」をお届けいたします。
 お待たせした分も楽しんでいただける内容でしたでしょうか?
 今回は、プレイングの結果から、件の絵画の内側と外側でお話が分割されております。
 もしよろしければ、もう一方も合わせてお読みくださいませ。

<藤田エリゴネPL様
 ご主人様との大切な想い出を胸に絵画の中へと挑まれるプレイングは、思わずほろりとくるものでした。
 彼女のご主人様は本当にエリゴネ様を愛してらっしゃったんだなと思いました。
 全編を通して猫のまま、意思の疎通は鳴き声と仕草のみとさせて頂きましたが、もし機会があれば、今度はご婦人にもお会いしたいと思っております。
 なお、設定や相関図を参考に、海原みなも様、シュライン・エマ様とは既に顔見知りという形で書かせていただきましたのでご了承くださいませ。

 それではまた、別の事件で再会できますことをお祈りしております。