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<東京怪談ノベル(シングル)>


懺悔の旋律


 ―――取り返しのつかないことを、した。

 静粛な教会の中、香坂蓮は、十字に架けられた男の姿を眺めていた。その手には、愛用のヴァイリン―――グァルネリ・デル・ジェスのコピーがある。
 それに視線を移し、―――眉を顰めた。手に馴染んだ愛器の重みが、心にもずしりと圧し掛かる。
 いつの日かこれを本物に変えようと、蓮は、躍起になって便利屋としての仕事を重ねて来た。金のためなら、かなり悪どい依頼にも手を貸した。罪悪感がなかった訳ではない。しかし―――しかし、天涯孤独で頼る人間も持たず、ヴァイオリニストとしても世間に認められない蓮にとっては、切実な策だったのだ。
 ―――だからといって、それは、免罪符になどはなりえない。
 今朝からメディアを独占しているニュースを思い返し、目を伏せる。
 昨夜遅く、とある企業の重役が、自殺した。原因は捜査中とのことだが、すぐに明らかになるだろう。
 その重役は、不正な資金繰りに関与していたのだ。そしてその証拠を、敵対企業に掴まれてしまった。個人の問題では済まされない。企業そのものにとっても、致命的な不祥事である。追い詰められたのだろう。
 何故そんなことを、蓮が知っているのか。簡単だ。その証拠である帳簿を盗み出し、敵対企業に手渡したのは、他ならぬ蓮自身だからである。
 蓮とて、世間知らずの子供ではない。それがどれだけ重大な意味を持つ行為なのか、そんなことは、充分に判っていた。その上で請け負ったのだ。金のために。
 さすがに、死人まで出ることは予想していなかった。しかしそんなことは、そう、何の言い訳にもならない。
 自分は、人の命を奪ったのだ。間接的にであれ、まぎれもなく。
 ―――許されることでは、ない。
 きつく唇を噛み締める。―――自分は、一体、何をしているのだろう。
 不意に、扉が開く音が耳に入った。はっと思案から我に返り、そちらを振り向く。
「……あ、……」
「おや」
 無断で礼拝堂に居た蓮に驚く様子もなく、その人物は柔らかく笑んだ。蓮は慌てて表情を作り、軽く一礼する。
「……ご無沙汰してます、神父様」
 蓮を拾い、育ててくれたその恩人は、そうですねと頷いた。その表情は記憶にあるものと変わらず善良で、それが今の蓮には、胸に痛い。
「元気にしていますか、蓮」
 はい、と答えようとして、声に詰まる。神父はそんな蓮に言葉を重ねようとはせず、かわりに、ヴァイオリンへと視線を移した。
「続けているんですね。好いことです」
 そうなのだろうか。蓮は答える言葉を持たない。
「君の音は、優しいですから」
 穏やかなその声に、蓮はかえって、重い痛みを与えられるような気分になる。
 ―――優しさなど。
 自分の犯した罪を知ったら、この穏やかな神父は、何を思い、何を言うだろうか。いや、もしかすると、既に勘付いているのかもしれない。この人は他人に優しく、そして機微に敏い。
 しばらく、静かな沈黙が落ちた。
 やがて神父が、ゆったりと口を開いた。
「一曲、弾いてくれませんか」
 予想外の言葉に、蓮は顔を上げる。
「……え?」
 神父は答えず、全てを見通すように、優しく目を細めた。
 蓮は少し迷ったが―――乞われるまま、弓を取った。少し震える、その手で。
 ゆるりと、穏やかな曲を奏でていく。
 その音は、普段のような、機械的なものではない。優しく美しい、聴く者の感動と郷愁を誘う、蓮の本来の旋律だ。
 目を閉じた。何も考えずに、ただ、糸を織るように、音を紡ぐ。夢を叶えるために穢れ続ける、その手で。

 それは、霊や妖を浄化させる鎮魂歌。
 そして哀しい、神への懺悔。




 演奏を終えると、神父は控えめに拍手した。
「綺麗な音色でした」
 蓮は答えず、少しだけ苦笑した。今の曲は、目の前のこの恩人のために演奏したものではない。それは多分、この人も判っているのだろう。
 神父は蓮ではなく、ヴァイオリンへ視線を置いている。よかった。今は、顔を見られたくない。
「君の音色は」
 神父は、痛いほど優しい声で言った。
「自由ですから」
 思わず、顔を上げる。神父はまだヴァイオリンを眺めていた。
 そして、続けた。
「君は、神の下ではなく、人の間で生きる自由を選んだ。それなら、自分の好きなことをしなさい。それが罪深いことであっても。その罪や罰は、少なくとも、我らが神が与えるものではない」
 神父は、ふっと蓮の顔を見た。その目は、やはり限りなく優しく、深い。
「君の鎮魂歌は、きっと」
 ―――きっと。
 続く言葉はなかった。神父は、ただ優しく笑んでいる。
 蓮は何も言わずに、頭を垂れた。

 この鎮魂歌は、―――きっと。