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<東京怪談ノベル(シングル)>


狂笛


 ひゅるり、
 ひゅうひゅう、

 今日は風が強い。
 店内のものが吹き飛ばないように、小さな古書店の店主は戸締りに気を配った。三度、窓と扉の閉まり具合を確認した。問題無し。
 古臭いが味のある、洋風の看板に標された店名は――『極光』。
 オーロラ。店と同じ名の白狼を従え、店主は古書店を後にした。入口のドアプレートは『CLOSE』を宣言中。

 ひぅうう、

 漆黒の髪は風に流すままにして、ステラ・ミラは歩き出す。
 白狼は、無言で彼女に従った。


 向かった先は、高峰心霊研究所である。
 研究所という看板には相応しくない、古びた洋館がそれだ。この異様で神秘的なたたずまいは、ステラの古書店『極光』に通じるものがある。ときに人を遠ざけ、その実、人を惹きつけてやまぬ。
 風に葉やチラシが弄ばれ、哀愁誘う音を立てながら、道と空を撫ぜてゆく――
 ここは、東京なのだろうか。
 しかし、ステラには意味のないことだ。おそらく、この研究所の主にとっても。ここが東京だろうが、夢の中だろうが、狂気山脈の只中であろうが、時間が生まれる前の世界であろうが、すべては不変で意味を成さない。
 ドアをノックし、ステラはしばらく返答を待った。
 待つ間、携えてきた数冊の古書をまじまじと眺めていた。
 『無銘祭祀書』。
 『アル・アジフ』。
 『ルルイエ異本』。
 いずれも原本である。21世紀の地球上には存在していないものだ。ステラ・ミラの掌中にのみ、この恐るべき魔道書は在る。特に、人皮で装丁された『アル・アジフ』の禍禍しさは群を抜いていた。ステラでさえ、扱いに気を使うほどだ。
「どうぞ」
 ドアが音もなく開き、ステラを迎え入れた。黒猫を抱いた、黒いドレスの女――高峰沙耶が立っていた。やはりその目を開かずに。
「お邪魔致します」
 ステラもまた微笑むこともなく、しかし礼節と気品に満ちた素振りで以って、高峰研究所の中へと入ったのである。
 風はこの後、音すらステラに届かせることが出来なくなった。


 研究所の中は無音であった。
 沙耶は目を閉じたまましずしずと歩き、ステラは応接間に通された。
 テーブルには、すでに紅茶が用意されていた。アールグレイの芳しい香りがステラを暖かく包み込む。
「きっと来ると思っていたわ」
 沙耶は猫の背を撫でながら、ソファーに腰を落ち着けた。ステラはカップの傍に呪われた古書を置くことを、束の間ためらう。しかしすぐにほぞを固め、テーブルに3冊の書を置きながら――ソファーに腰掛けた。
「それなら、用件もご存知でしょうね」
「ええ」
 沙耶は猫から片手を離すと、傍らにあった木箱を手に取り、テーブルに置いた。
 ステラは小さく頷くと、古びた木箱を開けた。
 中に詰まっていたのは――記憶であり、記録である。
 黒く渦巻く光と、白く強い光が混ざり合い、混沌の中に秩序を見出そうとしている。……それは、人間たちそのもの。
 ステラは目を細め、記憶と記録を辿る。

  フングルイ ムグルウナフ クトゥルフ ルルイエ ウガフナグル フタグン

  イア! イア! ハスタア! ウグ! ウグ! イア ハスタア クフルヤク……

  ぎゃはははははは、うひひひひひひひひ

  イア! シュブ=ニグラス!

  ぎるるるる。

  ひゅるり……

  フングルイ ムグルウナフ……

「……目覚めるというの?」
 ステラは高峰心霊研究所に、戻ってきた。
 木箱は開けたままにし、『アル・アジフ』を手に取る。人皮の表紙を開くと、ページはひとりでにめくられていき、慄然たる記述を露わにした。捻じ曲がった紋様のような文字が、ページをびっしりと覆っている。ただ見ているだけで目が回り、脳髄を掻き回されそうなおぞましさ。

  ≪其は永久に横たわる死者にあらず
   測り知れざる永劫のもとに死を超ゆる≫

「いずれは目覚めるものなのよ」
 沙耶は、事も無げに言い放った。東京も、果てはこの世も、彼女の知ったことではないのかもしれない。或いは、何が起きてもどうにかできる力を持っているからか――
「気づいているのは、この東京でもごく僅かですね」
「いつの時代もそう」
「――どうしようかしら」
 沙耶が、その言葉にぴくりと反応した。口元がかすかな笑みを浮かべた気さえする。
「貴方が、人間のために動くの?」
「ま、心外ですね」
 ステラは一瞬口をへの字に結んだが、すぐにいつもの仏頂面に戻った。
「でも、……そうですね。確かに沙耶様が疑問に思われても無理はないかしら。……私も、何故なのかわからないのですから」
「貴方は、世界の意味を知るために居る。世界を護るためでも、ましてや人間を護るためではない筈よね」
「その通りです」
 だが……。

 ひゅるるるぅ、

 重い沈黙を、オーロラが裂いた。床に寝そべって沙耶の腕の黒猫を見つめていた白狼は、やおら立ち上がり低く唸り始めたのである。

 ひぅぅゅぅうウうるるる、

 風だ――
 ――違う。

 ひゅるるるゅるるるルるぅ、

 笛の音だ。

 『アル・アジフ』が再び動いた。虫食いだらけのページはびーっと音を立てて送られていき、ぴたりと止まる。

  ≪星の彼方より呼びかける、這い寄る混沌の聲を聴くがよい≫

 応接間にあるすべてのものが、風に弄ばれ、また地響きに震えた。
 ステラ・ミラの長いしなやかな黒髪もまた、嬲られている。
 部屋の隅から笛の音が聞こえる。風にも似た狂気の調べだ。人間が創り出す如何なる吹奏楽器も、この高みには届かない。届いてはならないからだ。これは、神の調べである。
 肉色の塊が蠢き、触手を伸ばす。ごろり、と転がり、前進する。その異様な移動を見せつけつつも、かれらは笛を吹き続けていた。身をくねらせて躍ってもいた。
<久しいな……久しいな、ステラ・ミラ>
 笛の音をかきわけ、聲は囁く。
<あれは、いつぞやの記憶。汝はうつくしいまま。安堵した。汝は永久にうつくしい>
「嬉しいものですね。あなたに誉められたのだとしても、女である性でしょうか――私が美しいのならば、あなたもきっと美しいでしょう」
<ステラ・ミラ。手を引くがいい。そのうつくしさを汚したくないならば>

  ≪其は、時すらない頃に存在したものどもの仮面であり意思である≫

 勝てる相手ではない。勝負という概念を超えたところに居るものだ。宇宙の意思と創造力を統べるものなのだから。勝とうとは思わない。ステラ・ミラは勝負の意味を知っている。
「私を怒らせないで下さい、ナイアーラトテップ」
 言いながら、今にも飛びかからんとしている白狼を手で制する。
 笛の音に乗りて歩む者は、戸口のそばに立っていた。黒檀のような漆黒の皮膚を持ちながら、顔立ちは大理石のトルソのように端正な男だ。
 目だけが炎のように爛々と光っている。
 男はステラを見つめ、にい、と微笑んだ。無邪気で、狂気に満ちたおぞましい笑みだった。
 ステラが怒るはずもないことを、男は知っているのである。
「行きなさい、ナイアーラトテップ。あなたは踊っているべきでしょう。この星は今のところ、誰のものでもないのだから」
 だから、彼女は、神々の目覚めを良しとしないのか。それは彼女自身にもわからない。だがこれだけは言える。やつらが狂っていることを、彼女は知っているのだ。
 笛の音が小さくなった。
 音もなく、笛を吹く従者がふたりほど消し飛んだからだ。人間の陰秘学研究者が10人束になってもかなわない肉色の笛拭き――それは唐突に、時間と空間から消滅したのである。
<おお、さても、汝はうつくしい――>
 男は、男ではなくなっていた。この存在は、一時として同じ姿を保たない。例えようもない姿になったかと思えば、影になり、次の瞬間には黒檀の皮膚を持った男に変じる。整っているはずのその顔立ちを、記憶に留めておくことは出来ない。
 それが今、ステラ・ミラを脅している存在だ。
 人間が呼べる名はナイアーラトテップ。

 ひゅゅるるるるるゅゅゅゅゅゅぅ、

 ひぅぅぅうう――

 ごおっ、
 一陣の暴風を置き土産にして、顔無き神は去っていった。
 応接間の壁のタペストリーや、テーブルクロス、羊皮紙が舞い上がる。
 黒猫が瞬きした。
 沙耶が、いつの間にか伸ばしていた手を緩やかに引いた。彼女が手をどけたあとには、紅茶が入ったカップがあった。
「こぼれそうだったわ」
「わざわざすみませんね。折角ですから、いただいてから帰ります」
 ソファーに座ると、ステラはカップにようやく口をつけた。
「よかったら、スコーンも」
「有難うございます。……ラズベリー&クリームで」
「どうぞ」
 すでに、沙耶はスコーンの乗った皿をテーブルに置いていた。
 ステラはそっと『アル・アジフ』に手を伸ばし、しおりも挟まないままに、その本を閉じる。
 古びた本の匂いをかき消す紅茶の香りとスコーンの香ばしさを、ステラは心から味わった。

 白狼だけが、戸口を未だに睨みつけている。
 やつらは風の他に、もうひとつ置き土産をしていった。
 笛としか呼べない、あの楽器が落ちていた。


(了)