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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


Calling


■序■

 きっかけはリチャード・レイでありはしたものの、大したものではなかったのである。言うなれば、子供の廃屋探検のような。多少の危険がつきまとうのは確かだが、レイに同行したのはただの子供ばかりではなかった。
 つまるところ、これほど深刻な事態に陥るとは、誰もこの船に乗りこんだ時点で予想していなかったのである。

 茨城沖で一隻の貨物船が座礁した。
 貨物船とは言っても、小型のものだ。
 船名は『タイム』。どうも、ミクロネシア周辺で活動している船のようであったが――船名を『新メアリー・セレスト』とでも改めるべきか。
 船内には船員の姿がなかったのだ。
 いくつもの機関が調査に当たったが、船員の消息も、消えた理由も謎のままだった。だがメアリー・セレスト号と違うのは――よく知られているあの船の様相は、結局フィクションだったらしいが――明らかに荒らされた形跡があったところである。
 調査隊も手を引き始めた頃、月刊アトラスが動いた。
 麗香は偶然編集部に来ていたリチャード・レイや、その他の請負調査員たちに、タイム号の調査を依頼したのである。

 その話を聞き、小さな貨物船に乗りこむまで、彼らはただの幽霊船の調査だと信じて疑わなかった。
 だがタイム号に乗船し、その、胸がむかつく魚と澱みの臭いを嗅いだところで、一部の者は少しばかり後悔したのである。
 しかも、
 彼らが船内を探索し始めたところで、突然海は牙を剥き、タイム号を咥えこんだのである。目を凝らせば見えたはずの日本も、今や黒波と黒雲の向こうだった。
 ごうごうと荒れ狂う風と波の音の中から、妙にリズミカルな囁きが聞こえてくる――

 ふんぐルい むぐるウなふ くするう るるイえ ウがふなグる ふタぐん


■警告する岩■

 話はまず1日ほど遡る。
 リチャード・レイはふらりと月刊アトラス編集部に顔を出した。この男はいつもそうだ。まるで隣町にでも行くかのような気軽さで、イギリスから日本にやって来る。作家といえどもシドニィ・シェルダンやスティーヴン・キングではあるまいし、渡航費用はどう工面しているのだろうか。
 碇麗香もつい先日は、「日本に越したら?」と呆れていた。
 が、レイは珍しく微笑んでこう返したのだ、「問題が起きているのはニッポンだけではありませんから」、と。
 ただ、この日日本にやって来た理由は特にないようだった。何が危機に見舞われたわけでも、何かが現れる前兆があったというわけでもなかったらしい。単に様子を見に来ただけだった。
 それを知った麗香は、レイにひとつ仕事を頼んだのである。
 座礁船タイム号の調査であった。


 レイの呼びかけに応じて集まったのは――
「8人。皆さん、お暇でしたか?」
 意外と多かった。
 レイは目で人数を数えて、灰の目をぱちくりした。無表情な彼がこうした表情を見せると、どうも事は重大なのではないかと考えさせられてしまう。今の問題は、ただ単に人数が多かったというだけであるはずなのだが。
「……9人では?」
 突っ込んだのは、九尾桐伯である。無理もない。港に集まったのは――ファルナ・新宮が連れているメイドを入れると――10人。
 傍らのメイドに一行の視線が集まり、ファルナはほんわりと笑みを大きくした。
「あぁ、この子は人間ではございませんからー、レイさんも頭数に入れなかったのではと」
「このファルファさんは、ファルナさんがお作りになったゴーレムです」
 ファルナの間延びした答えを、天薙撫子が補う。当のメイドのファルファは――きろり、と目を動かして桐伯を見やっただけだった。
 それを聞いて桐伯は納得していたが、武神一樹はにやりとした笑顔をレイに向ける。
「作家さんだと聞いているが、魂のかたちを見極めることが出来るらしいな」
 う、とレイは確かにたじろいだ。
「……船の準備がどうなっているか、聞いてきます」
「あ、逃げましたよ」
 逃げるようにして(いや、言う通り逃げたに違いない)背を向けたレイを見て、草壁さくらがころころと笑った。鈴の音を転がすような笑い声には、しかし、狐のような意地悪さがほんのわずかに混じっていたようでもあった。
「そっとしといてやろうか」
「苛めたのは一樹様では」
「……楽しい舟遊びになりそうだな!」
「逃げましたね」

 レイが船を手配している間、海原みそのは海を眺めていた。
 潮の『流れ』が心地いい。いつも傍にある流れだ。家族であり、生活である。だが、今日の風は妙に冷たく、頬を切られそうなほどに鋭い。
 だが、その理由はわかっていた。
「奇遇ですね」
 星間信人。
 彼もまた、レイの誘いに乗ってきた。啓示でもあったのか、勘がそうさせたのか。ともあれ、彼はその笑顔の下の殺意を、みそのにだけは露骨に見せつけていた。
「ええ、星間様。本日もよろしくお願いしますね」
「僕とあなたと……レイさんに、武神さん。天薙さんもいる。何も起こらなければ良いのですがね?」
「わたくしたちがかれらを呼ぶわけではございませんわ」
「ふふ」
 何を偽善的な――そう言いたげな信人の含み笑い。
 しかしその狂悪な笑顔は、次の瞬間には消え去った。あっという間に、彼はいつもの人当たりのいい微笑みをかぶったのである。
 夏目怜司が、そばに来たからだ。
「……来るんじゃなかったかな」
 彼はその金眼で、遠く海原の向こうのタイム号を見つめ、そうこぼした。はからずも彼は、信人が予想している通りの未来を、タイム号に見たのである。
「何か、見えますのね」
 みそのの笑顔も、少しばかり困ったものになっていた。彼女にも、見えている。
「ああ、俺はいつもそうだ。見てからでないと、何もわからない」
「誰しもそういうものでしょう」
 信人は珍しく、他人を慰めた。
 いや、そんなことも知らないのかというのが、本音なのかもしれないが。


 タイム号は沖合1カイリにも満たない位置で身動きが取れなくなっていた。この辺りはそれほどの難所でもないが、あのタイム号が引っかかっているところだけに大きな岩場があるのだという。漁船を駆る船長が語った。
「急に現れたように見えるんだ。で、わざわざ迂回せにゃならん」
 若い猟師がたびたび船底を引っ掛けるらしい。
 あの岩は警鐘なのである。海で油断をするな、という。
 タイム号の様相がはっきりと見て取れるほどに近づいたとき、桐伯は船長に尋ねた。
「どう思われます? 船乗りの目には、どう映りますか」
「あの船かい?」
 船長は肩をすくめた。
「あんまり近づきたくねえなア。誰もいないってことだけでもイヤなもんだが……何だか……気味が悪いんだ」
「同感です」
 桐伯の目にも、タイム号はどこか不気味に映っていた。古い船舶であるらしく、ところどころに茶色の筋が垂れていた。
「それに、こいつが来てから水揚げが減ってなア」
 その言葉は、桐伯のみならず――甲板に上がっていた者たちを引きつけた。
「魚の量は多くなったみてエなんだ。なのに、上手いこと網を避けてくんだよ。誰かが魚に網場を教えてるみてエにな」
 それを、ただの奇妙な現象か、この船がもたらした災厄かと、一行は様々な受け止め方をしていた。ただひとり、ファルナ・新宮を除いては。……彼女は、酔っていた。


■魚の痕■

 タイム号は無言で9人を迎え入れた。岩礁にすっかり咥えこまれているこの船は、波を受けてもびくともしなかった。今日の海が穏やかであるせいもあるだろう。雲ひとつない青空が広がっていたし、9人を運んできた船長も、向こう3日は嵐になる様子がないと言い切っていた。
 碇麗香は『小さな貨物船』だと言っていたが、それは「貨物船にしては小さい」ということだったようだ。ここまで移動に使った漁船よりは数倍大きかった。
「ちょうどいい人数だったんじゃないか?」
「そのようです」
 怜司はレイに笑いかけた。レイもまた、幽霊船が事のほか大きかったことには驚いている様子だったからだ。
「……丸一日はかかりそうですね」
「2泊くらいまでなら、用意がありますよー」
「でも新宮様、船は苦手でしょう?」
「あう」
「ま、この船はあんまり揺れそうにないから大丈夫だろ」
 一樹は言いながら、ぐるりと周囲を見回した。
 ……星間信人の姿がなくなっていたのだ。黒い水着姿のみそのは、甲板のへりに座っている。一樹は女性陣で談笑しているさくらを連れ出すと、こっそり耳打ちした。
「星間は何かやらかすかもしれない。もし、あの黒髪の女の子と一緒になることがあったら――」
「はい、お任せ下さい」
 もちろん一樹もみそのと信人から目を離すつもりはないのだが、用心に越したことはないと思ったのだ。その用心深さは、彼の経験から来たものなのかもしれなかった。
「行きましょうか」
 レイの呼びかけに、ぞろぞろと7人は船内へのドア前に集まった。
 みそのは、ふと笑みを消して周囲を見回す。
 風が変わっていた。

 レイと一樹は、甲板から船内に入った途端に、少しだけこの船に乗ったことを後悔してしまった。先頭を歩いていたふたりは思わず顔を見合わせる。
「んあぁ、なんですかー、この臭い!」
「……そんな、まさか……」
 鼻を塞ぐファルナの横で、撫子の顔色も変わった。彼女は、以前にこの臭いを嗅いだことがある。この場で動じていないのはみそのただひとり。
 すん、と臭いを吸って、最後尾の桐伯と怜司も顔をしかめた。尤も、桐伯のその表情の変化は――この臭いが意味することを知っていたからこそのもの。
 それは、凝縮された魚の臭いであった。この船から漂うはずがない臭いだ。この船は、貨物船なのだから。厨房の近くであるならば、或いは有り得るだろうが――
 船内に充満する臭いは、悪意を持っているようだった。8人の身体にまとわりつき、捕らえ、離そうとはしない。


 すでに複数の機関の調査が入っているせいか、それとももともとそういった船であったのか、船内には興味を惹かれるものは残されていなかった。だが、船室の荒れ様はそのままにされているようだ。古びた粗末なベッドは、位置がずれていた。床の傷がそれを物語る。しかも毛布とマットは引き裂かれていて、あの悪臭を放つ液体で濡れていた。ただ奇妙なのは、荒らされた形跡があるだけで、争ったような跡はないことだった。
「何かを探していたのでしょうね」
 桐伯が導き出した答えに、行動を共にしていた怜司は頷いた。
「ちょっと、特技を使ってみる」
 怜司は軽く息をつき、眼鏡を外した。彼の金眼はそのとき、桐伯のものと同じ真紅に変わった。強い光もまた、桐伯と同じ。
 彼の瞳がとらえたのは――
「……!」
 息を呑み、思わず一歩よろめいて、怜司は目を覆った。後ろで控えていた桐伯にぶつからなければ、転倒していたかもしれない。桐伯は驚きながらも、ほとんど反射的に怜司を支えた。
「どうしました? ――何を見たのです?」
「過去を」
 怜司はやっと声を出した。
「……見るんじゃなかった」
「大丈夫ですか? 顔色が悪いです」
「……はは、医者の俺が具合を悪くしちゃ、笑い話にもならないな」
 怜司は見てしまったものを、そんな力ない冗句で忘れようとした。
 無駄だった。
 船窓の向こうからこちらを見ていたあの山吹色の目を、忘れることなど出来そうもない。おそらく、死ぬまで自分は覚えていなければならないのだ。――あれは、蛸の目だった。


■よびしろ■

 きっかけは、やはりレイであったのかもしれない。
 船長室とおぼしき部屋で、レイがその彫像を見つけてしまった。
 というのも、みそのが船長室に入るなり、じっと一点を見つめたまま動かなくなったからだった。レイはその視線を追っただけにすぎない。ということは、見つけてしまったのはレイではなく、みそのなのだろうか。どちらでもいいことだ。
 船長室は荒らされていた。吐き気を催す臭いは、この部屋が特にひどかった。ファルナも実は居たのだが、この部屋の臭いに中てられたか、或いは(あまり揺れてはいないが)また酔ったのか、「うっぷ」と口を押さえてよろよろと通路に戻ってしまったのである。
 一樹とさくらはふたりで船長室の調査を始めており、みそのの視線には気がつかなかった。
 みそのは流れを読んだのである。
 この空間は、彼女の縄張りのようなもの。彼女の力も強くなっている。
 分厚い鉛の箱すら通して、その力は元凶を突き止めた。
「……それは?」
 クローゼットの中からレイが取り出した箱を認めて、さくらが首を傾げた。
「ミソノさんが見つけてくれました」
「どういったものなんだ?」
 一樹はレイにではなく、みそのに尋ねた。
 みそのは口元に薄く笑みを湛えて、静かに言う。
「……あの方々にとっては、神聖なもの。そして神にとっては、必要なものです」
 鉛の箱には鍵がかけられていて、蓋はびくともしなかった。横30センチ、縦15センチほどの長方形の箱だ。鉛で出来ているせいもあるだろうが、かなりの重さだ。
 ノートの切れ端とおぼしき紙切れに、
『ポナペ沖にて引き上げ』
 とあり、箱に貼りつけられている。
 非常に無愛想な造りの箱だった。何の模様も細工も施されておらず、ただ鍵穴が蓋についているきりだ。
「鍵は海の底です」
 3人が問う前に、みそのは答えた。
「わたくしが身を置く神殿よりも、深いところに」
「――リチャード、俺は何となく――」
「ええ、開けてはいけない。わたしもそう思います」
 レイは張り詰めた表情で、その箱を机の上に置いた。

 船が、揺れた。


■呼びつけられた嵐■

 さくらが、はっとしたように顔を上げた。
 彼女はいち早く船長室を飛び出す。通路では、気分を悪くしたファルナを撫子が介抱していた。撫子はさくらの表情と今さっきの揺れから、非常事態が訪れたことを直感したようだった。
「――夏目様と九尾様を呼んできます!」
「お願いします!」
「うぅ、わたくしはここに居ますわ……」
 憐れファルナはその場に座りこみ、撫子は桐伯と怜司の元へと走った。
 船は揺れていた。風と波が、突如として牙を剥き始めたのである。
「……やったな、レイ」
「……やはりわたしでしょうか」
 レイと一樹は、呆然と鉛の箱を見つめていた。
 箱が、呼び寄せている。
 嵐と――水と――深みに住まうものどもを。
「その箱をお渡しになればよいのです」
 みそのが事も無げにそう言い切った。
「戯事を」
 レイがぴしゃりと跳ね除ける。変わってしまった口調に慌てて肩をすくめ、彼は言い直した。
「ご冗談を。渡したところで我々を帰してくれる相手だとは思えません」
「……なあ、あんた、この状況でも芝居を続ける必要性はあるのか?」
 一樹もみそのも気づいている。
 自分たちの前に居る灰色の男が、リチャード・レイではないことなど。
「癖にしなければ会話の中で思わず出てしまうではありませんか、今のように」
 レイが妙な言い訳をしたそのとき、ようやく撫子が桐伯と怜司を連れて戻ってきた。怜司の顔色は真っ青だったが、最早誰もそのことには触れなかった。
「星間様がどこにもいらっしゃいません!」
「あいつは気にするな!」
 一樹は撫子を半ば怒鳴りつけると、通路でうずくまっているファルナを抱え上げて、船長室に入れた。メイドのファルファは命じられる前に、無言で中に入ってきた。かりそめの自我がそうさせたのか、マスターについて歩いただけなのかは定かではない。
 最後に入った桐伯が、ドアを閉めた。
 船は、ぎいぎいと軋むような音を立て始めていた。


 まだ、時間はありそうだ。
 鉛の箱を、全員が囲んだ。
「――中に入っているのは」
 箱を見つめて、怜司が呻く。
「さっき、俺が見たものだ」
 彼の瞳は赤い光を放っている。
 蛸。翼。触腕。鱗。
 目。
「台座に妙な文字が彫られてる。……鉛はこういう力も通しにくいらしいからな……よく見えない。でも、形は……ぼんやりとしてるが……気味の悪い化物だよ」
「どんな?」
「顔が蛸なんだ」
 怜司がそう言った途端、一樹とレイと桐伯が「あああ」と声を揃えて呻き声を上げた。
「おそらく文字は、『フングルイ ムグルウナフ クトゥルフ ルルイエ ウガフナグル フタグン』ですわ」
 鉛の箱を見つめながら、みそのがすらすらと呪文のようなものを唱えた。
「……聞き覚えがあります」
 撫子が持参してきた竹刀ケースを抱き寄せた。
「あのう……それが問題なのでしたらー、海に捨ててはどうでしょうか?」
 臭いと揺れにすでに殺されそうなファルナではあったが、芯は冷静であるらしく、青い顔で話に加わってきた。一樹は頭を抱えた。
「なるべくそうしたくないからこうして話し合ってるんだろう」
「それに、渡したとしても、わたくしたちが無事に陸に戻れる保証はない……ということですのね」
「しかし、信徒はともかく、神を退けられるでしょうか」
「……脱出する方法を考えましょう。これを持って」
「難しい話だな」
 がつん、
 その音に、全員の目が動いた。
 ドアに、何かがぶつかった。
 波の音に混じり、リズミカルな唸り声も聞こえてきている。

  ふんぐルい むぐるウなふ くするう るるイえ ウがふなグる ふタぐん

 船窓から見えるのは、黒波と黒雲と稲妻であった。目を凝らせば見えたはずの日本は最早どこにもない。ここが茨城沖なのかどうかもわからなかった。

 がつん、

「ここを生きて出よう」



■生命線■

 船長室に、やつらがなだれ込んだ瞬間だった。
 蛙のような顔をした異形たちは、ついにドアを破って室内に侵入した。目蓋のない黒い瞳には冷ややかさだけがあった。緑とも青ともつかない色の身体は、鱗に覆われていながらもゴム状で、ぬらぬらと光っていた。
 ひどい臭いだった。魚臭いと言えば、港の魚市もそうだろうが――あの生活感に溢れた匂いではなかった。水槽に入れた魚の屍骸を、日陰に置きっぱなしにしたかのようだ。
 黒々とした瞬きもしない瞳が周囲をねめ回し、
 そのとき部屋の片隅で、赤い瞳と緑の瞳がかち合った。
 ずばっ、
 薄暗い室内が炎に照らされる。
 それは草壁さくらと九尾桐伯の力であった。人間の骨を焼き尽くすほどの炎は、船長室の壁を舐め、たちまち溶かしてしまった。
 壁に出来た穴を、物も言わずにレイが通り抜ける。右の脇には鉛の箱、左の脇には海原みそのを抱えて。この作家は痩せぎすだったが、かなりの力を持っていた。
 船長室の隣室には、魚人の姿はなかった。
 だが、代わりに――
「見るな!!」
 レイが、船窓の向こうを見るなりそう叫んだ。その瞳が紫色に光っているのを、穴をくぐり抜けたさくらと桐伯は見た。その光に釘付けになったお陰で、船窓を見ずに済んだ。
「窓を、見るな!!」
 そう、窓の向こうにやつが居た。
 魚人などという生易しいものではなかった。
 巨大な目が覗いている、
 蛸の、
 山吹色の、
 瞳孔は横たわり、
 感情をひとつも持ち合わせていない目が、船窓から中を覗きこんでいた。
 嵐とともに、その存在は咆哮した。いや、ひょっとすると、嵐そのものが咆哮なのか。口にあたる部位についた触腕が蠢いていた。
 それは、人間が見るべきものではない。
 さくらは――この場では、ただの骨董品屋の店員だと言い張っていたが――窓の向こうの姿を見て、身を強張らせ、軽く悲鳴を上げただけだった。それは暗に、彼女の正体を皆に伝える結果となった。さくらは、人間ではない何かだ。誰も今はそのことを口には出さなかったが。
「神が……出てきたと?!」
 船窓から目を背け、桐伯は思わず叫んだ。そうしなければ、咆哮に声がかき消されていた。
「違いますわ」
 レイに抱かれているみそのが、船窓を見つめながら――彼女の目は、実際には何も見てはいないのだ――答える。
「あの方は、神子です」
「落とし子か! おのれ……」
 紫の瞳のレイが、ぎりぎりと歯を食いしばる。
 甲板には、ボートがあった。敵が深みより現れた者どもだけだったならば、一方で引きつけておくことが出来る。その可能性に賭けたのだ。ボートは船尾と船首に2艘ずつあったのだ。
 山吹色の目はぎろりと4人を捉えた。
 さくらが獣のような唸り声を上げてその瞳を睨み返したが、その唸りを他の3人が聞くことはなかった。嵐の叫びにかき消されていたからだ。
 咆哮によって小さな船窓が割れ、波飛沫が入り込んできた。
 逃げ場はないが、船長室に戻るわけにはいかない。
「甲板へ!」
「正気か?!」
「策があります!」
 桐伯は糸を取り出した。それは、いつも彼が使っているものではない。天薙撫子から借り受けた、妖斬鋼糸。神の糸だ。
 ああ、この地球には、一体どれほどの神が居るのだろう。
 蛸に似た顔を持つ神子は、タイム号に組みついた。


■呼び声■

<……せ>
 人間の意識をかき消すほどの思念が乱れ飛ぶ。
<わたせ>
 座礁していたはずの船は、今や海原の只中にあった。流されたのか、まだ茨城の沖合に在るのかわからない。見えるのは黒雲と、黒波と、禍禍しい神子の姿だけだ。
<ちちの偶像を……わたせ>
 桐伯は、目を閉じていた。この声を聞いているだけでも意識が弾け飛びそうだというのに、この目で見てしまったらどうなるだろうか。それを考えただけで、恐ろしい。恐ろしさのあまりに気が狂う。
 やつを見据えられるのは、巫女や、真理に触れた魔術師や、妖や――狂人だ。

『我が声途絶えることも無し! 我が魂の歌途絶えることも無し!
 謳われることなく滅ぶべきは、我が神/我の御前に座するものども!
 涙流されぬままに涸れ果てよ!
 かの地かの星かのカルコサの如く!』

 明らかに、それまで吹き荒れていたものとは違う風が吹いた。乾いた、砂を吹きつけるような無慈悲の風だ。頬を切り、波を割り、神子をわずかに怯ませた。
「……星間様!」
 今まで姿を消していた男が、風の中に居たのだ。その男は余裕の笑みを浮かべていた。神子を見下ろすその瞳は憎悪に満ち、蔑み、怒りさえ湛えているようだ。しかし、口元には歪んだ笑みを浮かべているのである。
「ふふ……汚らわしい魚の臭いを避けて待っていましたが……まさか、忌まわしい落とし子まで現れるとは。主に感謝せねばなりません。このような――機会を与えてくださったことに!」
 彼は普段は白手袋で隠しているその印を、最早隠そうともしなかった。呪われた左手をかざし、嵐をかき消す風を呼び起こす。神子は髭じみた触腕をわななかせ、風から目を覆った。
<おのれ……ハリの囚神……その、隷如きが……>
「その言葉、そのまま返して差し上げましょうか? ――水の子如きが」
 信人は右手を打ち振った。
 神子が長々とした悲鳴を上げた。山吹色の左目を、ナイフが破ったのだ。乾いた風の力が込められていた。
「……出来ました!」
 桐伯が声を上げた。彼の力が、円を描くようにして甲板に敷かれた妖斬鋼糸を燃え上がらせる。
 炎によって浮かび上がった印を見て、みそのがわずかに息を呑む。だがすぐに微笑んで、桐伯に向かって頷いてみせた。
「お手伝い致しますわ」
 それは、神を封じる印であった。神が恐れている『神』のシンボルだ。みそのは慣れた調子で、右手をかざし、親指と小指を折った。
 ――ここは、わたくしの仕える神が眠る地でもあります。……おしずかに。
 この世のものではない言葉が紡がれた。
 おおおおおおおおぉぉおおおおっ、
 嵐の中に浮かんだ印と、焼けつくようなみそのの『詞』に、神子は悶えた。左目から迸る血は、ばしゃばしゃと海面に落ち、穢れた飛沫を生み出す。
<ちちよ! ちちよ! ちちよ!>
 それでも、子は子であったのか。
 親に助けを求めながら、神子は仰向けに倒れ――
 ざぼおん、と海へと沈んだ。

 神子が生み出した水飛沫が、豪雨の如く甲板に降り注ぐ。
 その嵐に紛れて、甲板に降り立っていた信人が動いた。感慨深げに、神子が居た海原をみつめていたみそのに手をかざし――
「おやめなさい!」
 一樹の頼みを、さくらは忘れたわけではなかった。咄嗟に、傍にあった救命具を信人に投げつけたのだ。
 虚を突かれたが、信人は冷静に動いた。詠唱をやめ、飛んできた救命具をかわしたのだ。だが、突風だけは吹いた。
「あ」
 みそのの身体は風に押され、濡れた甲板を滑り、海に落ちかけ――レイが咄嗟に手を伸ばして、彼女が海に落下するのを防いだ。
「あなたは、何を?!」
 驚く桐伯を、信人は嘲笑った。
「邪魔が入りましたか。まあ、いいでしょう。武神さんと同じ――何度でも、お会いできるでしょうからね。次は、これほど人数が多くなければいいのですが」
 くつくつと笑いながら、信人は印のついた手を伸ばした。
 空から、羽根を持ったやかましい生物が飛来してきた。蜂のようで、鳥のような、異様な存在だ。それはぎゃあぎゃあと喚きながら、信人を掴むと――空へ、飛び去っていった。
 空――
 そうだ。雲が殆ど消えていた。
 あれほど荒れ狂っていた波も静まり、雨は当然のように止み、星と月さえ見えていた。
 そして、かすかに陸地も見えた。恋しい電灯が瞬いていた。

 感傷に浸っていられたのは、ほんの僅かな間であった。船が再び揺れたのだ。
 今度は、爆発音とともに。


■いつかかならずとりもどしにゆくぞ■

 タイム号は、茨城の沖に沈んだ。
 乗り上げていた岩礁からは、遥か1カイリ離れていた。それほどの距離を流されていたのである。しかも、はっきり、南へと。あのまま何もしなければ、ポナペにでも流れついていただろうか。
 茨城の沖にも、神の眷属は眠っていた。
 この分だと釧路沖にも東京湾にも居るのではないか、そんなぞっとしないことを考えてしまう。
 タイム号が上げた狼煙のおかげで、周辺をぼんやり漂っていた8人のボートはすぐに発見され、救出された。沿岸警備隊からはきついお叱りを食らったが、とりあえず責任は碇麗香に押しつけてみることにした。そもそもの発端は、レイではなく、碇麗香なのかもしれないと思ったものがいたからである。

 鉛の箱は、一樹が神宝による封印を施しておいた。誰も、中を見ようとは言い出さなかった。鍵はないが、鉛なのだから容易に溶ける。開ける方法はいくらでもあった。桐伯やさくらの力を使えば、ボートの上でも中身を検めることは出来たのだ。
 しかし、とりあえず、海から遠く離れたところで保管するに限る。
 今はリチャード・レイが持っているが、ひょっとすると一番安全な保管場所は――星間信人の元かもしれない。


「さて、次の機会は……いつになりますかね……主よ、お導きください。必ずや、汚らわしい水のものどもを滅し――貴方を、ハリより解放致します」
 くくく。


(了)


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)        ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0134/草壁・さくら/女/999/骨董品屋『櫻月堂』店員】
【0158/ファルナ・新宮/女/16/ゴーレムテイマー】
【0173/武神・一樹/男/30/骨董屋『櫻月堂』店長】
【0328/天薙・撫子/女/18/大学生(巫女)】
【0332/九尾・桐伯/男/27/バーテンダー】
【0377/星間・信人/男/32/私立第三須賀杜爾区大学の図書館司書】
【1388/海原・みその/女/13/深淵の巫女】
【1553/夏目・怜司/男/27/開業医】

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■         ライター通信                ■
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 モロクっちです。お待たせ致しました!
 クトゥルフ大イベント(嫌なイベントかも……)『Calling』をお届けします。これが第1弾となればいいと思っています……が……大変でした。やはり8人ともなると話が膨らみますね。
 今回の敵は深きもの及びクトゥルフの落とし子でした。クトゥルフ本人(本神?)ではありません。あの御方がお目覚めになった場合は、『東京怪談』の全PCで立ち向かってもらわねばなりません(笑)。ん……じゃ、アザトース様が出て来たときはどうしたらいいんでしょうか……。あ、あまり考えないでおきましょう!

 本作品は分割されており、船内で異常が起きてからのストーリーがふたつでは若干違います。お時間がございましたら、2つ合わせてお読み下さいませ。
 今回は皆さんプレイングで「二手にわかれる」として下さった方が多く、モロクっちはホッとしました。最初から二手に分割するつもりでしたので(笑)。

 それでは、皆様にとってもこのシナリオが大イベントであれば、と思います。楽しんでいただければ幸いです。
 ご縁があれば、またお会い致しましょう。