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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


Calling


■序■

 きっかけはリチャード・レイでありはしたものの、大したものではなかったのである。言うなれば、子供の廃屋探検のような。多少の危険がつきまとうのは確かだが、レイに同行したのはただの子供ばかりではなかった。
 つまるところ、これほど深刻な事態に陥るとは、誰もこの船に乗りこんだ時点で予想していなかったのである。

 茨城沖で一隻の貨物船が座礁した。
 貨物船とは言っても、小型のものだ。
 船名は『タイム』。どうも、ミクロネシア周辺で活動している船のようであったが――船名を『新メアリー・セレスト』とでも改めるべきか。
 船内には船員の姿がなかったのだ。
 いくつもの機関が調査に当たったが、船員の消息も、消えた理由も謎のままだった。だがメアリー・セレスト号と違うのは――よく知られているあの船の様相は、結局フィクションだったらしいが――明らかに荒らされた形跡があったところである。
 調査隊も手を引き始めた頃、月刊アトラスが動いた。
 麗香は偶然編集部に来ていたリチャード・レイや、その他の請負調査員たちに、タイム号の調査を依頼したのである。

 その話を聞き、小さな貨物船に乗りこむまで、彼らはただの幽霊船の調査だと信じて疑わなかった。
 だがタイム号に乗船し、その、胸がむかつく魚と澱みの臭いを嗅いだところで、一部の者は少しばかり後悔したのである。
 しかも、
 彼らが船内を探索し始めたところで、突然海は牙を剥き、タイム号を咥えこんだのである。目を凝らせば見えたはずの日本も、今や黒波と黒雲の向こうだった。
 ごうごうと荒れ狂う風と波の音の中から、妙にリズミカルな囁きが聞こえてくる――

 ふんぐルい むぐるウなふ くするう るるイえ ウがふなグる ふタぐん


■警告する岩■

 話はまず1日ほど遡る。
 リチャード・レイはふらりと月刊アトラス編集部に顔を出した。この男はいつもそうだ。まるで隣町にでも行くかのような気軽さで、イギリスから日本にやって来る。作家といえどもシドニィ・シェルダンやスティーヴン・キングではあるまいし、渡航費用はどう工面しているのだろうか。
 碇麗香もつい先日は、「日本に越したら?」と呆れていた。
 が、レイは珍しく微笑んでこう返したのだ、「問題が起きているのはニッポンだけではありませんから」、と。
 ただ、この日日本にやって来た理由は特にないようだった。何が危機に見舞われたわけでも、何かが現れる前兆があったというわけでもなかったらしい。単に様子を見に来ただけだった。
 それを知った麗香は、レイにひとつ仕事を頼んだのである。
 座礁船タイム号の調査であった。


 レイの呼びかけに応じて集まったのは――
「8人。皆さん、お暇でしたか?」
 意外と多かった。
 レイは目で人数を数えて、灰の目をぱちくりした。無表情な彼がこうした表情を見せると、どうも事は重大なのではないかと考えさせられてしまう。今の問題は、ただ単に人数が多かったというだけであるはずなのだが。
「……9人では?」
 突っ込んだのは、九尾桐伯である。無理もない。港に集まったのは――ファルナ・新宮が連れているメイドを入れると――10人。
 傍らのメイドに一行の視線が集まり、ファルナはほんわりと笑みを大きくした。
「あぁ、この子は人間ではございませんからー、レイさんも頭数に入れなかったのではと」
「このファルファさんは、ファルナさんがお作りになったゴーレムです」
 ファルナの間延びした答えを、天薙撫子が補う。当のメイドのファルファは――きろり、と目を動かして桐伯を見やっただけだった。
 それを聞いて桐伯は納得していたが、武神一樹はにやりとした笑顔をレイに向ける。
「作家さんだと聞いているが、魂のかたちを見極めることが出来るらしいな」
 う、とレイは確かにたじろいだ。
「……船の準備がどうなっているか、聞いてきます」
「あ、逃げましたよ」
 逃げるようにして(いや、言う通り逃げたに違いない)背を向けたレイを見て、草壁さくらがころころと笑った。鈴の音を転がすような笑い声には、しかし、狐のような意地悪さがほんのわずかに混じっていたようでもあった。
「そっとしといてやろうか」
「苛めたのは一樹様では」
「……楽しい舟遊びになりそうだな!」
「逃げましたね」

 レイが船を手配している間、海原みそのは海を眺めていた。
 潮の『流れ』が心地いい。いつも傍にある流れだ。家族であり、生活である。だが、今日の風は妙に冷たく、頬を切られそうなほどに鋭い。
 だが、その理由はわかっていた。
「奇遇ですね」
 星間信人。
 彼もまた、レイの誘いに乗ってきた。啓示でもあったのか、勘がそうさせたのか。ともあれ、彼はその笑顔の下の殺意を、みそのにだけは露骨に見せつけていた。
「ええ、星間様。本日もよろしくお願いしますね」
「僕とあなたと……レイさんに、武神さん。天薙さんもいる。何も起こらなければ良いのですがね?」
「わたくしたちがかれらを呼ぶわけではございませんわ」
「ふふ」
 何を偽善的な――そう言いたげな信人の含み笑い。
 しかしその狂悪な笑顔は、次の瞬間には消え去った。あっという間に、彼はいつもの人当たりのいい微笑みをかぶったのである。
 夏目怜司が、そばに来たからだ。
「……来るんじゃなかったかな」
 彼はその金眼で、遠く海原の向こうのタイム号を見つめ、そうこぼした。はからずも彼は、信人が予想している通りの未来を、タイム号に見たのである。
「何か、見えますのね」
 みそのの笑顔も、少しばかり困ったものになっていた。彼女にも、見えている。
「ああ、俺はいつもそうだ。見てからでないと、何もわからない」
「誰しもそういうものでしょう」
 信人は珍しく、他人を慰めた。
 いや、そんなことも知らないのかというのが、本音なのかもしれないが。


 タイム号は沖合1カイリにも満たない位置で身動きが取れなくなっていた。この辺りはそれほどの難所でもないが、あのタイム号が引っかかっているところだけに大きな岩場があるのだという。漁船を駆る船長が語った。
「急に現れたように見えるんだ。で、わざわざ迂回せにゃならん」
 若い猟師がたびたび船底を引っ掛けるらしい。
 あの岩は警鐘なのである。海で油断をするな、という。
 タイム号の様相がはっきりと見て取れるほどに近づいたとき、桐伯は船長に尋ねた。
「どう思われます? 船乗りの目には、どう映りますか」
「あの船かい?」
 船長は肩をすくめた。
「あんまり近づきたくねえなア。誰もいないってことだけでもイヤなもんだが……何だか……気味が悪いんだ」
「同感です」
 桐伯の目にも、タイム号はどこか不気味に映っていた。古い船舶であるらしく、ところどころに茶色の筋が垂れていた。
「それに、こいつが来てから水揚げが減ってなア」
 その言葉は、桐伯のみならず――甲板に上がっていた者たちを引きつけた。
「魚の量は多くなったみてエなんだ。なのに、上手いこと網を避けてくんだよ。誰かが魚に網場を教えてるみてエにな」
 それを、ただの奇妙な現象か、この船がもたらした災厄かと、一行は様々な受け止め方をしていた。ただひとり、ファルナ・新宮を除いては。……彼女は、酔っていた。


■魚の痕■

 タイム号は無言で9人を迎え入れた。岩礁にすっかり咥えこまれているこの船は、波を受けてもびくともしなかった。今日の海が穏やかであるせいもあるだろう。雲ひとつない青空が広がっていたし、9人を運んできた船長も、向こう3日は嵐になる様子がないと言い切っていた。
 碇麗香は『小さな貨物船』だと言っていたが、それは「貨物船にしては小さい」ということだったようだ。ここまで移動に使った漁船よりは数倍大きかった。
「ちょうどいい人数だったんじゃないか?」
「そのようです」
 怜司はレイに笑いかけた。レイもまた、幽霊船が事のほか大きかったことには驚いている様子だったからだ。
「……丸一日はかかりそうですね」
「2泊くらいまでなら、用意がありますよー」
「でも新宮様、船は苦手でしょう?」
「あう」
「ま、この船はあんまり揺れそうにないから大丈夫だろ」
 一樹は言いながら、ぐるりと周囲を見回した。
 ……星間信人の姿がなくなっていたのだ。黒い水着姿のみそのは、甲板のへりに座っている。一樹は女性陣で談笑しているさくらを連れ出すと、こっそり耳打ちした。
「星間は何かやらかすかもしれない。もし、あの黒髪の女の子と一緒になることがあったら――」
「はい、お任せ下さい」
 もちろん一樹もみそのと信人から目を離すつもりはないのだが、用心に越したことはないと思ったのだ。その用心深さは、彼の経験から来たものなのかもしれなかった。
「行きましょうか」
 レイの呼びかけに、ぞろぞろと7人は船内へのドア前に集まった。
 みそのは、ふと笑みを消して周囲を見回す。
 風が変わっていた。

 レイと一樹は、甲板から船内に入った途端に、少しだけこの船に乗ったことを後悔してしまった。先頭を歩いていたふたりは思わず顔を見合わせる。
「んあぁ、なんですかー、この臭い!」
「……そんな、まさか……」
 鼻を塞ぐファルナの横で、撫子の顔色も変わった。彼女は、以前にこの臭いを嗅いだことがある。この場で動じていないのはみそのただひとり。
 すん、と臭いを吸って、最後尾の桐伯と怜司も顔をしかめた。尤も、桐伯のその表情の変化は――この臭いが意味することを知っていたからこそのもの。
 それは、凝縮された魚の臭いであった。この船から漂うはずがない臭いだ。この船は、貨物船なのだから。厨房の近くであるならば、或いは有り得るだろうが――
 船内に充満する臭いは、悪意を持っているようだった。8人の身体にまとわりつき、捕らえ、離そうとはしない。


 すでに複数の機関の調査が入っているせいか、それとももともとそういった船であったのか、船内には興味を惹かれるものは残されていなかった。だが、船室の荒れ様はそのままにされているようだ。古びた粗末なベッドは、位置がずれていた。床の傷がそれを物語る。しかも毛布とマットは引き裂かれていて、あの悪臭を放つ液体で濡れていた。ただ奇妙なのは、荒らされた形跡があるだけで、争ったような跡はないことだった。
「何かを探していたのでしょうね」
 桐伯が導き出した答えに、行動を共にしていた怜司は頷いた。
「ちょっと、特技を使ってみる」
 怜司は軽く息をつき、眼鏡を外した。彼の金眼はそのとき、桐伯のものと同じ真紅に変わった。強い光もまた、桐伯と同じ。
 彼の瞳がとらえたのは――
「……!」
 息を呑み、思わず一歩よろめいて、怜司は目を覆った。後ろで控えていた桐伯にぶつからなければ、転倒していたかもしれない。桐伯は驚きながらも、ほとんど反射的に怜司を支えた。
「どうしました? ――何を見たのです?」
「過去を」
 怜司はやっと声を出した。
「……見るんじゃなかった」
「大丈夫ですか? 顔色が悪いです」
「……はは、医者の俺が具合を悪くしちゃ、笑い話にもならないな」
 怜司は見てしまったものを、そんな力ない冗句で忘れようとした。
 無駄だった。
 船窓の向こうからこちらを見ていたあの山吹色の目を、忘れることなど出来そうもない。おそらく、死ぬまで自分は覚えていなければならないのだ。――あれは、蛸の目だった。


■よびしろ■

 きっかけは、やはりレイであったのかもしれない。
 船長室とおぼしき部屋で、レイがその彫像を見つけてしまった。
 というのも、みそのが船長室に入るなり、じっと一点を見つめたまま動かなくなったからだった。レイはその視線を追っただけにすぎない。ということは、見つけてしまったのはレイではなく、みそのなのだろうか。どちらでもいいことだ。
 船長室は荒らされていた。吐き気を催す臭いは、この部屋が特にひどかった。ファルナも実は居たのだが、この部屋の臭いに中てられたか、或いは(あまり揺れてはいないが)また酔ったのか、「うっぷ」と口を押さえてよろよろと通路に戻ってしまったのである。
 一樹とさくらはふたりで船長室の調査を始めており、みそのの視線には気がつかなかった。
 みそのは流れを読んだのである。
 この空間は、彼女の縄張りのようなもの。彼女の力も強くなっている。
 分厚い鉛の箱すら通して、その力は元凶を突き止めた。
「……それは?」
 クローゼットの中からレイが取り出した箱を認めて、さくらが首を傾げた。
「ミソノさんが見つけてくれました」
「どういったものなんだ?」
 一樹はレイにではなく、みそのに尋ねた。
 みそのは口元に薄く笑みを湛えて、静かに言う。
「……あの方々にとっては、神聖なもの。そして神にとっては、必要なものです」
 鉛の箱には鍵がかけられていて、蓋はびくともしなかった。横30センチ、縦15センチほどの長方形の箱だ。鉛で出来ているせいもあるだろうが、かなりの重さだ。
 ノートの切れ端とおぼしき紙切れに、
『ポナペ沖にて引き上げ』
 とあり、箱に貼りつけられている。
 非常に無愛想な造りの箱だった。何の模様も細工も施されておらず、ただ鍵穴が蓋についているきりだ。
「鍵は海の底です」
 3人が問う前に、みそのは答えた。
「わたくしが身を置く神殿よりも、深いところに」
「――リチャード、俺は何となく――」
「ええ、開けてはいけない。わたしもそう思います」
 レイは張り詰めた表情で、その箱を机の上に置いた。

 船が、揺れた。


■呼びつけられた嵐■

 さくらが、はっとしたように顔を上げた。
 彼女はいち早く船長室を飛び出す。通路では、気分を悪くしたファルナを撫子が介抱していた。撫子はさくらの表情と今さっきの揺れから、非常事態が訪れたことを直感したようだった。
「――夏目様と九尾様を呼んできます!」
「お願いします!」
「うぅ、わたくしはここに居ますわ……」
 憐れファルナはその場に座りこみ、撫子は桐伯と怜司の元へと走った。
 船は揺れていた。風と波が、突如として牙を剥き始めたのである。
「……やったな、レイ」
「……やはりわたしでしょうか」
 レイと一樹は、呆然と鉛の箱を見つめていた。
 箱が、呼び寄せている。
 嵐と――水と――深みに住まうものどもを。
「その箱をお渡しになればよいのです」
 みそのが事も無げにそう言い切った。
「戯事を」
 レイがぴしゃりと跳ね除ける。変わってしまった口調に慌てて肩をすくめ、彼は言い直した。
「ご冗談を。渡したところで我々を帰してくれる相手だとは思えません」
「……なあ、あんた、この状況でも芝居を続ける必要性はあるのか?」
 一樹もみそのも気づいている。
 自分たちの前に居る灰色の男が、リチャード・レイではないことなど。
「癖にしなければ会話の中で思わず出てしまうではありませんか、今のように」
 レイが妙な言い訳をしたそのとき、ようやく撫子が桐伯と怜司を連れて戻ってきた。怜司の顔色は真っ青だったが、最早誰もそのことには触れなかった。
「星間様がどこにもいらっしゃいません!」
「あいつは気にするな!」
 一樹は撫子を半ば怒鳴りつけると、通路でうずくまっているファルナを抱え上げて、船長室に入れた。メイドのファルファは命じられる前に、無言で中に入ってきた。かりそめの自我がそうさせたのか、マスターについて歩いただけなのかは定かではない。
 最後に入った桐伯が、ドアを閉めた。
 船は、ぎいぎいと軋むような音を立て始めていた。


 まだ、時間はありそうだ。
 鉛の箱を、全員が囲んだ。
「――中に入っているのは」
 箱を見つめて、怜司が呻く。
「さっき、俺が見たものだ」
 彼の瞳は赤い光を放っている。
 蛸。翼。触腕。鱗。
 目。
「台座に妙な文字が彫られてる。……鉛はこういう力も通しにくいらしいからな……よく見えない。でも、形は……ぼんやりとしてるが……気味の悪い化物だよ」
「どんな?」
「顔が蛸なんだ」
 怜司がそう言った途端、一樹とレイと桐伯が「あああ」と声を揃えて呻き声を上げた。
「おそらく文字は、『フングルイ ムグルウナフ クトゥルフ ルルイエ ウガフナグル フタグン』ですわ」
 鉛の箱を見つめながら、みそのがすらすらと呪文のようなものを唱えた。
「……聞き覚えがあります」
 撫子が持参してきた竹刀ケースを抱き寄せた。
「あのう……それが問題なのでしたらー、海に捨ててはどうでしょうか?」
 臭いと揺れにすでに殺されそうなファルナではあったが、芯は冷静であるらしく、青い顔で話に加わってきた。一樹は頭を抱えた。
「なるべくそうしたくないからこうして話し合ってるんだろう」
「それに、渡したとしても、わたくしたちが無事に陸に戻れる保証はない……ということですのね」
「しかし、信徒はともかく、神を退けられるでしょうか」
「……脱出する方法を考えましょう。これを持って」
「難しい話だな」
 がつん、
 その音に、全員の目が動いた。
 ドアに、何かがぶつかった。
 波の音に混じり、リズミカルな唸り声も聞こえてきている。

  ふんぐルい むぐるウなふ くするう るるイえ ウがふなグる ふタぐん

 船窓から見えるのは、黒波と黒雲と稲妻であった。目を凝らせば見えたはずの日本は最早どこにもない。ここが茨城沖なのかどうかもわからなかった。

 がつん、

「ここを生きて出よう」


■生命線■

 蛙のような顔をした異形たちが、ついにドアを破って室内に侵入してきた。目蓋のない黒い瞳には冷ややかさだけがあった。緑とも青ともつかない色の身体は、鱗に覆われていながらもゴム状で、ぬらぬらと光っている。
 そして、この悪臭。「うっぷ」という、若い女の呻き声があった。
 がはあ、うはあと息を吐きながらも、時折あの呪文を呟く。
 くするう、くするう、るるいえ、ふたぐん――
 ずばっ、と室内が明るくなった。炎が上がったのだ。紅蓮の炎は部屋の隅で生まれていた。黒々とした瞳は一斉にその火を見つめたが、
「何を探しているんだ?」
 男の声に、ざっ、と再び魚人たちの首が動いた。黒い瞳は今や炎ではなく、燃えるような赤い目を真っ向から見据えていた。
「もうここには無いぞ」
 もう、ここには、ない。
 赤い瞳を見据えていたかれらは、ひたりとたじろいだようだった。何かに抗うように、荒々しくぶるると首を振るものも居た。
 もう、ここには、ない。
 もう、ここには――
 それは、夏目怜司の力であった。
 深みより現れた者どもの目は、この部屋の中には何もないように見始めていた。誰もここにはおらず、目的のものもここにはない。だが、これが幻覚だということには何とか気がついていた。人間ごときにしてやられる前に、この雑念と、幻覚を、振り、ほどいて、
 五つの首が、床にぼとぼとと転がり落ちた。
 天薙撫子は、鋭く御神刀を打ち払い、悪臭を放つ血糊を落とした。

 ぎるるるる、
 敵の首はしかし、五つどころではなかった。
 次々と、まるでどこかで卵でも孵っているかのような勢いで、船長室になだれ込んでくる。やつらは集団行動が基本だ。ひとりがここに在ると思えば、みながそこへと向かうのである。蟻や蜂と同じなのか――しかし、知恵がないわけではない。ひょっとすると、人間以上かもしれない。
 だがやつらは夢をみているかのような勢いで、船長室にやって来る。
 怜司が数体に幻覚を見せ、幻惑しているのだ。おまえたちの望むものは、ここに在ると。
 一樹はここには居ない。船を破壊するために、隙を見て船長室を出た。
 他の4人もここには居ない。鉛の箱を持って、甲板に上がっているはずだ。甲板には、ボートがあった。敵が深みより現れた者どもだけだったならば、一方で引きつけておくことが出来る。その可能性に賭けたのだ。ボートは船尾と船首に2艘ずつあったのだ。
 今この場でまともに魚人どもを相手に出来るのは、怜司と撫子だけだ。ファルナは――酔っている。しかも、撫子はふたつあった武器のうちひとつを、九尾桐伯に貸していた。彼女の武器は、御神刀『神斬』ただ一振り。
 体力には、限界がある――しかし、やつらの数に、限界はあるのだろうか。

 ――大変なことになってしまいましたわ。
 堪えられないほどの臭気に、ファルナはまたしても「うっぷ」と呻く。彼女の身は今色々な意味で大変だった。専門は外科だが怜司は医者だ。当初の予定通りただの幽霊船の調査だったならば、彼のそちらの力を頼ることも出来ただろう。それが今はかなわない。運命を呪うより術は無し。
「……新宮さん!」
「あ……はい?」
 撫子の緊迫した声に、ファルナはひょいと顔を上げた。怜司と撫子の攻撃を逃れた『魚』が、ファルナの眼前に立っていた。
 その目に――慈悲はない。狂信的で、排他的な、冷めた光だけがあった。
 撫子の一閃は間に合わない、
 怜司の視線もまだ届かない、
 がほっ、
 魚人の牙だらけのあぎとがかぶりつく。
 ……しかし、かれはあきらかに戸惑っていた。牙は温かい肉ではなく、妙に固いものを噛んだのだ。かれがかぶりついたのは――メイドの姿をしたゴーレムの、右腕だった。
「ファルファ、助かりましたわあ」
 ファルナが、歓喜。
 ファルファは、無言。
「やっちゃってくださいな」
 ずドむ!
「ぅおっと!」
 怜司はボクサーさながら、飛んできたものをひらりとかわした。
 ファルファの腕が、怜司の顔をかすめて飛んでいき、船長室の壁にめり込んだ。勿論、魚人の頭つきだ。千切れ飛んだ深みの者の首は、縫いとめられた壁で、くたりと脱力した。
「……息子にいい土産話が出来たよ」
 まさかロケットパンチというものを、この邪眼で見ることになろうとは。
 笑える状況ではないが、怜司は思わず笑ってしまった。


■呼び声■

 ファルファの機能を見たせいかもわからないが、魚人たちの執拗な攻撃の手が急に止んだ。
 撫子は肩で息をしながらも、その変化に気がつき、面食らった。
 蛙のような生物たちは、ぎょとぎょとと目配せをしている。
「くするう」「くするう」
「いあ」「くするう」
 口々にそう呟きながら、頭を垂れた。
 船が、激しく揺れ動いた。

<……せ……>
 人間の意識をかき消すほどの思念が乱れ飛ぶ。
<わたせ>
 その頃一樹は、船の燃料タンクをようやく見つけ出し、傍にあったバールで穴を開けていた。不意の大きな揺れとその思念に、思わず手を止め生唾を飲む。
<ちちの偶像を……わたせ>
「……くそ」
 一樹は毒づくと、バールを握る手に力を込めた。
「やつらだけじゃないか……とんでもないものを起こしたらしいな」
 がつん、
 この一撃で、タンクには穴が開いた。
 だが、火をつけるのは少し待ったほうがいい。
 少なくとも、逃げ道が出来てからだ。

 ごうん、
 がつん、
 ぐるるるるるるぅぅおおおおお、
 がつん、

 船は玩具のように揺さぶられていた。
 嵐と、咆哮がひとつになっている。
 だが深みから来た者たちは、明らかに何かに遠慮しているようだった。
「……武神さんと合流しよう!」
「はい!」
「あう、移動ですか……」
「こんな状況でも気分悪いなんて、結構肝が座ってるんだな」
 眼前に居た魚人を蹴り飛ばし、怜司は壁にめり込んでいたファルファの腕を抜いた。魚人の首がねちゃりと床に落ちる。
「ほら、腕。メイドさん、ご主人様を運んでやってくれ」
「うう、ファルファ、怜司さんの命令に従ってくださいな」
 ファルファは腕を元に戻し、ひょいとご主人様を抱え上げた。
 そして、撫子と怜司とともに、軋み揺れる船内を走った。

 ぉぉおおおおおおおぉおおおおおおお!

 明らかに悲鳴らしき咆哮が、波と嵐を切り裂いた。おそらく甲板でも戦いが起きている。そしてそれは、どうやら有利に進んでいるようだ。
 そう、信じたい。

「武神様!」
 駆け寄ってくる仲間の無事な姿を見て、一樹は安堵した。ファルナがメイドに抱えられているのを見てぎくりとしたが、どうやらただ酔っているだけだということがわかり、一樹は安堵しなおした。

 おおおおおおおおぉぉおおおおっ、
<ちちよ! ちちよ! ちちよ!>

 ざばん、と大波に見舞われて、船は揺れた。
「よし、逃げるぞ!」
「上はうまくやったのか?!」
「あんたはそんな気がしないか?!」
「するさ!」
「じゃあ、逃げるに限るだろ!」
 穴を開けたポリタンクをひとつを手に提げ、一樹は脱兎の如く走り出した。彼の走った後には、びしゃびしゃと可燃物が撒き散らされていく。
「あの、火は?!」
「……あ! しまった、火を起こせるやつらは上だ! 夏目、あんたは――」
「煙草吸う医者ってどう思う?!」
「火ですかー? ありますよ」
 ファルナは、自分を抱えて走るメイドに目をくれた。ファルファはきろりとその目を見つめ返す。
 一樹が、軽くなったタンクを背後に捨てた。
 忌まわしい、あの、ひたひたと追ってくる足音。水かきが鉄の床を踏みしめている。
「ファルファ!」
 メイドは片手でファルナを抱え、左手を後方に向けた。
 安全装置、解除。(カチリ)
 撃鉄起こせ。(カキン)
 FIRE!

 ずドん!



■いつかかならずとりもどしにゆくぞ■

 タイム号は、茨城の沖に沈んだ。
 乗り上げていた岩礁からは、遥か1カイリ離れていた。それほどの距離を流されていたのである。しかも、はっきり、南へと。あのまま何もしなければ、ポナペにでも流れついていただろうか。
 茨城の沖にも、神の眷属は眠っていた。
 この分だと釧路沖にも東京湾にも居るのではないか、そんなぞっとしないことを考えてしまう。
 タイム号が上げた狼煙のおかげで、周辺をぼんやり漂っていた8人のボートはすぐに発見され、救出された。沿岸警備隊からはきついお叱りを食らったが、とりあえず責任は碇麗香に押しつけてみることにした。そもそもの発端は、レイではなく、碇麗香なのかもしれないと思ったものがいたからである。

 鉛の箱は、一樹が神宝による封印を施しておいた。誰も、中を見ようとは言い出さなかった。鍵はないが、鉛なのだから容易に溶ける。開ける方法はいくらでもあった。桐伯やさくらの力を使えば、ボートの上でも中身を検めることは出来たのだ。
 しかし、とりあえず、海から遠く離れたところで保管するに限る。
 今はリチャード・レイが持っているが、ひょっとすると一番安全な保管場所は――星間信人の元かもしれない。

「しかし、ゴーレムね……ロケットパンチに、重火器か……子供に大人気だな」
「お料理もお掃除も出来るんですよー」
「あ、確か洗濯もお上手なんですよ。洗濯板ですごくきれいに洗って下さるんです。今は日本人でもなかなか出来ませんわ」
「……せめて、その機能をまず前面に出してくれないか」



(了)


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)        ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0134/草壁・さくら/女/999/骨董品屋『櫻月堂』店員】
【0158/ファルナ・新宮/女/16/ゴーレムテイマー】
【0173/武神・一樹/男/30/骨董屋『櫻月堂』店長】
【0328/天薙・撫子/女/18/大学生(巫女)】
【0332/九尾・桐伯/男/27/バーテンダー】
【0377/星間・信人/男/32/私立第三須賀杜爾区大学の図書館司書】
【1388/海原・みその/女/13/深淵の巫女】
【1553/夏目・怜司/男/27/開業医】

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■         ライター通信                ■
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 モロクっちです。お待たせ致しました!
 クトゥルフ大イベント(嫌なイベントかも……)『Calling』をお届けします。これが第1弾となればいいと思っています……が……大変でした。やはり8人ともなると話が膨らみますね。
 今回の敵は深きもの及びクトゥルフの落とし子でした。クトゥルフ本人(本神?)ではありません。あの御方がお目覚めになった場合は、『東京怪談』の全PCで立ち向かってもらわねばなりません(笑)。ん……じゃ、アザトース様が出て来たときはどうしたらいいんでしょうか……。あ、あまり考えないでおきましょう!

 本作品は分割されており、船内で異常が起きてからのストーリーがふたつでは若干違います。お時間がございましたら、2つ合わせてお読み下さいませ。
 今回は皆さんプレイングで「二手にわかれる」として下さった方が多く、モロクっちはホッとしました。最初から二手に分割するつもりでしたので(笑)。

 それでは、皆様にとってもこのシナリオが大イベントであれば、と思います。楽しんでいただければ幸いです。
 ご縁があれば、またお会い致しましょう。