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◆ 軌跡 ◆
散々散らかったデスクを離れ、事務所のソファに腰を降ろした草間は、投げられた一枚の写真に目を遣った。
「…美人だな」
草間は写真を摘み、己の目の高さに掲げた。はっきりとした年は分からないが、三十前後だろうか。派手さはないが、男好きのする顔だといえる。隣に写っている男の印象は薄い。あまりに凡庸だ。
「俺はお前に、女を紹介しに来たんじゃない」
調査書類やら記事の切り抜きやら怪しげな写真やらが山積する、最早ゴミ山と化した草間のデスクを、右手でガサゴソと選り分けている男の背中が言った。
気紛れなのか、モノ好きなのか。この男は、忘れた頃にふらりとやってきては依頼を置いていく。
「隣の亭主の方がマルタイだ。行方知れずでな。煙草でも買うような態でふらりと出て行ったそうだ」
勝手知ったる他人の事務所。とでも言いたげに、男はゴミの中から器用に灰皿を探し出し、右手で持ち上げた。
あんまり荒らすなよ、と背後から声をかけてくる草間にやれやれと片眉を跳ねる。…もう荒れてるじゃねえか。
「それで…」
灰皿片手にソファの向かいにふんぞり返った男に、草間は目前の写真から視線を転じた。
「報酬はいいんだろうな」
「…早いな。もう決めたのか?」
ニヤリと口端を上げた男に、草間はテーブルの上に写真を投げ、そっけなく言った。
「飯の種だ」
草間は煙草を銜えるとカチリと金属質な音をさせ、火口を輝かせる。大きく吸い込み、紫煙を吐き出すまでに落ちた沈黙の後ろに、雫の使うキーボードの打鍵音がカタカタと控えめに響いていた。
「もう一つ写真がある」
男は呑んでいた煙草を発掘してきた灰皿へと押し付けると、上着からもう一枚の写真を出し、テーブルに置いた。添えた二本の指で草間の方へ、それをついと押しやる。
「川沿い…堤防? 随分古い写真だな」
すでに退色し始めている。薄い茶色がかった、小さな公園の風景だ。やや薄暮がかった景色を映し込んだだけの、色褪せた素人写真だった。だが、草間の眉間が僅かに動いたのは、その写真には、波紋のような薄い輪染みが広がっていたからである。
「その川べり公園は亭主が時々出かけた。その写真も亭主が撮った。だが、そんな場所などいくらでもある。その写真の場所が特別何だと亭主から聞いた覚えもない」
「…てことは退色するような昔の写真でもないってワケか」
「あぁ、最近になってできたという。輪染みもな」
頷く男を視界の端に捉えながら、草間は色の褪せた川沿いの風景を指先で撫でた。
言うが早いか腰を上げた男の背を見送ることもせず、草間は口端から紫煙を吐きながら男の置いていった書類に目を走らせていたが、思わず煙草をぽろりと落としそうになり、慌てて口端で噛む。
対象:夫 町田孝(四十五歳)
依頼人:妻 杏子(四十歳)
「女こそ、化け物だ」
◆◆◆
草間は二人に、依頼者と対象者が一緒に写った写真と、色あせた川の写真を手渡す。
「この河川敷公園だが、自宅から散歩に出てもおかしくはない距離にはある。自宅に車は残しているし、遠くにいったなら別だが、とりあえず川へは徒歩でいける」
シュラインは頷いてPCのモニター画面に視線を戻した。町田さんが失踪した当日と次の日の天候を調べ、川の水位も調べたが異常はなし。大雨やぬかるみに足を取られこの川へ転落、というのは考えにくい。
「とりあえずは奥さんの方に話を聞いてくれ。これが住所と電話番号。先方に連絡は入れてある。…旦那は見たとおり、性格にもその暮らしぶりにも派手さはなく、仕事上のトラブルも怨恨のセンも薄いそうだ。ごく普通のサラリーマン。本人の意思による失踪、家出ではないかとみられている」
淡々と告げる草間に、みなもがくるりと青い眸を動かした。
「夫婦の間はどうだったんですか? 奥さんとうまくいってなかった、とか」
十三の少女に夫婦の間はと生真面目に聞かれ、草間は指先で頬をポリと掻いた。
そこへ続けてシュラインが追い討ちをかける。
「だめよ、みなもちゃん。独り者の武彦さんに夫婦の機微がわかるわけ、ないじゃない?」
などと半ば、声音が笑っている。
草間は二人に背中を向け、たっぷりと間を置いた後、声を張り上げた。
「…さっさといってこい!!」
◆町田邸
「置手紙はもちろん、…それらしい言動も、おかしな様子もなかったんです」
シュラインとみなもは依頼者である町田邸を訪れ、妻の杏子に話を聞いていた。
よく陽のあたる南側のリビングで、ソファに並んで杏子と向い合う。
草間が美人だと形容した杏子の面差しには今、疲労の翳りが見える。会話の隙間を溜息で埋め、膝に置いた両掌を時折ぎゅ、と握っていた。
シュラインは草間から預かってきた、といっても元はこの依頼者のものではあるが、二枚の写真をテーブルに並べた。
「町田さんが居なくなってから今日で十日なんですね。夕方、ふらりと出て行ったきり…。その間、一度も連絡…、無言電話やなんかはどうです?」
「…ありません。主人は大人しい、無口な人です。仕事の上でも交友上でも、揉め事を起こすような人じゃないんです。警察でも、金銭のトラブルや怨恨のセンは薄いでしょうと…でも、だからといって自分の意思でこの家から失踪するなんて…そんなこと、信じられません…」
杏子は一瞬強く、思いつめた顔で否定した。その後にふっと力を抜き、呆けた人のように庭を映す窓辺を眺めた。
何故。どうして。
考えても答えてはもらえぬ問答を、ずっと一人で繰り返しているのだろうか。
シュラインはそんな杏子の顔から、夫婦の写真に視線を落とす。
夫である孝は隣で写っている杏子の華やかさに比べれば、凡庸で頼りなさそうに見える。だが、照れくさそうに笑う口許にその人柄が窺える気がした。
「…夫婦ですから、多少の喧嘩くらいはありました。そんな時でも私を罵ったりはせず、主人はいつも沈黙していました…。優しい人です。…今まで一度だって黙って家を空けたことなんかなかったのに…」
みなもやシュラインにまで、伝染してきそうな切なさである。二人は杏子にかける言葉が見当たらなかった。ただ、全力でご主人をお捜ししますと、真摯に頷いた。
写真の変化について、気がついたのは三日前、ご主人を思って何気なくアルバムを捲っていたときだという。
川の写真に目を留めた三人の上に暫しの沈黙が落ちた。その後、杏子。
「…行ってみたんです」
「「行ってみたんですか!?」」
思わずハモってしまったが、考えれば当然だった。どんな小さな手がかりだろうと、掴まずにはいられない心境なのだ。
「正確には、その場所には行けなかったんです。家を出て、公園に向かうんですけれど、その…とても、怖くて」
みなもとシュラインはちらりと目を合わせた。
「主人は一体…」
不安と恐怖。底知れぬ疑問と理不尽な腹立たしさ。いろんな感情が綯交ぜになった杏子の視線を受け止めながら、二人は先ほどと同じように、真摯に頷いた。
と、突然、重苦しい空気の入れ替えでもするように、みなもが席を立ち、庭へと面した窓辺へと近づいた。
「綺麗なお庭ですね。開けて眺めても…?」
杏子は力ないまま笑顔を見せると、優しく頷く。
「たくさんお花が咲いてるんですね…。とても綺麗」
「狭い庭ですが…、一緒に庭を弄ってました。子供好きな私達ですが、残念ながら子がおりません。一緒に育てるは庭、草花。それを愛でるのが、楽しみになっていったんです」
◆作戦会議
「夫婦仲はうまくいってた、としか言えないわね…。あんなにご主人を探してらっしゃるんですもの」
アイスティのグラスにつっこんだストローでシュラインが氷を一混ぜする。
町田邸を出た二人は写真の川べり公園へ向かう途中で喫茶店に入り、休憩兼作戦会議の最中であった。
「そうですね。お庭もとても綺麗だった…。 それにしても、聞き込みでも有力な証言は得られませんでしたね」
みなもがミルクティーのカップを皿へ置くと、シュラインは地図を取り出しテーブルの上に広げ、じっと眺めた。それにみなもも、視線を向ける。
「町田邸を出てから、河川敷公園付近の聞き込みをしたのがこの辺りになるわね」
南側の堤防を越え、暫く歩いた辺りに印を書き込むシュラインの指先が、地図をするりと滑って降りていく。
どの家も皆一様に首を振るだけで、公園のことは良く知っていても、町田の事は何一つわからなかった。
失踪当日、歩いて散歩に出かけるような町田の姿を、町田邸近所の人間は見ているが、特に珍しい光景でもない。町田は、散歩に出かけることは時折あったようで、服装も普段着だった町田を、誰もヘンに思うことはなかった。
川は東西に流れており、河川を真ん中として北が山側。南が町側で、閑静な住宅街が広がっている。河川敷緑地公園は、今のところ南側(町側)のみに建設されており、野球やサッカーのグラウンド、テニスコート、公園にはベンチや東屋などが置かれ、自由に散策できるようになっている。北側の河川敷は来年着工予定とされているらしい。
この川のどこかに、町田さんはいるのだろうか。あんなに綺麗に、丁寧に育てた庭を放り出して、大事な奥さんに行き先も告げず、行くところがあったんですか…?
みなもが聞き込み情報を頭で整理しながら町田の顔を浮かべたとき、シュラインが向かいから薄く笑み、目を細めた。
「皺寄せると老けるわよ」
「え゛っ」
慌てて自分の眉間を中指で擦る。
思っていることの半分以上が、顔に出てしまうのはまだ子供だからだろうか。それとも素直すぎるのか、そのどちらなのかはシュラインにもわからない。狡猾に素面の下に感情を押さえ込むことは、探る者として時には有利ともいえるのだろうが、素直な子供の部分は人の魅力として、微笑ましいのだ。
「行ってみましょうか。もうそろそろ夕暮れだけど、このまま帰りたくないでしょう? それとも疲れちゃった?」
カサリ、と音を立て地図を畳み込むシュライン。それにみなもは眉間から指を離すと、ひとつ生真面目に頷いて、徐に喫茶店のメニューを取り上げた。
「…みなもちゃん?」
「何か食べていきましょう、シュラインさん。このままもし水の中に潜ったら、空腹で私が水底に沈みそうです」
穏やかな川風を受けながら、シュラインとみなもは堤防を歩く。足元にはかの公園が広がっている、辺りは薄暮に包まれかけた頃。
北と南を繋ぐ橋は堤防からかかっており、渡るが先か、河川敷に降りるが先かと思案していた。
「先に橋を見てみますか。写真を撮った場所、気になりますよね」
みなもがシュラインの横顔を仰ぐ。
その横を、散歩から家路をたどる人だろうか、おじいさんとおばあさん連れ立ってゆっくりと過ぎていく。おじいさん、おばあさん…、老人。
シュラインはふと、対岸を見た。山側といわれる北の岸には、なるほど家が少ない。河川敷の緑地工事は、南側が先だったろうと頷ける。けれど、今日の聞き込みの中に、何人老人がいただろう。正確にいうなら、この土地に古くから住まう、地の人だ。
シュラインはみなもに、対岸でもう一度聞き込みをすることを提案した。それに頷いて二人は堤防から橋を渡る。
車の往来はほとんどない。
足の下を穏やかな水が流れている。
歩道を歩きながら、みなもはふと首を傾げた。
「杏子さんは、怖いっていってましたよね。怖くて橋は渡れ無かったって」
「何か感じる? みなもちゃん。私は何も、感じないけれど」
「それがヘンなんですよ、シュラインさん」
「ヘン?」
「はい…。なんだか、向こう岸に行きたくなるんですよね、私」
呼ばれてるっていうか…。
みなもは足を止め、欄干に両手をかけて東を臨んだ。
かつては大きな流れだったろう河川だが、今は川幅も狭まり、穏やかな表情だ。その暮れていく川の上に、十三夜の江月が輝いていた。
◆河川敷北側
「本当に家が少ないですね…。なんだか景色が違います…」
みなもがくるりと眸を轟かす。
二人は木々や雑草、おまけに畑なども見え、突然緑の濃くなったどこかの田舎のような風景を目の当たりにしていた。
もちろん道路は舗装されており、家も藁葺きなんてことはないのだが。山裾が見え、林があり、雑草や名もない草花が風に揺れている。
一軒一軒の隙間がそれほどない密集した住宅街、マンションの群れやゴミの匂い、車の音が始終聞えている向こう岸とは明らかに正反対であった。
向こうが新しい景色なら、本来のこの町の姿はこちら側に近いものなのだろう。
「ごめんください。夕飯どきに、失礼なのですが…」
一軒の古びた家屋の引き戸を開ける。立て付けの悪そうな、ガタピシいう引き戸をどうにか開けて、暫く待ってみるのだが、いっかな返答がないのに二人は顔を見合わせた。
「…お留守なのかしら?」
「私、もう一度呼んでみます」
みなもが大きく深呼吸した。
「ごめんくださぁあい!! 何方かおられませんかぁ!!」
「み、みなもちゃ…ッ」
あまりの大声にシュラインが自分の片耳を塞いだ、そのとき、襖がこれまたガタピシと滑りの悪い音を立てて、中から開いた。
二人の前に現れたのは、年は八十もとうに過ぎているだろうか。顔中しわくちゃになった、一人の小さな小さなお爺さんだった。
老人は、柱に掴まるようにして立ち、二人を眺めてこういった。
「なぁんしゃ…、なんか聞えよった思うたが。もっと大きな声で呼ばわんかい」
そして、なんとか頭皮に掴まっているばかりの薄くなった白髪の辺りを掻きながら、歯のない口許をくちゃくちゃ、と動かした。
二人は上がり框に腰を降ろさせてもらい、目の前に座ったおじいさんを前にこれまでの聞き込みと同じように写真を見せて訊ねたが、老人はやはり、首を横に振っただけだった。
そうですか、と間を置いて、今度は川の様子などを尋ねる。
昔と比べてどうですか。変わったことはありませんか。何か気になることとか、ないですか。
しかし、この老人とのやりとりは梃子摺っていけない。相当耳が遠いのか、いちいち声を張り上げなくては通じない。
「ですからね、お爺さん…」
ぼーっと、隙間の開いた玄関口を眺めている老人。聞えていないのである。
やれやれと肩を落としたシュラインと交代で、みなもがお爺さんの膝をぽんぽんと叩いた。
「お爺ちゃん! あの川のことで、何か知ってることないですか?」
老人は膝を叩かれ、ふとこちら側に顔を向けた。そしてくちゃくちゃ、と口許を動かした。
「なんにょ。最近は腰の痛みはとれたんにゃがの、年とるとあちこちいう事が効かんでにょ」
体の具合でなく、川の具合を訊きたいのだが。
なんとか、歯だけでも入れてもらえないだろうか。聞き取りにくくてしょうがない。
それでも根気よく、二人は訊ね続けた。
ゆっくり、ゆっくりと応えてくれるおじいさんに苦笑はしたけれど、ゆっくりだと思うのは自分達だからで、この人にすればこれが常なのだ。
「あの川はにょ、昔は大きくてにょ。随分荒れもしたで…。たくさんの家が根こそぎ流され、そら恐ろしかった…」
やがて時代は進み、河川工事も進んだ。
川幅は狭くなり、流れの穏やかになっていくその川を追う様に、新しい堤防が築かれていった。
だからあの川には、昔の堤防が今でも残っている箇所がある。短く切れた昔の名残は、二重の堤防となって残っているのだ。
それもやがては、無くなるのだろう。
「お爺さんの子供の頃には、奇妙な話もあったんじゃないですか? 狐が出るとか、河童がいるとか」
こういった類の話は、おしなべて子供や老人の方が話が弾む。分別顔の大人は一笑に付すか、一笑にも値しないと見向きもしないことがあるが、それは現代の大人が、生活や時間に追われ、やはり流れの速い時の中を生きているからなのかもしれない。
「そうさにょ…。狐や河童もおったろうが、わしは化かされたことはないにょぅ…。ふた親とも、畑仕事があったで、暗くなるまでは帰ってこんでにょ。寂しいもんじゃ…、一人であの河原まで迎えにいった。…そうさ。わしのお爺さんが子供ン頃に、あまりに水難が激しいんで、あの辺に水神さんよ、奉ったんにゃったのぅ…」
「「それは、どこですか!?」」
急いては事を仕損じる、と分かっていても腰が半分浮きかけた二人なのである。
「さぁて…。…どこじゃったがにょぅ…。たしかなぁ…、そうさ…、お稲りさんの祠の近くに、石碑だったかにょ…。子供がたくさん死んだで、その霊を慰めるうち、いつからか子宝が授かると転じてしまったがのぅ…」
やっとここまできた。やっと、町田に繋がる脈を掘り当てた。
町田夫妻には子供がないと言わなかったか。
子供好きな夫が。無口な夫が。夫婦喧嘩をしても、やみくもに妻を責めるようなこともなく、ただ沈黙する背を向けるだけだった夫が、子宝と聞き及んでひっそりと参じていても、不思議はないではないか。
シュラインとみなもは老人に礼を言い、言われた場所を探しに歩いた。
辺りはもう薄暮ではなく、仄かに照らす道端の電灯が無かったら、草を分けるのは難しい時分。それでも十三夜という月に雲のかかりもなく、それを頼りに二人は歩く。
「町田さん…、元気でいてくださいね」
みなもが月を仰ぐのへ、シュラインは先ほどの橋を渡るときのことを思い出した。
「みなもちゃん。さっき呼ばれているような気がするっていってたわよね。今は…なんか感じる?」
「さっきと同じ…。こっちだよって呼ばれてるみたい。私、なんだか、行きたいんです」
水に関わる事だから、呼ばれているのだろうか。写真の水の波紋、水神さま。水の中を自由に往来できるものだから、感じる…? それともほかに何か符号があるのだろうか。
みなもが舗装された小道を離れ、雑草を手で分けて山のほうへと足を踏み入れようとした時、シュラインは遠くで何か、音を聞いたように思い足を留めた。
訝し気に立ちすくむシュラインを、みなもは振り返る。
「どうしたんですか?」
「何か聞えるわ」
「…え? 何も聞えませんよ」
「しっ…。その、みなもちゃんの先の方から、なんだか聞いたことのない、歌が聞えてくるの」
「…歌、ですか?」
みなもが不思議そうに小首を傾げる。その足元に、ぼっと青白く、小さな鬼火が灯った。
「みなもちゃ…ッ」
弾かれるようにして、シュラインがみなもの腕を引く。
ひとつ…、ふたつ…と現れた仄青い鬼火は、草の上をまるで夏の世の蛍の如く、ふわりと浮かんで、揺れた。
落ちた沈黙の中を、小さな虫たちの声が過ぎる。生い茂った草の根の中で、羽を震わせているのだろう。
その草が、ガサリと震えた。
「な、に…」
みなもはシュラインと手を取り、何が起ころうとしているのかじっと見守っている。
そこへひょっこり、草を分けてこれまた小さな小さな子狐が姿を現した。
口に草のようなものを二本横に銜え、ちんまりと二人の前に座っているではないか。
「悪いものじゃないわ、シュラインさん。だって、ちっとも、嫌な感じがしないもの」
にこり、と笑うとみなもはそっとしゃがみ込み、子狐と向い合った。
それは分かっている…。悪い感じは全くといっていいほど、感じない。けれど、あまりにも不思議で、幻のようだ。きっと触れることはできないのではないか。ふと、シュラインはそんなことを思う。
自分達と子狐のまわりを、ふわふわと鬼火、否、狐火が揺れている。
「この草を、一本ずつ持てって言ってるみたいよ?」
みなもから穂をつけた草を渡され、シュラインはまじまじとそれを見た。手の中で、カサカサと穂が音を立てる。
小判草…。では、この子狐は。
狐の居酒屋へ、案内してくれると、いうのか。
◆狐の居酒屋
お月さんいくつ
十三ななつ
まだ年ァ若い…
ののさんいくつ
十三ななつ
まだ年ァ若い…
古い童歌だろうか。私は知らないな…。
先ほど聞いた歌声をより近くに聞きながら、シュラインはみなもと共に、狐の案内で草を分け入った。
不思議なことに、先ほどまで全く気付かなかったのだが、草叢を越えると大きな竹薮であった。すっかり落ちた闇の中に忽然と姿を現した、青々と茂る竹薮の中を、狐火に足元を照らしてもらい、先へと進んでいく。そのうちに、流れてくる歌声は子供のものだとわかった。時折、舌っ足らずに音が跳ねる。
二人は気をつけていなければ、どうかすると踏んづけてしまいそうなほど小さく、でなければ足の速いこの子を、ぼんやりと闇に見失ってしまいそうな気持ちで、付かず離れずと子狐を追った。
電灯も舗装した道も、もう、どこにも見当たらなかった。
「あ、あれっ? 狐さん…、どこいっちゃったのかしら」
とうとう見失ってしまったようである。しかし、狐火は二人の足元を未だ照らし、掌には小判草が揺れている。
幻が醒めてしまったわけではないのだ。若しくは、狐のかけた魔法が、解けたのではないのだと――。
お月さんいくつ…、ののさんいくつ…。
シュラインは声の方へはっと顔を向けた。
二人はいつの間にか鬱蒼とした竹薮を潜り抜けたらしい。
辺りは真っ暗闇ではあったが、ちょうど開けた場所である。
先に一軒の、小屋なのか古い家屋なのか、ちょっと見には判別しがたいが、灯りがほうっと漏れていた。
「あの小屋から聞えてくるみたいですね」
言い終わらぬかのうちに、駆けだしていくみなもの背を、シュラインは慌てて掴もうとした。
さらり、と指先を彼女の髪が擦り抜けていく。
「みなもちゃん!」
ギ、ィ――。
古ぼけた音を立て、軋んだ小屋の扉を開いて、立ち尽くすみなもの背。
シュラインはその背に駆け寄り、肩を抱いて中を覗きこんだ。
今ではあまり見ることもなくなってしまった、文字通りの掘っ建て小屋であるが、中は人の住まいのようだった。
粗末な掘っ建て小屋に、粗末な灯りは行灯。土間から上がる、板張りの床は踏めば間違いなく軋んだ音がし、掛かる体重に、あちらこちらでたわむだろう。
ここは。
一体。
いつの時代――。
部屋の真ん中には囲炉裏。その囲炉裏端に、一人の男が背を丸くして座っている。
その隣に、赤い着物を着た女の子が腰かけていた。また、その女の子の傍らには、男女の子供達が入り混じり、数人で車座になっている。
真ん中で二人の子供が向い合って手を握り、その下を潜っていくのである。通りゃんせ、と自分達はいっていた気がする遊び。
皆、小学校へ上がる前といったところだろうか。それぞれ、上等とはいえない、継ぎの当った着物を着ている。だが、表情はいずれも明るく、あの歌を歌って遊んでいるのだった。
声を出すことも忘れて、シュラインとみなもが戸口に立っている。
その二人に、男がぞろり、背を轟かせて戸口を振り返った。
清潔なシャツに普通のスラックス、髪は短く刈っており、あまりに凡庸で印象は薄いが、温和そうな口許。
綺麗な奥さんと一緒に、照れくさそうに笑っていた、あの、町田である。
「町田さん…っ」
シュラインがようやく、そう叫んだとき。赤い着物を着た女の子が、きっとこちらを睨んだ。それにみなもは、シュラインの耳元に素早く耳打ちをする。
「町田さんのことは暫く、そっとしておきましょう」
「そっと…って、やっと繋がった。やっと掴んだ軌跡じゃないの…」
これがもし、露と消えたら。これがもし、夢幻と、醒めてしまったら。
胸の中を、不安と、しっかりしなくては、という思いが駆け抜ける中、みなもが子供達の輪に近づいていくのを見守る。
――まぁまぁ、姐さん。子供は子供同士、というところでしょうよゥ――。
どこからか、たおやかな艶のある声に促され、シュラインは声の主を探し、部屋を見渡す。
「あらいやだ。ここにいるじゃありませンか」
すぐ首の後ろに声を感じて、シュラインが振り向くと、戸口に立つ自分の背後に、音も無く女が立っていた。
白い細面を傾げ、紅を引いた唇が笑んでいる。やはり着物を着てはいるのだが、子供たちとは少し様子が違う。たっぷりとある髪を巻き上げて櫛を挿し、着物についてはシュラインもよくは知らないのだが、勿論継ぎなどは当たっておらず、これはこのまま現代の『お座敷』に出ていても不思議ではないのだろうか。
そうそう、花柳界にいそうな。
粋な姐さんだわ。
そんなことを呟いたとき、何をぶつぶつ言ってんですよゥ、と女が笑い、その白い手にぽんぽんと肩を叩かれ、中へと誘われた。
「狐の居酒屋へ来たンでしょう? 姐さんの膳も、ちゃんと御座いますよ」
部屋へと上がり、町田と子供達とみなものいる囲炉裏端を通りすぎ、その横に置かれた、形ばかりの卓袱台に女と向い合って座った。
ところが座ったは良いが、一体何から切り出せばいいか分からない。
危害を加えようと攻撃してくるなら、一戦の構えようもあるものの、ここではそんな雰囲気は微塵もない。小判草という狐のお金と交換に、酒と肴でもてなしてくれるのだという。
なんとも奇妙な。
不思議な。
構えようがない。
シュラインはもう、なるようになれ、と腹から息をふぅ、と吐いた。
女はシュラインの前に、白い徳利と猪口を置き、幾つか料理の持った小皿を並べてくれた。
「ここは見ての通り、気取ったお座敷でもないんでねェ。手酌で申し訳ないンですけれど、頼みますよゥ」
こういうのを、はんなり笑った、というのだろうか。
珍しいものでも見るように、いや、本当に珍しい光景なのだが、はぁ、と返事に出た自分の声が、意外に呑気なものであったことにシュラインは少しばかり驚いた。
それに、酒肴でもてなしてくれる女には申し訳ないのだが、この人も女狐なのだろうか、などと穿つ冷静な自分もしっかり居るのには、なんだか不思議を越えて、可笑しくなってくる。
「いいんですよ。その…。おかみさん、で宜しいんでしょうか?」
シュラインの問いに、女は口許に返した掌を当て、声を立ててちょっと徒っぽく笑ってから頷いた。
「あの人、ホラ、囲炉裏端にいるあの男(ひと)ですよゥ。お杏ちゃんが連れてきたんですけれどね。あの、赤いべべを着た、可愛らしい子ですよゥ。…いえね。ここいらの子は皆、可愛そうなんですよ。川が氾濫して、家も両親も流されてねェ…。それでなくても、働き手であるふた親は、朝から晩まで居ない時代で御座いましてねェ。…寂しいんですよゥ。ここいらも、今となってはもう…、だぁれも、通りゃしまセン…。向こう岸から、元気な子供の声は聞こえてくるけれど、いっかな橋を渡って遊びに来る子はいませんからねェ…。そりゃぁそうでしょう…、ここはもう、忘れ去られた所…。その昔、たくさんの人出で賑わったこともあったけれどねェ…。その先に、お稲荷さんが御座いましてね。お祭りだの、お祈りだの、お供えだのといって、そりゃぁ賑やかしも沢山有ったんで御座いますよゥ。帰り道には、あの子達が今歌っている歌や、通りゃんせを歌って、子供たちも遊んで行ったンですけどねェ…。いえね、良いんですよゥ、時っていうのは、誰にでも平等に流れているんで御座いますからねェ。…ただね。困ったときには神頼み、と申しますでショウ…。いいえ、わかっておりますよゥ…。それでもね…、用ナシになって、放り出されるのは、寂しいんで御座いますよゥ。ここからじゃ…、遊ぶ子たちの姿さえ、見えませンものねェ…」
――あら、いやですよゥ。姐さん、飲みすぎちまったンじゃないですか――
――風邪を――風邪をひきますよゥ――そんな、ところで。
体のあちこちが、硬いような、痛いような気がした。
シュラインは、はっと顔を上げ、辺りを見回した。
みなもと、町田と、重なるようにして、町田の家の前で寝ていたのである。
夢だとは思わない。今見ることはできないものを、幻というかもしれないが、あの声は真実、語っていたではないか。
子供好きな町田が、あの辺りをふらりと歩いているときに、ふっとあの子達があらわれ、遊んでくれとせがんだ。シャツの袖を引き、足元に纏わり着いて甘える子供を、どうして引き離すことができたろうか。
寂しいと泣く子の背を、そっと撫でてやることに、何のためらいがあったろうか。
ぼうっと起き抜いたみなもが目を擦っている横で、町田がむくりと半身を起こす。それに、玄関から転げるようにして出てきた杏子が、両腕を伸ばして泣きながら抱きついているのだ。
シュラインは、穂だけしっかりと毟られた、茎だけになった小判草をしっかりと握っている自分の掌を見て笑い、みなもへと軽くウインクした。
後に、北側の河川敷の緑化工事が着工されるのだが、その折、堤防の後に何時の間にか追いやられ、忘れ去られた小さな祠と共に石碑は、新たに出来た公園内の一部に組み込まれることとなった。
水を鎮め人を護る神様が、川を見下ろせず二重に巡らされた堤防の後ろにあるとは如何なものか、これで水難から人を護れるものか如何か、とあのお爺さんを筆頭にシュラインとみなもが住民を口説き、住民が役所を口説き落とした故である。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【1252/海原・みなも/女/13/学生】
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■ ライター通信 ■
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申し訳ありませんッ。
無駄に長くなってしまいまして。
読んでいる内、ここは要らないんじゃないの、と思う箇所もおありかと思います。
ですが何卒、お初ということでお目こぼし頂ければ是幸い…。精進致します。
読み比べていただければ(苦行でしょうか)、双方の考えや行動の違いがわかるかと。
失踪した町田さんの軌跡を追ううちに、不思議な世界へ迷い込んだといいますか、
呼ばれてしまったといいますか。そんな雰囲気が出せたらと、書かせて頂きました。(どきどき)
それでは、また。
悠生
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