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<東京怪談ノベル(シングル)>


かの者は、神であった


 風が止まり、波までもが眠りにつく夜に、名も忘れられた神が夢をみる。
 かの神は深い海にて、死にも似た深い眠りについている。
 この星はそういった眠る神を何柱も抱えていた。多くの神は、名どころか存在さえ忘れられ、夢みることも適わずに、ただとこしえに横たわる。
 だとすると、海原みそのが巫女として仕えるその海の神は、幸福だといえるのではないか。多くの美しい巫女たちに見守られながら、かの神は艶やかにうねる夢をみている。

 上弦の月が海面に光を落とす。
 神のもとにその光が届くことはない。
 散りばむ星の光など、何をか言わんや。

 みそのはその夜、招致に応じて神の夢に乗った。
 ひどく、暗い夢だった。
 今宵の神の夢見は悪い。
 しかも――御影石と黒珊瑚で出来た神殿の中に、つぎつぎと異形が現れては消えていくのだ。夢の中に限っては、視力を失ったみそのの目もはっきりと見える。
 みそのを脅すかのように、あの日殺してしまった眷属が凄み、あぶくになって消えていった。あの日空へと帰っていった紫の雷や、名状し難い風の姿も見た。かと思えば、『見た』こともない怪異も現れた。例えば、常に泡立ち、膿ただれながら、新たな歪みを生み出す母。例えば、悪意と狂気のみを持ち合わせた水の神。例えば、鬼を喰らう鬼。
 ――これは、一体? これほどの悪い夢はなかなか御座いません。あの御方の身と未来に、何かあるのでしょうか……?
 みそのは戸惑い、本能的に奥へ奥へと進みながら、幻を見つめた。
 やがて、大きな扉がみそのの前に現れた。ヴェールをかぶった小人のような存在がその門の前にたたずみ、くつくつと肩を揺らして笑った。
<此れに在るは、智の門なれば。かの者の望み故に、我は開け放つ。好きに学び、好きに夢みよ。我は、門なればなり>
 ヴェールははらりと黒い床に落ち、たちまち幾万もの虹色をした球体に変わると、するりするりと床に沁みこんでいった。
<来るがよい、いとしいみそのよ>
 ああ、とみそのはようやく声を上げた。喜びと安堵の為に。彼女は何のためらいもなく扉に手をかけた。彼女が身も心も捧げている神の声は、その扉の向こうから投げかけられてきたのである。
 ぎぎい、と扉は軋みながらも、彼女を拒むことはなく――開いた。
 扉の向こうは、月光で満ちていた。


 大きな天窓の下には、日本の学校で使われている形の机と椅子がぽつんと置かれている。いつの間にか、みそのの巫女装束も、漆黒のセーラー服に変化していた。
 見渡せば、月光も届かぬ闇の中にあるのは、本棚であった。延々と立ち並ぶその本棚は、さながら東京のビル街のようだ。蔵書の量は何万冊という数では足りるまい。何億、何兆、確かに言えるのは、無限に有るということだ。
<おまえは、陸での見聞を広める傍ら、我らの世界に入りこんでいる。自ら足を踏み入れているわけではないようだが>
「……申し訳ありません」
 何故か謝るべきだと感じ、みそのは闇に向かって深く頭を下げた。謝るべき存在が、月光の外に居ると信じていたのである。さらさらと黒髪が流れ、さながらヴェールのようにみそのの俯いた顔を覆った。
 神は、笑った。
<おや、わたしは今、叱ったか。いとしいみその、おまえはわたしに叱られたのか>
「いいえ――」
<ならば、面を上げるが良い>
 さらさらと黒髪をかき上げられた。
 それだけで、目頭が熱くなりそうなほどの喜びを抱く。
<今宵は、おまえの望みを汲んだ>
「わたくしの望み……?」
 はっとして、みそのは机と服に触れた。
 ……そうだ、これは望んでいたものだ。深海に座しているが為に、彼女が未来永劫手に入れることが出来ないもの。日本の少女としての日常だ。制服を着て、友だちとお喋りをしながら帰り、行き、学ぶこと。
 みそのは最近陸に上がり、神に捧げる伽話をつくろうと、見聞を広めていた。その結果、彼女はさまざまな人間と出会い、文化を知り、怪異に触れてきたのである。
 彼女はそれを土産話としてとらえながらも、心の奥底では時に憤慨し、時に嫉妬していたのかもしれなかった。セーラー服が望みであっても、何ら不条理ではない。
「御方様――」
<おや、わたしは今、叱ったか。いとしいみその、涙は流すな。今宵のおまえは、学ばねばならぬ。我らを学ばずして、我らに触れることはかなわぬ。わたしはおまえを失いたくはない。おまえを生かす為に知識を授ける。おまえは生きる為に、今宵学ばねばならぬのだ>
 何と、
 みそのはつい先ほど、神の夢見の悪さを案じたことを恥じた。神は自分のために、あの異形たちの知識を夢の中に呼び起こしていたのである。
<さあ、座るが良い>
 みそのは言いつけに従った。
 涙は流さず、
「はい」
 返事をし、
 彼女は椅子を引いて座ったのである。
 顔には――明らかに潤んだ眼をしているとはいえ――微笑みを浮かべて。

 月の光を頼りに、みそのは学んだ。書物を読み、神に質問をする。この、無限へと続く図書館は、この夜だけは教室であった。生徒はひとりきり、教師もひとりきりだ。みそのにとっては、まるで『夢』のような空間と時間だった。
 この夢がとこしえであるようにと、何度もみそのは願っていた。願いながらも、懸命に学んでいた。この学習が、次の招致に結びつくのは間違いないのだ。とにかく学び、愛しい神に近づくのだ。
 そして自分は、とこしえに、神の御元で夢を紡ぐ。

 ――この夢が、とこしえでありますように。御方様、わたくしはずっと、貴方様の生徒でありたい。

 それが叶わぬ望みだと知りつつも、彼女は望む。
 上弦の月を見上げて、みそのはそっと目を閉じた。
 言いつけられるままにこらえていた涙は、無情にも流れ落ちてしまった。
 だが誰も、それを咎めることはなかった。


(了)