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風器
それは忘れたわけではないが――
因幡恵美は知らないのである。
世間と人々と同じくして、あの災禍の中心にいたというのに、恵美は事件の真相も自分に起きた変化の原因も知らなかった。
だが、感づいていないわけではないのだ。それは、自分の身に起きたことであるが故に。
彼女がいま何の不自由もなく、妖とともに幸福に生きているのは、たったふたりの人間のおかげだった。
彼女はそれにも感づいている。
すでにふたりの恩人のうちひとりはこの世にない。もうひとりは――恵美と同じくらい元気で、時たまあやかし荘に顔を出す。
恵美はそのたびに、喜びで一杯になった顔を挨拶とともにとどけるのだ。
それが自分を変え、自分を救ってくれたことへのいちばんの礼だと信じているから。
しかし因幡恵美の恩人・武神一樹が見る限り、彼女は何も変わってはいないのだ。
因幡恵美は、生まれてから一度も変わったことはない。
彼女は妖と生きるさだめのもとに生まれてきた。変わったのは、彼女に集まる妖の性質だろう。
一樹は、恵美に何かしてやったという気持ちはない。
ただ――そう――手伝っただけだ。
あの笑顔がくすぐったい。何も話していないのに、彼女は感づいてしまっている。一樹があの日あの時、手助けをしてやったことに。
――俺は大したことをしていないよ。俺はただ……手伝っただけだ。
会うたびに喉まで出かかるその言葉は、あの笑顔に押されて流れてしまうのだった。
武神一樹は張り詰めた表情で待っていた。
がたがたと風が窓を揺すっている。或いは、『櫻月堂』という骨董品屋を粉々にするつもりなのか。
時間だ。
だが、連絡が来ない。
古めかしい黒電話は沈黙したままだった。一樹は柄にもなく苛つき始め、読んでいた新聞を卓上に置くと、立ち上がってちゃぶ台の周りをうろうろと歩き回った。
強い風が、窓を叩いた。……19時の天気予報は、今夜は無風の静かな夜になると言っていたが。
雨は振りそうにないが、台風並みの強風が吹き荒ぶ夜になりそうだ。
……連絡は来ない。何かあったのだろうか。大事な『儀式』の夜なのだ。約束の時間はとうに過ぎている。やはり、準備から立ち会うべきだっただろうか。
一樹はついに『櫻月堂』を出た。
2月2日、太陽はみずがめ座の位置にあり、水星もまた『正しい』位置にある。
武神一樹はそこまで風のことについて詳しくはなかった。自分と、ある老婆と、ある少女にとっての重要な日であるこの日は――星間信人にとっても、重要な日であった。一樹はそれを知らなかったが、知らない方が良いことなのだ。この日の惑星の位置が意味することを、記憶の中に留めておくべきではない。この世で生き続けるつもりであるならば。
星間信人はすでにこの世に立ってはいないのだ。まったく違う線を踏み、危うい足取りでそれを辿りながら生きている。本来ならばその線は、武神一樹の線と交わることはない。
だが、いまの信人の線は、時空を超越した神が握っている。
どの線と結びつけようが、唐突に断ち切ろうが、全ては神の御心のままに。
信人の線は、2月2日の夜に、武神一樹と――因幡恵美という少女の線と、しっかり交わったのであった。
一樹は、『儀式』の間を訪れた。
がたがたと家は風に揺さぶられていた。かがり火もせわしなく揺れている。
この風の意味、そして連絡が来なかった理由、ふたつを同時に一樹は悟った。即ち、風はいま意思を持ち、自分に連絡を遣すはずだった術者は命を断たれているということだ。
『儀式』の間に、男がひとり立っていたのである。
会ったのは――
「半年ぶりですね」
半年ぶりだ。
忘れようにも忘れられない男だった。忘れたいが、忘れるべきではない男。星間信人であった。
「またお会いできて光栄です、武神さん」
「俺はあのとき『また会いたい』と言ったか?」
「無粋なことを仰いますね」
信人はともすれば愉快そうとも取れる笑みを口に含んで、壇上に横たわる少女を見下ろした。なんと――いとおしそうな目をしたことか。少女が愛しいのではないことは、火を見るよりも明らかであったが。祭壇の下に横たわる老躯には、一瞥もくれなかった。
「――おい、彼女に何をした」
「まだ何もしておりませんが?」
「お前の足元に転がっているのは何だ!」
一樹は、またしても柄にもなく怒声を張り上げた。
信人は一樹に怒鳴りつけられ、ようやく「ああ」と声を上げると――禍禍しい山吹の柄の短剣をちらつかせた。
「主への捧げ物です。この娘同様、ようやく意味ある存在となったのです」
「……何をするつもりだ」
「随分怖い顔ですね」
「答えろ!」
ぱちぱちと己の肌すら灼く一樹の怒りは、信人にもさすがに届いたようだった。彼は微笑みながらも肩をすくめた。
「今日という日の重要さを、あなたはご存知ないようだ。惑星が『正しい』位置にある2月2日。主が『安息所』を求めてこの星に御来臨なさるのです」
次第に信人の説明は熱を帯びていった。瞳には、歪んだ喜びが満ち溢れていく。彼が持っている感情の全てが露わになっていく瞬間であった。彼は名も無い神を称えるときに初めて、失った感情を呼び戻すことができるのだ。無理矢理引き戻されたその感情は、すでにこの世には相応しくないほどに歪んでしまっている。
「この娘は、『安息所』に相応しい。まさに大器といえるでしょう。僕は羨ましい。無知でありながら、真理に近づき、神の位置に着けるのですから!」
「……生憎だったな」
一樹の怒りはようやく静かなものへと変わっていた。信人の恍惚を見ているうちに、怒りを手懐けることが出来たのである。狂気に立ち向かえるのは正気だけだ。
「その子は今日、変わるんだ。器から中身に。約束でな」
「邪魔すると言うことですね」
「お前が邪魔なんだ。早く『こっち』に戻って、さっさとここから出て行くんだな」
「――成る程。しかし狂人は自分を正気だと言いますよね。僕は違う。僕は、自分があなたがたと違うことを自覚していますよ」
圧倒的に違うということを自覚しているのだ。自分は、他人よりも真理に近づいていると。一樹はそれを、冗談のように受け止めた。
「出ていく気がないなら、力ずくで放り出すぞ!」
「また、無粋なことを」
一樹が走り、信人が手をかざした。一樹に向けて、ではなかった。
その白手袋を嵌めた手は、頭上にかざされたのだ。
「ウグ! ウグ! イア ハスタア クフアヤク ブルグトム!」
禍禍しい呪文が唱えられると同時に、儀式の間に風が侵入してきた。
かがり火は狂ったように揺らめいたが、消えることがなかった。ただ、水鏡に入った水や神酒は、残らず吹き飛ばされた。
一樹は突撃を妨げられ、風から顔を庇いながら、祭壇を睨みつけた。
乾いた黒い風の渦が、信人と少女の真上に存在していた。それは、唐突に現れた宇宙であった。渦の中で、星が煌いている。漣を生み続ける黒い湖面さえ見えた。
――見るな。
一樹は自分を叱咤すると、渦から信人へと目を移した。そうしていなければ、信人と同じ世界の住人になってしまう。あの存在は人間如きが見るべきものではない。
「ブグトラグルン ブルグトム! アイ! シュブ=ニグラス! ――ハスタア!!」
呪文を、結ばせてしまった。
黒い渦から現れた、染みのようなものが吼えたてた。信人が、涙さえ浮かべてその声を聞き、姿を見つめていた。
だがその歓喜は、すぐに戸惑いへと変じた。
風の染みは、少女をぐるりと迂回すると、信人の足元に転がる老婆の身体へと吸い込まれていったのである。風の咆哮と、年老いた女性の悲鳴が重なった。
これは一体――
信人は驚きの声を上げようとしたが、その前に身を翻した。一樹が壇上に跳んできて、無粋にも拳を振るってきたからである。
信人は予想外の結果に驚くのをやめ、一樹に向かって手をかざした。
口早に呪文を唱える。
儀式の間の天井でごうごうと渦巻く風の一部が、一樹に襲いかかった。ひどい悪臭を放ってもいた。魚が腐ったような、胸が悪くなる匂いだ。
一樹は懐から取り出した『蛇比礼』を掲げた。風はその古びた祭器に遮られ、捻じ曲がり、障子を吹き飛ばした。
「……『水』ですか!」
「おまえの神と仲が悪いらしいじゃないか!」
一樹は蛇比礼を揺り動かす。
「ひ」「ふ」「み」「よ」「い」「む」「な」「や」「ここ」「たり!」
それは信人が唱えた呪文よりも、はるかに簡潔で、そして清い。
風に弄ばれるかのようにのたうっていた老女の身体から、黒い風が飛び出した。
「……主よ!」
信人が悲痛な声を上げる。
惑星の位置は、変わるもの。水星と太陽の位置とは、すでに動いていた。
黒い渦は黒い稲妻を帯びながら、腐臭を纏う風を飲み込む。
「何故です……?!」
「『器』が変わっていたのさ」
未だ風は止まぬ。
狂った風の中で、一樹の声は静かに響く。
「彼女の方が一足先に儀式を終えていたようだな。お前が自分で『器』を壊したんだ。……人間は確かに、神に比べたら随分とちっぽけなもんだが――お前が思っているほど弱くはないぞ」
風の中、ふたりは見つめ合った。睨み合った、とも言えるだろう。
信人はやおら、天井に手を伸ばした。また風でも呼ぶ気かと、一樹は身構える。
しかし、天井を騒々しく破壊して降ってきたのは、翼を持った使者だった。蟲のようにも、鳥のようにも、腐った人間の屍骸にも見える異形。
「ビヤーキー……!」
だろうとは思ったが、やはり待機させていたのか。それとも、神が今しがた遣わせたのか。信人と同じ、風の神の使徒だ。
「今回は勝ちを譲っておきましょう。――では、失礼。儀式はここだけで行われているわけではないのですから」
あの世界の神々は、すべての時間と場所を訪れることが出来るのだ。信人の言葉は負け惜しみではなく、警告だった。
風の使徒ビヤーキーに抱えられ、信人は風とともに去っていった。
ごひゅうううう、
うううう、
うう――
風は冗談のように止み、冷えた月と星が見下ろす、無風の夜がやって来た。
天気予報は、嘘をつかなかったのである。
一樹は我に返ると、一息つく前に、少女の容態を見た。
おそらく、薬で眠らされているのだろう。彼女は怪我ひとつない姿で深い眠りについている。
だが黒い風を取り込んだ老女の姿は、目を背けたくなるほどだった。腐臭が鼻をつく。死んだのはついさっきだというのに、すでにその身体は骨を失うほどに崩壊していた。
――カズ坊。
一樹は、耳を――いや、この声は、鼓膜を通して脳に届いているわけではないだろうが――疑った。あの神に踏みにじられながら、まだ正常な思念がのこっているというのか。
――このこと、恵美には内緒にしておくれ。
「それは」
一樹は、囁いた。
「それも、約束かな」
答えはなかった。
だが、否定もされなかった。
「武神さん! お久しぶりです。お元気でした? お仕事のほう、うまくいってます?」
あどけない声と笑顔に、一樹は呼び戻された。
「ああ。恵美こそ、元気そうで何よりだ」
そう、慌てて返事をした。
「何も変わりはないか?」
「あの、それが……」
一樹の何の気なしの問いかけに、恵美は困り顔を見せた。
「一昨日くらいから網戸がスパスパ切られてるんです。取り替えても取り替えても追いつかないんですよ」
「そいつは困ったもんだ。……鎌鼬か、網切かな。どれ、見てみるか」
「あ、有難うございます!」
一樹は恵美に笑いかけ、あやかし荘に入った。
――俺は大したことをしない。俺はただ……手伝うだけさ。
恵美のほっとした笑顔に、一樹はいつも、そう思うのである。だがこの少女は、いつまで知らないでいるだろう。一樹は約束を守るつもりで生きているが、この世は常に、変わるもの。
そう、人が変わるのではなく、世の中が変わる。
そのうちきっと、彼女も変わる。
願わくは、その笑顔だけは不変であれ。
(了)
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