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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


まぼろしのシンデレラ

 小さなケーキの箱が、とん、と目の前に置かれた。
「差し入れです」
 碇麗香が目を上げると、立っていたのは綾和泉匡乃だ。すらりとした長身に仕立てのいいスーツがよく似合っている。
「いつも遅くまでお疲れさまです」
 にっこりと微笑んだ顔は、いわゆる甘いマスク、というのだろうか、少年の凛々しさと少女の可憐さを同居させたような、整った顔立ちだった。
「……ありがとう」
 箱は銀座にある評判のケーキ屋のものだと気づき、
「わざわざ買ってきてくれたの?」
 と、訊ねた麗香は、匡乃のかげにもうひとり人物がいたことに気づいた。
「ええ、食事に出ていたもので」
 女性だ。麗香の視線を避けるように、匡乃の後ろに隠れようとするのを、匡乃はさっと身をひいて、かわした。
「デートだったの。珍しい」
 匡乃の容貌や、人気の予備校講師という立場を考えれば、デートの相手はことかかないのかもしれない。しかし編集部を訪ねてくれるのはいつもひとりでふらりとあらわれ、世間話をしていく――帰った後に、いったい何しに来たのかしら?と思うのだが、なぜか、彼と会ったことで気持ちが和んでいるというような――そんな匡乃だったのだ。
 連れに挨拶をしようと立ち上がりかけて、麗香は……はっとした目で彼女を見て、そして、やがて吹き出した。
「やだ。汐耶さんじゃないの」
 彼女は真っ赤になってうつむいていた。
 綾和泉汐耶は匡乃の妹だ。
 図書館司書として働いているが、魔性を封印する能力を買われて、麗香が持ちかける怪事件の取材にもよく力を貸してくれている。だが――
 麗香のよく知る汐耶は、眼鏡をかけ、パンツルックに身をかためた、スマートで中性的な姿だ。間違っても、今夜のように、ラメ入りのイブニングドレスにハイヒールなどであらわれたりはしないはずだったが。
「なんだ、結構、気に入ってくれてたのね、そういう格好も」
「ち、違います! これは、ただ……」
 汐耶は言った。
 隣で、匡乃はにやにやしているばかりだ。

 それは数日前のことだった。
 匡乃が、なんの前触れもなく汐耶の部屋にやってくるのは珍しいことではない。
 勝手にすわりこんで、食事が出てくるのを待つ。ため息まじりに、汐耶は冷蔵庫を開けて、ありあわせのものでなにかつくってやる、もしくは、匡乃が自分が食べたいものの食材だけを買ってきて渡し、汐耶が調理することになる、というのが、この兄妹の習慣のひとつであったのだ。
 その日は、ドアを開けるなり、大きなニガウリを突き付けられ、自己流のゴーヤチャンプルが兄妹の夕食となっていた。
「たまにはお返しをしないとな」
 食事中、ぽつりと、匡乃が言った言葉が、あまりに意外だったので、汐耶は一瞬、意味が掴めなかった。
「いつもご馳走になっているだろう?」
「……どうしたの。気持ち悪い」
「こんどの週末、食事にでもいかないか。奢るからさ」
「…………」
 箸を止めて、じっと兄の顔を見てみるが、思惑を読むことはできなかった。
「おいおい、そんな疑いの目で見るなよ。このあいだの実力テストの結果がだいぶよかったから、インセンティブが出たんだよ」
「ふうん……」
「どこがいい?」
「……どこでもいいけど」
「じゃあ、たまにはホテルにでも行くか」
「ええっ」
「わざわざ外で食べるのに家庭料理じゃ意味ないだろう」
 唇の端を吊り上げて笑った。汐耶がなにか不穏な空気を嗅ぎとった時には、もう遅かったのだ。
「そのかわり盛装して来いよ? ……こんな感じでさ」
 おもむろに雑誌を取り出して、開いてみせる。
「ちょっ……や、やだ!」
 思わず奪い取ったが、そんなことをしてももう手遅れだ。
 先日、麗香からの依頼で、ファッション誌『ジェラシィ』のスタッフを襲った怪奇現象の調査に、汐耶も参加していた。なりゆきで、制作中だった記事のひとつが事情で掲載できないことになり、やむなく、かわりの記事をつくることになったのだが。
(今からじゃモデルが暢達できないのよ)
 と、麗香が言った。
(……それで?)
(モデルをお願いしたいの)
 その結果が、今、目の前で開かれている頁だった。もっとも、普段の汐耶とはまったく傾向の違う服装に、撮影用のヘア&メイク、写真自体もプロの撮ったものだったから、知り合いが見てもまず汐耶とは気づかない。だが肉親だとしたらどうか。
 いったいどこで、こんな雑誌を目にする機会があったというのか。汐耶にとっての不運は、もっともごまかしにくい目を持つ肉親こそが、いちばん知られたくない相手だったことだ。
「なかなか似合ってるじゃないか」
「そんなことを言うために来たの」
「どうせならって思っただけださ。本当に奢ってやるよ? 一日くらい、変身してみれば」
「…………」
 その晩の食卓では、普通以上に、ニガウリの苦さが身にしみた。

 180はある長身の匡乃と、女性にしては高い身長にハイヒールをはいて並んだ汐耶のツーショットは、かなり人目をひく。兄妹だと知らなければ豪奢な美男美女のカップルとしか見えない二人が歩くと、多くの人が振り返った。
 渋々だった汐耶だが、まるでセレブリティのように、エスコートされてみると、悪い気はしない。
 実際、匡乃の態度は、まるでレディにかしずくナイトのごとく慇懃で、手厚く、また優雅だった。「せっかくだから」と言って、汐耶が入ったこともないようなブランドショップに連れていかれ、「試着だけでもしてみれば?」と、着せ替え人形状態にされる。「気に入ったものがあったら買ってあげる」とまで言い出されたのには、肝をつぶしてなんとか固辞し、やっと店を逃げだせたと思えば、今度はこれまた名前を知っているだけだった一流ホテルへ連れていかれるではないか。
「こ、ここなの……。ちょっと高過ぎるんじゃ」
「いいから、いいから」
 夜景の見えるフロアでの、夕食となった。
 横目で、ちらりと窓を見れば、そこに映っているのは、華やかなドレスを来た女性。いつもの、小ざっぱりとしてはいるが、ありていにいって、どちらかといえば地味なほうである汐耶はいない。
(こんな……柄じゃないのに)
 あの日の撮影のときだって、最後まで抵抗したのが汐耶なのだ。
(あら、汐耶さんは背も高いし。似合うと思うけれど?)
 無邪気な麗香の言葉に、かたくなに首を横に振った。
(わたしは、みんなとは違う――)
「何考えてるか、当てようか」
 ふいに、匡乃が言った。
「え――」
「自分はこんな柄じゃない、こんなの自分には似合わない、って思ってるんだろう」
「べ、別に」
「似合いたくても似合わない女だっている」
「…………」
「兄のひいき目とかじゃなくてね。――きれいだと思う。今夜の汐耶は」
「バ……っ……」
 どうしてそういうことを、簡単に口にできるのだろう。
 人間は嘘をつく生き物だ。
 匡乃の言葉がすべて嘘とは思わない。だが……人間の言葉は、耳で聞くだけでは、わからないのだ。そこにどんな真意が込められているかまでは。
 書物とは違う。書物に書かれた言葉は、ただひとつの、事実や真実を、そこに静かに示し続けている。それは何百年、何千年経っても、書き換えられることはない。それに比べて人間の言葉の、なんとあいまいで、うつろいやすく、頼りないことか――。
「そうだ、あとで、アトラスに顔を出してみようか」
「ええっ?」
「麗香さんにもお披露目をしないと」
「冗談」
「一人でも多くの人に、自慢の妹を見てもらいたくてね」
 なんだか、頬が上気しているのは、ワインのせいだろうか。
「十二時の、鐘がなるまでの辛抱だと思ってさ。いいだろう、シンデレラ?」
 もうどうにでもなれ、とばかりに、汐耶はグラスに残ったワインを、一息に呷った。
(シンデレラも、こんなくすぐったい気持ちだったのかしら)
(十二時の、鐘がなるまでの……)
(どうせ、それが終ったら)
(解けてしまう魔法)
 汐耶は街の灯を見下ろす。
 そうだ。今夜の自分はまぼろしだ。この東京の夜の中に、溶けて消えていってしまうあぶくのような。
 だったらせめて今だけの夢を見たって――。

「今度はアトラスからもモデルの依頼が来るんじゃない」
 白王社を後にした道すがら、悪びれもせずに匡乃は言った。
「バカね、何の雑誌か知ってるでしょう」
「あれ、怒った?」
「別に」
「つれないな」
「……もう他に用はない? たぶん目的は果たせたでしょう」
「え――?」
 今日はじめて、匡乃は虚を突かれたような見せた。
「レストランで、斜後ろの席に坐ってた女性。顔色変えて、ずっとわたしを睨んでたわよ」
「……気づいてたのか」
 もとの平静さを取り戻して、匡乃は応えた。
「今の予備校の事務の子なんだけどね。なかなかうるさくてさ」
「恋人がいるってことにしたのね」
「証拠を見せないと納得しないだろう?」
 汐耶は大きくため息をつく。
 たとえ、ほんの一瞬でも、たまにはこういうのもいいか、と思った自分がバカだった。
「貸しにしとくわ」
「何だよそれ。奢ってやったのに」
「わたしが頼んだわけじゃないもの」
 汐耶は、匡乃を置き去りに、大股ですたすたと先に歩いて行ってしまう。
 歩きながら、イヤリングをはずした。
 帰ったら、このお化粧をはやく落さなくっちゃ。
 明日からはまた、古書が積み上がった薄暗い半地下の書庫で、埃にまみれる日々が待っている――。
 時計はもう、十二時を過ぎていた。

(了)