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<東京怪談ノベル(シングル)>


理想郷



 そこは、遥か未来の世界だった。
 SFを連想させる宇宙戦争もなければ、人類滅亡の危機もない。
 数え切れない程の人種と人でない者とが共存している。
 脆く儚い理想郷だった。


 お天気雨が止んだ。
(そろそろ行かなきゃ)
 戸締りをして、あたしはいつもと同じ時間に家を出る。
(少し急いだ方がいいかな)
 遅刻したら大変だ。
 あたしの頬を残り雨を含んだ風が撫で、身体に雨の香りを纏わせる。
(心地良い)
 だんだんと目的地――海洋牧場が見えてきた。
 あたしはここで人魚の飼育員をしている。
 自分が人魚の血を引き継いでいるだけに、この仕事はあたしに向いていた。
 不満のない日々。
(それは確かにそう)
 それは他の人達も同じ。皆不満なんてない。
(皆幸せな筈)
 でも、何かがおかしい。
 心の底で、もう一つの声が聞こえてくるような気がする。
 その声はこう言っている。
『本当に幸せなの?』


 もう一つの声が止まない。


 午後、風が強くなってきた。海の香りに辺りが包まれる。
(ずっとこの香りと共に生きてきたんだよね)
 長い一日が幾度も幾度も繰り返された。
 怪奇関係で知り合った人達を除いて、あたしの知っている人は殆どいなくなっている。
(だけどあたしはここにいる)
 ずっと前からここにいる。これからも、これから先も。
(ずっとここで、こうやって生きていく)
 それが出来る世界なのだ。
 争いもなく、人種どころか人でない者も、皆同じように暮らせる。
 皆は何一つ不満を持たず、時間の流れを噛み締めて過ごしている。
 ――まるで理想郷。
(本当に、夢のような世界)
 ――夢のような……。
『ねぇ』
 また、声が聞こえてくる。
『本当に幸せなの?』
(うん)
『そうかなぁ?』
 問いかけるように、声は言う。
『だったらなんで、そんなに寂しがっているの?』
 寂しい? あたしが?
(わからないよ)


 本当に、あたしは幸せ?


(幸せな筈)
 だって、ここは全ての願いが叶えられている場所。
 争いがない、人種による差別もない。これ以上何を望むの?
(幸せじゃなきゃ、おかしい)
 もしあたしが幸せじゃないのだとしたら――寂しいのだとしたら。
(それはきっと、あたしが子供だから……)
『違うよ』
 声は、否定する。言い難そうに、自分自身が痛みを伴うように、ゆっくりと――
『ねぇ、争いって本当になくなるのかな?』
 あたしは言葉に詰まる。
『皆が不満を持たない世界なんて、存在するの?』
(それは……、それはでも)
 言葉を探す。だけど、何も浮かばない。何て言えばいいのかわからない。
『この世界は実在するの?』
(そんなこと……――わからないよ)
『ううん、わかっている筈だよ。――だから、こんなに寂しい』
 声が強くなる。
 内なる声が大きくなり――それは目の前に姿を現した。
 青い髪、青い瞳――まぎれもなくもう一人のあたしだった。
 哀しそうに、あたしを見つめている。
『この世界にいることがずっと嬉しくて、ずっと寂しかったの』
 ――ふわり。あたしは反射的に、目の前のあたしを抱きしめていた。
(うん……――寂しかった)
 最初からわかっていた。この世界は存在しないこと。どれだけ時を過ごしても、夢は現実にはなれない。
 だけど――あたしは誰かに伝えたかった。
「この世界は、本当に良い所なの。理想郷だったの」
『うん』
 もう一人のあたしの指先が、あたしの髪にふれた。
『目覚めの時が来るね。――だけど、忘れないで』


 群青色のカーテンが軽い音を立てて揺れている。
 いつもと変わらないあたしの部屋。
(起きなきゃ……)
 布団から身体を起こそうとして――掌に雫が落ちた。
 涙だった。
 あたしは、泣いていた。
 今も、夢の中の言葉が吐息のまま耳に残っている。
『忘れないで』
(忘れてない、忘れる訳ない)
 あたしは、掌に落ちた涙を包み込んだ。
 涙は、指の間で朝露のように柔らかな光を帯びていた。


終。