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怪 ─闇─
オープニング
『怪』──あやしきに、道理はない。
コツコツと、足音が響く。
台東区上野桜木。平日の深夜一時。寺多く、入り組んだ町に人気はない。
中内・大和(なかうち・やまと)は、家路を急いでいた。
鶯谷の駅を下り、巨大な霊園を左手に言問通りを渡る。そこから谷中へ向かい住宅地に折れるのだが、寝静まった町に点在する街灯は、全てを照らし出すには不十分だった。
闇だ。
闇に向かって歩き、闇に追いかけられて進む。
空に月は無く、しっとりと水気を含んだ暗がりが、体にまとわりついた。
急かされるように、その闇を切って歩く。
怖かったのだ。
ひしひしと迫る『闇』が。
(なんでこんな日に限って残業なのよ。あんな話……聞くんじゃなかった)
大和は深い溜息をついた。
いつもなら、こんなに遅くなる事は無い。
七時には見もしないテレビの前を陣取り、その日の愚痴を受話器の向こうへ漏らしている。
だが後輩が休み、彼女の仕事が回ってきた事と、前日に出した企画が倒れ練り直しに悪戦苦闘した事が重なって、終電のお世話になると言う始末だ。
よりによって、こんな日に。
「あんな話……聞くんじゃなかった」
わざと外へ出した言葉には、憂いと後悔が滲んだ。
駅から家までの、徒歩二十分。近いと思った事は無い道のりだが、今日はいっそう遠く思える。
大和は緊張した面持ちで、足を急がせた。
とにかく早く家に辿り着きたかったのだ。
闇が、怖かった。
──『人を食う霧』。
週刊誌では『東京神隠し』と呼ばれている。
最近になって降って湧いた、この話のせいだ。
昼に同僚達と話していた時は、たわいもない噂の一つだった。
深夜一人で歩いていると、黒い『もや』が現れて、そこに飲み込まれてしまうと言う。そして、そうなってしまった者は、消え失せてしまうそうだ。
おしゃべりな後輩は、よくある都市伝説じゃないかと言った。
例えば黒いもやは何かの組織で、本当は飲み込まれたのではなく、さらわれてしまったと言うような。
突然、歩いていた人が消えてしまうなど、夢物語の絵空事だと、ワイドショーの司会者も笑っていた。
現実としてそんな事は、あり得ない。
そもそも被害者さえハッキリしないのだ。
だが、どちらにしても、今の大和には怖かった。
深夜と言う時間。たった一人と言う心細さ。くわえて周囲に横たわるこの闇を見ていると、笑えない気持ちになってくる。
大和はゴクリと咽を鳴らした。
上着のポケットに突っ込んだままの携帯を握りしめる。
恋人に電話でもかければ、気が紛れるだろうか。
二十三才にもなって、暗がりが怖いなどと言ったら、きっと笑うだろう。
噂だ。噂なのだ。
しかし──。
先程から同じ間隔を保って移動している、一際暗い『アレ』は一体何なのだろう。
いくら速度を変えようと、縮まりも遠ざかりもしない、あの前方の黒いモヤ。
怖いと思う心理が生み出した錯覚なのだろうか。
そうだ。
あれはただの『闇』だ。
動きもしなければ、生きてもいない。
大和は自分に、言い聞かせた。
家は角を曲がれば直ぐそこだ。
足音は、いつのまにか小走りに変わっていた。
ふと、嫌な考えが過ぎった。
もし、曲がり角で、あの黒い『もや』が待っていたら?
「大丈夫。大丈夫。そんな事は無い。早く、家に帰ってシャワーを浴びて……」
クルリと、十字路を左に折れた。
そこで大和は歩くのを止めた。
黒い。
黒い墨。
闇より深い漆黒が、目の前でグルグルと螺旋を描いていた。
「──!」
闇は、大和に問いかけた。
──シアワセナ『シ』ト、フコウノ『セイ』、ドチラヲノゾム。
声で、では無い。
心に、だ。
大和はそれを、理解する事ができなかった。
恐怖で思考が凍りついていたのだ。
躊躇い、後ずさる大和を闇は取り巻いた。
その瞬間、大和の脳裏から思考が消えた。
頭に、心に、闇は語りかけた。
大和は、夢を見た。
事故に遭う夢だ。
一つは、恋人と共に死ぬ夢。互いに果てる直前、手を取り合った。
一つは、恋人だけが死に、自分は生き残ってしまう夢。泣き叫び、路頭に迷う自分が居た。
その映像はあまりにもリアルで悲しかった。
幸せな死、と、不幸の生。
──ドチラヲノゾム。
グニャリと、大和の体が闇の中でくずおれた。
焦点の合わぬ目を、闇が支配する。
「イキルコトハ辛い……ツライつらい……」
闇が消えた時、闇が怖いと言っていた娘もまた、消えていた。
午前八時三十分。
月刊アトラスでは、デスクを挟んで敏腕編集長とその部下が、顔を突き合わせていた。
「編集長ぉ、嫌ですぅ!」
「嫌も『モヤ』も無いわ。調べてらっしゃい」
「かか、可愛い部下が、飲み込まれても良いんですかぁ?!」
碇麗香は、チラリと三下を見上げた。
可愛いかどうか。
考えるまでもない事だ。
「『謎の怪現象を追う』──誰もが見たことのない核心を掴むのよ」
行け、と麗香の眼光が訴えた。
行って頂戴、では無い。
行け、だ。
これは命令なのである。
三下のこめかみに、嫌な汗が流れた。
「ただし、一人で行かないように。助っ人を呼んだから。貴方一人じゃ、間違いなく『殉職』決定ですものね」
「ひいぃぃぃ、へへへ、編集長おおぉぉ!」
嬉しいような悲しいような、三下の声が編集部にコダマした。
1 月刊アトラス
外は、蒸し暑かった。
黙っていても、腕や首筋がジットリと汗ばんでくる。空気は温く、水気を含んで重かった。
だが、ここにいると、それを忘れてしまう。
浄業院是戒は、冷気を吐き出している空調を見上げていた。
厳つい顔立ちに、大きくて力強い眼。それに、刈り込んだ髭。上背のある、がっしりとした体には僧衣をまとっていたが、裾は風雨にさらされ擦り切れていた。
冷房も暖房も、自然の起こす風のみの暮らし。
是戒は行脚僧だった。
「それじゃあ、繰り返すわね? 住所から──」
視界の隅では、麗香が電話の応対をしながら、メモを取っている。
声の主は、『モヤを見た』と言っているそうだ。これから是戒が、向かわなくてはならない場所になるだろう。
三下は、不安げに眉を潜めた。
「うう、噂じゃ無かったんですかぁ……」
「うむ。真偽のほどは定かでは無いが、碇殿の様子からすると、戯れ言を聞いているようには思えん」
是戒は難しい顔で頷いて、麗香を見た。
麗香は電話を終え、是戒にメモを差し出す。
「出たらしいわ。『谷中』ですって」
そこには住所と電話番号の他、名前が記されていた。場所は『台東区』とある。駅で言えば、『鶯谷』周辺だ。懐にメモをしまうと、是戒は頷いた。
「『カノウハナ』殿、と申されるか」
「ええ。若いお嬢さんよ。高校生ですって。ガセじゃなければ、数少ない『目撃者』の一人になるわ。詳しい話は本人から聞いて。他の皆には、直接向かうよう連絡を入れておくから」
「了承した。では、三下殿。参ろうではないか」
声をかけた是戒に、三下は情けない顔を向けた。
2 駅構内切符売り場
「あの『モヤ』を調べに行くって? 大変だねぇ。恋も経験せずに、殉職なんて不幸だな」
「そうでしょおおお? あぁあぁ、私は編集長に嫌われてるんですうぅぅ」
メソメソと泣く三下に、ケーナズ・ルクセンブルクは思わず微笑を浮かべた。
洒落たスーツに、怜悧な顔立ち。長い金色の髪を一つにまとめた、その立ち居は、撮影を抜け出してきた業界人のようだが、ケーナズは製薬会社の研究員である。
表向き、の話だが。
裏では『諜報員』と言う肩書きも持っていた。
ケーナズは、顔から微笑を消さず、三下を見下ろした。
「『気の毒』な三下君」
「あぁあ、気の毒だなんて、言わないで下さいいぃ!」
三下が泣けば泣くほど、ケーナズは微笑んだ。同情する場面だが、むしろこの状況は好ましい。内に巣くう嗜虐心が静かに揺すぶられるのだ。
ケーナズは楽しんでいた。
「フフ、悲しいかい? 大丈夫。キミの未来の為に、私も付いていってあげよう」
「えぇ、本当ですか!? うわぁ、嬉しいですぅう! さっき、『カノウハナ』さんって言う女子高生から、電話をもらったんです。モヤを見たらしくて。これから『谷中』まで会いに行くんですけど、一緒に来て下さいぃ!」
両目に涙を溜めたまま、三下は溌剌と笑った。
谷中と言えば、台東区だ。駅は『鶯谷』になる。
ケーナズは頷くと、ズラリと並んだ切符自販機に近寄った。
僧衣の男の隣に立つ。僧は、先程からずっと自販機の前に立っていた。
二人の視線がかち合う。
と、僧は面目無さそうに頭を掻いた。
「すまぬが。『谷中』までの切符を買うには、どうしたら良いのか教えてくれぬか?」
「ああぁっ!」
その声に、三下は血相を変えた。自分の財布から小銭を取り出し、切符を一枚購入する。
「ごめんなさい! 浄業院さんは機械に弱かったんですよねえぇ」
「いや、すまぬ。話の腰を折っては、と思ってな」
そう言って、是戒は癖の無い笑みを浮かべる。
「それならそうと、早く言ってくれれば良かったんだがねぇ」
ケーナズも微笑を返した。
3 目撃者
「ここ、ここよ」
赤茶色の短い髪と、白いシャツ。紺に緑のラインが入ったスカートは、股下より僅かに長い程度だ。叶花は、いわゆる、今どきの女子高生、と言った感じの娘であった。
自宅を囲うブロック塀の前に立ち、玄関の直ぐ脇辺りで指をグルグルと回す。ここに『モヤ』が居たと言う。
「こう、高く螺旋を描くように、渦巻いてたの。アタシが見たのは、消える直前だったけど。でも、アレは噂のモヤに間違いないわ」
是戒、ケーナズ、そして三下は、台東区谷中の花の家に訪れていた。集まった顔は他にもある。朧月桜夜だ。これで、五人となった。
谷中は寺と大きな霊園のある町だ。最後の将軍と謳われた徳川慶喜を筆頭に、鳩山一郎、横山大観などの著名人らも、この霊園に多く眠っている。
町並は昭和の初めを思わせる古い家屋が、家と家に挟まれて点在しており、そこだけ時間が止まっているように見えた。
いかにも下町の風情が、道の細さと、隙間無く寄り合って建つ軒に出ている。
花の家も、ゴミゴミとした十字の角に建っていた。
古さを感じる木造の二階建てである。花の部屋は、二階。ちょうど、モヤの出現した真上だと言う。
「それで、『それ』は何をしていた?」
ケーナズの問いかけに、花は「ううん」と唸った。
「さぁ。いたと思ったら、直ぐ消えちゃったから。ただ──」
口ごもる花に、今度は桜夜が訊ねる。
「何かあったの? あったなら、全部話してもらいたいのよね」
花は、モジモジとした後、「関係ないかも」と言う前置き付きで話し始めた。
「足音、なんだけど。多分、女の人ね。男の人の歩く音より、高くて軽かったから。それが、ウチの前で止まったきり、どこかに行っちゃったのよ」
桜夜はチラリと是戒を見た。
是戒は頷いて、先を促す。
「詳しい時間を、覚えておるかな?」
「モヤを見た時間と、ほぼ一緒よ。夜中の一時頃だったかな。試験勉強してたの。静かだったし、足音って響くから、結構遠くから聞こえてたのよね。少し急いでたみたい。なのに、角を曲がってから立ち止まって、そのまま」
花は、両手をパッと開いた。
消えた、と言いたいのだろう。
ケーナズは、目を細めた。
「例えばだが、どこかの家に入った可能性は無いだろうか? ドアの開閉音は、聞いた覚えは無いか?」
「無いわ。だって、アタシ、その事が気になって、窓の外を覗いたの。泥棒とか、ストーカーとかだったら怖いじゃない? もし、変なのが立ってたら、警察に電話しちゃおうかと思って。だから、どこかに隠れるような時間も、そんなに無かったはずなのよね」
「モヤを見たのは、その時か」
うん、と花は頷き、声のトーンを落とした。
「もしかして、やっぱり飲まれちゃったのかな。その人……」
誰も否定する者はいない。むしろ、噂に沿うなら、それが正解だろう。
「……うう、こ、怖いですぅ」
三下は、ブルッと身震いをした。
そして、キョロキョロと辺りを見回す。
どこまでも情けない三下に、桜夜は苦笑した。
「こんなに明るいうちから、出ないと思うけど。とりあえず、あたしは今晩、もう一度ここへ来てみようと思う。他に有力な情報も無さそうだし」
「うむ。それが良い。儂も、この周辺で待機しておくとしよう」
「また、現れると言う確証は無いが、仕方ない」
是戒と、ケーナズも同じ考えのようだ。二人は同時に頷いた。
「それじゃあ、一度、帰社しましょう。叶さん、ありがとうございました」
暇を告げる三下を、花は慌てて呼び止める。
「ね、これ、記事になる?」
女子高生の顔は、期待に輝いていた。
4 闇
厚い雲に空は覆われ、月は姿を消していた。
終電も終わった深夜一時。
昼には、信号ごとに長く車の連なる言問(こととい)通りも、時折、光の弾丸が一つ二つと駆け抜けていくのみである。
ケーナズと三下は通りを横切り、谷中地区へと入った。
ひときわ暗さを伴っている路地は、霊園に伸びる桜並木だ。春には花で埋まるが、今は茂った緑が闇と化している。暗い。
「ケーナズさん、『モヤ』は現れるでしょうか」
三下は泣きそうな顔をしている。
ケーナズは「わからない」と、首を振った。
「現れるかもしれないし、現れないかもしれない。とにかく、こちらが動かなければ、会う事も無いだろうな」
「うぅ……、はい。あの、何かあったら、よろしくお願いします。『殉職』はイヤですぅ」
「そうなったら、キミの分までたくさんの恋をしよう」
「っそ、そんなぁ!」
ケーナズと三下は、叶家を目指して進んだ。路地は狭く、細くなって行く。二人を挟んだ塀が、街灯にポツリポツリと照らし出されていた。
と、三下が立ち止まった。
「けけ、ケーナズさん。アレは何でしょう」
三下は前方を指さしている。
見えるのは、ただの『闇』だ。
「私には、何も見えないな」
「そそそ、そうですか? 私の目の錯覚でしょうか。ボンヤリした黒いモヤモヤが、街灯の向こうに見える気がするんですけど……」
ケーナズはもう一度、目を凝らした。
だが、やはり何も見えない。
視界の奥には、暗がりが広がっている。
ケーナズは三下を見つめた。
三下は、ガタガタと震えている。
「見えるのか」
「ははは、はい」
尋常ではない怯え方だ。
ケーナズは、神経を集中させた。
「私が先に行こう。キミは後からついて来ると良い」
コクリと、三下は頷く。
ケーナズは、躊躇も覚えず歩を進めた。
何も無い。何も見えない。
街灯を越え、再び闇に入る。
三下が突然、腰を抜かした。
前方を指さし、目を見開いてる。
「わっ、わあ、わああ! け、ケーナズさん! やや、やっぱりいますよう!」
ケーナズは、辺りを見回した。だが、そこには静かな町並みが広がっている。ケーナズは振り返って、三下を見た。三下は激しく震えていた。
「何も感じない……。良いか、三下君。少し、落ち着」
三下の目が見開かれた。ケーナズは異変を感じて、体をひねった。
と、視界一杯に真っ黒な何かが広がった。
それを意識した瞬間、その物体に三下もろとも飲まれた。
「わああああ!」
「三下君!」
三下の悲鳴を聞き、ケーナズはもがいた。
『モヤ』を掻き分け、三下の姿を探す。
肩に触れていたはずの手は、いつのまにか三下を離れ、闇を必死で掻いていた。
三下は視界から消えていた。
「何故だ、隣にいたはずだ!」
悲鳴は続いている。
「ッ!」
ケーナズは、闇に向かって身構えた。目だけで辺りを探る。
闇だ。
真っ黒な闇が、全てを支配していた。
『シアワセナシト、フコウセイ。ドチラヲノゾム』
土に埋もれているような。
砂嵐に掻き消され流されているような。
鮮明とも、不鮮明とも言える声が、突如、ケーナズの脳裏に問いかけてきた。
「キミが噂の闇か? 三下君をどうする気だね? あんなもの、飲んだ所で美味くはないだろう」
『シアワセナシト、フコウノセイ。シアワセナシト、フコウノセイ。シアワセナシト、フコウノセイ。シアワセナシト、フコウノセイ。ドチラヲノゾム。ドチラヲノゾム。ドチラヲノゾム』
不快極まりない、耳障りな音。
ケーナズは、ジリと地を踏みしめた。土はそこにある。
だが、視界は漆黒が覆っている。足下さえも見えない。
『ドチラヲノゾム。シアワセナシト、フコウノセイ。シアワセナシト、フコウノセイ』
モヤは、繰り返しケーナズに問いかけた。
「……考えるな」
ケーナズの記憶の片隅で、ある映像が蘇った。
「考えるな──」
飲まれてしまう。
ケーナズは闇を睨みつけた。
『シアワセナシト、フコウノセイ』
しあわせなしと、ふこうのせい。
幸せな死と、不幸の生。
それが幸せと呼べるのなら。
ケーナズは目を細めた。
闇が失せ、そこは真っ白な部屋となった。
ベッドが一つ置かれている。
寝ているのは、母だ。
延命装置に縛り付けられ、今、まさに命果てようとしている。
医師が何事かを囁き、断片で『臓器移植』と言う言葉が聞き取れた。
ケーナズは進み出た。
「私のを使ってくれ。胃でも、肺でも、心臓でも、好きな所を使うが良い」
見つめていた母の顔が、変わって行く。今度は妹になった。
その唇が、泣きながらケーナズの名を囁く。
ケーナズは、首を振った。
「気にする事はない。それで、二人が生きながらえるなら、私は幸せだ」
ケーナズの体は切り刻まれ、そして二人は生き残った。
「これで良い」
ケーナズは呟き、目を閉じた。心は穏やかに澄んでいた。
誰かの為に命を捧げる。
そして捧げられたものは、生き長らえる。素晴らしい事ではないか。
微笑するケーナズの耳に、泣き声が聞こえた。
妹の声では無い。
だが、聞き覚えのある声だ。
誰かが泣いている。
ケーナズは、再び目を開けた。
生きのびたはずの二人が、冷たい骸と化して横たわっていた。
泣いていたのは、自分だった。
自らの心が、泣いていたのだ。
ケーナズは不幸だった。手を尽くした二人が、死んでしまったのだ。残された悲しみが、ケーナズを襲った。
どちらが良い?
自問自答した。
『幸せな死』と、『不幸の生』──
どちらだ。
ケーナズの頭には、もはや二つの選択肢しか残されていなかった。
「決まっている……」
ケーナズの唇が、前者を囁きかけた時、横たわる二つの顔が涙を流した。
声もなく、ただボロボロと涙を流したのだ。
「何故、泣く……」
そこに、ケーナズ自身の悲しみが重なる。
死とは、全てを切り裂くもの。
生き残る者には、悲しみが刻まれて行く。
「なるほど……。これは『幸せな死』の続きと言う訳か。ならば迷う事はない」
ケーナズの顔に笑みが浮かんだ。
それは不敵な笑いだった。
「私は、『不幸の生』を選ぼう。死して幸せなど、ありはしない。自分の死が、誰かを不幸にするなら、それは『幸せ』とは言えない」
ザワ。
と、闇が動いた。
ケーナズは自分を取り戻していた。
「『不幸の生』か。だが、私はその不幸で、誰かを救う事が出来る。すでに果てた者と、同じ病に伏す者の為に、新薬開発という新しい道を開く事が出来る。だが、死んだらそれでお終いだ」
ザワザワザワ。
闇のざわめきに取り囲まれ、ケーナズは首を振った。
「『幸せな死』。つまらないな」
ザーッ──
すさまじい気のうねり。
それが、地を走り退いていった
途端、ケーナズは目が眩んだ。
光だ。
目を細める。
煌々と街灯が煌めいていた。闇が消滅したのだ。
「大丈夫?」
声をかけられて振り返ると、倒れた三下のそばに、桜夜と是戒が膝を付いていた。
「ああ、問題ない。三下君は大丈夫かい?」
ケーナズは、三下の顔を覗き込んだ。
息はある。どうやら、気を失っているだけのようだ。
是戒も大事ないと、頷いた。
「それにしても、ビックリしたわよ。二人が飲み込まれるのが見えたから、飛び込んだの」
と、桜夜は肩をすくめた。
「だが、踏み込んだ途端に、何もかもを見失った」
是戒も苦い笑みを浮かべる。
ケーナズは三下を見下ろした。
意志の強い者達でさえ流されかけたのだ。もし、三下だけであれば、『あの世界』から戻れなくなっていた事は明らかだ。
麗香の読みは正しかったのである。
三下は『殉職』を免れた。
半ば眼鏡の外れかけた青白い顔は、どこか間が抜けている。
「──暢気なものだな」
そう感じるのも、生きていればこそ、だろう。
生きていなければ、不幸も幸せも無い。
それは、ケーナズの名の意味に反する。
「『不幸な生』など、続きはしない。生きてこそ、やってくるものがある」
それは──『希望』。
名が背負うもの。
二人はケーナズの言葉に、微笑を浮かべ頷いた。
0 怪
『闇』とは──
人の心に潜む『あやかし』。
そこには、筋も無ければ道理も無い。
ただ、『その存在』があるのみである。
終
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 (年齢) > 性別 / 職業】
【1481 / ケーナズ・ルクセンブルク(25)】
男 / 製薬会社研究員(諜報員)
【0444 / 朧月・桜夜 / おぼろづき・さくや(16)】
女 / 陰陽師
【0838 / 浄業院・是戒 / じょうごういん・ぜかい(55)】
男 / 真言宗・大阿闍梨位の密教僧
-----------------------------------------------別構成
【0615 / 桐守・凛子 / きりもり・りんこ(19)】
女 / 結界師
【0733 / 沙倉・唯為 / さくら・ゆい(27)】
男 / 妖狩り
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■ あとがき ■
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こんにちわ、紺野です。
大遅刻です! 申し訳ありません!
大変遅くなりましたが、『怪』をお届け致します。
この度は、当依頼を解決して下さりありがとうございました。
『怪』は、シリーズ物にしようと思っていたりします。
次なる『あやかし』でも、皆様とお逢いできると嬉しいです。
それから今回は、パラレル形式を取りました。
皆さん一人一人の描写が濃くなっていると良いのですが……。
苦情や、もうちょっとこうして欲しいなどのご意見は、
喜んで次回の参考にさせて頂きますので、
どんな細かい事でもお寄せ頂ければと思います。
今後の皆様のご活躍を心からお祈りしつつ、
またお逢いできますよう……
紺野ふずき 拝
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