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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


怪 ─闇─

 オープニング

『怪』──あやしきに、道理はない。
 
 コツコツと、足音が響く。
 台東区上野桜木。平日の深夜一時。寺多く、入り組んだ町に人気はない。
 中内・大和(なかうち・やまと)は、家路を急いでいた。
 鶯谷の駅を下り、巨大な霊園を左手に言問通りを渡る。そこから谷中へ向かい住宅地に折れるのだが、寝静まった町に点在する街灯は、全てを照らし出すには不十分だった。
 闇だ。
 闇に向かって歩き、闇に追いかけられて進む。
 空に月は無く、しっとりと水気を含んだ暗がりが、体にまとわりついた。
 急かされるように、その闇を切って歩く。
 怖かったのだ。
 ひしひしと迫る『闇』が。
(なんでこんな日に限って残業なのよ。あんな話……聞くんじゃなかった)
 大和は深い溜息をついた。
 いつもなら、こんなに遅くなる事は無い。
 七時には見もしないテレビの前を陣取り、その日の愚痴を受話器の向こうへ漏らしている。
 だが後輩が休み、彼女の仕事が回ってきた事と、前日に出した企画が倒れ練り直しに悪戦苦闘した事が重なって、終電のお世話になると言う始末だ。
 よりによって、こんな日に。
「あんな話……聞くんじゃなかった」
 わざと外へ出した言葉には、憂いと後悔が滲んだ。
 駅から家までの、徒歩二十分。近いと思った事は無い道のりだが、今日はいっそう遠く思える。
 大和は緊張した面持ちで、足を急がせた。
 とにかく早く家に辿り着きたかったのだ。
 闇が、怖かった。
 ──『人を食う霧』。
 週刊誌では『東京神隠し』と呼ばれている。
 最近になって降って湧いた、この話のせいだ。
 昼に同僚達と話していた時は、たわいもない噂の一つだった。
 深夜一人で歩いていると、黒い『もや』が現れて、そこに飲み込まれてしまうと言う。そして、そうなってしまった者は、消え失せてしまうそうだ。
 おしゃべりな後輩は、よくある都市伝説じゃないかと言った。
 例えば黒いもやは何かの組織で、本当は飲み込まれたのではなく、さらわれてしまったと言うような。
 突然、歩いていた人が消えてしまうなど、夢物語の絵空事だと、ワイドショーの司会者も笑っていた。
 現実としてそんな事は、あり得ない。
 そもそも被害者さえハッキリしないのだ。
 だが、どちらにしても、今の大和には怖かった。
 深夜と言う時間。たった一人と言う心細さ。くわえて周囲に横たわるこの闇を見ていると、笑えない気持ちになってくる。 
 大和はゴクリと咽を鳴らした。
 上着のポケットに突っ込んだままの携帯を握りしめる。
 恋人に電話でもかければ、気が紛れるだろうか。
 二十三才にもなって、暗がりが怖いなどと言ったら、きっと笑うだろう。
 噂だ。噂なのだ。
 しかし──。
 先程から同じ間隔を保って移動している、一際暗い『アレ』は一体何なのだろう。
 いくら速度を変えようと、縮まりも遠ざかりもしない、あの前方の黒いモヤ。
 怖いと思う心理が生み出した錯覚なのだろうか。
 そうだ。
 あれはただの『闇』だ。
 動きもしなければ、生きてもいない。
 大和は自分に、言い聞かせた。
 家は角を曲がれば直ぐそこだ。
 足音は、いつのまにか小走りに変わっていた。
 ふと、嫌な考えが過ぎった。
 もし、曲がり角で、あの黒い『もや』が待っていたら?
「大丈夫。大丈夫。そんな事は無い。早く、家に帰ってシャワーを浴びて……」
 クルリと、十字路を左に折れた。
 そこで大和は歩くのを止めた。
 黒い。
 黒い墨。
 闇より深い漆黒が、目の前でグルグルと螺旋を描いていた。
「──!」
 闇は、大和に問いかけた。
 ──シアワセナ『シ』ト、フコウノ『セイ』、ドチラヲノゾム。
 声で、では無い。
 心に、だ。
 大和はそれを、理解する事ができなかった。
 恐怖で思考が凍りついていたのだ。
 躊躇い、後ずさる大和を闇は取り巻いた。
 その瞬間、大和の脳裏から思考が消えた。
 頭に、心に、闇は語りかけた。
 大和は、夢を見た。
 事故に遭う夢だ。
 一つは、恋人と共に死ぬ夢。互いに果てる直前、手を取り合った。
 一つは、恋人だけが死に、自分は生き残ってしまう夢。泣き叫び、路頭に迷う自分が居た。
 その映像はあまりにもリアルで悲しかった。
 幸せな死、と、不幸の生。
 ──ドチラヲノゾム。
 グニャリと、大和の体が闇の中でくずおれた。
 焦点の合わぬ目を、闇が支配する。
「イキルコトハ辛い……ツライつらい……」

 闇が消えた時、闇が怖いと言っていた娘もまた、消えていた。

 
 午前八時三十分。
 月刊アトラスでは、デスクを挟んで敏腕編集長とその部下が、顔を突き合わせていた。
「編集長ぉ、嫌ですぅ!」
「嫌も『モヤ』も無いわ。調べてらっしゃい」
「かか、可愛い部下が、飲み込まれても良いんですかぁ?!」
 碇麗香は、チラリと三下を見上げた。
 可愛いかどうか。
 考えるまでもない事だ。
「『謎の怪現象を追う』──誰もが見たことのない核心を掴むのよ」
 行け、と麗香の眼光が訴えた。
 行って頂戴、では無い。
 行け、だ。
 これは命令なのである。
 三下のこめかみに、嫌な汗が流れた。
「ただし、一人で行かないように。助っ人を呼んだから。貴方一人じゃ、間違いなく『殉職』決定ですものね」
「ひいぃぃぃ、へへへ、編集長おおぉぉ!」
 嬉しいような悲しいような、三下の声が編集部にコダマした。

   1 唯為自宅

『上野でホームレスが、モヤに喰われていた』
『新宿の、とある公園で見た』
『会社の帰り道に、電柱の裏にいたアレがそうだと思う』
『夜中に目が覚めたら、いつのまにか部屋にいた』
 沙倉唯為は溜息をついた。
 細い眉を寄せ腕を組む。黒髪とは対照的な銀の瞳は、目の前のモニターを見つめていた。
 ネットに寄せられた情報は、全て胡散臭く思える。何を信じて、何を追うべきか。
 例え、真実がどこかに紛れていたとしても、見つけだすのは不可能に近いだろう。匿名の上、メールアドレスも記載されていない。イタズラではないと、言い切れなかった。
 しかも、これまでに出た関連記事が、全て『週刊誌』の類とある。具体的な場所どころか、被害者の実名も載ってはいない。信憑性は薄く、全ては『噂』のままであった。
「さて……コイツを、どうしたもんだろうな。被害者は不明。出没場所も曖昧。具体的に名の出ている場所はあるが……。まず、そこから探りを入れるか。『モヤ』に、お会いできん事には意味がないしな」
 唯為が考えあぐねていると、電話が鳴った。組んでいた足を解き、立ちあがる。
 受話器から聞こえる声の主は、碇麗香であった。
「何か進展でもあったのか?」
 唯為の問いに、麗香は間髪置かず答えた。
『ええ。今から言う場所に向かって欲しいの。場所は「台東区谷中」よ』
「そこに『出た』のか? なんて、都合の良い展開にはならないだろうな」
 唯為はニヤリと笑い、パソコンの電源を落とした。真っ黒になった画面に、長身の影が映りこむ。
『その通りよ。「目撃者」から、連絡が入ったの』
「それは願っても無いな。直ぐに向かおう。詳しく教えてくれ」
 麗香の声を聞きながら、唯為は身支度を始めた。ジャケットを羽織り、刀を手にする。
 その名は『緋櫻(ひおう)』。
 妖狩りを生業とする一族の、当主にのみ持つことが許された日本刀である。
 唯為は、それを腰に落とした。
『――なんだけど、大丈夫かしら?』
「ああ。『カノウハナ』。女子高生か。話が『嘘』じゃなければ、良いんだが」
『そうね……。とにかく、三下君をお願いね』
 受話器の向こうで、麗香が肩をすくめたような気がして、唯為は小さく微笑した。
 
   2 某家にて、凛子
 
 リン──
 と、鈴が鳴った。
 桐守凛子が肌身離さず持っている、大事な鈴である。結界師として動くには、この鈴が欠かせない。
 それが着物の袷で揺れたのだ。
 凛子は長い黒髪を透いて整えると、鏡を覗き込んだ。
 身支度は全て終わり、後は外へ出るだけとなっている。
 今日は、朝一番で主の為の日課を終えた。
 掃除、洗濯、朝食と全て抜かりはない。
 鈴も、さぞかし落ち着かなかった事だろう。
 凛子は辺りにザッと気を配り、やり残しが無いかどうかを確かめた。
「お茶の葉も、大丈夫。そろそろ出かけないといけませんわね」
 いつになく引き締めた目元を、テーブルに落とす。
 主への書き置きを、凛子はそこに残した。
 噂によれば、『モヤ』の出現時間は深夜。
 となれば、少なくとも、その時間まで戻れない。
 主を一人置いていく事に、少なからず不安を覚えたが、出かけない事には始まらなかった。
「『人を飲むモヤ』……、全く物騒なお話ですわ」
 ざっと、目を通したゴシップ記事では、いかにも『隣の事件』のように記されていた。だが、果たして、実在するものなのだろうか。
 新宿の『とある公園』で『Sさん』がモヤに飲み込まれ、また上野では、ホームレスが襲われて行方不明になっている『らしい』。
 これでは、要素が不確定過ぎて、信じる気にはなれない。足で情報を集めて回るしか無かった。
「行って参ります」
 凛子は誰にともなく、留守を告げた。
 と、一本の電話が鳴った。
 受話器に耳を押しつける。
 声には聞き覚えがあった。
 碇麗香である。
『例の件で、進展があったの。目撃者が現れたわ。女子高生で、名前は「カノウハナ」。場所は台東区谷中よ』
「それが本当なら『モヤ』に近づく一歩となりますわね。分かりました。直ぐに向かわせて頂きます」
 闇に光とは、まさにこのことだろう。
 凛子は麗香の話をメモに控え、もう一度、書き置きに目をやった。
 主は一人で、食事を取れるだろうか。
 そんな些細な事を気にしながら、凛子は家を後にした。

   3 目撃者

「ここ、ここよ」
 赤茶色の短い髪と、白いシャツ。紺に緑のラインが入ったスカートは、股下より僅かに長い程度だ。叶花は、いわゆる今どきの女子高生、と言った感じの娘であった。
 自宅を囲うブロック塀の前に立ち、玄関の直ぐ脇辺りで指をグルグルと回す。ここに『モヤ』が居たと言う。
「こう、高く螺旋を描くように渦巻いてたの。アタシが見たのは、消える直前だったけど。でも、アレは噂のモヤに間違いないわ」
 凛子は台東区谷中の、『花』の家に訪れていた。集まった顔は他にもある。沙倉唯為と三下だ。
 唯為の顔を見た途端、凛子は言葉を失った。思う事はあったが、とにかく口を噤む。
 花の話を聞く事に専念した。
 谷中は寺と大きな霊園のある町だ。最後の将軍と謳われた徳川慶喜を筆頭に、鳩山一郎、横山大観などの著名人らも、この霊園に多く眠っている。
 町並は昭和の初めを思わせる古い家屋が、家と家に挟まれて点在しており、そこだけ時間が止まっているように見えた。
 いかにも下町の風情が、道の細さと、隙間無く寄り合って建つ軒に出ている。
 花の家も、ゴミゴミとした十字の角に建っていた。
 古さを感じる木造の二階建てである。花の部屋は二階。ちょうどモヤの出現した真上だと言う。
「それで、モヤは現れただけだったのか?」
 唯為の問いに、花は「ううん」と唸った。
「よく、わかんない。だって、居たと思ったら直ぐ消えちゃったし。ただ──」
 口ごもる花に、今度は凛子が訊ねた。
「何か気付いた事でも?」
「うん。足音、なんだけど。多分、女の人ね。男の人の歩く音より、高くて軽かったから。それがウチの前で止まったきり、どこかに行っちゃったのよ」
 凛子は唯為をチラリと見た。
 唯為は頷いて、先を促す。
「それは何時のお話でしょうか」
「モヤを見た時間と、ほぼ一緒よ。夜中の一時頃だったかな。試験勉強してたの。静かだったし、足音って響くから、結構遠くから聞こえてたのよね。少し急いでたみたい。なのに、角を曲がってから立ち止まって、そのまま」
 花は、両手をパッと開いた。
 消えた、と言いたいのだろう。
 唯為は、目を細めた。
「どこかの家に入った可能性は? ドアの開閉音は、聞こえなかったか?」
「聞いた覚え無いなあ。だって、アタシ、その事が気になって、窓の外を覗いたの。泥棒とか、ストーカーとかだったら怖いじゃない? もし、変なのが立ってたら、警察に電話しちゃおうかと思って。だから、どこかに隠れるような時間も、そんなに無かったはずなのよね」
「モヤを見たのは、その時か」 
 うん、と花は頷いた。
 ある考えが過ぎったが、唯為はそれを口にしなかった。だが、やはり花もそう思っていたようだ。
「もしかして、やっぱりモヤに飲まれちゃったのかな。その人……」
 と、声のトーンを落とす。
 凛子も、それを否定出来なかった。
「もし、そうであれば、昨夜から戻っていないはずですわ。足音の主がこの周辺の方なら、聞き込みで何か手がかりが得られるかもしれません」 
「そうだな。それと今晩、この周辺を張ってみるか。今のところ、これ以外に有力な手がかりも無い。お目に掛からない事には、何も始まらないからな」
「そうですね。じゃあ、一度、帰社しましょう。叶さん、ありがとうございました」
 三下は仰々しく頭を下げ、花に暇を告げた。
 花は慌てて、三下を呼び止める。
「ね、これ、記事になる?」
 女子高生の顔は、期待に輝いていた。
 
「それにしても……お忙しい本家御当主様と、こんな所でお逢い出来るとは、思っておりませんでしたわ」
 少し曲のある微笑を浮かべた凛子に、唯為はニコリと笑った。
「──麗香から連絡を受けた。凛子もだろう?」
「ええ。目的は同じ。か弱い女一人では不安でしたので、不本意ですが、ご一緒させて頂きます」
 見えぬ火花が二人の間に散る。
「好きにすると良い。モヤだか何だか知らんが、それが『妖』であるなら、狩らねばならん」
 三下がオロオロと、二人の間で冷たい汗を流した。

   4 失踪
 
 娘は昨日から、消息を絶っていた。
 会社のタイムカードによれば、終業は午前十二時二十分。
「遅くなる」と、電話があったのは八時過ぎだ。以降、連絡が取れないと言う。
「あの子の携帯は、もちろん。知っているお友達にも、電話を入れました。でも、全く行方が分からないんです」
「警察には?」
「届けました。自分から出ていくような理由がないか、考えてくれと言われて。きっと、家出を疑ってるんです」
 表札には、中内と書かれていた。
 凛子と唯為、それに三下は、花の家から十数軒しか離れていないこの家に、行方不明の娘を見つけた。
 無断外泊も、携帯電話から流れる圏外のアナウンスも、これまでに無かった事だと、母親は言う。
「心当たりは、ございませんか? 何か思い詰めていた事や、悩んでいた事は……」
 三人で圧しては。
 凛子の気遣いから、唯為と三下は表で待つ事になった。
 それに聞き込みは凛子の得意とするところ。日頃、主に仕える従順な態度と物腰は、警察の対応に疲れた母に効果があった。母は凛子に本音をさらした。
「無いとは言えないでしょう。年頃の娘です。色々と考えていたはずですから。でも、黙って家から出ていくような理由なんて、思いつきません。あの子はそんな子じゃない。出ていく理由なんて絶対にありません」
 母親は哀しげ目で、凛子を見つめた。
 おそらく、何度も警察にそう言った事を尋ねられたのだろう。母の目には、失望が感じ取れた。
「ええ。お母様。私は、お嬢さんが家出なさったとは、思っておりません。ただ、調査が正しい方向へ進む為には、聞いておかなければならないのです。お辛いのは分かります。ですが、もし気づかれた事があるなら、全てお話して頂けませんでしょうか」
 自分の母ほども年の離れた女を、凛子はなだめ諭した。
 娘の名は大和と言う。すでに嫁いだ姉と二人姉妹で、母との仲は良かったようだ。良く二人で、買い物や映画に出かけたそうだ。
「お母様……?」
 凛子は首を傾げ、憂う母の顔を覗き込んだ。
 大和の母は、分かったというように頷く。
「悩みがあったとすれば……。きっと、彼の事でしょう」
「恋人、でございますか?」
「はい。高校時代から、ずっと付き合っている子がいるんですが、最近、彼とはあまり上手くいっていないようでした」
 ニャア、と声がして猫が廊下を歩いてきた。すり寄ってくるそれを、母は抱き上げる。
 それ以上、母は話したく無いようだった。
 凛子と、目を合わそうとしない。
 やはり家出だと思われるのが嫌なのだろう。
 話を切り上げ、凛子は家の外へ出た。
 塀にもたれていた唯為と三下が、その気配に気づく。
「どうだった? 飲まれたのは、ここの娘に間違いないか?」
「ええ、会社を引き上げたのが、午前十二時過ぎ……。真っ直ぐに家を目指したとすれば、モヤの現れた時刻に、あの場所を過ぎる事になりますわ。恐らく、彼女でしょう」
 凛子が歩き始めたその隣に、三下が並んだ。
「モヤは彼女を、偶然襲ったんでしょうか」
「それが問題だ。人選基準もなく行き当たりばったりだとしたら、よほどの食い盛りに違いない。それとも彼女が何か特別だったのか……」
 唯為の腰で太刀が揺れる。
 凛子は、静かに首を振った。
「いいえ。特別じゃありませんわ。どこにでもいる、『恋に悩む普通の娘』さんです」
「悩む、か。そう言った類は、己の迷いや弱さが呼び寄せると言った感が強い。その悩みとやらに、惹き付けられたのかもしれんな」
 凛子は、目だけで唯為を見た。
「ただでさえ、『闇』は人の不安を煽りますわ。そんな危険は、排除しなければなりません」
「違いない」
 意見は一致したようだ。
 涼やかな凛子の横顔に向かって、唯為は頷いた。
 
   5 闇
 
 厚い雲に空は覆われ、月は姿を消している。
 終電も終わった深夜一時。
 昼には、信号ごとに長く車の連なる言問(こととい)通りも、時折、光の弾丸が一つ二つと駆け抜けていくのみである。
 唯為、凛子、三下の三人は通りを横切り、谷中地区へと入った。
 ひときわ暗さを伴っている路地は、霊園に伸びる桜並木だ。春には花で埋まるが、今は茂った緑が闇と化している。暗い。
「凛子さん、沙倉さん……。『モヤ』は現れるでしょうか」
 三下は泣きそうな顔をしている。
 唯為は、わからないと首を振った。
「現れるかもしれんし、現れないかもしれんな。どちらにしても、こちらが動かなければ会えないだろう」
「うぅ……、はい。あの、何かあったら、よろしくお願いします。『殉職』はイヤですぅ」
 凛子は三下に笑いかける。
「三下様。あまり怖がられるのも、どうかと思いますわ。払えるものも払えなくなります。お気を丈夫にお持ち下さい」
 三人は、叶家を目指して進んだ。路地は狭く、細くなって行く。一行を挟んだ塀が、街灯にポツリポツリと照らし出されていた。
 と、三下が立ち止まった。
「ああ、アレは何でしょう」
 三下は前方を指さしている。
 見えるのは、ただの『闇』だ。
 唯為は、怪訝な顔で三下を見た。
「何も見えんが」
「私も、見えませんわ」
「そそそ、そうですか? 私の目の錯覚でしょうか。ボンヤリした黒いモヤモヤが、街灯の向こうに見える気がするんですけど……」
 二人はもう一度、目を凝らした。
 だが、やはり何も見えない。
 視界の奥には、暗がりが広がっている。
 凛子は三下を見つめた。
 三下は、ガタガタと震えている。
「見えるのですね?」
「ははは、はい」
 尋常ではない怯え方だ。
 唯為は刀の柄に、凛子は鈴に手をかけた。
「俺が先に行こう」
 モヤの存在はまだ確認できない。
 唯為は、三下の反応を確かめながら、歩を進めた。
 何も無い。何も見えない。
 街灯を越え、再び闇に入る。
 三下が突然、腰を抜かした。
 前方を指さし、目を剥いている。
「わっ、わあ、わああ! やや、やっぱりいますよう!」
 凛子は辺りを見回した。だが、そこには静かな町並みが広がっている。唯為は三下の肩に手をかけた。ビクリと体が跳ねる。
「どこにいる?! 俺には見え」
 三下が『何か』を凝視した。
 凛子は見た。
 唯為の直ぐ背後だ。
 モヤがいる。
「御当主様!」
 凛子は鈴を取った。
 唯為は体をひねって、振り返った。
 だが、二人が攻撃をしかけるより早く、闇は全てを飲み込んだ。
「わああああ!」
 三下の絶叫。
「三下様!」
 その声を聞き、凛子はもがいた。
『モヤ』を掻き分け、三下の姿を探す。
 すぐ傍にいたはずの三下は、いつのまにか視界から消えていた。
 闇だ。
 闇が何もかもを、覆い隠している。
 唯為さえも、見えなかった。
「御当主様! 三下様!」
 三下の悲鳴は続いている。
「っ!」
 凛子は、鈴を構えた。
 結界を張ろうとした、その時だ。
 凛子の頭に、語りかけてくるものがあった。
『シアワセナシト、フコウセイ。ドチラヲノゾム』
 土に埋もれているような。
 砂嵐に掻き消され流されているような。
 鮮明とも、不鮮明とも言える声が、凛子の脳裏に問いかけてくる。
「何者でございましょうか。私は、そう簡単に飲まれませんわよ?」
『シアワセナシト、フコウノセイ。シアワセナシト、フコウノセイ。シアワセナシト、フコウノセイ。シアワセナシト、フコウノセイ。ドチラヲノゾム。ドチラヲノゾム。ドチラヲノゾム』
 不快極まりない、耳障りな音。
 凛子は、ジリと地を踏みしめた。土はそこにある。
 だが、視界は漆黒の闇だ。足下も見えない。
『ドチラヲノゾム。シアワセナシト、フコウノセイ。シアワセナシト、フコウノセイ』
 モヤは、繰り返し凛子に問いかけた。
「……駄目」
 凛子の記憶の片隅に、ある映像が走った。
「いけない。考えては──」
 飲まれてしまう。
 凛子の手が鈴を握りしめた。
『シアワセナシト、フコウノセイ』
 しあわせなしと、ふこうのせい。
 幸せな死と、不幸の生。
 それが幸せと呼べるのなら。
 凛子は目を細めた。
 闇が失せ、視界が白い霧の世界に変わった。
 ポツリと佇む者がいる。
 主だ。
「御主様……」
 凛子は呟いた。
 見慣れた銀髪が、サラリと揺れた。
 主は静かに振り返り、凛子をじっと見つめてくる。
 と、地から現れた黒い影が、主に襲いかかった。
「御主様!」
 凛子は走った。
 影は、主を包み込もうとしている。
 凛子は主を突き飛ばし、身代わりとなって影に飲まれた。
 ドクン──と、心臓が鳴った。
 大きな血の逆流を感じて、凛子は跪いた。
 眩暈と、喀血。
 手が血で汚れた。
「御……」
 スローモーションで視界が傾ぎ、凛子は崩折れた。
 死ぬのだ。
 それは直感だった。
 だが、主を護った上での事。
 これこそが天命。悔いはない。
 淡い微笑を浮かべる凛子に、主の手が伸びた。
 主が何かを言っているが、凛子には聞こえなかった。
 ただ、主の表情が気になった。
 凛子はそのまま目を閉じた。
 死ぬのだ。
 これは、『幸せな死』だ。
 だが、何か引っかかる。
 主の顔だ。
 顔。
 凛子は、ゆっくりと目を開けた。
 辺りは闇に戻っている。
 と、護り抜いたはずの主が、そこに倒れていた。
 凛子は慌てて主を抱き起こした。
 冷たい。
 すでに命果てている。
 凛子は絶句した。
 護る為に仕え、主を生きる糧とした。
 なのに、その主が死に、自分は生き残っていた。
 不幸。
 これは、不幸なのだ。
 生きながら、逃れる事の無い不幸。
「こんな……」
 主の青ざめた冷たい顔を、凛子は撫でた。
 薄い薄い微笑で、主は笑っている。
「御主様を亡くして、私の存在にどんな意味があると……?」
 凛子の頬に涙が流れた。
 それが主の動かない瞼に落ちる。
「こんな……『不幸の生』は、いりません。私は――」
 自らが消えようとも、主の在る世界を願う。
 そう、凛子は言いかけた。
 しかし、その瞬間に凛子の脳裏を、先程の違和感が駆け抜けた。
 顔だ。
 主の、あの顔。
 凛子は、涙を拭った。
 その手を見つめる。
『幸せな死』――そんなものが本当にあるのだろうか。
 主が倒れ、凛子はこんなにも悲しい。
 死とは、悲しいものなのだ。
 それを、主に与えようと言うのだろうか。
 主の顔を曇らせて、『幸せ』な死などあり得ない。
 感じたあの違和感。
 主は、凛子が倒れて泣いていたのだ。
「主を哀しませる事。私にとって、それは『不幸な死』。幸せな死など、結局どこにもありませんわ」
 凛子は、主の体をそっと地に下ろした。
 立ち上がり、周囲を取り巻く闇を睨みつける。
「それに、私がいる以上、御主様を失うなどという『不幸の生』も、あり得ません」
 凛子は、鈴を突き出した。
 闇がざわめく。
「去りなさい。ここにはあなたの問いかけに飲まれるような、弱い者はいませんわ。私には護るべきものがあります。その為にも、死ぬわけにはいきませんの」
 ザーッ──
 すさまじい気のうねりが、風を起こした。
 バタバタと着物の裾が泳ぐ。
 大きな波動が、地を這い、走り、退いていく。
 凛子は、目を閉じて髪を押さえた。
 そして、それが過ぎるのを待った。
 やがて、風が止み、辺りに静寂が訪れた。
 目を開ける。
 頭上から光が降り注いだ。
 街灯だ。凛子を煌々と照らしている。
 闇は跡形も無く消失し、辺りは元の暗がりに戻っていた。
「大丈夫だったか?」
 声をかけられて振り返ると、倒れた三下のそばに、唯為が膝をついていた。
「ええ。御当主様もご無事で……」
 凛子は、三下の顔を覗き込んだ。
 息はある。
 唯為も、大丈夫だと頷いた。
「気を失っているようだが、命には別状ない」
「そのようですわね」
 凛子は、三下を見下ろした。
 意志の強い者達でさえ流されかけたのだ。もし、三下だけであれば、『あの世界』から戻れなくなっていた事は明らかだ。
 麗香の読みは正しかったのである。
 三下は『殉職』を免れた。
 半ば眼鏡の外れかけたその顔は、何処か間が抜けていた。
「三下様は、どんなものを見たのでしょう」
「さあな。凛子は何を見た」
 唯為の問いに、凛子は肩をすくめる。
『幸せな死』と、『不幸の生』。どちらも夢見の悪い絵に過ぎない。そして、どちらも望んでいない。
「憶えておりませんわ」
 と、凛子は言葉を濁した。
「ただ――」
「ただ?」
 凛子の胸の中。
 そこで、笑いかける者がいる。
 少し苦い微笑。
 それこそが、凛子の『希望』であり『生』。
 無くして、幸せなどあり得ない。
「私が望んでいるのは『幸せな生』ですの。『幸せな死』も、『不幸の生』もどちらかなんて、選べませんわ」
「確かに」
 頷く唯為に、凛子は強い笑みを浮かべてみせた。

   6 中内大和

 翌日――
 中内大和は、東京都O市の山林で気を失って倒れている所を発見された。
 自分は何故、こんな所にいるのかと、それが第一声だったと言う。
 関係者を驚かせたのは、大和の髪だ。
 どこを、何を越えてきたのか。
 或いは、人が足を踏み入れてはならない領域を越えたのかもしれない。
 彼女の髪は白髪に変わっていたそうだ。

   0 怪

『闇』とは──
 人の心に潜む『あやかし』。
 筋も無ければ道理も無い。
 ただ、『その存在』があるのみである。




                        終




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 (年齢) > 性別 / 職業】


【0615 / 桐守・凛子 / きりもり・りんこ(19)】
     女 / 結界師  


【0733 / 沙倉・唯為 / さくら・ゆい(27)】
     男 / 妖狩り



----------------------------------------------別構成


【0444 / 朧月・桜夜 / おぼろづき・さくや(16)】
     女 / 陰陽師

【0838 / 浄業院・是戒 / じょうごういん・ぜかい(55)】
     男 / 真言宗・大阿闍梨位の密教僧
 
【1481 / ケーナズ・ルクセンブルク(25)】
     男 / 製薬会社研究員(諜報員)

     
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■          あとがき           ■
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 こんにちわ、紺野です。
 大遅刻です! 申し訳ありません!
 大変遅くなりましたが、『怪』をお届け致します。
 この度は、当依頼を解決して下さりありがとうございました。
 『怪』は、シリーズ物にしようと思っていたりします。
 次なる『あやかし』でも、皆様とお逢いできると嬉しいです。

 それから今回は、パラレル形式を取りました。
 皆さん一人一人の描写が濃くなっていると良いのですが……。
 
 苦情や、もうちょっとこうして欲しいなどのご意見は、
 喜んで次回の参考にさせて頂きますので、
 どんな細かい事でもお寄せ頂ければと思います。

 今後の皆様のご活躍を心からお祈りしつつ、
 またお逢いできますよう……
 
                   紺野ふずき 拝