コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


桜幻想  〜時の砂粒〜



 編集部は、いつも喧噪に満ちている。
 これは新聞社だろうと雑誌社だろうとテレビ局だろうと、報道をつかさどる場所では同様だ。
 とはいえ、
「惨憺たるありさまね。野戦病院じゃあるまいし」
 黒か髪を掻き上げ、不知火響が嘆息する。
「仕方ないじゃない。夏は稼ぎ時なのよ」
 苦笑を浮かべるのは碇麗香。
 月刊アトラスという雑誌の編集長。
 響とは同年の友人である。
 三〇にもならぬ身で大層な出世ともいえるが、あまり羨望される境遇とはいえない。
「怪談のシーズンだもんね」
「そうそう。夏は花火と怪談って相場が決まってるから」
 アトラスは、オカルトの専門誌だ。
 しかも、インチキオカルト雑誌だ。
 信憑性など限りなくゼロに近い。
 信じる人間がいるなら、その人は精神科にでもかかった方が良いわね。
 とは、編集長さま自らが響に語った言葉である。
 やや呆れつつも、納得する黒髪黒瞳の美女だった。
 麗香たちが作っているのはあくまで「読み物」であり、新聞などのように事実を報道しているわけではない。
 より面白く、より神秘的に。
「それ以上のことを求められる筋合いは、どこにもないわよ」
「ふふ‥‥じゃあそういうことにしておいてあげる」
 婉然たる微笑を刻む響。
 たとえ公的に認めらることがなくとも、アトラスがときに事実を書いていることを、彼女は知っていた。
「で、なんの用よ?」
 少しだけばつが悪そうに麗香が話題を変える。
「用ってほどでもないわ。今夜いっぱいどう? って誘いにきただけ」
「悪いわね‥‥」
「気にしないで。この状況をみれば無理なことくらいは判るわ」
 酒を呑みに行くどころか、麗香は休息すらろくに取っていないのだろう。
 秀麗と評しても良い顔には疲労の影が濃い。
「まあ、別の機会に誘うわ」
 言って、響が席を立とうとする。
「あ、ちょっと待って。響」
 なぜか編集長が呼び止めた。


 炯々と。
 紅い月が照らす。
 鼻腔をくすぐる濃密な花の香り。
「‥‥もう、季節は終わってるのにね‥‥」
 響の呟き。
 とある高等学校の裏庭。
 時に忘れられたかのように狂い咲く桜。
 見上げる枝に灯る、想い。
「ホント‥‥厄介なことを押しつけてくれちゃって‥‥」
 自嘲めいた言葉が、紅唇を震わせる。
 麗香に頼まれたのだ。
 この桜を見てきて欲しい、と。
「嫌いなのよね‥‥桜って‥‥」
 知らず、左手が黒髪を掻き上げる。
 表情と偽悪を隠すために。
 降りそそぐ花弁。
 月明かりに揺らめきながら、彼女の姿を覆い隠してゆく。
 満ちる、血の匂い。
 あのときと同じように。


 時の大河をさかのぼる孤舟は、やがて数年前の岸辺へと流れ着く。
 爛漫の春。
「待った? 響センセ」
 少年の声。
「学校の外では呼び捨てでいいわよ」
 微笑する響。若い。
 大学を出たての彼女は、まだ世間の荒波に揉まれておらず、あどけなさを残している。
 初めて赴任した高校でふたりは出会い、恋に落ちた。
 尋常なものではない。
 生徒と教師。
 そうでなくとも賞賛されがたい関係である。
 だが、それ以上に、背負う十字架が重くのしかかっていた。
 特殊能力者としての。
 力を隠して生きてきた二二年。初めて邂逅した仲間。
 それが、彼だった。
 魔を狩り続ける一族の少年。
 響もまた、戦いの渦中へと巻き込まれてゆく。
 彼女は別に陰陽師の家系に生まれたとか、代々魔法使いだったとか、魔族の血を引いているとか、そういった複雑な経歴を持ち合わせない。
 まったく普通の家庭に生まれ、普通に成長したのだ。
 だからこそ生まれ持ったこの力が厭わしかった。
 常人に見えないものが見える。
 常人以上の予見力を持つ。
 それが何の役に立つというのだ?
 ごく幼少のころから、嫌で嫌でたまらなかった。
「でも、この力があるから戦える。あの子たちを守ることができる」
 生きる理由を見つけた。
 戦う理由を見つけた。
 恋人と、その兄を守るため。
「今度の敵は、そうとうヤバいらしい。式神をつかって暴れてやがる」
「やばくない仕事なんてなかったわよ。あなたたちと知り合ってから」
「ま、そりゃそうか」
 けっして表舞台に上がることのない彼ら。
 一緒に歩もうと決意した響。
 このとき、たしかに彼女は幸福だった。
 平穏からは程遠くとも、充実していた。
 そう。
 彼らの命が地上から消えた、その瞬間まで。
 奇声を発して暴れ狂う式鬼。
 引き裂かれる少年の肉体。
 息を呑み、動けなくなる響。
 彼女にも鬼の爪が迫り、盾となって崩れる恋人。
 慟哭。
 そして、響の前に倒れ伏して動かない敵。
 記憶はフラッシュバッグのように、断片だけしか彼女に見せてくれない。
 心を壊さぬために。
 恋人を失った日。
 そして、響が初めて人間を殺した日。
 あの日以来、幾人の男がこの身体の上を通り過ぎていっただろう。
 あの日以来、幾人の人間の命をこの両手は奪ってきたのだろう‥‥。


『つらいよね。哀しいよね』
 くすくすと笑いながら、誰かが告げる。
『もし出逢わなければ、こんな哀しみを背負うこともなかったのに』
『貴女の手は血塗れ。全部あの二人のせいじゃない』
『その上、たった一人で取り残されちゃって』
「ええ。取り残されることはたしかにつらいわ」
 響の声が混じる。
 妖月の下。
 桜の花弁に包まれ、彫像のように立ちすくんでいた彼女の身体が、ぴくりと動いた。
 瞬間。
 タロットカードが宙を舞う。
 吹き散らされる花弁。
 大きく手を広げた響が、桜の木を睨め付けた。
「でも、出逢わなかったら、もっと哀しかったわ」
『世迷い言を‥‥』
 老木から響く何者かの声。
 響は動じることなく、
「出逢えて良かった」
 きっぱりと言った。
『ヤメロっ! そんなのは嘘だっ!!』
「忘れるのはつらい。忘れられてゆくのも哀しい‥‥でも安心して。あなたのことは私が忘れないから」
 優しい声。
 桜に降りそそいでゆくカードたち。
 花弁を舞い散らせる桜の古木。
 鎮魂の宴のように。
「‥‥ゆっくりとおやすみなさい‥‥」
 投げかけられた言葉が夜空に吸い込まれてゆく。
 月が、なにも言わぬまま見つめていた。


  エピローグ

 ある学校で季節はずれの狂い咲きをしていた桜が、一夜にして枯れた。
 このニュースは、ほとんど誰にも注目されなかった。
 信憑性のないインチキオカルト雑誌が、ごく小さく記事を載せただけである。








                         終わり