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<東京怪談ノベル(シングル)>


"私"に還る日

 まだ鳥の鳴く声が聞こえる早朝、私はとある施設へと足を踏み入れた。
 片手に抱えてきたスポーツバッグを置き、誰もいないのをいいことにその場で服を脱ぎ始める。
 すべて脱ぎ終わると、身体は自然に大きな鏡へと向いていた。そこにはかつて、見慣れたレオタード姿の私が映っている。
(……懐かしいな)
 たったそれだけのことで、胸が熱くなる。
 ここは体操用の施設。だからこの大きな鏡は、自分のポーズなどを確認するためにある。
 簡単な準備運動を終えてから、私はもう一度鏡を見た。今度は自分の姿ではなく、後ろに映っている器具たちを眺める。
(床運動に平均台、跳馬に段違い平行棒)
 私はそのどれも、得意だった。
 だからこそ国体で優勝できたのだ。
 そのまま行けば、オリンピックも目指すはずだった。
(けれど諦めねばならなかった)
「………………」
 しばらく見つめたあと、鏡に背を向けてゆっくりとフロアパネルの方へ歩いてゆく。まずは床運動の基本から、練習を開始した。
(これは体を鍛えるため)
 "体操"がしたいわけじゃない。
 自分にそう、言い聞かせながら。

     ★

 私と体操との出会いは、私が小学校に入る前のこと。それからずっと続けてきた体操は、最早私の一部だった。
(それを)
 こんなに早く辞める日が来るなんて、思いもしなかった。
 原因は一年程前、両親を失ったこと。
 両親は魔獣と魔獣使いに襲撃を受けて死んだ。私自身も背中に大きな傷を負ったのだけれど、兄のおかげでなんとか一命を取りとめたのだった。
(それから私は体操を捨てた)
 背中の傷が酷くて、できなくなったわけじゃない。痕は残ったものの完全に回復していた。
(では何故か)
 それは両親の、仇を討つため。
 それまでの自分と決別し、区切りをつけるために捨てた。
(もちろん)
 すぐにそれを選べたわけではない。
 その選択にたどり着くまでに、私は多分一度死んだ。
(死なねばならなかった)
 目を瞑ると浮かぶのは、無残に殺された両親の姿だった。そのたびに吐き気が襲い、駆けつけた兄の姿を思い出してやっとおさまっていた。
(私は)
 助けられておきながら、どうして自分が助かったのか疑問だった。どうして私だけ生き延びてしまったのか。
(本当に私でよかったの?)
 これは"犠牲"ではないのかしら。
 そんな私は。
(本当に生きていていいの?)
 そう自分を責め続けていた。そして両親を殺したモノたちを。
 そんなふうに感情を持て余していた私は、どこにも進めなくなっていた。
(だから進むために)
 自分を殺したのだ。
 前へ進むために。
 そうして新しく生まれ変わった私は、体操を忘れていた。
(それでよかった)
 私は両親の仇を討つ。
 そのためには、邪魔なものだから。
(それでよかった)
 そう、思っていたのに――

     ★

「――!」
 いつの間にか練習に熱中している自分に気づいて、私は身体を動かしたままひとり苦笑した。
(体操は、捨てたはずなのにね)
 結局は練習することで、雑念を取り払おうとする自分。死んだはずの感情は、いつでも生き返る瞬間を狙っている。
(私は負けない)
 負けたら仇討ちなんてできないから。
(負けないために)
 それを捨てたの。
(――なのに)
 私はこうしてここにいる。
(体を鍛えるため?)
 そんなのは――嘘よ。
「――集中していないな」
「?!」
 不意にかかった声に、私は体をとめた。視線は自然と声のした方を向き……
「監督?!」
 そこに立っていたのは、かつての監督。私を国体優勝へと導いてくれた、厳しくて優しい、大好きな監督だった。
(今日は休日なのに)
 どうしてここへ?
 何故こんな朝早くに?
 どうでもいい疑問ばかりが浮かんで、私は動けなかった。
「…………」
「…………」
 フロアパネルのラインを挟んで、ただ見つめあう。
 ――と。
 監督は私の所までやってくると、持っていた紙の束を手渡した。そして何も言わずに引き返してゆく。
「監督……っ?」
 呼びかけても、返事をしてくれない。
 受け取った紙の束を手に、私は監督の背中が遠ざかってゆくのを呆然と見つめていた。
 完全に見えなくなってから、ハッとして手元に視線を移す。
(!)
 それは私のためだけに組まれた、練習メニューだった。
 私の長所をさらに伸ばすように、短所を少しでも改善できるように。
 深く考えられたメニューであることは、紙を一枚一枚見ていけばわかった。
「――あっ」
 最後のページに、私は目をとめた。
 達筆な字で書いてあるメッセージ。

"いつか戻ってきなさい"

 胸に熱いものが込み上げてくる。
 監督が何も言わずにすぐ去ったのは、このメッセージを直接見られるのが恥ずかしかったからだろう。
(監督はそういう人)
 今でもずっと、大好き。
 流れる前に、私は自分で涙を拭った。
(練習はこれからよ)
 心を入れ直して、監督の組んでくれたメニューを順にこなしていく。
 それは久々の、"楽しい"体操だった。



 すべての練習を終えた私は、シャワー室で汗を流していた。
 鏡に映るのは、何も纏っていない自分。生まれたままの自分。
(けれど……)
 私はゆっくりと振り返って、自分の背中を映した。くっきりと残る傷痕。
(この傷は、忘れない)
 最初からはなかったもの。
 きっと忘れないために、つけられたもの。
(仇は取るわ――必ず!)
 体操に戻るのはそれからだ。
 何度も言い聞かせてきたことを、もう一度強く言い聞かせた。
(――でも)
 でもね?
 私はもう一度振り返って、自分の視界から傷を隠す。
(たまには練習させてね)
 "私"を維持するために。
(ほんの少しでいいから)
 傷のない私に還ることを、許してね――







(了)