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猫はタトゥーの夢を見るか?
青い瞳が、橋掛惇をじっと見上げていた。
「オマエ……」
ドアを開けたが誰もいない、はて、確かに来客の気配があったと思ったが――と、視線を下に落とせば、そこには一匹の猫がちょこんと坐っていたのである。
「はは……」
頬をゆるめた。
先日。いきがかり上かかわった事件のさなか、出会ったこの小さな生き物に、「いちど遊びに来いよ」といったのは、確かに惇自身だったが。
「本当に来やがったのか」
灰色の毛並みの猫は、惇の脚のあいだをするりと抜けて、勝手に部屋に入り込んでしまう。
「あ、おい」
さも当然、自分はもてなされてしかるべき客なのだと言わんばかりに、来客を通すソファーに飛び乗った。
そこは、都内某所の、橋掛惇のタトゥースタジオである。
「エリゴネ、だったよな」
じっと見返してくる、めずらしい宝石のような瞳。
「来いって言ったから来たのか。オマエ、まさか、言葉がわかってるなんてこと…………ある……かもなァ」
猫の目は、魔術めいた不思議な色合いにきらめいていた。その目で見つめられていると、多少の神秘は信じられるような気がしてくる。
第一……この世界が、決して、見た通りの、広く信じられている通りのものでないことは、橋掛惇自身がよく知っている。都会の闇に息づく魔性や怪異に、何度も遭遇し、時には闘いさえしてきたのだ。まさにエリゴネと出会ったのも、そんなあやしい、惇のもうひとつの生業を通じてのことなのだ。
「運のいいやつだな。いいもんがある」
のっそりと身を屈めて、惇は、申し訳程度のキッチンスペースの片隅に置かれている小さな冷蔵庫の扉を開けた。
缶ビールに発泡酒、その他、酒類のボトルの合間に、ラップにくるまれて収められていたものを、惇は取り出す。
「鯛のアラ、食うだろ?」
帰るのが面倒になって泊まるときや(一応、自宅は別にあるのだ)、昼飯時に、ラーメンやなにかを茹でたりするために置いてある小鍋を火にかけ、アラを放り込んできて戻ると、エリゴネはその爪で、かりかりと、奥の扉をひっかいていた。
「おっと、そっちはダメだ」
ひょい、とエリゴネを抱き上げる。なめらかな毛並みが肌にふれた。ちいさくて、温かくて、やわらかい。普段、ついぞふれることのない、生き物の感触。
「見たいのか」
エリゴネは首だけでふりかえって、惇の目をのぞきこんだ。
「おれの仕事が知りたいんだな」
それで訪ねてきたのか。
「悪ぃが、施術室に動物は御法度なんだ」
猫の背中を撫でながら、惇は言った。
にゃあ、と、エリゴネが鳴いた。抗議だろうか。
「なにせ、おれたちは人様の肌に針を入れさせてもらうんだから……あー、ちょっと待ってろ」
エリゴネをソファーに坐らせると、独りで扉の向こうに消え、そしてまたあらわれる。戻ってきた時、手には一本の、筆記具のようなものを持っている。
「これが針だ。刺青ってのは要するに傷なんだな。皮膚を傷つけて、そこにインクを流し込んで、色素を沈着させる。……傷なんだから、バイ菌でも入っちまったらコトだろ。衛生には気を遣わなきゃいけないんだ」
一見、無骨な惇の手の中で、くるり、と針がまわった。青い瞳がじっと、その穂先を追う。
「この針も、インクも、全部、使い捨てだ。使う前には消毒する。医療用の――ちっと値の張る殺菌の機械だって入れてるんだぜ?」
「…………」
猫は何も言わない。
……いや、それが当たり前というものだ。いかに熱く、こんこんと語って聞かせたところで、猫はそれに答えたりしない。
思わず、声を立てて笑ってしまった。
「……なにやってんだろうねぇ、おれは。猫を相手に説得か」
気を遣いでもしたように、エリゴネは一声、鳴いた。
「変な猫だなあ」
のどをくすぐると、目を細めて、ごろごろと音を立てた。
そして。
ソファーとテーブルの上だけでは足りなくなって、床の上にも広げられているのは、おびただしいタトゥーの原画や、写真である。
むろんそれらは、皆、惇の作品だ。
エリゴネは、原画や写真そのものを踏まないように、慎重にそれらのあいだを歩き回り、美術館の絵画を鑑賞する客のように、一点一点を眺めていくのだった。
もしも誰かがこの光景を目撃したら、ああ、あの人も刺青に入れ込み過ぎてとうとう……と、かなしげに首を振ったかもしれない。なにせ彼は、猫を相手に自分の作品を披露し、口に出して解説してやっているのだ。
「人様を傷つけて、てめえの作品つくろうってんだから、業の深い商売だよな」
刃物を模した紋様がおおう腕を撫でながら、惇は語った。エリゴネが顔を見返してきた。ならばなぜ、そんな仕事をするのだ、と、言っているかのようだった。
「なんでだろうな……」
自身の背中に彫られた、地獄の門を思い浮かべる。
(コノ門ヲクグルモノ、一切ノ望ミヲ捨テヨ――)
そうだ。
一度入れた刺青は消えない。自身の肌に最初の一針を入れたときから、もう戻ることのできないこの道へ、足を踏み出してしまったのだ。あの夜、じんじんと熱く疼く傷を抱えながら、惇は発熱した。そして夢の中で、あの巨大な、地獄の門を見た。
(コノ門ヲクグルモノ、一切ノ望ミヲ捨テヨ)
世間の口さがない人々の中には、彫師など賤業だと、やましい仕事だと言うものたちも多い。向い風を受けながら、技を磨き、やがて一人前と認められて小さいながらも自分の店を構え。そして、弟子を取れるまでにもなった。
こうして、エリゴネに過去の作品を見せてやっていると、それぞれの、刺青を刻んだ相手の顔も思い出されてくる。橋掛惇は、図案とともに、それを彫った相手のことも忘れない。それは惇だけでなく、おそらくどの彫師もそうであろうと思う。もしも、街で出会ったなら、即座に、彼ら彼女らの衣服の下に息づいている紋様や図柄についても、思い出すことができるはずだ。
客たちは、決して、特別な素性のものたちばかりではない。むしろ、ごく平凡で、まっとうな、会社員であったり、若い女性だったりするのだ。その肉体の上に、一生にいちどしか許されない、しるしを刻み込んでゆくことの、とてつもなく重い責任と、脳が痺れるような興奮――。
にゃあ、と、鳴きながら、肉球で惇を促す。
「おう、これか。これは和彫だ。鬼子母神……ってわかるか?」
わかるのだろうか。
猫はじっと見入り、聞き入っている。
「ほうら、煮えたぞ。ああ、ちょうどいい容れ物がねえな。この皿でいいか?」
鯛のアラは、飴色に照り、湯気を立てていた。
「冷めねえと、ダメか。猫舌か」
にやりと笑って言った。どことなく憮然とした様子で、エリゴネは惇を見上げた。
「オマエ、飼い猫じゃないんだろ」
くんくんと、魚の匂いを嗅いでいる。
「家になら、置いてやってもいいけどな」
ぴくり、と、耳が動いた。
「……でも『飼われる』のは気に食わねえだろ。――わかるんだよ。動物に近くなるっていうか、勘が鋭くなるんだな。人の肌にふれてると、それだけで、言葉がなくても気持ちがわかるようになってくる……」
白身のついた骨を、かりかりとかじった。
かじりながら、エリゴネは思い出す。
遠い昔に、かつて彼女を『飼った』唯一の人間がいたことを。
惇とは似ても似つかない、繊細な手で、エリゴネの灰色の毛を撫でていた人間だ。そのひとは、好んで、エリゴネの絵を描いた。今はもう遠い……異郷の空の下での出来事だ。何枚も何枚も、アパルトマンの床に散らばったデッサン。あのひとは、紙の上に、愛猫のすがたをとどめようとしていた。
刺青は人の肌の上でその人と生き続け、その人間が死ねば死ぬ。それは、その人間と彫師の、絆のようなものなのかもしれない。
鯛のアラ煮に没頭している猫を見ながら、またも、惇は笑い出したいような衝動にかられた。
おれは寂しいのか?
いい歳の男が、いくら暇だからといって猫の相手をして時間をつぶすとは。
――いや、そうではない……と思う。
自慢ではないが、女もいれば、弟子もいる。今日こそ暇だったかもしれないが、明日以降、客の予約も問題なく入っているし……飲み仲間や、彫師仲間だって事欠かない。
だが。
「また来いよ」
惇はそう言って、エリゴネを送りだした。
小さな、灰色の友人は、しっぽをゆらゆらさせながら、にゃあん、と、ひとつ、返事をした。
(了)
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