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夜絞月
<序>
重たい色の雲が空全体を覆い隠し、水の匂いを含んだ生温い風が、開いたままの窓から舞い込んでくる。
昨日まではいい天気だったのになと思いながら、草間武彦は根元まで灰になった煙草を灰皿にねじ込み、椅子の背もたれに身を預けるようにしてひとつ大きく伸びをした。
煙草の煙に変わって肺を満たす空気は、やはりどこか湿っぽい。
伸びをしても爽快な気分を味わえないのは、この「梅雨」という時期のせいか。
爽快どころか憂鬱にさえなってきそうなのは、この「梅雨」という時期のせいか。
……否。
「こいつのせいだよな……」
ぼやくように呟き、眼鏡の奥の目を眇めてデスクの上にある一通の白い封筒を見やる。その封筒の口は開いており、中から白い便箋が二枚、はみ出していた。
つい先刻目を通したばかりのその紙面に青インクの神経質な文字で綴られていた文を思い出し、草間は吸い込んだばかりの空気を吐き出すようにため息をついた。
手紙の内容は、ここ数日マスコミで騒がれている事件についてだった。
とある予備校の女生徒ばかりが、立て続けに何者かにより絞殺されるというその事件。
警察の発表では、被害者はロープのようなもので首を絞められて殺されているという。
被害者は皆、首を絞められた以外に乱暴をされた様子はなく、金品等にも手はつけられていない。
つまり、犯人は物盗りの類いではないということだ。
だとしたら、誰が何のために絞殺を繰り返しているのか?
「それが解ったら警察なんかいらねえって言うんだよ」
髪をくしゃくしゃと手で乱暴にかき混ぜ、草間は手紙の傍に転がっている煙草のパッケージに手を伸ばした。馴れた手つきで中から一本取り出し、唇の端にくわえる。そしてライターを取ろうと伸ばした手を、けれども気が変わったようにもう一度封筒に納めなおした便箋へと向かわせ、引っ張り出してデスクの上に広げる。
草間の目がなぞるのは、最後の方の文。
『被害者が通っていた予備校の関係者からこの事件の調査を依頼された。何人か優秀な人材を貸してもらえないだろうか?
言うまでも無いだろうが、お前の所へこの話を回すという事は、ただの「連続絞殺事件」ではないということだ。』
つまり、本意ではないにしても「怪奇探偵」と呼ばれる自分の所へ回してくるということは、怪奇がらみ、ということか。
草間は再び吐息を漏らすと、手紙を放り出し、今度こそライターへと手を伸ばしながらどこへともなく声をかけた。
「おい、誰かこの依頼請けてやってくれないか? 嫌なら無理にとは言わないが」
はらりと床の上に落ちたその手紙の最後には「鶴来那王(つるぎ・なお)」と差出人の名前が綴られていた。
<敵か味方か>
床の上に舞い落ちた便箋を拾い、シュライン・エマはそれで顔を一扇ぎした。額にわずかこぼれ落ちていた黒髪が起こされた微風に揺れる。
「久々に腹黒にこやかさんからの依頼ね」
忘れもしないその名前。ある意味シュラインにとって、敵のような存在であるその男。
……いや、ただの敵ではない。愛すべき敵というかなんというか――ケンカしても本心から嫌いになったりなどすることがない親子のような心理関係とでもいうか。
小さく草間が笑った。それに、シュラインが遠くに向けて『過去』という名のヴィジョンを見ていた青い双眸を向け直す。
「何、武彦さん」
「いや、なんかお前、鶴来と仲いいなと思ってさ」
くわえ煙草で紡がれたその言葉に、シュラインは片眉を下げて心外とでも言いたげな表情を作る。
「冗談抜かしあそばせだわ。あのにこやか腹黒さんは敵よ、敵」
「でも、行くんだろ?」
唇半分歪めて笑いつつ言う草間。
もちろん行くつもりであるシュラインに、言い返す言葉はなく。
すでにその頭の中では何をどう調査するかという順序立てが理路整然と行われている。
それが判っているのだろう――半笑いのまま煙草をふかしている草間を、とりあえずじろりと半眼で見据えてシュラインはデスクの上に手紙と共に手のひらを叩きつけた。そしてその手を自分のデスクの引き出しに突っ込み、中から地図帳を取り出す。
亡くなった場所と時間を書き込んで、何らかの関連性がないかをチェックするためだ。
「ええ行きますとも。あまり働いてくれない主の代わりに少しでもしっかり働かなきゃ、潰れちゃうものこの事務所」
「そりゃご熱心なことで」
他人事のように言ってのけて、草間は応接セットのソファに腰を下ろしている青い髪の少女へ顔を向けた。少女もまた、草間の話を聞いてからずっと何事か考え込むような表情をしている。おそらくは、シュラインと同じく、どうこの依頼を調査しようかを考えているに違いない。それくらいの洞察、仮にも探偵であるなら訳ないことだ。
「行く……んだよな?」
それでも一応念のため、尋ねるように声をかけてみる。と、海原みなもは心持ち俯けていた顔を上げ、凛とした青い眼差しを草間に向けて微笑んだ。
「はい。いいですか?」
「もちろんよ。さ、こんなロクに働きもしない探偵さんは放っておいて行きましょ行きましょ」
草間の代わりに横からさばさばした口調で言うと、シュラインは背で束ねた黒髪を揺らせて踵を返し、みなもへと歩み寄った。それに誘われるようにソファから腰を上げ、みなもは小さく笑って草間に会釈した。
「それでは行って来ます」
「あいよ、いってらっしゃい。気をつけてな」
右手で頬杖をついた姿勢のまま空いた左手でひらりと手を振るという、本当にやる気のかけらも見えない草間のその態度に、シュラインは呆れたようなため息を漏らしてから微苦笑を浮かべた。
<雨降る街並み>
降り出した雨に、街並みは灰色に沈んでいる。モノクロームに染まる景色の中、まるで花が咲いているかのような色とりどりの傘が、交差点をよぎって行く。
その傘の群れの中に、シュラインとみなももいた。
事務所から出掛けに雨が降り出したのは幸運だったかもしれない。もし移動中に降り始めていたなら、二人揃って濡れねずみになっていただろう。
興信所の置き傘を借りたみなもは、ぱたぱたとやや強めに傘の表面を叩く雨音にかき消されないよう、少し大きめの声で隣を歩くシュラインに声をかけた。
「シュラインさんも幽霊とかだと見えないんですよね、犯人?」
「そうね。みなもちゃんもだっけ?」
「一応霊水を目にさしてはいますが……ちょっと不安で」
「うーん……ま、鶴来さんがいてくれればなんとかなるでしょ。あの人、そういうものを視る力は強いから」
言いながら、少し視線を持ち上げてビルに掲げられている看板に記されている店舗名などを確認する。駅前だけあって様々なビルが立ち並んでいるが、目的の場所はすぐに発見できた。
デカデカと窓ガラスに予備校名が描かれていたからである。
「ここに間違いないわね」
シュラインの言葉に、みなもが頷く。
その建物には、生徒らしき若者たちが入り口で傘を閉じては中へと次々に入って行く。もしかしたらもうすぐ授業が始まるのかもしれない。
と。
ふとシュラインはその眼差しを、ビルの隣にある喫茶店の前へとずらせた。
そこで、淡いピンク色の傘がくるくる回っているのが視界の端に引っ掛かったからだ。黒スーツの青年である。その横顔に、シュラインは見覚えがあった。
「鶴来さん?」
躊躇いもせずに声をかけてみる。と、そのピンク傘の持ち主が顔を二人の方へと向けた。そして小さく、ああ、と言うと。
「お久しぶりです」
優美な微笑を浮かべて会釈をしたのは、依頼人と興信所をつなぐ仲介人・鶴来那王だった。
<情報収集>
どうして雨の中、鶴来が突っ立っていたのかというと、喫茶店の中に依頼人を連れてきているからだった。
手紙が着いたその日のうちに、きっと草間興信所から回されてきた者はこの予備校に訪れると、そう予測していたらしい。そしてその予想通りに、シュラインとみなもが現れたのである。
しかし。
喫茶店に入り、席についてコーヒーをオーダーし終えたシュラインは、向かいに腰掛けた鶴来にわずかばかり眉宇を寄せて怪訝そうな眼差しを向けた。
「なんでピンクの傘なのよ」
「別に意味はありませんが。……というか、ここのマスターが貸してくれた傘があれだったんです。断じて俺の趣味ではありません」
「別に貴方の趣味だって言っても驚きゃしないけど」
「そうですか? ああ、まあシュラインさんよりは似合うかもしれませんけど」
「どういう意味よ」
「いえ、別に」
涼しい顔で言って、鶴来は「そういうところが腹黒だっていうのよ」とぼやいているシュラインの隣に座ったみなもへと視線を移し、優しい笑みを浮かべた。
「はじめまして。今日はよろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
ぺこりと愛らしく頭を下げ、みなもは鶴来の隣に座る初老の男を見やる。その視線に気づいたのか、鶴来が彼を紹介した。
「今回の依頼人、高倉藤吾(たかくら・とうご)さんです。例の予備校の学苑長です」
訪れた者が女性二人(しかも一人は中学生)だということに少しばかり不安を覚えているのか、高倉はじろじろと無遠慮な眼差しをシュラインとみなもに向ける。口には出さない代わりに、あからさまに「頼りない」と語っているその顔つきに、みなもが困った顔をする。
シュラインがその視線の失礼さを相手に気づかせるかのように一つ咳払いをし、非常に冷めた事務的な口調で口を開いた。
「さっそくですが、被害者の組、成績の順位、席、志望校、背格好、交友関係などを教えてもらいたいのですが」
言って、膝の上に置いたバッグの中から東京都内の折りたたみ式地図を取り出す。
「あと、被害現場と被害者の住所。地図に印をつけていけば、何か共通点が見つかるかもしれないし」
「それでしたら」
言って、鶴来が高倉に手を差し出した。すると、高倉は抱えていたA4サイズの茶封筒を鶴来に手渡す。
「実はあらかじめ高倉さんに被害者に関する資料を作って来てもらったんです。現場と自宅の場所、俺が読み上げましょうか?」
随分と用意のいいことだと思いながらも、シュラインは一つ頷いて、バッグから取り出した赤と青と黒のサインペンのうち青色のペンをみなもに手渡しながら、地図のとある一点に黒いマジックでバツ印をつけた。
「私が現場に印つけるから、みなもちゃんは自宅の方、お願いできるかしら」
「わかりました。自宅ですね」
「いいですか? ではまず一人目から行きますね」
被害者は全員で七名。鶴来が読み上げて行く被害者の住所は都内に点在していて、特に共通点らしきものは見当たらない。みなもが記して行く青い点は、みごとにバラバラだった。
ちらりと、みなもはシュラインの手元へ視線を落とす。
「事件現場の方は固まってますね」
「そうね。しかもこの周辺」
シュラインが最初に黒で印をつけた場所を赤いペン先でトントンと叩く。
その黒ペケの周辺に、赤い印が七つ、集まっていた。
黒ペケは予備校のある場所である。
駅前ということもあり、けして人通りも少なくないはずなのに何故か目撃者がほとんどいないというこの事件。絞殺された少女たちの身に一体何が起きたのか……。
ふと、みなもは地図から顔を上げた。
「鶴来さん、皆さんが被害にあわれた時間とかはわかりますか?」
「時間ですか。ええ、大体夜八時から九時の間ですね。お二人もご覧になりますか? 色々と知っておきたいこともあるでしょうし」
言って、鶴来は手に持っていた資料を地図の上に並べた。資料には、斜め左上に銀色のクリップで被害者たちの写真が添付されている。
それを見て、シュラインは口許に手を当てた。
「……みんな髪が長いのね」
その言葉にちらりと鶴来がシュラインを見たようだったが、特に何も言わなかった。シュラインも写真から資料の方へと目を移している。
生徒たちのパーソナルデータを見る限り、特に共通する部分はないように思える。成績も、一流大学を狙えそうな者から、三流大学ですら危うそうな者までいる。成績にこれほどのバラつきがあるということは、当然志望校にもかなりのバラつきがある。どうやら成績がらみで生徒が犯人、という筋はなさそうだ。
だが、まったくもって共通点がないわけでもない。全員、身長が一六五センチ前後だったり、細身だったりする。
「みなさん、あたしと同じような背格好みたいですね」
みなもが口許に人差し指を当てて小さく呟く。そしてちらりと依頼人を見た。
「あの、もしよろしければ、一日だけ予備校で勉強させてもらえませんか?」
「は?」
高倉はぽかんと口を開けた。やがて怪訝そうに眉を寄せる。
「勉強って、君、私はこの事件を解決してもらいたくて君たちに……」
「ですから、あたしがおとりになってみようかと思って」
言いかけた高倉の言葉を遮り、みなもが自分の胸に右手を当てて頷いた。
「もちろん本当に勉強するわけじゃありません。もしかしたら教室で何か起きているのかもしれないですし。今までの被害者と背格好が似ているあたしなら、犯人が引っ掛かってくれるかもしれませんし」
「でもみなもちゃん、大丈夫?」
ウェイターが運んできたアイスティーとコーヒーをテーブルの上に置きながら心配そうに問うシュラインに、みなもは穏やかに微笑んだ。
「大丈夫です。それに、一番手っ取り早く何かがわかりそうですし。これ以上新たな被害者が出る前になんとかしたいですし」
「そう? それじゃ私はー……」
得意な語学を生かして講師になって潜入し、生徒を観察するのも手だろうが、それよりも他に調べたい事がある。
そう考え、シュラインは高倉の方へ顔を向けた。
「私は予備校の周辺をいろいろと調査させていただきます。あと、もう少しお話を聞きたいんですが、最近生徒や先生方の中に休みがちだとか雰囲気が変わったとか……そういう人はおられませんか?」
「あ、あと、この予備校で過去に事件とかありませんでしたか? 自殺とか事故とか」
シュラインの言葉にみなもが質問を付け加える。もしかしたら、予備校に関する霊の仕業かもしれないと思ったのだ。
「開校以来、私が関知する限りでは事件などはありませんよ。自殺も、当校の生徒にはいませんね。一人でもそういう生徒がいたら、醜聞となって流れないよう情報の管理を行うので間違いないでしょう。それから、雰囲気の変わった人ねぇ……」
顎に手を当ててしばし考え込むように視線を宙に向けていた高倉は、そういえば、と資料の一枚を探し出し、そこに連ねてある名前の人を指差した。
「彼、最近ぼんやりしていることが多い気がします。前はもっと覇気のある人だったんだが……呼びかけても返事せずに手帳か何かをじっと眺めてブツブツ言っていて……」
高倉の指の下には「宮野・猛(みやの・たけし)」という名があった。
<不安のカタチ>
雨足は強さを増していた。
天から降りてくる透明な雫は、先に地上に到達してアスファルトの上で水溜りとなった仲間のもとへ次から次へとダイブして行く。
その雨水のプールを避けながら、シュラインはきりとした目を周囲へと巡らせる。傍らには、紺色の傘(ピンクの傘はやめたらしい)を差した鶴来がいる。彼は特に何も言わず、ぼんやりとどこか遠くを見ているようだった。喫茶店を出て最初に「綺くん元気?」「ええ、元気ですよ。京都の暑さには辟易しているようですが今年は比較的涼しい方ですし」というやりとりをした後から、ずっと彼はこんな調子だった。何を見ているのか解らないが、ただ黙って傍らに立っている。シュラインが通りがかる予備校生に話を聞いている時も、一言も声を出さずに、ただ、そこに立っていた。
また一人、黒いワンピースを着た少女が、そんな二人の横を通り過ぎて行く。肩に大きめのバッグを提げていることからして、彼女もまたあの予備校へ行くところなのだろう。
慌ててシュラインは声をかけた。
「ねえ、ちょっといいかしら」
よく通るその声に、少女が振り返った。肩の上で切り揃えた髪が動きに合わせてさらりと揺れた。
「はい?」
「あなた、今からあの予備校へ行くのかしら?」
窓ガラスに大きく描かれた予備校の文字を指差すと、少女はこくりと頷いた。
「はい、そうですけど」
「あ、じゃあ……ほら、最近起きてる事件、あるじゃない? 知ってるかしら」
直に言葉に出さずに問うが、当然、該当校に通っているこの少女が解らないわけなく。
少し眉を寄せて、小さく頷いた。
「はい……。よく知っています」
「よく?」
妙な言い回しだ。
引っ掛かりを覚えたその言葉の意味を説明するように、少女はわずかに俯いた。
「警察にいろいろ聞かれたし……」
「警察に? あなたが?」
「四番目に殺された子、私の友達だったから」
雨のせいでモノクロに沈む風景にしっくり馴染む黒いワンピース。もしかしたら、彼女なりの友人への哀悼の意を示すものなのかもしれない。
まだ友人を亡くしたという心の傷が癒えていないらしい彼女の様子にいろいろ問うのはどうかと一瞬思ったが、たまたま偶然声をかけたのが被害者の関係者だったという幸運(というのも何となく気が引けるが)をみすみす逃すわけにもいかない。
同情へ動く意識を、仕事の方へとシフトさせる。
「少し、お話伺ってもいいかしら」
「でも……もうすぐ授業、始まっちゃうんですけど」
腕の時計にちらりと目を落とす。
友人を亡くしても問題の予備校へいつもどおりに通い続けるというその心理を理解しかねたが、別にそれを彼女に言った所で何にもならない事くらい判っている。そんな思いを払いのけ、シュラインは短時間でなるべく多くの情報を取れるように、頭の中で素早く質問内容を揃えた。
「ほんの少しでいいの。そのあなたの友達、亡くなる前に何か悩み事があるとか言っていなかったかしら? 逆に、何か良い事があったとか」
「悩み事と良い事ですか? そういえば、成績がよくなったとか言ってたっけ。悩み事は体重が増えちゃって、夏休みに海で水着になるのイヤだなぁって」
「成績がよくなった? 科目は何?」
「確か、英語だったかな。きっと、担当の先生がカッコよくってやる気出るから上がったんだとか言ってました」
「その先生って、宮野先生?」
「そうです。女子に人気あるんですよ、あの先生」
高倉氏が言っていた、最近急に雰囲気が変わった先生、というのと一致している。
やはり、その先生が関係しているのだろうか?
「そう……。それじゃあ、この予備校の近くでツル植物が生えている所とか、何かの祠とか神社とか、ないかしら?」
「うーん。多分ないと思いますけど。私、生まれた時からこの近くに住んでるし、この辺りのことならよく知ってますけど、そういうのはないと思います」
「そう、ありがとう。勉強、頑張ってね」
質問を終えると、少女は小さく頭を下げて小走りに予備校の方へと去っていった。
しかし、被害者の友人で、しかもこの近辺に昔から住んでいる少女から話を聞くことができるとは運がいいというか何かのめぐり合わせというか。被害にあった少女が事件の解決を望んで彼女と自分を引き合わせてくれたような気がしなくもない。
しかし、近辺にツルや祠――蛇などが祭ってある場所があるんじゃないかと思ったのだが、そういった類いのものがないとなると、やはり、凶器はアレだろうか。
――髪。
「とあるネットのBBSでこの事件のこと見た時から、何となく気になってたのよね。興味深い書き込みだったのよ。凶器は本当にロープなんだろうか? って。それを見た時から、念を込め易そうなロープ状のモノってなんだろうって考えちゃったのよ」
道を走る車が水を跳ねる音にかき消されないように、少し大きめの声で言う。鶴来が、その声に引かれるように視線をシュラインへと向けた。
「書き込み?」
「ええ。だからツル植物とか蛇の念とか……あと、髪ね。想像したんだけど。実際、被害者の写真見る限りではみんな髪長かったし」
「犯人は被害者の髪を使って首を絞めた、ということですか」
「まだ断言はできないけど」
足元で跳ねる水滴を見下ろしたシュラインは、ふと顔を上げて鶴来を見た。
「そういえばあの書き込み主、鶴来さんと似た名前だったわ」
「え?」
「Mao-N、って。似てるわよね、マオとナオって」
「…………」
わずかに、鶴来が左目を細めてシュラインから視線をそらせた。が、すぐさま苦笑を浮かべて首を振る。
「似たような名前ならどこにだってあるでしょう。大体、俺に似た名前なんて女性なら結構いると思いますが」
ごまかすにしても、あからさまに妙なその態度にシュラインが眉宇を寄せる。
思い出すのは、西瓜の護衛の時の事。自分に似た者についての話を聞かされた時の、あの反応。
もしあのBBSの書き込みの主が、その「鶴来に似た人」だとしたら。
(逢わせちゃダメ)
そう思う。そんな気がする。絶対に、逢わせてはならないと。
あの時の彼は、常の彼と違い非常にバランスが悪い気がしたのだ。精神の均衡を保つことができないような感じ。いつものような柔らかい笑みを消し去り、冷酷な顔を見せた、あの時の彼。
彼が何を背負っているのかはわからない。だが、あの時の彼はあまりにも――。
そっと、鶴来の傘を持つのとは逆の手を取る。ひんやりとしたその手を優しく包む。そしてその目を覗き込んだ。
「もし貴方に似た誰かと逢うことがあっても、暴走しちゃダメよ?」
「暴走……ですか。まあ、そうおっしゃるのなら、暴走して誰かに危害を加えないようにはしますが……。……シュラインさん」
浮かべていた苦笑を消し去り、鶴来は目を伏せた。そしてゆっくりと目を上げる。
「もし俺に何かあったら」
その真摯な眼差しに、シュラインは目をわずかに瞠る。
「何があるっていうのよ?」
不安げに問うシュラインに、けれども鶴来はいつものように優美な笑みを浮かべた。
「いえ、何でもありません」
言って、シュラインに掴まれた手を掴み返し、その手を引いてゆっくりと歩き出す。
「海原さんが授業を終えて出てくるまで、あの喫茶店に戻ってお茶でもしていましょう。確か抹茶パフェがあったはずですし。でも今日は少し肌寒いからワッフルもいいですね」
「……もう、鶴来さんたら」
苦笑しながら言うが、その胸の内に宿った得体の知れない暗い物は、この雨空を覆う雲の如く、晴れはしなかった。
<合流>
みなもが喫茶店に現れたのは、予備校の夜間コースの授業がすべて終了した後だった。時刻はすでに午後9時前になっている。
「お疲れ様」
やや疲れた様子で戻ってきたみなもに、シュラインは優しく労いの言葉をかけた。かく言うシュラインも、二時間ほどこの喫茶店に居座っている事でやや疲れ気味である。鶴来はというと、ずっと何か思案しているかのような顔で窓の外を流れるサーチライトを眺めていた。が、みなもが戻ってきたことに気づくと、視線をみなもへと移して「お疲れ様でした」と微笑んだ。
「何か収穫はあったかしら?」
椅子に腰を落ち着けながら、みなもはシュラインの言葉に頷く。宮野の授業を受けたこと、そしてそれから髪の毛が跳ねるようになったことを伝える。
髪は、今はもういつもどおりさらさらとした感触が手に伝わってくるだけで、ハネている部分があるとかいうことはないようだ。
シュラインが、みなもの言葉を聞いて口許に手を当てた。
もしかしたら。
「みなもちゃん、あなた、マークされたかもしれないわね」
「え?」
はたと、みなもが長い睫を揺らせて瞬きをする。
「マーク?」
「犯人は宮野氏にほぼ間違いないわ。私の方でも、被害者の友人から話が聞けたの。あからさまに関わりがあると言ったわけではないけれど、でも確かに、彼女の口からも宮野氏の名前が出たわ。あと、時間が余ったから被害者の受けていた講座を調べてみると、全員が彼の授業を受けていたの」
手元に広げていた資料の表面を手の甲で軽く叩く。そして、その手でみなもの髪を指差した。
「それに、髪がハネるっていうのが何よりの証拠ね」
「髪が証拠?」
「犯行はロープで行われたんじゃないの。被害に遭った女の子はみんな髪が長かった。どんな能力を使っているかまではわからないけれど、でもきっと、凶器は被害者自身の髪の毛だわ」
「つまり、裏を返せば確実に犯人をおびき寄せる事ができるということですよね」
怯えもせずにそう言うみなもに、シュラインは首を振る。
「だめよ、何かあってからじゃ遅いのよ? 相手がどういう手で髪を使って首を絞めてくるのかもまだ判っていないのに」
「でももうマークされているのなら逃げてもどのみち狙われるでしょうし」
かたりと席を立つ。
「それに、何かされるのを待っているより、直接話を聞いたほうがいいと思うんです。人が犯した過ちなら、警察へ送るのがあたしなりの優しさのつもりです」
凛とした迷いのない眼差しで言われ、シュラインは短く吐息をついた。そして彼女もまた席を立つ。みなも一人をここから放り出すわけにはいかない。
「宮野氏はまだ予備校内にいるわよね? 電話で呼び出しかけましょ。マークされてしまった以上、さっさと片をつけないと危ないもの」
<絞>
雨は強さを増している。
遠くを走る車の音さえも、雨音の前にかき消されて行く。
街灯が、ぼんやりと雨のカーテンが作り出す闇を透かしている。
その灯りの下に、傘が三つ。
シュライン、みなも、鶴来のものだった。
ちらりとシュラインが腕の時計に目を落とす。宮野に呼び出しをかけたのはつい十数分前のこと。電話をかけたのはみなもだった。呼び出しの指定場所は、予備校に一番近い現場――第六の事件が起きた場所。駅前とはいえ、路地裏のようなそこは、比較的人通りの少ない所だった。
現に今も、雨が降っているとはいえ人通りは皆無だった。
とりあえず、これだけ雨が降っていれば、武器には事欠かないだろうとみなもは思う。水であれば、ある程度は思いのままに操れる。
今日が雨模様でよかったと考えた時だった。
ノイズのように降りてくる無数の雨粒の向こうに、黒い傘を持った男が姿を現した。身長は、やや鶴来より高いだろうか。焦げ茶色のスーツがやけに黒々として見えた。
シュラインがみなもを見る。目であれが宮野かどうかを尋ねている。それにこくりとわずかに顔を縦に振る。
間違いなく、それは宮野猛だった。
宮野は雨の中で自分を待っていたらしい三人組の姿に、怪訝そうな顔をする。
「何か私に用ですか」
よく通る声。見目もそこそこ良く、声質もそこそこ良いとなれば、確かに女生徒には人気が出るだろうなと思いながら、シュラインはみなもの前に立ち、わずかに首を傾げるような仕草をした。
「あなたが宮野猛さんね? ここ最近この近辺で起きている少女絞殺事件について少しお話をお聞きしたいんですけど」
その口調に、宮野が両目を見開いた。警戒するような顔でシュラインを見る。
「警察の方ですか?」
それに、ゆるく頭を振る。
「いいえ。ですが、いろいろと調べさせてもらいました。何らかの力を使い、貴方が被害者の髪を使って首を絞め、殺した事も」
「あたしの髪がハネるのも、あなたがやっているんでしょう? 一体動機は何なんですか?」
言いながらシュラインの陰から現れたみなもの姿に、宮野が両目を見開く。
そして、やおら両手をシュラインとみなもへとかざした。
「?!」
ゆうらりと宮野の髪が水中にいるかのように宙へと揺らぐ。バチンと音を立て、シュラインの髪を留めていたバレッタが弾け飛んだ。驚いて背後を振り返ろうとしたシュラインは、するりと自分の首に何にかが巻きついた感触に、手を首筋へ当てる。みなもも同様に自分の首に両手を当てる。
二人の細首に自らの髪の毛が、まるで生きているかのように動いて巻きついていた。
「な……っ!」
両手で自分の髪と格闘するが、髪は強固なワイヤーか何かのようにびくともせず、さらに強く首に絡みついて行く。
みなもは右手で髪をはずそうとしながら、左の手のひらを足元にある水溜りに向けて広げる。水を操って、絡みつく自分の髪とシュラインの髪を切るつもりだった。せっかく綺麗に伸ばしているのにもったいない、などとはこの際言っていられない。
(水よ……!)
ぐっと、さらに強く髪が喉に食い込む。気管を圧迫され、息が詰まる。水を操るための意識が集中できない。
シュラインも、どうにか自らの髪の束縛を緩めようともがいていたがどうにもならない。
二人の傘がアスファルトの上に落ちる。容赦なく叩きつける雨が、シュラインとみなもの髪を、頬を、服を濡らして行く。
心音が耳元で響いている。遠のきそうになる意識を必死につなぎとめ、みなもは苦しげに顔を歪めながらも、片目を薄く開いて宮野を見た。
(一体、どうやって髪を操っているの……?!)
霊水を点したみなもの目にも、霊の存在を確認できない。呪詛の類いなのだろうか?
ぐらぐらと揺れる頭の中。喉への圧迫で顔が紅潮しているのがわかる。
その、心音がやかましく響く耳元に、宮野の押し殺したような低い笑い声が混ざる。
「髪の長い女が教室にいるのを見ると無性に腹が立ってくる……。あの女のことを思い出すからだ」
「あの、おんな……?!」
かろうじて出る声で問うシュラインに、宮野が大きく唇を歪めて嗤いながら答えた。
「最初に死んだ女だよ。綺麗な長い髪が気に入ったからちょっと付き合ってやったらつけ上がりやがって。別れ話を持ち出したら予備校に居られなくしてやるとか言いやがった」
「そんな理由で……」
たったそれだけの理由で人を殺したのかと問うシュラインを、宮野は睨みつける。
「これから先ずっと邪魔され続けるのなら、さっさと片付けたほうが安心だろ!」
「そんな、理由で……っ! 関係のない女の子たちまで殺したの……っ!?」
「どいつもこいつも同じだ。どうせ髪だけキレイで中身はぐちゃぐちゃなんだ。そんなヤツらはさっさと片付けたほうが世の中もキレイになるだろう?!」
言っていることがめちゃくちゃだ。よくもそこまで勝手な考え方をできるものだと呆れ果てる。
きり、とさらに喉に髪が食い込む。みなももシュラインも意識が飛びそうになった時。
それまで黙って宮野を観察するように見ていた鶴来が、片手を口許に当てて呟いた。
「なるほど……どうりで」
「な、に……っ」
ひどく涼しいその声に、シュラインが鶴来を見る。彼もそこそこ長い髪なのに、彼の首には髪が絡みついていなかった。宮野の狙いが女性、だからだろうか。
鶴来は左目を細めて、そしてゆっくりと一歩前に歩き出す。
「何も視えないと思ったら。視えないわけですね、使っている力がサイコキネシスでは」
サイコキネシス?
シュラインもみなもも同時に頭の中で反芻する。ようするに、念動力のことだ。
彼が今日、ほとんど何も喋らずにどこかをぼんやりと見ていたのは、宮野の能力が霊的なものかどうかを「視て」いたためだったのだろうか。
気管がさらに締まり、シュラインとみなもの喉からヒューヒューという風が抜けるような音がしはじめた。鶴来が傘を手放し、宮野に向かって一気に距離を詰めようとした。
だが、鶴来が宮野に直接攻撃を仕掛ける前に、何者かが宮野の背後から現れ、その背中に思い切り蹴りを入れていた。予想していなかったそのいきなりの攻撃に、宮野が前のめりになってアスファルトの上に倒れ込む。
途端、シュラインとみなもの喉を圧迫していた髪にかかっていた力が抜けた。閉ざされていた気管が開き、一気に雨により生温く濡れた空気を肺に送り込む。二人はその場に足から崩れ落ちるようにしゃがみこみ、何度も咳き込んだ。
「ったく、ステキなお嬢さん二人に向かって何しやがるんだこの野郎は」
げしりと容赦なくうつ伏せに倒れた宮野の背中を雨と泥で汚れた靴底で踏みつけ、乱れた前髪をかき上げてから右腕の肘のところに左の手のひらを当て、右手の人差し指と親指で顎を挟み、ひどく冷め切った顔つきで宮野を見下ろしたのは、湖影虎之助だった。
<導き>
何度も咳き込み、ようやく落ち着きを取り戻したシュラインとみなもは、虎之助に踏みつけにされたままの犯人――宮野猛を見た。
すでに自らの罪を全て暴露してしまったからだろうか、しばらくは暴れもがいていたものの、今はもう踏みつけられるがまま、おとなしく汚れた水溜りの中に頬を沈めていた。噴火した火山の如く、胸の内にわだかまっていたモヤモヤとしたものが、暴露とともにとりあえず鎮まったのだろう。
げしりともう一度その背を踏みつけ、虎之助は覇気なくされるがままになっている宮野を見下ろす。
こいつが予備校の講師で、女生徒との交際のもつれで一人目を殺害してから、何となく長い髪の女子生徒が講義をしているクラスにいると殺意を覚えるようになり、次々と犯行を重ねていたということをシュラインとみなもから聞き、さらに怒りを募らせた虎之助である。
踏みつけられて、ぐぇ、と宮野がカエルが潰れるような声を上げる。
みなもが眉をしかめて少し非難するような目で虎之助を見た。
「もう足を下ろしてあげてください」
「……また変なことしようとしたら蹴るだけじゃすまんからな。すぐにお前を潰してやる」
諌められて、虎之助は剣呑な言葉を吐きながらもゆっくりと足を下ろした。宮野がのろのろと体を起こす。
その前にみなもがしゃがみこみ、スカートのポケットから取り出した白いハンカチを彼に差し出した。
「顔、拭いてください」
自分を殺そうとしたものにまで優しく接する事ができるみなもに、シュラインは苦笑を浮かべた。そして落ちている自分とみなもの傘を拾い、みなものものを本人に手渡す。
二人の首筋には、赤い筋がくっきりと浮かんでいる。それが痛々しくて、虎之助は自分に傘を差しかけてくれたシュラインの喉を指差した。どれほどきつく絞められたか一目で分かるというものだ。
「大丈夫ですか?」
「ええ、なんとか。来てくれて助かったわ。でも、どうしてここに?」
「雫ちゃんの掲示板に書き込みがあったんですよ。この事件の調査をしないか、と」
「ああ、あの掲示板ね」
肩にかかる黒髪を背に払いのけながら呟くシュラインに、虎之助は彼女もあの書き込みを見ていたのだと知る。
それにしても……と、みなものハンカチで泥水で汚れた顔を拭いている宮野を見、虎之助が厳しい表情のまま濡れた前髪をかき上げる。
「よくもまあそんな理由で関係ない女性まで殺せたもんだな」
「最近は、誰でも容易く人を殺したりできる「闇」の方へと落ちてしまうから……怖いわね。何が引き金になるかわからない」
柳眉を寄せ、シュラインも宮野を見下ろす。
みなもは、しゃがみこんだまま小さく頭を振った。そしてまっすぐな眼差しで宮野を見る。
「あなたは生徒のみなさんの「大学入学」という夢をかなえてあげるというすごい仕事をしているんです。だから、しっかり立ち直って、もっと多くの人の夢を叶えるお手伝いをしてあげてほしいです」
一人では成しえる事ができないかもしれない夢を、実現させるためのサポート役。実際に、彼が今まで教えた生徒の何人もがその夢を叶えて大学生活を送っているはずだ。
宮野が、まっすぐすぎるみなもの視線から逃げるようにうつむく。罪人にとって、その視線はきっと、何よりも痛いものだろう。
「でも、俺は……」
濡れた両手を見下ろし、震える声を宮野が紡ぐ。
「俺は、もう、だめだ」
「ちゃんと罪を償ってください。逃げるのも、諦めるのもダメです。亡くなられた女性の家族のかたたちは、あなたの犯した罪で、言葉にできないほどの痛みを背負ってしまわれたんですから」
逃げる事も諦める事も、許されない事だと。
幼さを感じさせない青い断罪の眼差しで、みなもは言う。
宮野が、もう一度みなもを見た。そしてがくりとうなだれる。その腕を引き、みなもは彼を立ち上がらせた。
「あたしが一緒に警察に行きます。自首、しましょう」
「俺は……俺は……」
もう、宮野には逃げる気力も抵抗する気力も、攻撃を繰り出す気力もなくなっているようだった。それは諦めではなく、どこか途方に暮れているようである。
芽生えた殺意の種は、きっとみなものまっすぐすぎる穢れのない瞳の前に、崩れ去ってしまったのだろう。
立ち上がった宮野の腕を支え、みなもがシュラインと虎之助を振り返る。そして事の成り行きを静かに見守っていた鶴来へと視線を移し。
「あたし、一緒に行きますね」
「お一人で大丈夫ですか? 俺も行きましょうか」
「平気です。あたしには味方がついていますし」
傘の下から空を見上げる。降り頻る雨足は弱まる気配を見せない。水を操れるみなもにとって、これ以上強い味方はいないだろう。宮野の手の内を解した以上、もう油断して首を絞められることはないはずである。
ぺこりと頭を下げて、みなもは宮野と共に歩き出す。
シュラインと虎之助は顔を見合わせた。
とりあえず、これで事件は解決……だろう。
<終――無力の前に、堕ちる、時>
去って行く二人の背中を見送ってから、シュラインは傘を虎之助の手に握らせると、鶴来の方へと素早く駆け寄り、鶴来の差している傘の下に入った。そしてその顔を覗き込み、自分の喉元を指差す。
くっきりと赤く絞められた跡が残っている、喉元を。
「特別手当、貰わなくちゃね」
その言葉に、鶴来が苦笑を浮かべる。
「そうですね。高倉さんに掛け合っておきましょう。無事解決できたんですから、それくらいはプラスしてくれると思います」
「でもどうして鶴来さんだけ無傷なのかしら? 髪、私やみなもちゃんより短いとは言え、首には巻きつけられるくらいはあるでしょ?」
鶴来の黒髪をぎゅっとひっぱってみる。それに鶴来はさらに苦笑を深くした。
「痛いですよ」
「……地毛よねえ?」
「ええ、そうで……」
言いかけて。
鶴来は、自分の胸に左手を当てた。そして、何かを考え込むように視線をわずかに泳がせ――
ごぽ、と。
その唇から、鮮血を散らせた。
正面に居たシュラインは、自分の右頬を染めたその生温い「紅」が、一体何によるものなのか一瞬分からなかった。目の前で糸が切れた操り人形のように崩れ落ちる鶴来の体を見、ようやく一時的に止まってしまった思考が動く。
「鶴来さん!」
鶴来が差していた傘が、アスファルトの上に転がった。
路上にうつぶせて倒れこんだ鶴来の体を抱き起こそうと、シュラインが片膝を落とす。
そのシュラインの目の前に、何かが過ぎった。そして抱き起こした鶴来の胸と左肩の上に、それは音も無く降り立つ。
血塗られたかの如く真紅の、見事な二羽の鷹。
禍々しいほどに、その額にある金の逆さ五芒星が輝いている。
「ルシフェル!」
虎之助が不意に叫んだ。
彼の視線の先には、電柱に取り付けられた粗末な街灯が生み出す明かりの下に傘を差して立っている青年がいた。虎之助の険しい声に、シュラインが鶴来に向けていた目を上げる。
そして、青い双眸を見開いた。
そこにいる青年は、あまりにも鶴来によく似ていて。
青年――鶴来那王の実弟である七星真王の裏人格・ルシフェルは、ゆっくりと傘を持つのとは逆の手を持ち上げた。すると、鶴来の胸に止まっていた鷹が音もなく羽ばたき、その手の甲に舞い降りる。
それを肩に移すと、ルシフェルはシュラインと鶴来の方へと歩み寄った。思わず、鶴来を守るようにその腕で体を抱きしめ、近づいてきた青年を睨みつける。
「貴方なの? 鶴来さんに何かしたのは」
確認するように鋭く問いかけるが、問わずともその答えは分かっていた。目には見えないが、彼から発されているただならぬ気配が、答えになっている。
無数の刃を放っているかのような、その気配が。
けれど、そんなシュラインに構わず、ルシフェルは片膝を折って身を少しかがめ、手を伸ばして鶴来のスーツの胸ポケットに指を突っ込んだ。そして中から、小さな瓢箪を取り出す。
「抵抗も反撃もせずみすみす呪詛を受けるとは……馬鹿なヤツだな。力がないわけではないだろうに」
言って、鶴来の術具の一つである小瓢箪を軽く宙へ投げてから再びキャッチして手の中に戻し、ジーンズのポケットに突っ込んで立ち上がる。
ルシフェルが紡いだ言葉に、シュラインはハッと口許に手を当てた。ある言葉を思い出したためだ。
『暴走して誰かに危害を加えないようにはしますが……』
鶴来は、確かそう言っていた。
まさか、その言葉を守るために手を出さなかったというのか?
「嘘……ッ」
すでに、ルシフェルはその場にはいない。鶴来の肩に止まっていた鷹も、そして虎之助もその場から消えていた。
遠くを走る車の音、そして雨音だけが、周囲に満ちている。
なんだかひどく心細くなり、シュラインは鶴来を強く抱きしめた。
「鶴来さん、鶴来さんしっかりして……!」
「…………シュ、ライン、さん……?」
かすれがちだが、はっきりと、シュラインには聞こえた。ハッと抱きしめる腕を緩めて鶴来の顔を見る。
うっすらとだが、彼の黒い双眸が開いていた。たが、視点がまともに定まっていない。額から血が流れているのは、おそらく倒れた時にぶつけたのだろう。
「鶴来さんっ! よかった……すぐに救急車呼ぶからっ」
ようやく我に戻り、シュラインは携帯電話を取り出す。
その手に、鶴来がそっと触れた。ボタンを押す手が止まる。
「鶴来さん?」
「……すみません……」
それだけを言うと、また眠るように目を閉ざしてしまう。持ち上げた手も、重力に従ってアスファルトの上に落ちる。ぱしゃりと小さく水がはねた。
「鶴来さん!」
一瞬、全身から血の気が引いた。
死んでしまったのではないか、と思ったのだ。
――だが、その胸はわずかではあるが、上下している。呼吸をしている証拠だ。
死んだわけではない。まだ大丈夫。
まだ、大丈夫だ。
「死なせないわよ……!」
焦る自分を落ち着かせるように大丈夫と何度も何度も呟きながら、携帯電話のボタンを素早くプッシュする。
一刻も早く、助けがここに訪れるように。
助けて。
助けて、早く――早く!
数日後。
草間興信所の銀行口座には、しっかりと今回の件の報酬金額が、多少額を上乗せされた形で入金されていた。
鶴来那王、の名前で。
だが、鶴来は、あの日からずっと意識不明のままである。
白い、病室の中。
草間は、久々に出会った旧友をベッドの傍に置かれた丸椅子に座って眺めている。
ずっと、無言だった。
その傍らに立ち、草間と同様に鶴来を見つめていたシュラインは、見舞いの花束を抱えたままきつく唇を噛み締め――やがて、耐えられなくなったように、持っていた花束を壁に叩きつけた。
――やり場のない怒りともどかしさを、ぶつけるように。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【1252/海原・みなも(うなばら・みなも) /女/13/中学生】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?
シュライン・エマさん。大変ご無沙汰しております。お元気でしたか?
再会できてとても嬉しいです。
…と爽やかに言いつつも、なんだかこう…どうしようもないラストで…(汗)。
できればそっち方面には触れない方向で(笑)。
プレイング、ゴーストネットの方とあわせても極少ないヒント(といえるかどうかも謎)しか出ていなかったにも関わらず「髪」に注目されていた点に、感服です。大当たりでした。
さて…触れない訳にはいかないのでとりあえず…。
今回、発注時のお願いとして、NPC・鶴来那王を依頼に同行させるかどうかの選択をお願いしていました。
「同行させる」の場合、条件(・「何か起きた際に彼を守る」といったようなプレイングがある。・呪詛を返す能力がある。)が整っていないと彼の生命に重大な危機が及ぶということになっていました。今回、その条件が整っていなかったため…ああいうことに。
ですが、予備校からの依頼自体は完遂されておりますので、NPCの件はオマケ程度に考えていただいて結構です。
もしよろしければ、感想などをお気軽にクリエイターズルームかテラコンからいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきますので。
それでは、今回はシナリオお買い上げありがとうございました。
また再会できることを祈りつつ、失礼します。
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