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<PCシナリオノベル(シングル)>


暗い夜

 夜明け前。
 まだ薄暗い住宅街の路地を、ソレは歩いていた。
 淀んだ目をしていた。体はずっしりと重かった。まるで3日3晩常に歩き続けてきたかのようなけだるさがソレの全身を包んでいた。
「はあ……、はあ、はあ……」
 荒い息を吐きながら、行き先がどこなのかの認識もないまま、ソレは一人歩き続けてきた。
 どこから? 覚えていない。
 そんなに遠くない場所だった気もするが、遥か遠くの彼方からきたのかもしれない。
 自転車のベルの音がした。
 仕事を終えた新聞配達の少年が、ソレの正面から口笛を吹きつつ走ってくる。
 ソレは乱れ落ちた前髪の奥から、その自転車を見つめた。
 キキィッ。
 自転車はふいにブレーキ音をたてた。ソレの姿を認めて驚いたのかもしれない。
 しかし、立ち止まることはなかった。
 少年は逃げるように去っていった。まるで、見てはいけないものを目撃してしまったかのように。
 ソレはまだ歩き続けた。
 そして一軒の家の前に立ち止まった。緑色の屋根の一戸建ての住宅。まだ住人は眠っているのか、カーテンは閉じ、物音もしない。
 ソレは立ち去らずにその玄関先に立ち尽くしていた。どこか見覚えがあるような気がしたからだった。
 
 しばらくの間があり、やがて朝日も昇り、青白んでいた空が白々とあけ始めた頃。
 その家の玄関が唐突に開いた。
 顔をのぞかせたのは、パジャマ姿の婦人のようだった。
 彼女はあくびをしながら玄関の扉から現れ、小さな庭を横切り、門にある新聞受けに近づいた。
 門柱の影に隠れるようにソレは立っていた。
 新聞を引き抜き、婦人はふと視線の端に映った、ソレを目の当たりにすることになる。

「京子!!」

 婦人は悲鳴のような声をあげた。そしてソレの両肩を抱き、強く抱きしめた。
「今までどこに行ってたの!? それにその格好……!」
「……」
 まるで言葉というものを忘れてしまったかのようだった。虚ろな瞳で、ソレは婦人の表情を見上げたが、何の喜びも感じなかった。
 婦人はその視線に、異常な何かを感じたのだろうか。
 人目を気にするかのように辺りを見回すと、肩を抱きながら、玄関の方へと回れ右をする。
「……ともかく中に入りましょう」
 ソレは抵抗することは全くなかった。
 ひどくほっとしていた。そして、全身から徐々に力が抜けていくのを感じた。
「……楡の木……」
 ぽつりとそう呟き、ソレは婦人の腕の中で意識を失った。

 別の景色。
 京子。そう呼ばれた少女は、今、病院のベッドの上にいた。
 格子のつけられた窓ガラスの外の景色をぼんやりと眺めて、京子は無表情のままである。
 彼女の黒々とした美しかった長い髪は、今や老婆のようなカサカサとした白髪へと代わっていた。まだ17歳という少女だが、よほどの恐怖を受けたせいだろうか、みずみずしい肌も、皺が刻まれ、かなり老けてしまった印象を受ける。
 首にまいた包帯に時折手をやりながら、何の感慨もなさそうな少女の様子は、24時間監視モニターの中に記録されていた。
「私立霧里学園……だったっけ」
 モニターの監視と記録をつけていた精神科医に、コーヒーを運びつつ仲間の医師が声をかけた。
「ああ」
 医師は頷く。
「これでもう三人目だ」
 リモコンで画面を切り替える。京子の他にも2人、この病院に搬送されてきた生徒達がいた。
「共通点も同じ学園ということ以外にはなし。小さな学園だから、顔見知りではないということもないだろうが、特に親しかったわけじゃないらしいね。さて、一体原因は……」
「ウイルス性のものとか?」
「あの『目』がかい?」
 医師はじろりと見上げ、深くため息をつく。
「冗談じゃない……。あんなウイルスがあってたまるものか。レントゲンを見たかい? あれには視神経も通っているんだぞ」
「……ああ」
 悪夢を思い出したかのように、彼は額に手をやった。
 その時。
 患者の部屋から呼び出しブザーが鳴り響いた。
 医師たちは慌ててモニターを切り替える。京子が喉に何かをつまらせたように、両手で自分の首をおさえ、もがき苦しんでいる様子が見えた。
「大変だっ」
 二人の医師は部屋を飛び出し、京子の部屋へと向かう。
 階段を下り、いくつかの鉄格子の扉をもどかしく鍵で開け、彼女の部屋へと到着した。

『ハァ、ハァ、ハァ』
 
 苦しげな喘ぎがドアの外からでも聞こえた。
 医師たちは顔を見合わせ、部屋の中に飛び込んだ。
「どうしたかね!?」
「大丈夫かっ」
 しかし、部屋に飛び込んだ医師たちが見たものは、喉をかきむしりながら、包帯をはずしている京子だった。
 包帯の下には、巨大な目があった。彼女の喉元にあるもう一つの目。
「……大きくなってる……」
 医師は驚愕した。
 彼女がこの病院に来た時、それはまだ直径3センチほどしかなかったのだ。両親が気づいたときは、1センチもなかったという。
 けれど今彼女の喉元に宿るその瞳は、15せんちは優にあった。
 包帯をすべてとってしまうと、京子は再び茫然とその場に立ち尽くした。
『ふふふふふ……』
 その口元から笑いがこぼれる。
『ふふふふ……』
 
 医師二人があまりものその不気味さに、恐怖を感じたその瞬間だった。
 京子は大きく口を開き、医師に襲いかかってきた。喉元を狙って。
「うわぁぁぁ!!」
 喉に噛みつかれ、悲鳴を上げる医師。頚動脈を噛み千切られ、みるみる部屋に朱の池が広がっていく。
「やめろっっ!やめるんだっっ!!」
 もう一人の医師は悲鳴のような声をあげながら、彼女を背後から取り押さえようとする。
 そのとき。
 バタン!
 ドアが開いた。
 そこには、京子と同じ症状で入院していたほかの二人の女生徒が立っていた。
 同じく巨大な瞳を喉元に宿して。薄ら笑いを浮かべてそこに立っている。
「…………!!」
 医師の悲痛な叫び声が、断末魔として病院内に響き渡った。


◎草間興信所

 その男の差し出した名刺には『月宮・豹』(つきみや・ひょう)と書かれていた。
 黒いスーツをまとう、目つきの鋭い、物静かな男であった。
「行方不明になり、後に発見されて精神病院に搬送された少女は、世間には知られていませんが、実は全部で5人います。
 そしてそのすべての少女の喉下にやがて『目』が現れ、それが巨大化すると、人を襲い始めるらしい……。5人の少女達に殺されたものは、治療をしていた病院の医師、看護師、また彼女達の両親や家族などを含め、13人にも及んでいます」
「そんなに……」
 同席していたのは神崎・美桜(かんざき・みお)という一人の長い黒髪を持つ華奢な少女だった。華奢の割には、豊満なバストをしている。足もすらりと長く、抜群のスタイルを持っているのだが、唯一の玉のキズは、人見知りが激しく表情がどこか暗いところだろうか。
 けれど、慣れている探偵の横で、その日美桜はいつもよりは元気だった。とはいえ、聞いている話がこれでは元気とは言いづらい。
「目撃者もあり、監視カメラの映像として残ってもいます。けれど、喉に瞳を持つ少女達に食い殺された、というあまりものショッキングな内容にマスコミへの通達を避けているのですよ」
 淡々と話しながら、豹は草間と美桜を交互に見つめた。
 草間は小さく息をつき、豹に尋ね返す。
「それで……あなたのご相談に、私はどう答えればいいのでしょうか。……危険がつきものの依頼だ」
「そうですね……この事件の原因を私は私ながらに調べ続けてきました……」
 退魔の力を持つ優秀な能力者としてこの業界ではよく知られているという男なのだと、草間は美桜に説明してくれていた。
 彼は独自のルートでこの事件を依頼されて、調査してきた。
 けれど、一人ではたりない部分があるので、調査協力を求めてやってきていたのだ。
「……そして、この事件の核はやはり、霧里学院の中にあると踏みました」
「……ふむ」
「女子高生の間で流行っているおまじない……そこに秘密があるらしいのです」
「おまじない……」
 美桜は首をかしげた。
 彼女の鞄の中にある雑誌にもおまじないの特集がある。とかく女子学生はおまじないや占いや、その類が好きなものだ。
「つまり……、女子高生の調査員を派遣して欲しいと。そういうことですね」
 草間は小さく苦笑しながら呟いた。
 頷く豹に、美桜は初めて、自分のことを言われているのだと気づき、目を丸くした。

◎霧里学園潜入
 
「転校生の神崎・美桜さんです。皆様、仲良くしてあげてくださいね」
 にこやかな口調で、女性教諭が語る。
 けれど、受け入れるほうの生徒達の視線は、歓迎してくれているようには思えなかった。
 季節外れの転校生。しかも、私立霧里学園に途中編入で入ってくる学生など、稀なことであった。

 都内から離れた郊外の山の奥にある学院であり、小学校から高等部までのエスカーレータ式の全寮制の学園。
 ほとんどのクラスメイトが、幼馴染のような感覚でもある彼らにとって、突然転校してきた「よそもの」でしかなかった。

【……綺麗な子】
【でも暗いわよ】
【なんでこんな時期に……転校なんておかしいわ】
【……何しにきたのかしら……】
【変よね、変……】

 その囁きは、彼女達の口元から発せられたわけではなかった。
「……よろしく……お願いします」
 丁寧に頭を下げながら、美桜は震える声で挨拶をした。形ばかりのぱらぱらとした拍手。
(しっかりしなきゃ……)
 美桜は教師に教えられた席に向かいながら、心に気合を入れなおした。
 生まれながらにして高い精神感応能力を持つ美桜は、人の心を読むことができる。いや、人の心が心の中に流れてくるのである。
 幼いころは制御もきかず、泣いてばかりいた。
 誰しもが心の中に抱えている本音。
 それは善意ばかりではない。むしろ、声に出してはいえない悪辣な本音ばかり。今は制御できるようになったが、気を緩めるとすぐこれである。
 教室の後ろの座席に腰掛けてすぐに、隣の席の少女が笑顔を見せてきた。
「私、畑中・美佳(はたなか・みか)。よろしくね」
「……よろしく」
 そばかすが少し目立つショートカットの少女だった。目立つタイプではないだろう。
 けれど、純粋に彼女は、美しい美桜に好感をもってくれたらしい。美桜もほっとしたような笑顔になった。


◎おまじない

 休み時間。
 美桜の机の周りには、生徒達が集まっていた。
 彼女達は好奇心の塊だった。
「ねえ、どうしてこんな時期に転校してきたの?」
「……父の都合で引っ越さなきゃいけなくて……、転校するならここがいいだろうって紹介を受けたんです……」
「綺麗な髪だよね。シャンプーは何をつかってるの?」
「彼氏いるの?」
「あなた部活は何をしてたの? 演劇部に入らない?」
 答える間もないくらい矢つぎ早に質問が来て、目が回りそうである。ただでさえ、人見知りが激しく初対面の人と話すのは大変苦手な性格であるというのに。
 それに、その人の輪の中に混じらず、ぽつんと隣の席から、美桜を見つめている美佳のことも気になった。
 ひとしきり質問攻めが終わったとき、リーダー格らしい背の高いストレートの長い髪を持つ少女が言った。名は確か山田・京香。
「ね、あなたから聞きたいことはない? 案内してあげるわよ。私達、あなたのことを歓迎してるから」
【ミス・ヨーコに頼まれたからね】
 心の声も一緒に届く。ミス・ヨーコは先ほどの女性教諭のことだろう。
「わたしですか……、えと……」
 美桜は困ったように首をかしげ、それから、小さく尋ねた。
「この学園に入る前に、紹介してくれた人から少し聞いたのですが……、『楡の木のおまじない』が流行ってるって……どんなおまじないなんですか?」
 途端。
 生徒達の表情が一転した。
 今までは好意的に微笑んでいた表情も、硬直し、黙り込んでいく。
「ミス・ミオ。……あなたやはり、何かたくらんでるのね」
 京香は睨みつけるように美桜を見下ろした。
「いえ……私は何も……どういうことですか?」
 美桜は立ち上がり、京香に尋ねた。
 京香は長い髪をふわりと揺らし、自分の席へと戻っていった。他の生徒達もそれを合図に次々と去っていく。
 追い討ちをかけるように授業のチャイムも鳴り響いた。

「だめだよ、あんなこと聞いたら」
 
 そっと囁くように、体を寄せて美佳が言った。
「どうして?」
 美桜が尋ねると、美佳はもっと声をひそめて言った。
「色々事件がおきてるんだけど、その原因がおまじないじゃないかっていう噂があるの」
「事件? 噂?」
「うん」 
 美佳は美桜に頷いた。
「ともかく、みんなビクビクしてるの。……もうその話、二度としないほうがいいと思うわ」

◎楡の木

 そう言われたとしても。
 逃げ出すことの出来る事件ではなかった。
 昼休みを迎えた彼女は、校庭を一人で散策していた。あの失言がまずかったのか、彼女の周りにはもはやクラスメイトが誰も近づいてきてくれなくなっていた。
 そして今日中に、「あの子は怪しい」という噂が学園中に広まることだろう。
 美桜は苦い思いで、芝生の庭を見つけてそこに座り込み、空を眺めていた。
 花壇に美しく彩る花達が囁いている。
 【ゲンキダシテ、ゲンキダシテ】
「ありがとう……」
 風の中にも声があり、花たちも歌を歌う。自然たちは皆、美桜の友人であり親友達だった。
 優しくていつも暖かい。人のことを悪くなんてけして言わない。
【ウタッテ……ウタッテ】
 誘うような花達の声に、美桜は小さくメロディを口ずさみかけた時。
「よっ。ここにいたのですか、探しましたよ」
 声をかけられ見上げるとそこには、月宮・豹がいた。
「月宮さん……」
「潜入は無事に果たせたようですね。私も、臨時教師ということで入れさせてもらえることになりました」
「……そうですか」
 美桜は微笑んだ。
「何か楽しそうでしたね。……花たちと会話が出来るのですか?」
「わかりますか?」
「ええ。素敵な笑顔をしていた」
 豹は頷いた。
 いい人かもしれない。単純だが、美桜はそう思って、気分が少し楽になった。
「花達はみんな優しいですから。草も、風も小鳥達もみんな……」
「貴方は不思議な人ですね……」
 豹は優しく笑うと、「そうだ」と思い出したように言った。
「楡の木の場所がわかりましたよ。……これからいってみませんか?」
「これから?」
「ええ」


 広い敷地内にある霧里学園の裏庭にあたる雑木林の奥に、その楡の木はあるのだという。
 二人は並んでその雑木林を歩いていた。
 日当たりのいい植物の育成がいい土地なのであろう。木々も草も小鳥達も元気だったが、美桜の姿を見るといっせいに声を出した。
【コノサキハダメ……ダメ…… コワイノガイルヨ】
【ヒキカエソー、ヒキカエソー】
「どうしたのかしら……」
 美桜は足取りを薦めるのに、不安を覚えたが、隣に行く豹は足を止めることはない。
 空気は奥に進むほど、重く暗く感じた。
 この先の道、確かに何かある。
「月宮さん」
「ん」
 振り返る月宮。
 美桜は彼を見上げて、首を横に振った。
「この先……何があるのですか?」
「おまじないの楡の木です」
 豹は短く答えた。その声から彼も緊張していることが伝わった。
「雰囲気が悪いですね、とても」
「風も木も引き返したほうがいいといってます……」
「そうですか。しかし、彼女達にはその声は届いてないでしょう」
 豹の腕が伸びた。道ではない木陰に引かれ、二人は道の脇に身を潜めて先を進んだ。
 道の先、女子高生達の声か聞こえたのである。
 そのまま少しずつ進むと、問題の楡の木が見えてきた。
 雑木林の道の奥にある二股に別れる筋の間にそびえる巨大樹。天に向かい大きく太い枝をめぐらせた立派な古木であった。
 その根元で三人の少女が、何か飛び跳ねたりする仕草をしながら、騒いでいた。
「あ、あれは……」
 先ほどクラスで話した京香と、取り巻きの二人らしい。
 木の根元に何か植え込み、それを靴を脱いで、飛び越える仕草を順番にしているようだ。
「テストの成績が今度こそあがりますようにっ」
「……今年の夏休みはお父様が旅行に連れてってくださいますようにっ」
「美人になりますよーにっ」
「ふふ、桜さん。難しいことをお願いすると、楡の木さんが困ってしまいますわ」
「まあひどい。京香さん。ふふふ」
「ほほほ」
 楽しげに笑いあう彼女達。

 木陰で伺いつつ、美桜は豹に尋ねた。
「……あれがおまじないですか?」
「のようだな。君の方が詳しいだろう……?」
「そんな……おまじないの数なんて星の数ほどありますし……」
「そうか……」
 二人にのぞかれていることも知らず、三人はそれぞれの願いことをすませたらしい。京香は身をかがめ、楡の木に刺してあった釘を引き抜いた。
 その先にはビー玉のようなものがぶら下がっている。
 京香は大切そうにその釘を胸元に締まった。
「でもさぁ、もう危ないんじゃないかなぁ……だって京子達がおかしくなったのって、これのせいって先生が……」
「そんなことありませんわよ」
 京香が言った少女を睨みつけた。
「私達は知ってますもの。王子の呪文を」
「……そ、そうよね。王子の呪文唱えればどんなことがあっても平気なのよね」
「そうだよね」
「さあ、戻りましょう。どなたか来るかもしれませんわ……。あの転校生が嗅ぎつけてくるかもしれませんし」
 歩き出す京香に他の二人も従う。
「でも、京香さん。あの転校生何者なんでしょう?」
「知りませんわ。でも、わたくし、あの方嫌いです」
 かつかつかつ。
 三人の足音が遠ざかっていく。
 その姿が完全に見えなくなってから、美桜と豹は木陰からようやく姿を出した。
 【嫌いです】の言葉に微妙にショックを引きずってもいたが、そうも言ってられない。
 早速、楡の木の幹を確認する。 
「……ほう、これを見てください」
「はいっ」
 豹に呼ばれて、確認すると、楡の幹には大小の穴が無数にあけられていた。またそれ以外にも、先端にビー球をぶらさげた釘が突き刺さっていた。
「先ほどの彼女はこの穴の一つに、釘を押し込んでいたのでしょうね。くぎ抜きも使わずに釘を抜いていたし」
「こんなにキズだらけにされてかわいそうに……」
 見れば見るほど不気味な木であるが、その痛々しい姿は、美桜には気の毒に思えた。
 豹は苦笑するように小さく笑い、時計を見下ろした。
「あ、そろそろ昼休みが終わりますね。戻りましょう」
「本当ですね。……ではまた……」

◎悩み

 授業中、隣の机の美佳から、ノートの切れ端がまわってきた。
 開いてみると、可愛い丸文字で『どうして、おまじないのこと知ってたの? あなたって警察関係者?』と書かれていた。
 美桜は小さく微笑んで、自分のノートの端を切り取り、記入して彼女に戻す。
『違いますよ。噂で聞いただけ』
『それならよかったあ……』
 また切れ端が戻ってきた。
 それから続けてもう一つ。
『あのおまじないに夢中になってた子が、五人も行方不明になって、見つかったんだけど気が狂っていたんだって。だから、みんな口に出したがらないの。怖いんだよ』
 美桜は彼女に付き合うことにして、机の上に小さなメモ帳をおいて、そこに書き込んで返した。
『……おまじないってどんなことをするの?』
『五寸釘にビー玉を下げて、楡の木に刺すの。靴を脱いで、そろえて、その釘から向こうに飛び降りるようなつもりでジャンプする。ジャンプしながら願いことを叫ぶとOK。本当に聞くんだよ。突然綺麗になったり、成績が上がった子が何人もいるんだ。この学園で知らない子はいないよ?』
『そうなんだ……王子の呪文って? これも噂で聞いたんだけど……』
『すごいね!他校なのに、王子の呪文も知ってるんだ!』
 こほん。
 そこで教師、ミスター・サカイに睨みつけられ、二人のノート通信は中断した。

 休み時間。
 美佳は、美桜を誘い、校舎の屋上に案内した。
 二人きりになると、美佳はなぜかとても嬉しそうで、テンションも高いように見えた。
「ふふふ。言っちゃいけない秘密を話せるのって楽しいよね?」
「よかったのですか? ……私みたいなよそ者に話して……」
 美桜が心配そうに言うと、美佳は首を横に振った。
「私もよそ者みたいなものよ。……友達も少ないし、みんな私のこと馬鹿にしてるし……。本当はね、こんな学校早くやめて、都会の素敵な学校に通いたいと思ってるの」
「馬鹿にだなんて……」
「小さい頃から、みんなお互いに顔見知りなんだもの。つまらないわよ。それに男の子もいないし」
 美佳は屋上のフェンスにつかまりながら笑った。
「私見ちゃったの。美桜さん、さっき、新任のミスター・ツキミヤと一緒に歩いてたでしょう ? あのとっても素敵な人」
「え、ええ。ちょっとした知り合いで……」
「羨ましいな……美桜さん、美人だし、可愛いし、スタイルもいいし……私、美桜さんとは友達になれそうって思ったの……いいかなぁ?」
 美佳は少し寂しそうな表情で告げた。
 美桜はゆっくり頷く。
「私も、美佳さんのこと友達と思ってますよ」
「わーい。それなら、もっと教えちゃう」
 美佳は辺りを見回し、美桜を近くに招いた。
「『王子の呪文』っていうのはね……。楡の木は魔力を帯びた木だから、願い事をかなえてくれるんだけど、時にはその願い事をした人を食べちゃおうとするらしいの。その時に、自分の身を守るための呪文で……、行方不明になった人達は多分これを知らなかったの」
「……身を護る呪文……ですか?」
「うん。こういうのよ。一度しか言わないから覚えてね。『王子の願いを聞き届け。羽を空へと帰します』っていうのよ」
「王子の願いを聞き届け。羽を空へと帰します……」
「うん。……放課後、やってみせてあげようか?」
 美佳はにこにこ微笑んでそう言った。
「でも、危ないんでしょ? いいですよ、そこまでは」
「ううん。大丈夫よ、ほんとに。王子の呪文も知ってるし」
 上機嫌で微笑む美佳。美桜は不安に思いながらも、放課後の約束をしてしまうのだった。

◎放課後〜ニレノキ〜

 畑中・美佳に誘われて、再び訪れた楡の木は、昼間見たそれよりも、いっそう魔力を増しているかのように美桜には思えた。
 一人では不安で、月宮・豹にも同行してもらったことが、美佳をさらに喜ばせていた。
 美佳は手作りしてきたという五寸釘にビー玉を結んだものを、楡の木に打ち付け始めた。

 トントン。トントントン。

 軽やかな音が響く。
 釘を中ほどまで差し込むと、美佳は「見ててね」と美桜にウインクしてみせて、それから釘の横で深呼吸をした。
「せーのっ」
 高く飛び上がる。
 そして。
「美桜の友達になれますようにっっ」
 飛び込みながら微笑んで叫んだ。

 刹那。

 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。
 
 猛烈な地唸りが突き上げるように三人の足元から襲ってくる。
「えっ」
「危ないっ」
 美桜のウエストを抱き、月宮が地面に伏せた。
 美佳は地面に座り込み、驚愕した表情で辺りを見回していたが、突然、背後に気がつき、絶叫した。
「きゃああああああああっっ」
「美佳さん!」
 美桜は美佳を振り返る。
 楡の木が二つに分かれていた。太い幹が半分に裂け、その奥に鳥居のようなものが見えている。
 そして木の間からは白い霧がわきあがり、辺りの視界は一気に白に包まれ始めた。
「……どういうこと……?」
 茫然として美佳が呟く。
 美桜も月宮と共に辺りを見回すしかなかった。
 風をきるようなシュルシュルという高い音が遠くで響いている。
「何の音かしら……」
 美桜が呟いた、その瞬間だった。
 彼女と手を繋いでいた美佳の体が突然宙に浮いたのだ。
「きゃあああああああっっっ」
 美佳は絶叫した。そのウエストに絡みつくように楡の枝がまきついている。
「いやっ、離してっ、なにっっっ」
 もがいてもはがれるようなものではなかった。それどころか彼女の体は軽々と、枝の先にとらえられたまま、道の先へと連れ攫われていく。
「助けてっっ、いやあぁぁぁっっっ、離してぇぇぇぇぇっっっっ」
「美佳さんっっ!!!」
「追うぞっっ」
 悲痛な悲鳴がどんどん小さくなっていく彼女の姿と共に響いてくる。
 美桜と豹はその後を駆けながら追っていた。
 しかし、奥に進めば進むほど悪くなっていく視界に、その風のような速さ。
 見失うまでの時間は僅かなものであった。
 とはいえ、それでもあきらめるわけにはいかない。
 美桜は必死で彼女のあとを追い続けた。
 悪い夢のようだった。

 何時間走り、そして歩いてきたことだろう。
 白く包まれた、他に何の景色もみえない 一本道をまっすぐと進み続け、やがて二人がつかれきって立ち止まったとき、辺りの景色は唐突に変化した。
 そこはジャングルのような場所だった。
 湿っぽい地面に大木が無秩序に空に向かって伸びている。シダ類のような背の高い雑草の中、小さな湖があたりに広がっている。
「ここは……」
 疲れきった表情で、美桜は呟いた。
「さあな……」
 豹は小さく呟いて、辺りを見回していたが、ふと何かに気づいたように眉を吊り上げた。
「これは……」
「どうかされましたか?」
 美桜が近づくと、豹の足元に横たわる少女の姿が見えた。
「どなた……でしょうか」
「これを見て」
 豹はポケットから写真を取り出すと、美桜に見えた。
「結城・京子だ。……写真のままの」
 黒髪で大きな瞳がチャーミングな少女。その写真のままの少女がそこで眠りについていた。
 息はしている。けれど、よほど深い眠りについているのか、呼びかけてもさすってもその瞼を開くことはなかった。
 さらには、他に四人の眠る少女を彼らは発見した。多分、それぞれ行方をくらませた少女たちなのだろう。
 けれど、美佳の姿をそこに見つけることは出来なかった。
 美桜は再び落胆し、湿った土の上に膝を落とした。
 美香がおまじないをしてみせたのは、美桜へのサービス精神からだったに違いない。
 自分がいなければ、彼女はこんなことしなかったに違いないのだ。それをさせてしまった。とめられたのに、とめなかった。
 私のせいだ……。
「……自分を責めても仕方ない……」
 豹は美桜を抱きしめ、頭を撫でた。優しさに涙が幾筋もこぼれていく。けれど、泣いていても解決には何も繋がらないこともわかっていた。

 人の声がした。
 美桜は森のどこかで聞こえる、笑い声のような話し声のような複数の人々の声を聞いた。
 三人、いるらしい。
「この声……京香さん?」
 美桜は呟いた。
 一番響きのよく丁寧な言葉使いのリーダー格の少女。
 そう思うと間違いないような気さえする。
「この近くにいるのかしら?」
「どうだろうな」
「呼んで……みましょうか」
 聞こえるだろうという自信はなかったけれど。彼女達が迷っている可能性もなきにしもあらず。
 けれど。
 それは実行に移されることはなかった。
 彼女がそう思いついた数秒後、三人の悲鳴が森の中にこだました。
「なにっ!?」
 そして、次の瞬間。彼女達の体は空から降ってきたのだ。
 まるではじき飛ばされたかのように。壊れたおもちゃのように。
「危ないっっ」
 豹は美桜を抱き抱えると近くの茂みへと避難する。
 美桜がいた場所に、折り重なるように、壊れた少女達の体が墜落した。
 美しく若い少女達はすべて、胸や腹に楡の枝が刺さっていた。絶命し、瞳は見開かれ、口元からはあふれる血泡と舌がだらんと垂れている。
「……!!」
 美桜は言葉がなかった。
 何が起こっているの。
 激しくショックを受け、言葉が言葉にならない。感情も感情の言葉にならない。
 ただ、早鐘を打つ自らの心臓の音を聞いていた。
 そして落ち着くと同時にまた涙が溢れた。止まらない涙に彼女は地面に頭をつけ、唸り続けた。

 これは何……。
 これは何。
 何がおきているの。
 何がおきようとしているの……。

◎決戦

 泣きつかれてそのまま眠ってしまっていたのだろうか。
 美桜は再び瞼を開いたとき、辺りは既に暗くなってしまっていた。
「おきたか……」
 目に入ったのは、優しく微笑む豹の顔。
「いい知らせだぞ」
「……いい知らせ?」
「美佳が戻ってきた」
 美桜は慌てて飛び起きた。
 すると、豹の隣に正座をしながら微笑む美佳の姿があった。
 美桜は美佳に飛びついて抱きしめた。
「よかった……生きていたのね……本当によかった……」
「心配かけちゃったね、ごめんね、美桜さん」
 美佳は抱き返しながら微笑んだ。
「私ね、ちゃんと言ったのよ。王子の呪文。そしたら逃げてこれたわ……。早く言えばよかったのにね……」
「そうなのですか……」
 ほっとするとまた涙がにじんでくる。美佳に笑われながら、美桜は目をごしごしと拭った。
 ようやく訪れた安穏の時の気がした。
 美佳さえ戻ってくれば、きっとまた外に帰れる。
 無性にそう思えた。何か保障があるわけでもないのに。

「……みんな、ここにいたんだね……」
 美佳が小さく呟いた。
「行方不明になってる間……、京香さん達もここにきたんだ……」
「……外に出たら、どんな風に説明したほうがよいでしょうね……」
 美桜が言うと、豹は苦笑する。
「外か……」
「ええ。明るくなったら、帰る道を探さないと……」
「帰るってどこに?」
 美佳が美桜を見つめる。
 美桜は耳を疑った。
「外よ……。学園に」
「……私、戻らなくていいよ……。美桜さんとずっとここにいたい。美桜さんは帰りたいの?」
「何を言ってるの? 美佳さん。ここは人のいる場所ではないわっ!?」
 美桜は美佳を見つめた。
 その時、初めて気がついた。美香の首に小さな瞳がついている。
 三つ目の瞳が、美桜を睨みつけるように凝視していた。
 足元をすくうような恐怖が、美桜を包んだ。
「月宮さん!」
 美桜は豹を呼んだ。豹はしかし、ただ遠くを見ているだけだった。
「どうしたの?美桜さん?」
 美香の表情は薄ら笑いを浮かべ、美桜の肩をじっと捕まえている。その腕に力がこもっていく。
 美桜は再び恐怖を感じた。
「美佳さん?……どうしたの?」
「……貴方もここで私と一緒に住もう……? ね、ここで永遠にみんなで一つに……なって……」
「美佳さん!!??」
「いい考え……だな」
 豹が振り返った。
「しかし、彼女は喜んでないようだ」
「そんなことないわよ、ね、友達だもの。私のために、ここで暮らしてくれるわよね? 美桜さん」
「待って……、みんなどうなっちゃったの??」 
 美桜は立ち上がった。
 美佳も立ち上がる。豹は無表情のまま、首だけ振り返って様子を眺めていた。
「……」
 違う。
 美桜はようやく理解した。
 この二人は、自分の知っている二人ではない。
 彼女は理解すると、二人に背を向け走り出した。

 しかし。
 
「どこに行く」
 彼女の前に突然豹は現れた。まるでテレポーテーションで移動したように。
「君は理想的だ。純粋な心を持っている。……楡の木は君のような女性を愛す。たくさんの贄を用意したが、彼は君しか愛さなかった。……悪いが帰ってもらうわけにはいかないんだ」
「……どういう、ことですか?」
 美桜は心が凍りつくのを感じた。
 地響きが唸る。
 8人の少女達が折り重なっている土地に新しい楡の木が芽生え、伸び始めた。
 少女達の体を枝の上に抱くようにしながら、みるみる成長していく。やがて少女達の体は、その幹の皮の中へと沈みこんでいった。
「……わからないですか……。彼は世界樹〜ユグドラシル〜なのです。……彼を育てることこそ、この世界を救うキーポイント。彼女達は彼の養分。
 若い娘の夢や希望、可能性、そのすべてが彼を育てる養分となるのです。
 そして彼女たちが襲った人間もね。
 あの三人の娘は、こりもせずに何度も、楡の木に穴を開けようとしました。それで彼が怒ったのです。
 しかし、それもすべて養分になる……。
 ああ、誤解しないでくださいね。君を殺すつもりはないのです。……ユグドラシルは、あなたを妻にしたいと思っている……すべての草木と動物達と会話を出来る女神のような貴方を欲しているのです……」
 豹はゆっくりと腕を差し伸べた。
「さあ、私と共に参りましょう。ユグドラシルの中で永遠を暮らすのです。年もとらず、世界の永遠を私と見つめてゆきませんか?」
「……!」
 美桜はごくりと喉を鳴らした。
 同時に、彼の脇をくぐりぬけ、再び走り出した。
「断るというのですか! いいでしょう!! 私からは逃げられないことを理解してもらわなければ。美佳」
 豹に呼ばれ、美佳はこくりと頷いた。

 走って逃げる美桜の後ろを執拗に追い続ける美佳。
 美桜は泣きながら走っていた。
 彼女にとって、信じていた人に裏切られるのは、何よりも辛いことだった。
「美桜さん、待って……お願いっ」
「待てないわ……だって……」

 美桜の首筋にある瞳はどんどん大きくなっていた。
 彼女の行き着く先。それは……自由ではない。美桜はもうわかってしまっていた。
 でも助けてあげたかった。
 どうしたらいいのだろう。

 その時。
 美桜の耳に、あの声が届いていた。
 風の音色。小鳥の声たち。
【モドッテオイデ、モドッテオイデ、ミオ】
 どこに向かえばいいのか、彼らは教えてくれていた。そこまで逃げればいいだけ。
 美桜の足に元気が沸いた。
「ふむ」
 遠くで見つめていた豹の表情が変化する。
 彼はゆっくりと腕を横に振った。その手の中に、武器が現れる。念能力で作り出した巨大な剣。
「言うことを聞けないというのなら、お仕置きをしなくては……」 
 豹の体が楡の森の空気に消えた。

 このまま進めば大丈夫。
 風たちの声に励まされ、美桜は走り続けていた。心臓が今にも破裂しそうだったが、出口の近いことも知っていた。
【アブナイ! ミオ】
 風の声が叫ぶ。
 美桜は振り返った。その頬をかすめて、白銀の剣がよぎっていく。
「!!」
 立ち止まる彼女の背後に美佳。さらにその後ろに豹が立っていた。
「何故言うことを聞けないのです……」
「聞けるわけが!! こんなことっ!」
 美桜は叫んだ。
「世界の救世主となれるのですよ! 世界の主にだってなれるかもしれない。この世界が破壊つくされたとき、世界を救えるのはユグドラシルしかないのです」
「……世界は終わったりしない!!」
 美桜は叫んだ。
「絶対に終わらないわ……」
「……わかりあえないようですね……」
 投げた剣が、再び豹の腕の中に現れた。彼はソレを握り締め、美桜に近づいていく。
 逃げようと身に力を入れる美桜。けれど、その体はぴくりとも動かなかった。
「……!!」
「貴方のような逸材を残念だが……死んでもらうことにしましょう。きっとあなたの血肉でユグドラシルは大きく育つ。……楽しみだ」

 高く掲げられる剣。
 美桜はぎゅっと瞼を閉じ、顔をそむけた。
 刹那……。風の音が鳴り、冷たい刃が金属音をたてる。
 血しぶきが舞い、悲鳴が響く。

 しかし。

「美佳さん!!」
 美桜は自分をかばって、斬られた美佳の体を支えた。
「……に……げて、み、お……」
 美佳は地面に崩れ落ちる。
「いやぁぁ」
 美桜は美佳の肩に支え、引きずって走り出した。
 豹はもう一度剣を構えおいかける。
 しかし、その時。
 猛烈な強い風が美桜の頭上すれすれに通り過ぎた。
 豹の悲鳴が響く。彼の体はその風に吹き飛ばされて、はるか後方に転がっていった。

◎帰還 そして 別れ

 はぁ。はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
 自分の息だけが闇の森に木霊する。
 梟のおじいさんが優しげに「お帰りお帰り」と鳴いている。
 美桜は地面に両腕をつき、激しく息を吐きながら、自分が安全な場所に戻ってこれたことを知った。
「み、お……」
 深く胸から腹を切り裂かれた美佳は、地面に仰向けに倒れていた。微かな息を吐き、友人の名を呼ぶ。
「美佳っ……」
 美桜は美佳の手をとった。
「今、治療するわ。きっとよくなる。ちょっと待っててね」
 美桜の能力は抜群の治癒力も持っている。彼女は美佳の手のひらをとり、祈るように口元に近づけた。
「……大丈夫……だから」
「……だめ、みお……」
 美佳は小さく微笑んだ。喉元にある瞳が、充血したような瞳で美桜を見つめていた。
「私は……助かってももう……楡の木のものだから……。このまま死なせて……人でいるうちに……」
「………………美佳」
 美桜は瞼を閉じた。
 あの瞳を持つものの末路は知っていた。知っていたくなかった。
「あなたに……あえて、嬉しかった……。ありがとう……みお」
 美佳は美桜を見つめたまま、ゆっくりと最後の息を吐き終え、静かになった。
 その表情は安らかで、そして微笑んでいるかのようだった。
 彼女の命が尽きると、その喉もとの瞳も共に死んだようだった。それはせめてもの救いだったと美桜は思う。


◎エピローグ

 チェーンソーの音が響き、楡の大樹が倒されていく。解体され運ばれた幹と枝。さらにはショベルカーで切り株も掘り起こされる。
 見守る観衆の中から悲鳴があがった。
 その根の下には無数の人骨があったのである。その人骨に深く根を絡みつかせ、楡の根はなかなか地面を離れようとはしなかった。
 数百年単位で過去のものとされるその人骨が何のために楡の下に埋められたのか、もしくはその上に楡が根付いたのか理由はわからないままだった。

「大変だったな」
 草間探偵は、その様子を黙って見つめる美桜の頭に手をやりながら微笑んだ。
 伐採と解体と撤去の費用まで草間が出してくれたのは、大盤振る舞いといってよいだろう。
「……ありがとう、草間さん」
 美桜は小さく言った。
「お安い御用さ」
 苦笑して草間が言う。

 さらにそれを遠くから見守る黒いスーツの男の姿があった。
 彼の腕には、楡の枝が一本。
「……ふ。これで終わりと思うな……」
 月宮・豹は、再びどこかへと姿を消していった。

 夏の夜の短い夢。
 夢だったらいい。本当にただの夢であるならば。
 美桜は、草間の隣で運ばれていく楡の木を見ながら、また目頭が熱くなっていくのを感じるのだった。


 ■暗い夜 完